2018年09月09日

人吉相良氏の軌跡(4)ー室町時代(1)ー

1、八代目相良頼茂(実長)、九代目、相良前続の治世
西暦1394年(明徳五年)1月19日、相良氏七代目・相良前頼日向国野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)にて、島津元久・北郷義久の連合軍の攻撃を受け、前頼の兄弟共々討ち死にしました。

よって、前頼の嫡男・相良頼茂が相良氏八代目の家督を相続しました。


また、この頃、中央政界でも動きがあり、西暦1370年(建徳元年/応安三年)から20年以上に渡り、九州探題として足利幕府の権力基盤を築いた今川了俊が、西暦1395年(応永二年)1月、将軍の命令で上洛したところ探題職を解任され、新しい九州探題として渋川満頼が翌年派遣されています。


南北朝合一がなったとはいえ、頼茂は父・前頼の影響を受け、心情的に南朝方の味方をしていました。
これを知った足利幕府は、頼茂に「従五位下兵庫允」の官位に叙任させて懐柔を図り、頼茂も「実長」と改名しています。

以後の実長の軍事活動は北朝方としての活動が確認でき、日向国真幸院(宮崎県えびの市)からすでに没落していた畠山直顕の残存勢力を追い出す一方、幕府の命令で島津家の御家騒動に介入し、島津伊久(薩摩守護/総州家)を支援。島津元久(大隈守護/奥州家)を薩摩から追い出す功績を立てています。
(島津家の御家騒動は西暦1404年(応永十一年)に伊久、元久が和睦して決着)

西暦1417年(応永二十四年)、相良氏七代目・相良実長死去。
嫡男、相良前続(さきつぐ)が相良氏九代目の家督を相続しました。


八代目実長、九代目前続の時代は、人吉は戦乱に巻き込まれることも少なく、両氏は寺社仏閣の復興に注力しています。
実長は井口八幡神社(熊本県人吉市井ノ口町949)を整備し、前続は永国寺(熊本県人吉市土手町5/通称:幽霊寺)を建立しています。


2、上相良氏の謀反
西暦1443年(嘉吉三年)、相良氏八代目・相良前続は急死し、嫡男の相良堯頼(たかより)が相良氏十代目の家督を相続します。

しかし、堯頼はまだ11歳の子供でした。

幼子が相良氏の当主になると、その家督の不安定さから、比較的平穏だった人吉の地が、にわかにざわついてきました。


堯頼が家督を継いで5年後の西暦1448年(文安五年)、肥後球磨郡多良木城主(上相良氏)・多良木頼観、その弟・多良木頼仙は、外越(現在の人吉市上戸越、下戸越)地頭の桑原隠岐守ら国人衆を扇動し、人吉の寺院の僧徒、山伏、雑兵含め総勢1200人の軍勢を率いて、相良宗家に謀反を起こし、人吉城に攻め寄せてきたのです。

多良木氏は相良氏初代・相良長頼の子・頼氏を発祥とし、多良木氏三代目・多良木経頼の時代に宗家に反抗して、当時の相良氏当主・四代目長氏、五代目定頼を散々苦しめた家です。

多良木兄弟が不穏な動きをしていること人吉城でも察知していました。
しかし、国人衆や僧侶等の合力は想定外で、人吉城の防備は間に合わず、不意の攻撃に当時16歳の堯頼は狼狽し、僅かな近習を連れて誰にも言わずに密かに人吉城を脱出してしまいます。

城内では「長年の宿敵である上相良にこの城を渡すものか」と数名の勇士が踏み止まって奮戦しましたが、衆寡敵せず、全員討ち取られてしまいます。

しかし、多良木兄弟の謀反を知った肥後球磨郡山田城主(熊本県球磨郡山江村)・永留長重は、急ぎ集められるだけの兵を集めて山田城から出陣し、人吉城を奪って油断していた多良木兄弟を攻撃して、兄弟を人吉城から追い出しました。

人吉城を多良木兄弟の手から奪い返した長重は、相良氏家臣と共に行方知れずとなった堯頼の捜索を命じます。
ようやく、堯頼が薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口山野)にいることを突き止めると、長重は使者を遣わし


「多良木兄弟は我々が人吉城から追い出しました。もう殿様に害を成すものはおりませぬ。安心して城に御戻りくだされ」


と復帰を願いました。しかし堯頼は


「不意をつかれたとは申せ、城も領地も領民も手放してこの地に隠れた私に人吉城を預かる資格はない」

と人吉城への帰還を拒否します。その上

「此度の軍功第一は申すまでもなく永留長重。その栄誉を讃え、ここに相良氏家督を長重に譲る」

と言いだしました。


永留氏は、相良氏2代目・相良頼親の嫡男、相良頼明を祖としている相良氏庶流です。

初代・長頼が亡くなったあと、頼親が2代目家督を継ぎましたが、56歳という高齢の為、すぐに弟の頼俊に家督を譲り、以後はその血統が相良宗家となっていました。

頼親は隠居後、照角山(球磨村神瀬)に隠棲し、嫡男・頼明は山田に領地を賜って永留氏を名乗ったのです。

よって血統的には宗家の兄の血筋になるので、相良氏の家督を相続する資格は十分ありました。


使者は急ぎ人吉城に立ち戻り永留長重に言上すると、

「一体何をおっしゃっているのだ? 仮にそれがしに家督を譲るとしても、相良宗家の主が賊の襲撃をけて居城から追放されたままの状態では、相良宗家一門の不名誉に変わりはなく、近隣諸国に対して恥であるから、速やかに御戻りいただくように申せ!」

と再度使者を遣わしました。

この往来が何回も続きましたが合意することはなく、西暦1448年(文安五年)3月23日、堯頼は薩摩国牛屎院で事故死してしまいます。

事、ここに至っては当主の帰還は未来永劫望めない事態となりました。
かと言って、鎌倉時代より続く相良氏の名跡を絶やすわけにいきません。

よって、亡き堯頼の意向であり、人吉城を奪還して宗家を守らんとした長重の功績は何物にも変えがたく、同年5月13日、ここに永留長重が相良宗家を注ぐことになりました

ここに、相良氏三代目・相良頼俊を初めとする相良氏宗家の血統は絶え、新たに、相良氏二代目・相良頼親の血統から始まる新生相良宗家が生まれました。

相良宗家を継いだ永留長重は名を「相良長続」と改め、相良氏十一代当主が誕生したのです。

(つづく)
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2018年08月14日

人吉相良氏の軌跡(3)ー南北朝時代後半ー

人吉相良氏の南北朝時代の後編です。


1、九州探題・今川了俊の赴任
西暦1372年(文中元年/応安五年)、相良氏六代目・相良定頼が死ぬと、その嫡男である前頼(さきより)が家督を相続し、相良氏七代目を継ぎます。

この時期の九州は北部九州(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前)は完全に南朝の支配下になっており、南九州(肥後、薩摩、大隅、日向)は南北朝が入り混じっている情勢になっていました。

そんな中、相良氏はずっと北朝方として主義を貫いていましたが、七代目前頼は「俺はオヤジとは違う」と言わんばかりに、家督相続前から密かに南朝と通じていました。

前頼からすれば

「北部九州は南朝の支配下にあり、足利幕府ば派遣する九州探題は揃いも揃って腰抜けばかり。筑前一つ維持できやしない。そんな北朝についてて、なんかいいことあるのか?」

という感じではないかと思います。

しかし、西暦1370年、すなわちまだ先代・定頼がまだ生きていた頃、情勢が変わってきました。
足利幕府六代目九州探題として今川了俊が赴任してきたのです(五代目九州探題・渋川義行は九州入りすることなく更迭)。
これは筑前守護・少弐冬資が室町幕府将軍・足利義満に望んだことでした。

冬資からすれば、南朝の天下となっている北部九州の南朝の牙城を崩すためには、何としても幕府の意向を受けた九州探題が必要だったのです。


了俊は九州探題に任じられると、まず中国地方に入って大内弘世(周防、長門、石見守護)の協力も得て中国地方の国人勢力と連携する一方、翌年1371年に豊前国(大分県)に入りました。

豊前入りした了俊は、肥前の国人・阿蘇惟村の協力を得て、了俊嫡男の今川貞臣豊後高崎山城に入り込ませます。

さらに了俊弟の今川仲秋を肥前に送って現地の松浦党を味方につけた上で、肥前、豊前、さらに筑前の少弐冬資の勢力を以って、三方から南朝本陣の征西府である太宰府を挟撃にしたのです。

この結果、前頼が家督を相続した西暦1372年には、太宰府から南朝勢力は一掃され、筑前国は北朝・足利幕府方の勢力下に復帰します。

前頼が相良氏の家督相続したのはこの直後のようで、新たに赴任してきた九州探題・今川了俊より北朝味方の軍忠を讃える文書を拝受しています。
これによって前頼は南朝に鞍替えするタイミングを失い、このまま北朝方に留まって、様子をみる方針に切り替えざるを得ませんでした。



2、今川了俊の猛攻
了俊の猛攻は続き、西暦1374年(応安七年/文中三年)には、太宰府を失った南朝の新拠点である筑後高良山城(福岡県久留米市御井町)を陥落。南朝方主力武将である肥後菊池氏を肥後菊池城(隈府城/熊本県菊池市隈府)に引きのかせて、筑後国を勢力下におきました。

さらに翌年、西暦1375年(天授元年/永和元年)、肥後阿蘇家にお家騒動が勃発します。

阿蘇家当主・阿蘇惟村の弟・惟武が、南朝の征西大将軍・懐良親王のお墨付きを以って、阿蘇大宮司職を世襲しました。これについて惟村が自らの家督の正当性を主張し、了俊を頼ったため、了俊の命令で相良前頼と相良一族の相良美作守らは、阿蘇惟武の領地を攻めることになったのです。

これが記録上、前頼の初の軍事行動になったと考えています。

また同年12月、今川了俊自身も肥後に兵を進め、大友親世(豊後守護)、島津氏久(大隅守護)、少弐冬資(筑前守護)の三大名を招集しますが、冬資だけが「やなこった」と参陣を拒むという事態が生じます。

了俊によって南朝勢力は筑前・筑後から追い出され、冬資は筑前守護職としての役割を果たせることになりましたが、今度は了俊の権力が大きくなり、守護権力に制限をかけるようになっていたため、冬資は了俊に非協力的になっていました。

そして今回の参陣の拒否で了俊の冬資への怒りは頂点に達し、島津氏久を遣わして冬資を説得させます。

冬資は氏久の説得を入れ、渋々出陣してきたため、了俊、親世、氏久、冬資は肥後菊池郡水島(熊本県菊池市七城町)で会盟しました。
しかし、その歓迎の宴の最中に、了俊は冬資を殺害してしまいます。

ようやく冬資を説得して参陣させたのに、面目を潰された島津氏久は激怒して大隅に帰国。薩摩守護・島津伊久と共に、あろうことか南朝に味方します。殺害された少弐冬資の跡を継いだ少弐頼澄も当然、南朝へ味方に。

大友親世は了俊に不信感を抱き、やはり豊後に帰国してしまいましたが、こちらは北朝方に止まっています。

この一件は「水島の変」と言われており、せっかく良好な関係を築けていた幕府九州探題と九州の守護大名との間に深い溝を作りました。
この時、相良前頼は出陣していませんが、相良一族の相良長時なる人物が名代として出陣しており、了俊の水島退去の際に殿軍(撤退時の後方を守る役目)を勤めており、今川仲秋(了俊の弟)より感状を頂いているそうです。



3、了俊への疑心と南朝への思い
西暦1376年(天授二年/永和二年)8月、相良前頼は今川了俊の命令で、了俊の末子・今川満範日向都於郡城主・伊東氏祐(日向伊東氏二代当主)と共に、南朝方となった島津家庶流・北郷氏の都於城(宮崎県都城市)を包囲しましたが、数年後に島津氏久・元久父子の援軍が現れて日向国庄内蓑原(宮崎県都城市蓑原町付近)で合戦となり、相良前頼の末弟・小垣頼頼氏が討ち死にしています。

西暦1381年(永徳元年/弘和元年)、今川了俊は南朝方・菊池氏の隈府城を落とし、肥後南朝勢力を後退させると、翌年、薩摩守護職・島津伊久が了俊に降伏し、薩摩・肥後両国に北朝勢力が広がっていきました。

肥後国に北朝の勢力が伸びてくると、もともと家督相続前から心情的には南朝方であった前頼は複雑な心境になってました。

薩摩の島津伊久は北朝方。大隅の島津氏久は表向きは了俊に降伏したものの、依然として今川了俊を敵認定し、裏では了俊を支えている南九州の国人同盟の切り崩しを行っていました。

国人同盟としては、今川方に味方した手前、逆恨みとして島津氏に攻撃されてはたまらないので、一致団結して事にあたり、了俊の保護を願うものでしたが、了俊は隈府から八代に移動していた征西府の攻撃のことしか考えておらず、国人同盟の期待した答えは出ませんでした。

これが相良前頼の後押しになったのかもしれません。

西暦1383年(永徳三年/弘和三年)4月、相良前頼は突如、南朝方に寝返り、征西将軍宮・良成親王より所領を安堵されました。
翌年、了俊は、都於城を攻めている今川満範に援軍を派遣しましたが、前頼は名和氏と共同でこれを阻止。了俊は焦ってさらに渋谷重頼を派遣しますが、これも敗退させています。

(球磨郡で何かが起きてるらしい......)

南九州の国人たちはこれを察し、前頼が南朝方に寝返ったことを確信すると、これまで了俊に従っていた禰寝氏、伊集院氏ら南九州の国人が揃って南朝に帰順し、南九州の南朝勢力は一気に復調しました。

前頼はこれらの功績を南朝・後亀山天皇に認められ、肥前守護並び蔵人頭に任じられています。

しかし、時はすでに遅しで、世の中は南北朝合一の時代に突入しようとしていました。



4、前頼の最期
西暦1392年(明徳三年/元中九年)、足利幕府三代将軍・足利義満によって南北朝合一(明徳の和約)が行われると、征西将軍宮・良成親王(後村上天皇の第七皇子)足利幕府九州探題・今川了俊との間にも和議が成立。前頼も了俊に帰順せざえる得ませんでした。

しかし、南北朝合一がなっても「関係ないね」今川了俊への敵対関係を止めなかったのが島津氏でした。
島津氏の行動原理は北朝、南朝関係なく「了俊憎し」で固まっていたのかもしれません。

西暦1393年(明徳四年)了俊は四男・今川貞兼を南九州に派遣しました。前頼はこれに従軍し、大挙して都城方面を目指して進出しました。

西暦1394年(明徳五年)正月、今川貞兼、相良前頼、日向旧北朝方の国人たちは、島津家庶流・北郷氏の野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)、梶山城(宮崎県北諸県郡三股町長田)を落城させました。

北郷氏の本城である都之城から北郷久秀(北郷氏三代当主)忠通兄弟が援軍として梶山白に駆けつけましたが、久秀と忠通は返り討ちにあってしまいます。これを聞いた島津宗家・島津元久が薩摩から援軍として駆けつけ梶山城を攻撃しました。

元久の軍勢は今川軍は敗退させ、総大将・今川貞兼は飫肥城(宮崎県日南市飫肥)に、前頼は前述の野々美谷城に逃走します。

北郷氏二代当主・北郷義久は嫡男を殺された恨みから即座に軍勢を編成し、野々美谷城を急襲しました。
この頃の飫肥城は土持氏の支配下にあり、土持氏は旧北朝方の国人でしたので、貞兼が追撃を受ける可能性はありませんでしたが、野々美谷城は都於城の支城で北郷氏の勢力圏内であり、敵地のど真ん中と言っても過言ではありませんでした。

その上、野々美谷城は攻城戦で受けた修築もままならず、また前頼は梶山城の戦いで失った兵の補充もできず、とても満足に戦える状態ではありませんでした。ここが死に場所と心得た前頼は、弟である丸目頼書、青井前成、丸野頼成と共に、この野々美谷城合戦で討ち死にしました。

南北朝の混乱期の肥後を戦い抜いた相良氏七代目当主の最期でした。
中央では南北朝和合が成りましたが、相良氏にとってはこれからが苦難の時代の始まりになります。

(つづく)
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2018年08月05日

人吉相良氏の軌跡(2)ー南北朝時代前半ー

人吉藩を立藩した相良氏コラム第2回は、鎌倉幕府後末期から入ります。


1、鎌倉幕府から建武の新政へ
西暦1287年(弘安十年)元寇で活躍した相良氏三代目当主・相良頼俊は、家督を長子・長氏に譲りました。
この後の頼俊の動向は没年も含め諸説ありますが、実はよくわかっていません。

相良氏四代目当主・相良長氏は、西暦1311年(延慶四年)2月25日付で、長文の置文を作成しており、これが現在の「大日本史料」に残っております。これが相良家の家法と言われており、おそらくのちに出てくる「相良氏法度」のモデルになったのではないかと私は考えています。

西暦1333年(元弘元年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して反乱を起こし、隠岐に流罪となるものの島を脱出して再び反乱を起こしました。いわゆる「元弘の乱」です。

相良氏も後醍醐天皇を支持し、当時鎌倉に詰めていた相良氏五代目当主・頼広は、新田義貞の鎌倉攻めの挙兵に参加していました。

その後、土佐に流されていた後醍醐天皇の第二皇子・尊良親王が土佐を脱出して九州・大宰府に入り、九州の武士団を統括する旨が宣言されたので、頼広はこれを受けて九州に戻ることになります。

西暦1336年(建武三年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、鎌倉を占拠して政権化すると、頼広は、兵を率いて、尊氏の領地である国富荘(現在の宮崎県宮崎市、西都市、新富町一帯)に進出し、足利家一門の細川義門(小四郎/綾城主・綾氏の祖)を攻めました。

頼広はさらに尊氏正室・赤橋登子の領地である穆佐院(宮崎市高岡町)に転じて、地頭・土持宣栄とも戦っています。


2、南北朝時代へ
西暦1336年(延元元年/建武3年)、足利尊氏によって光明天皇が即位され、北朝が成立し、後醍醐天皇が吉野に南朝を開き、南北朝時代に突入します。この時、相良氏一族の間でも北朝方(尊氏)、南朝方(後醍醐)にそれぞれ別れていました。

五代目当主・頼広は南朝方でしたが、頼広の父で四代目当主・長氏と頼広の子・定頼は、少弐貞経・頼尚父子(筑前・筑後・豊前の守護)に従属しており、北朝方の態度を取っていました。

当時の相良家中では当主である頼広より、隠居である四代目・長氏の影響力が強かったため、南北朝時代に入ると頼広の記録が途絶え、嫡子・定頼が前面に出てきていたりすることから、もしかすると頼広は四代目・長氏から廃嫡され、四代目・長氏から六代目・定頼へのイレギュラーな家督相続があった可能性は否定できません。

いずれにせよ、この頃より、相良氏六代目当主・定頼の時代になっています。

しかし、この頃、相良氏の祖・相良頼景(相良氏初代・長頼の父)から続く、上球磨郡を領していた多良木氏(通称:上相良氏)の当主・多良木経頼が、南朝方として蜂起すると、経頼は八代を領していた南朝方の伯耆名和氏と連携したため、定頼は人吉の北方に兵を進めることが困難になっていました。

結果、足利尊氏が豊島河原の戦い(大阪府箕面付近)新田義貞、北畠顕家の軍勢に敗れて九州に逃れてきた際、定頼は軍勢を出して助力することができなかったのです。

これ以後、定頼は自身は球磨郡を動けず、家臣を派遣して北朝方の軍勢に従軍させるのが精一杯でした。

一方、この頃、少弐氏当主・少弐頼尚は、九州南朝方のボスである菊池武重との決戦を控えており、菊池氏の領地の背後に位置する肥後国南西部の球磨地方の動静が気がかりでした。

前述の通り、八代の名和氏、上球磨の多良木氏は南朝勢力ですが、その南の下球磨には北朝方の相良定頼がおります。
名和・多良木両氏が自分の領地を空けて武重の援軍に加われば、間違いなく南から定頼の襲撃を受けるため、彼らは身動きが取れなかったのです。

また、頼尚にとって、定頼が南朝に鞍替えされると、球磨郡全体が新たな南朝勢力となるため、肥後国内の北朝方の苦戦は必至でした。

そこで頼尚は、思わぬ行動に出ました。
かつて相良氏初代・長頼の時代に、お家騒動を起こした責任を取らされて鎌倉幕府に取り上げられていた人吉荘の北部の領地を「北朝お味方の恩賞」として、先代・相良長氏に返還したのです。

長氏はこの領地を相良氏六代目当主・定頼に譲ったため、人吉荘を含めた下球磨地方は実に95年ぶりに完全に相良氏当主の支配下におかれました。


3、九州、南朝の支配下へ
西暦1341年(暦応四年/興国二年)、南朝・後醍醐天皇の皇子・懷良親王が薩摩国に上陸すると、肥後国の南朝方に勢いが生じ、北朝方が苦境に陥っていきます。

定頼は常に少弐頼尚に従って北朝方として転戦し、この頃、八代郡七カ村を所領として賜っています。

しかし、この南北朝の争いに、新たにややこしい事態が加わります。
室町幕府内における将軍・足利尊氏とその弟・足利直義の壮大な兄弟ゲンカ、いわゆる「観応の擾乱」です。

足利直義の養子である足利直冬は長門探題を務めており、養父の挙兵を知るや、九州肥後に移動して、少弐頼尚の支持を取り付けます。

また同じ頃、上相良氏・多良木経頼が再び挙兵して、直冬方と合流するという事態が発生しました。定頼はすぐに軍勢を率いて、経頼を討とうしますが、頼みの綱の少弐頼尚が直冬方になってしまったため、援軍の支援がなく、結果、定頼は敗退してしまいます。

定頼と経頼の争いは、球磨地方だけの争乱ではなく、周辺諸国や豪族をも巻き込んだ広がりを見せていました。

尊氏方の薩摩国守護・島津貞久は、直義方の日向国守護・畠山直顕大隅国真幸院(宮崎県えびの市)をめぐって争っており、九州探題・一色範氏家臣・一色範親に命じて、定頼に出兵を要請し、定頼は真幸院に攻め込みます。

しかし畠山直顕は上相良氏・多良木経頼と連携して、葦北郡の南朝方を蜂起させただけでなく、肥後北部の南朝方・菊池武光の援軍を得て、定頼・範親の軍勢を撃退することに成功。さらに直顕の大隅国への侵入を許してしまうことになります。

九州の豪族たちをまとめることもできず、南朝の勢いを防ぐこともできない九州探題・一色範氏は、探題職を嫡男・直氏に譲り、北朝尊氏方の権力基盤の強化を試みましたが、南朝の優勢は続き、西暦1354年(正平九年/文和三年)、南朝・懐良親王菊池武光、少弐頼尚と協力して、豊後国に攻め込み、北朝・尊氏方である大友氏を降伏させました。これにより、北部九州はほぼ南朝方に制圧されてしまいます。

北朝・尊氏方の九州探題二代目・一色直氏は、周囲はすべて敵で囲まれ、自分の勢力を維持できず、ついに長門国に逃亡します。これが足利尊氏の逆鱗に触れ、2年後の西暦1356年(正平十一年/延元元年)、再び九州に入って筑前国麻生山で菊池武光と戦いますが、武光に一蹴されてしまい、今度は京都に逃亡してしまいました。

一色直氏が完全に九州から撤退すると、今度は少弐頼尚が再び北朝・尊氏方に鞍替えしました。どうも頼尚は一色範氏・直氏父子が気に入らないから敵対していただけで、敵がいなくなれば元の鞘(北朝尊氏方)に戻るつもりだったようですね。

まぁ、身勝手といえば身勝手ですが。

一色範氏・直氏が京都に撤退した後、北部九州は南朝の手に落ちましたが、南部九州は一色範氏家臣・一色範親が健在で、島津・相良の両氏が北朝・尊氏方として畠山直顕と戦い続けていました。

しかし、幕府もさすがに「これではマズイ」と思ったのか。定頼に「元弘の乱の時の鎌倉攻めで命を落とした永留頼常の恩賞」というこじつけで日向国庄内北郷の地を与えて、北朝方への引き留めを必死に行っています。

どう考えても南朝優勢の中、守護職を拝命している島津氏はともかく、相良氏まで南朝に味方されては、島津の命運は風前の灯火ですからね。ここは何としても北朝の味方にいてもらわねば困ったのだと思います。


西暦1361年(正平十六年/康安元年)10月、室町幕府九州探題四代目(三代目細川繁氏は任地につくことなく死去)・斯波氏経が赴任しましたが、翌西暦1362年(正平十七年/貞治元年)10月、長者原合戦(福岡県糟屋郡粕屋町戸原)で南朝方の菊池武光に敗北し、周防国に撤退。北部九州は再び南朝の天下となってしまいます。

そんな中、西暦1372年(文中元年/応安五年)8月、相良氏六代目・相良定頼が死去。

イレギュラーな家督相続の後、南北朝争乱、観応の擾乱などに振り回されつつも、下球磨を完全に回復し、さらに八代、日向国まで領地を伸ばした輝かしい実績を残した相良氏当主の死でした。

(つづく)
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