2018年10月29日

人吉相良氏の軌跡(5)ー室町時代(2)ー

1、新生相良氏・相良長続の誕生
西暦1448年(文安五年)2月、上相良氏・多良木頼観、頼仙兄弟が、当時12歳の相良宗家十代目当主・相良堯頼に対して反乱を起こし、堯頼は人吉城を追い出されました。

これに対し球磨郡山田城主(熊本県球磨郡山江村山田字城山)で相良氏庶流である永留長重は、逆に多良木兄弟を攻めて人吉城から追放し、行方不明になった堯頼を捜索します。

長重は薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口山野)に隠れていた堯頼を発見し、人吉城への帰還に求めましたが、堯頼はこれを良しとしませんでした。

堯頼「今更帰ったところでメンツも何もない。俺は隠居するから長重が当主になれ」
長重「隠居するにしても逃げたままではみっともないから、一度戻ってきてから隠居してください」

こんなその交渉のやり取りをしていた間の同年3月23日に堯頼が病死したため、相良宗家は跡取りを失ってしまいました。

そこで同年5月13日、相良家家臣たちの請願により、永留長重が相良宗家十一代目当主となり、名を「相良長続」と改めます。

新生相良氏の誕生です。


2、上相良氏の滅亡と球磨郡統一
永留氏は、相良氏二代目当主・相良頼親の子・頼明から始まる相良家庶流です。

二代目当主・頼親は父・長頼から家督を継いだ翌年、弟の頼俊に相良氏三代目当主を譲り、以後は頼俊の血統が相良宗家となりました。
隠居した頼親は山田城に入り、その子である頼明は「永留氏」を名乗ったのです。

永留氏は宗家当主の兄筋の血統ですので、宗家を継承する資格は十分有りました。しかし、先代当主・堯頼が幼少だったため相良宗家の基盤は不安定化していました。このため、長続の家督継承に異を唱える連中がボコボコ出てくることになります。

同年8月、先代当主・堯頼を追放した上相良氏・多良木頼観、頼仙兄弟がまたしても挙兵。
長続はこれに対抗して自ら軍勢を率いて出陣し、見事、多良木兄弟を討ち取り、兄弟の首をあげました。

上相良氏は、相良氏初代当主・相良長頼の次男・多良木頼氏を祖とし、南北朝時代は南朝に味方し、北朝方の相良宗家に対してずっと敵対行動をとってきた、いわば相良宗家の宿敵とも言える存在です。

長続は、旧相良宗家の歴代当主が成し遂げられなかった、その長年の宿敵・上相良氏を滅ぼすという大きな功績をあげたのです。

これにより、上相良氏の領地である

多良木(球磨郡多良木町)
久米(球磨郡久米村)
湯前(球磨郡湯前)
湯山(球磨郡水上村湯山)
江代(熊本県球磨郡水上村江代)


これら一帯が相良宗家の支配地として組み入れられ、相良氏は初めて肥後国球磨郡統一を果たしました。


3、支配領域の拡大
また、西暦1458年(長禄二年)、薩摩、大隅、日向の三国で大乱(おそらく、当主・島津忠国と弟・島津好久との間の兄弟喧嘩に端を発した大規模な国人一揆)が発生し、島津忠国から援軍の依頼を受け、長続も出陣して鎮圧に協力したことで、忠国から薩摩国牛屎院と牛山城(鹿児島県伊佐市大口里字上ノ馬場/別名:大口城)を与えられています。

球磨郡を統一し、薩摩国牛屎院という球磨郡外の領地も得た長続は、徐々に対外勢力との関係を考えるようになります。

その相手を肥後国最大の守護大名である菊池為邦に求めました。

菊池氏は南北朝時代は九州最大の南朝勢力で、南北朝統一後も反足利幕府的な態度を取り続けていましたが、菊池氏第18代当主・菊池兼朝が、嫡男である第19代当主・菊池持朝に追放された後は、幕府寄りの態度に改めていました。

菊池為邦はその菊池持朝の嫡男で菊池氏第20代当主です。

西暦1460年(寛正元年)10月、長続は嫡男・頼元を連れ、菊池氏の本拠である菊池城(熊本県菊池市隈府)を訪問します。
為邦は長続親子の来訪を大変喜び、長続には葦北郡水俣(水俣市)の領地を、頼元には自分の偏諱である「為」を与えました。

以後、頼元は為邦の「為」と、父・長続の「続」を取り、諱を「為続」と改めました。

為邦の長続に対するこの厚遇は、当時の菊池氏の背景が大きく影響していると考えられます。

菊池氏は為邦の父・持朝の時、菊池氏は筑後・肥後の二カ国の守護職を拝命していました。しかし、為邦の代になり、筑後守護職は豊後大友氏に奪われてしまった為、菊池氏は肥後一国で確たる勢力を築く必要に迫られていました。

その為には球磨郡ならびに肥後国、薩摩国の境にある牛屎院を支配する相良氏の勢力を無視できなくなっていたと考えています。


4、名和氏の御家騒動
この頃、相良領(球磨郡ならびに葦北郡水俣)と境を接する八代郡一帯に勢力を張っていた名和氏に御家騒動が起きていました。

西暦1452年(宝徳四年)5月21日、名和氏17代当主・名和教長が暗殺。
西暦1459年(長禄三年)12月13日、名和氏18代当主・名和義興が暗殺。


という具合に当主が次々と暗殺され、名和氏の支配構造は不安定になる一方でした。

そして、暗殺された名和氏18代当主・名和義興の弟・幸松丸は身の安全を考え、肥後国八代郡から逃亡、家老の内河喜定と共に人吉に向かい、長続に保護を求めました。

長続はこの助力要請に応え、兵を率いて幸松丸を名和氏の居城である古麓城(熊本県八代市古麓町)に帰還させると、名和氏の家臣団の統制を行い、西暦1465年(寛正六年)幸松丸を元服させて「名和顕忠」とし、名和氏の家督を継がせることに成功します。

この時、顕忠は長続嫡男・為続の娘を娶って相良氏と姻戚関係を結んでいます。
その上、長続への恩義の証として八代郡高田郷(現在の八代市の球磨川南部あたり)が長続に譲られました。

この時、長続の領土は肥後国球磨郡全域に加え、同国葦北郡水俣郷、同国八代郡高田郷、薩摩国牛屎院になっており、肥後国の南半分に相良氏としての最大版図を築いていました。

また前述の名和氏の御家騒動を収めたことは、名和氏と縁戚になるだけでなく、名和氏に対して強い影響力を保持することになりました。

加えて、肥後国外の薩摩島津氏ともパイプを持っている長続の存在は、肥後国北部に勢力を張っている同国守護職・菊池為邦にとって、目の上のたんこぶになりつつありました。

それが余計な猜疑心を生んでしまい、ついに為邦は自らが長続に安堵した水俣に対して攻撃を開始します。

一方の長続は急激な領土拡張と共に所有する城も増え、それに対して城兵も割かれており、為邦の攻撃に有効に対応することが難しくなっていました。

そこで、島津忠国から与えられた牛屎院の領地を島津氏に返還し、牛山城主・犬童長直以下の城兵を高田郷の平山城(熊本県八代市平山新町)に移動させて、為邦の攻撃に備えざる得ませんでした。


5、長続の最期
この頃、足利幕府のお膝元である京都では、三管領の畠山氏や斯波氏の御家騒動、文正の政変によって生じた守護大名の諍い、細川勝元と山名宗全の勢力争いに、足利幕府8代将軍継嗣問題が導火線に火をつけてしまい、いわゆる「応仁の乱」が勃発し始めていました。

時の足利幕府管領・細川勝元は長続に「軍勢率いて上洛しろ」という命令を出していますが、肥後国内では名和氏の御家騒動が収束したものの、菊池氏との諍いは未だ決着がついておらず、領地を空けて上洛するのは、あまりにも危険が大きすぎました。

そこで、長続は相良氏の家督を嫡男・為続に譲り、領土の仕置を任せて、自身は軍勢を率いて京都に向かいました。
ところが、程なく病気になり、帰国したものの快方に向かわず、西暦1468年(応仁二年)2月15日、人吉城で病死となります。


新生相良氏の初代当主(歴代十一代目)として初めて球磨郡を統一し、八代、水俣、牛屎院など球磨郡外にも領土を広げ、最大版図を築いた当主の死でした。

(つづく)
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2018年09月09日

人吉相良氏の軌跡(4)ー室町時代(1)ー

1、八代目相良頼茂(実長)、九代目、相良前続の治世
西暦1394年(明徳五年)1月19日、相良氏七代目・相良前頼日向国野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)にて、島津元久・北郷義久の連合軍の攻撃を受け、前頼の兄弟共々討ち死にしました。

よって、前頼の嫡男・相良頼茂が相良氏八代目の家督を相続しました。


また、この頃、中央政界でも動きがあり、西暦1370年(建徳元年/応安三年)から20年以上に渡り、九州探題として足利幕府の権力基盤を築いた今川了俊が、西暦1395年(応永二年)1月、将軍の命令で上洛したところ探題職を解任され、新しい九州探題として渋川満頼が翌年派遣されています。


南北朝合一がなったとはいえ、頼茂は父・前頼の影響を受け、心情的に南朝方の味方をしていました。
これを知った足利幕府は、頼茂に「従五位下兵庫允」の官位に叙任させて懐柔を図り、頼茂も「実長」と改名しています。

以後の実長の軍事活動は北朝方としての活動が確認でき、日向国真幸院(宮崎県えびの市)からすでに没落していた畠山直顕の残存勢力を追い出す一方、幕府の命令で島津家の御家騒動に介入し、島津伊久(薩摩守護/総州家)を支援。島津元久(大隈守護/奥州家)を薩摩から追い出す功績を立てています。
(島津家の御家騒動は西暦1404年(応永十一年)に伊久、元久が和睦して決着)

西暦1417年(応永二十四年)、相良氏七代目・相良実長死去。
嫡男、相良前続(さきつぐ)が相良氏九代目の家督を相続しました。


八代目実長、九代目前続の時代は、人吉は戦乱に巻き込まれることも少なく、両氏は寺社仏閣の復興に注力しています。
実長は井口八幡神社(熊本県人吉市井ノ口町949)を整備し、前続は永国寺(熊本県人吉市土手町5/通称:幽霊寺)を建立しています。


2、上相良氏の謀反
西暦1443年(嘉吉三年)、相良氏八代目・相良前続は急死し、嫡男の相良堯頼(たかより)が相良氏十代目の家督を相続します。

しかし、堯頼はまだ11歳の子供でした。

幼子が相良氏の当主になると、その家督の不安定さから、比較的平穏だった人吉の地が、にわかにざわついてきました。


堯頼が家督を継いで5年後の西暦1448年(文安五年)、肥後球磨郡多良木城主(上相良氏)・多良木頼観、その弟・多良木頼仙は、外越(現在の人吉市上戸越、下戸越)地頭の桑原隠岐守ら国人衆を扇動し、人吉の寺院の僧徒、山伏、雑兵含め総勢1200人の軍勢を率いて、相良宗家に謀反を起こし、人吉城に攻め寄せてきたのです。

多良木氏は相良氏初代・相良長頼の子・頼氏を発祥とし、多良木氏三代目・多良木経頼の時代に宗家に反抗して、当時の相良氏当主・四代目長氏、五代目定頼を散々苦しめた家です。

多良木兄弟が不穏な動きをしていること人吉城でも察知していました。
しかし、国人衆や僧侶等の合力は想定外で、人吉城の防備は間に合わず、不意の攻撃に当時16歳の堯頼は狼狽し、僅かな近習を連れて誰にも言わずに密かに人吉城を脱出してしまいます。

城内では「長年の宿敵である上相良にこの城を渡すものか」と数名の勇士が踏み止まって奮戦しましたが、衆寡敵せず、全員討ち取られてしまいます。

しかし、多良木兄弟の謀反を知った肥後球磨郡山田城主(熊本県球磨郡山江村)・永留長重は、急ぎ集められるだけの兵を集めて山田城から出陣し、人吉城を奪って油断していた多良木兄弟を攻撃して、兄弟を人吉城から追い出しました。

人吉城を多良木兄弟の手から奪い返した長重は、相良氏家臣と共に行方知れずとなった堯頼の捜索を命じます。
ようやく、堯頼が薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口山野)にいることを突き止めると、長重は使者を遣わし


「多良木兄弟は我々が人吉城から追い出しました。もう殿様に害を成すものはおりませぬ。安心して城に御戻りくだされ」


と復帰を願いました。しかし堯頼は


「不意をつかれたとは申せ、城も領地も領民も手放してこの地に隠れた私に人吉城を預かる資格はない」

と人吉城への帰還を拒否します。その上

「此度の軍功第一は申すまでもなく永留長重。その栄誉を讃え、ここに相良氏家督を長重に譲る」

と言いだしました。


永留氏は、相良氏2代目・相良頼親の嫡男、相良頼明を祖としている相良氏庶流です。

初代・長頼が亡くなったあと、頼親が2代目家督を継ぎましたが、56歳という高齢の為、すぐに弟の頼俊に家督を譲り、以後はその血統が相良宗家となっていました。

頼親は隠居後、照角山(球磨村神瀬)に隠棲し、嫡男・頼明は山田に領地を賜って永留氏を名乗ったのです。

よって血統的には宗家の兄の血筋になるので、相良氏の家督を相続する資格は十分ありました。


使者は急ぎ人吉城に立ち戻り永留長重に言上すると、

「一体何をおっしゃっているのだ? 仮にそれがしに家督を譲るとしても、相良宗家の主が賊の襲撃をけて居城から追放されたままの状態では、相良宗家一門の不名誉に変わりはなく、近隣諸国に対して恥であるから、速やかに御戻りいただくように申せ!」

と再度使者を遣わしました。

この往来が何回も続きましたが合意することはなく、西暦1448年(文安五年)3月23日、堯頼は薩摩国牛屎院で事故死してしまいます。

事、ここに至っては当主の帰還は未来永劫望めない事態となりました。
かと言って、鎌倉時代より続く相良氏の名跡を絶やすわけにいきません。

よって、亡き堯頼の意向であり、人吉城を奪還して宗家を守らんとした長重の功績は何物にも変えがたく、同年5月13日、ここに永留長重が相良宗家を注ぐことになりました

ここに、相良氏三代目・相良頼俊を初めとする相良氏宗家の血統は絶え、新たに、相良氏二代目・相良頼親の血統から始まる新生相良宗家が生まれました。

相良宗家を継いだ永留長重は名を「相良長続」と改め、相良氏十一代当主が誕生したのです。

(つづく)
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2018年08月14日

人吉相良氏の軌跡(3)ー南北朝時代後半ー

人吉相良氏の南北朝時代の後編です。


1、九州探題・今川了俊の赴任
西暦1372年(文中元年/応安五年)、相良氏六代目・相良定頼が死ぬと、その嫡男である前頼(さきより)が家督を相続し、相良氏七代目を継ぎます。

この時期の九州は北部九州(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前)は完全に南朝の支配下になっており、南九州(肥後、薩摩、大隅、日向)は南北朝が入り混じっている情勢になっていました。

そんな中、相良氏はずっと北朝方として主義を貫いていましたが、七代目前頼は「俺はオヤジとは違う」と言わんばかりに、家督相続前から密かに南朝と通じていました。

前頼からすれば

「北部九州は南朝の支配下にあり、足利幕府ば派遣する九州探題は揃いも揃って腰抜けばかり。筑前一つ維持できやしない。そんな北朝についてて、なんかいいことあるのか?」

という感じではないかと思います。

しかし、西暦1370年、すなわちまだ先代・定頼がまだ生きていた頃、情勢が変わってきました。
足利幕府六代目九州探題として今川了俊が赴任してきたのです(五代目九州探題・渋川義行は九州入りすることなく更迭)。
これは筑前守護・少弐冬資が室町幕府将軍・足利義満に望んだことでした。

冬資からすれば、南朝の天下となっている北部九州の南朝の牙城を崩すためには、何としても幕府の意向を受けた九州探題が必要だったのです。


了俊は九州探題に任じられると、まず中国地方に入って大内弘世(周防、長門、石見守護)の協力も得て中国地方の国人勢力と連携する一方、翌年1371年に豊前国(大分県)に入りました。

豊前入りした了俊は、肥前の国人・阿蘇惟村の協力を得て、了俊嫡男の今川貞臣豊後高崎山城に入り込ませます。

さらに了俊弟の今川仲秋を肥前に送って現地の松浦党を味方につけた上で、肥前、豊前、さらに筑前の少弐冬資の勢力を以って、三方から南朝本陣の征西府である太宰府を挟撃にしたのです。

この結果、前頼が家督を相続した西暦1372年には、太宰府から南朝勢力は一掃され、筑前国は北朝・足利幕府方の勢力下に復帰します。

前頼が相良氏の家督相続したのはこの直後のようで、新たに赴任してきた九州探題・今川了俊より北朝味方の軍忠を讃える文書を拝受しています。
これによって前頼は南朝に鞍替えするタイミングを失い、このまま北朝方に留まって、様子をみる方針に切り替えざるを得ませんでした。



2、今川了俊の猛攻
了俊の猛攻は続き、西暦1374年(応安七年/文中三年)には、太宰府を失った南朝の新拠点である筑後高良山城(福岡県久留米市御井町)を陥落。南朝方主力武将である肥後菊池氏を肥後菊池城(隈府城/熊本県菊池市隈府)に引きのかせて、筑後国を勢力下におきました。

さらに翌年、西暦1375年(天授元年/永和元年)、肥後阿蘇家にお家騒動が勃発します。

阿蘇家当主・阿蘇惟村の弟・惟武が、南朝の征西大将軍・懐良親王のお墨付きを以って、阿蘇大宮司職を世襲しました。これについて惟村が自らの家督の正当性を主張し、了俊を頼ったため、了俊の命令で相良前頼と相良一族の相良美作守らは、阿蘇惟武の領地を攻めることになったのです。

これが記録上、前頼の初の軍事行動になったと考えています。

また同年12月、今川了俊自身も肥後に兵を進め、大友親世(豊後守護)、島津氏久(大隅守護)、少弐冬資(筑前守護)の三大名を招集しますが、冬資だけが「やなこった」と参陣を拒むという事態が生じます。

了俊によって南朝勢力は筑前・筑後から追い出され、冬資は筑前守護職としての役割を果たせることになりましたが、今度は了俊の権力が大きくなり、守護権力に制限をかけるようになっていたため、冬資は了俊に非協力的になっていました。

そして今回の参陣の拒否で了俊の冬資への怒りは頂点に達し、島津氏久を遣わして冬資を説得させます。

冬資は氏久の説得を入れ、渋々出陣してきたため、了俊、親世、氏久、冬資は肥後菊池郡水島(熊本県菊池市七城町)で会盟しました。
しかし、その歓迎の宴の最中に、了俊は冬資を殺害してしまいます。

ようやく冬資を説得して参陣させたのに、面目を潰された島津氏久は激怒して大隅に帰国。薩摩守護・島津伊久と共に、あろうことか南朝に味方します。殺害された少弐冬資の跡を継いだ少弐頼澄も当然、南朝へ味方に。

大友親世は了俊に不信感を抱き、やはり豊後に帰国してしまいましたが、こちらは北朝方に止まっています。

この一件は「水島の変」と言われており、せっかく良好な関係を築けていた幕府九州探題と九州の守護大名との間に深い溝を作りました。
この時、相良前頼は出陣していませんが、相良一族の相良長時なる人物が名代として出陣しており、了俊の水島退去の際に殿軍(撤退時の後方を守る役目)を勤めており、今川仲秋(了俊の弟)より感状を頂いているそうです。



3、了俊への疑心と南朝への思い
西暦1376年(天授二年/永和二年)8月、相良前頼は今川了俊の命令で、了俊の末子・今川満範日向都於郡城主・伊東氏祐(日向伊東氏二代当主)と共に、南朝方となった島津家庶流・北郷氏の都於城(宮崎県都城市)を包囲しましたが、数年後に島津氏久・元久父子の援軍が現れて日向国庄内蓑原(宮崎県都城市蓑原町付近)で合戦となり、相良前頼の末弟・小垣頼頼氏が討ち死にしています。

西暦1381年(永徳元年/弘和元年)、今川了俊は南朝方・菊池氏の隈府城を落とし、肥後南朝勢力を後退させると、翌年、薩摩守護職・島津伊久が了俊に降伏し、薩摩・肥後両国に北朝勢力が広がっていきました。

肥後国に北朝の勢力が伸びてくると、もともと家督相続前から心情的には南朝方であった前頼は複雑な心境になってました。

薩摩の島津伊久は北朝方。大隅の島津氏久は表向きは了俊に降伏したものの、依然として今川了俊を敵認定し、裏では了俊を支えている南九州の国人同盟の切り崩しを行っていました。

国人同盟としては、今川方に味方した手前、逆恨みとして島津氏に攻撃されてはたまらないので、一致団結して事にあたり、了俊の保護を願うものでしたが、了俊は隈府から八代に移動していた征西府の攻撃のことしか考えておらず、国人同盟の期待した答えは出ませんでした。

これが相良前頼の後押しになったのかもしれません。

西暦1383年(永徳三年/弘和三年)4月、相良前頼は突如、南朝方に寝返り、征西将軍宮・良成親王より所領を安堵されました。
翌年、了俊は、都於城を攻めている今川満範に援軍を派遣しましたが、前頼は名和氏と共同でこれを阻止。了俊は焦ってさらに渋谷重頼を派遣しますが、これも敗退させています。

(球磨郡で何かが起きてるらしい......)

南九州の国人たちはこれを察し、前頼が南朝方に寝返ったことを確信すると、これまで了俊に従っていた禰寝氏、伊集院氏ら南九州の国人が揃って南朝に帰順し、南九州の南朝勢力は一気に復調しました。

前頼はこれらの功績を南朝・後亀山天皇に認められ、肥前守護並び蔵人頭に任じられています。

しかし、時はすでに遅しで、世の中は南北朝合一の時代に突入しようとしていました。



4、前頼の最期
西暦1392年(明徳三年/元中九年)、足利幕府三代将軍・足利義満によって南北朝合一(明徳の和約)が行われると、征西将軍宮・良成親王(後村上天皇の第七皇子)足利幕府九州探題・今川了俊との間にも和議が成立。前頼も了俊に帰順せざえる得ませんでした。

しかし、南北朝合一がなっても「関係ないね」今川了俊への敵対関係を止めなかったのが島津氏でした。
島津氏の行動原理は北朝、南朝関係なく「了俊憎し」で固まっていたのかもしれません。

西暦1393年(明徳四年)了俊は四男・今川貞兼を南九州に派遣しました。前頼はこれに従軍し、大挙して都城方面を目指して進出しました。

西暦1394年(明徳五年)正月、今川貞兼、相良前頼、日向旧北朝方の国人たちは、島津家庶流・北郷氏の野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)、梶山城(宮崎県北諸県郡三股町長田)を落城させました。

北郷氏の本城である都之城から北郷久秀(北郷氏三代当主)忠通兄弟が援軍として梶山白に駆けつけましたが、久秀と忠通は返り討ちにあってしまいます。これを聞いた島津宗家・島津元久が薩摩から援軍として駆けつけ梶山城を攻撃しました。

元久の軍勢は今川軍は敗退させ、総大将・今川貞兼は飫肥城(宮崎県日南市飫肥)に、前頼は前述の野々美谷城に逃走します。

北郷氏二代当主・北郷義久は嫡男を殺された恨みから即座に軍勢を編成し、野々美谷城を急襲しました。
この頃の飫肥城は土持氏の支配下にあり、土持氏は旧北朝方の国人でしたので、貞兼が追撃を受ける可能性はありませんでしたが、野々美谷城は都於城の支城で北郷氏の勢力圏内であり、敵地のど真ん中と言っても過言ではありませんでした。

その上、野々美谷城は攻城戦で受けた修築もままならず、また前頼は梶山城の戦いで失った兵の補充もできず、とても満足に戦える状態ではありませんでした。ここが死に場所と心得た前頼は、弟である丸目頼書、青井前成、丸野頼成と共に、この野々美谷城合戦で討ち死にしました。

南北朝の混乱期の肥後を戦い抜いた相良氏七代目当主の最期でした。
中央では南北朝和合が成りましたが、相良氏にとってはこれからが苦難の時代の始まりになります。

(つづく)
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