2017年04月04日

本当はこうだった「大坂の陣」(最終回)-大坂の陣とは何だったのか-

足掛け3か月に渡って書いてきたこのシリーズも今回をもって最後になります。
最後のお題は「大坂の陣とは一体何だったのか」です。

日本近世史という観点から見れば、この戦いの後、西暦1637年(寛永14年)10月25日に「島原の乱」(日本最大の百姓一揆)が勃発するまで、軍事活動は起きておりません。

だからこの戦いは「戦国時代最後の戦い」と言われます。

事実だけ見れば、「徳川氏が征夷大将軍の将軍権力をもって、将軍権力に従わない一大名である豊臣秀頼を征伐した」ことになり、徳川氏が自身の権力基盤を確立するため「主筋」に当たる豊臣家を滅亡させたことになります。

しかし、私は思うのです。

本当に徳川家康は豊臣家を滅亡させたかったのか?

本当に滅亡させたかったのなら、冬の陣で和議などせず、あのまま大砲をブッ放し続けて、大坂城をガレキの山にし、大坂城と共に豊臣家を葬っていたと思うのです。

それをせず、和議に持ち込んだのは、豊臣秀吉から「秀頼を頼む」と言われていた家康の慈悲(孫娘千姫も関係)と、大坂城に集う「平和な時代を受け入れられない武士たち」を排除するための方策だったと思います。

当時、大坂城に入場していたのは、「関ヶ原の戦い」で西軍に味方して主家が領地没収となり、浪人となっていた武士、そして迫害されていたキリシタン信徒たちが多かったと言われています。

これらはいずれも「徳川家の天下では生きてはいけない人たち」でした。

家康の狙いとは裏腹に、和議締結後の豊臣家は大坂城に集う浪人たちを排除することができず、結果として京・大坂(特に朝廷)を不安に陥れ、再び武力衝突(夏の陣)が起きます。

徳川家は朝廷を安んじ奉る征夷大将軍職を拝命している関係上、大坂城の浪人の勝手振る舞いを許すことはできません。その棟梁であるこの時の家康は断腸の思いで完膚なきまで大坂城を叩き潰す覚悟だったと思います。

それでも、家康が本気で秀頼・淀殿の命まで取るつもりだったのかどうかは、正直わかりません。

一方で、征夷大将軍である徳川秀忠は豊臣家を許すつもりはなかったことは明らかでした。
秀忠は豊臣家の残党を密告したものには褒美を与え、秀頼の隠し子である国松を捕らえて斬首していることからそれがわかります。

しかし、同じ隠し子の娘は千姫(秀頼正室/秀忠娘)によって一命を救われ、千姫の養女にされ、成長後に東慶寺(神奈川県鎌倉市山ノ内1367/通称:縁切寺)の住職になっています。

また、大坂の陣の波及効果は徳川、豊臣だけでなく、全日本の大名の庶家にに広がっていました。
それをまとめとして書きたいと思います。

<越前北ノ庄藩(越前松平家)>
越前松平家は家康次男・結城秀康を祖とし、秀康亡き後はその嫡男である松平忠直(左近衛権少将)が当主となっていました。

忠直は「冬の陣」の戦いぶりが家康の叱責を受け、「夏の陣」では大和口方面軍大将:水野勝成を抜け駆けして天王寺口の最前線に立ち、真田勢と戦いました。

家臣の西尾宗次が真田信繁を討ち取り、また水野勝成と共に真田勢の本陣である茶臼山を陥落させ、大坂城にも一番乗りと目指しい戦功をあげましたが、将軍家の戦功評価(初花の茶壺と左近衛権中将への任官)に不満を持ち、徐々に将軍家に反抗する振る舞いをするようになります。

そして、大坂の陣から8年後の西暦1622年(元和8年)、忠直は自分の正室であり、将軍秀忠の三女である勝姫を斬殺しようと乱行に及びました。これが将軍家の耳に入ると、これ以外に表沙汰になっていなかった家臣への扱いの酷さなども露呈したため、翌年、将軍秀忠は忠直に強制隠居を命じました。

隠居後、出家した忠直は、同年5月、豊後府内藩(藩主:竹中重義)に流罪謹慎となり、西暦1650年(慶安三年)そのまま府内にて死去しました。
夏の陣の戦功第一のヒーローの終焉としてはあまりにも悲しいものでした。


<越後高田藩(長沢松平家)>
家康六男にして長沢松平家当主・松平忠輝(左近衛権少将)は、「夏の陣」で当初家康より大和口方面軍の総大将を仰せつかっていましたが、道明寺の戦いに遅参しました。その上、「夏の陣」後、家康の朝廷への戦勝参内の約束をすっぽかしたため、家康より「2度と対面は許さず」という厳しい処罰が下されました。

家康の死後、西暦1616年(元和二年)7月6日、忠輝は将軍秀忠から改易(領地没収)を命じられて伊勢国朝熊に流罪とされます。

忠輝はその後には飛騨高山藩、信濃諏訪藩と配流先を転々とし、2度と大名として復帰することなく、西暦1683年(天和三年)7月3日、諏訪高島城(南の丸)にて92歳で死去しました。


<陸奥仙台藩(伊達家)>
大坂城落城の際、伊達家家臣・片倉重綱(二代目小十郎/陸奥白石城主)が乱取りした娘の中に、真田信繁の娘(阿梅)がいました。当初は侍女として片倉家に仕えていましたが、父親が真田信繁とわかると重綱の側室として目をかけられ、正室・綾姫が亡くなった跡は継室に昇格しています。

阿梅は弟・大八や妹・阿昌蒲、於金などを仙台に呼び寄せており、大八は後に片倉の姓を名乗って「片倉守信」を名乗ってという300石取りの仙台藩士になっています(仙台真田家の祖)

また、長宗我部盛親の家臣・佐竹親直の妻、阿古姫とその子・輔丸も伊達家に乱取りされ、輔丸は元服したあとは柴田朝意と名乗り、仙台藩奉行職(いわゆる家老)まで上り詰めました。

なお、家康は、「冬の陣」の後、政宗庶子・秀宗(侍従)伊予国宇和島10万石の大名に取り立てています。
秀宗は、のちに幕末期に活躍する伊達宗城の祖先にあたります。


<豊前中津藩(細川家)>
細川忠興の次男・興秋が大坂方に与していましたため、忠興は興秋に切腹を命じました。


<摂津味舌藩(織田有楽家)>
元々有楽自身が3万石を領していましたが、夏の陣が終わった後、有楽は隠居し、有楽の所領は息子たちに分与されました。

四男・織田長政に1万石が分与され、摂津芝村藩を立藩。
五男・織田尚長に1万石が分与され、摂津柳本藩を立藩。
残り1万石は有楽斎本人が隠居料として手元に残しました(有楽死去後は没収されています)。


<伊勢亀山藩(奥平松平家)>
伊勢亀山5万石の藩主・松平忠明は、奥平信昌と家康長女・亀姫との間の子供で、家康の外孫にあたります。5歳で家康の養子となったため、松平の姓を許されました。

忠明は「冬の陣」で河内口方面の大将を勤め、和議が成立すると大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当し、「夏の陣」では道明寺の戦い、誉田の戦いで戦功をあげました。

これらの戦功を鑑み、将軍秀忠の命令で、忠明が摂津大坂藩を倍の10万石で立藩。大坂の陣で荒れ果てた大坂の復興を見事成し遂げ、西暦1619年(元和五年)に、大和郡山藩12万石に加増転封となりました。

忠明はその後、徳川幕府大政参与(のちの大老)となり、播磨姫路18万石に加増転封となって、西国の押さえとなります。越前松平家の松平忠直とはえらい違いです(汗)。


大坂の陣の終了により、日本国から戦争は無くなりました。
これを祈念し、同年7月13日、将軍家の奏上により、朝廷より「元和」改元の詔が発生られています。

皮肉にもこれは、禁中並公家諸法度に基づく最初の幕府の公式なる朝廷介入と言えるものでした。
(本来年号を改元するのは朝廷固有の権利で、公家と武家の意見の一致が必要だったため)

翌年、西暦1616年(元和二年)1月、家康は鷹狩りの途中で倒れ、同年4月17日に病死しました。

一般的には死因は「鯛の天ぷらに当たった食中毒」と言われていますが、医学的見地からそれは正しくなく(食中毒が原因で3か月も生き長らえるわけがない)、病状の中に胃癌末期の兆候が見られることから、おそらく既に症状が進んでいた胃癌の症状が、「鯛の天ぷらに当たった」ことによって加速させられ、死期を早めたと考えるのが正しいと思います。

大坂の陣のついては賛否両論あると思いますが、一つだけ確かなことがあります。
それは

「徳川家康は、200年間の長きに渡って、戦乱のない平和の世の中を作り上げた」

ということです。

(このシリーズ終わり)
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2017年04月01日

本当はこうだった「大坂の陣」(12)-岡山口の戦い(最終決戦)-

天王寺口で合戦が起きた正午頃、岡山口(大阪府大阪市生野区勝山北三丁目16/御勝山古墳)に着陣していた徳川方総大将・徳川秀忠(征夷大将軍)は、天王寺口の銃撃音を聞き

「始まったか.....」

とつぶやいて、全軍に進軍命令を出しました。

秀忠の進軍命令を受けた一番隊大将:前田忠常(右近衛少将・筑前守/加賀金沢120万石)は、豊臣方の岡山口大将:大野治房(大野治長弟)勢と戦闘状態に突入するものの、治房の一撃離脱ゲリラ戦法に翻弄され、大きく体勢を崩しかけていました。

これを支えるため、井伊直孝(掃部頭/近江彦根15万石)藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)の若江口方面軍コンビが脇より援軍として参入。

しかし、この2大名は先の若江・八尾の戦い大損害を受けて兵数を減らし、また疲労の度合いも高く、士気が満足に上がっていなかったため、治房のゲリラ戦法を食い止めることができず、ついに陣を抜かれてしまうのです。

治房が目指したのは総大将・徳川秀忠の本陣。
一番隊大将の前田利常、二番隊大将の井伊直孝が抜かれ、秀忠本陣の前に旗本先手大将を務めるは土井利勝(大炊頭/下総佐倉4万5000石)でしたが、これもなんとかギリギリ持ちこたえている状態でした。

そこに一番隊後方に付けていた黒田長政(筑前守/筑前福岡52万3000石)加藤嘉明(左馬助/伊予松山20万石)らが秀忠本陣に駆けつけ、土井利勝勢を助けます。

秀忠はこの隙に本陣の後退を命じますが、家康より参謀として付けられた立花宗茂(左近将監/陸奥棚倉3万5000石)

「先ほどは進軍しろといい、負けそうになったら後退しろと言う。総大将がそんな腰の座らない状態でどうなさいますか。」

と叱責し

「上様、よくご覧なされ。敵は前田殿、井伊殿、藤堂殿と戦って大炊頭(土井利勝)まで兵を進めてきましたが、黒田筑前殿(長政)、加藤左馬助殿(嘉明)の助力でこれ以上は進んでは来ません。また、味方の援軍はあれど敵の援軍は見当たりません。つまり、敵は疲れております。よって、この左近(宗茂)、ここで本陣を後退させれば、味方の士気を下げ、時の勢いを失うと諫言仕りまする。」

と諫言し、これに秀忠の筆頭老中である本多正信(佐渡守/相模玉縄1万石)

「左近(宗茂)殿の申し状、誠にもって至極道理。大局的に見ればこの戦、負けるわけがござらん。よって上様はどっしりと構えるが上策でござりまする」

と口添えしたため、秀忠も反論できなくなりました。

この時の本多正信の見立ては的確でした。

確かに前田勢は崩れ、井伊、藤堂も疲弊しておりました。しかし、この岡山口には一番隊大将:前田利常の指揮下には先の黒田長政、加藤嘉明だけではなく、本多康俊(縫殿助/三河西尾2万石)、本多康紀(伊勢守/三河岡崎5万石)らが、また二番隊には細川忠興(越中守/豊前中津39万9000石)などの大名の兵力が温存されておりました。

それゆえ、局地的な戦いでは敗れているものの、大局的に見れば不安要素は全くない状態だったのです。

これは秀忠と宗茂・正信との戦の経験値の違いの表れと考えられます。

また、天王寺口の真田信繁や岡山口の大野治房が、ここまで強引に軍勢の押し込みをしたのは、豊臣方優勢を目に見せることで、大坂城内の豊臣秀頼の出馬を促したいという目的があったからでした。
秀頼自身の出馬は、徳川方に味方する豊臣恩顧の大名を裏切らせる要因になると予測していたのです。

これが豊臣方の最後の賭けでした。
そしてそれを誰よりも待ち望んでいたのが、四天王寺北東に着陣していた大野治長大坂城七手組の面々でした。

では、この時の大坂城内はどうなっていたかというと、秀頼の出馬に対し、生母・淀殿が頑強に反対していました。

結局、秀頼の出馬まで現場の戦いは持ちこたえられませんでした。
治房は秀忠本陣の手前まで押し込むものの、疲労と兵力の消耗が激しく、岡山口より残存兵力をまとめて撤退。
途中で天王寺口の毛利勝永と合流し、大坂城に撤退しました。この時、午後3時あたりでした。


撤退したとはいえ、内堀、外堀のほぼ全てを埋められた大坂城は、城としての防御能力はほぼゼロであり、ましてや、真田信繁、後藤基次、木村重成などの有力武将を失った豊臣方にとって、城の周りを包囲する徳川方に対抗する方策はありませんでした。

大坂城に攻め寄せて城内に一番乗りを果たした徳川方は、松平忠直(左近衛権少将/越前北ノ庄75万石)でした。雪崩を打ったように押し入った徳川方は大坂城内の略奪を始めます。

そして午後4時前後には何者かの手引きによって、大坂城に火の手が上がり、それは天守にも燃え広がりました。

炎は夜通し大坂城を焼きつきし、西暦1615年(慶長二十年)5月7日深夜、大坂城は陥落したのです。

秀頼や淀殿、大蔵局、毛利勝永、大野治長、大野治房らは、本丸から山里曲輪(大阪府大阪市中央区大坂城1-1)に身を移していました。

そしてこの時、大野治長は、「今回の乱の責任は自分にある。自分が切腹するので秀頼と淀殿の命は助けてほしい」とする助命嘆願の書状を秀頼正室・千姫(家康孫/秀忠長女)を託して、逃しています。

千姫は徳川家康の本陣に連れて行かれ、秀頼・淀殿の助命嘆願を家康に願います。この時、家康は秀頼の命だけは助けるつもりだったと言われますが、秀忠は二度に渡る乱の首謀者を許すことはできぬとして、山里曲輪に鉄砲隊を送り込み、無数の鉄砲玉を打ち込みました。

この鉄砲玉が家康の返答であり、曲輪をすべて鉄砲隊に囲まれていることを悟った秀頼と淀殿は、進退極まって自害して果てました。

ここに豊臣宗家は滅亡したのです。

(つづく)
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本当はこうだった「大坂の陣」(11)-天王寺口の戦い(真田信繁散る)-

誉田の戦いの後、大坂城に引き上げた豊臣方は、軍議の結果、迫り来る徳川勢力とまともに戦うのは不利と考え、城を出て野戦にて戦い、隙を見て総大将である徳川秀忠・徳川家康を急襲するという戦法をとることで一致しました。

徳川方は、大和口方面軍と河内路方面(若江・八尾方面)軍が合流し、紀州路から駆け付けた浅野長晟(但馬守/紀伊和歌山37万6000石)が加わって、ほぼ全軍が阿倍野、勝間、桑津(大阪市西成区、阿倍野市区、東住吉区付近)に集合・展開していました。

豊臣方は最前線を天王寺口の茶臼山(大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1/現在の茶臼山古墳)に定め、紀州街道の浅野勢と阿倍野付近の松平忠直勢に当たるため、茶臼山南方に真田信繁(幸村)ら3,500兵が陣を敷きました。

茶臼山を挟んで北方には江原高次(宇喜多秀家家臣)、槇島重利(豊臣家奏者番)、細川興秋(細川忠興次男)らが着陣。

その真田勢の東方を守るべく、庚申堂(大阪府大阪市天王寺区上本町6丁目/庚申堂公園)の南方に、渡辺糺(秀頼槍術指南役/真田信繁寄騎)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)、伊木遠雄(真田信繁寄騎)ら2,000兵が着陣。

その後方(四天王寺南門)には毛利勝永(豊臣譜代家臣)ら6,500兵が着陣。
桑津・岡山方面の徳川秀忠本陣に対しては、大野治房・大野治長ら大坂城七手組(大坂城詰衆)が10,000兵近くを率いてこれに対峙しました。

また、遊撃隊として明石全登(元宇喜多家臣)が300兵を率いて、大坂城の西方、木津川堤防付近に着陣しました。

対する徳川方の陣は

天王寺口(大阪府大阪市天王寺区南部)
一番隊大将:本多忠朝(出雲守/上総大多喜5万石)5,500兵
二番隊大将:榊原康勝(遠江守/上野館林10万石)5,400兵
三番隊大将:酒井家次(宮内大輔/上野高崎5万石)5,300兵
本陣:徳川家康(大御所)15,000兵

岡山口(大阪府大阪市生野区勝山北三丁目16/御勝山古墳)
一番隊大将:前田利常(右近衛少将・筑前守/加賀金沢120万石)20,000兵
二番隊大将:井伊直孝(掃部頭/近江彦根15万石)7,500兵
本陣:徳川秀忠(征夷大将軍)23,000兵

このほかに紀州街道口に浅野長晟、伊達政宗(陸奥守/陸奥仙台62万石)、松平忠輝(左近衛少将/越後高田75万石)、そして阿倍野付近には、松平忠直(左近衛権少将/越前北ノ庄75万石)と大和口大将である水野勝成(日向守/三河刈谷3万石)らが着陣していました。

誰の目にも豊臣・徳川の総力戦であることは明らかでした。

戦いは突然、正午頃始まりました。
豊臣方・毛利勝永の手勢と徳川方・本多忠朝勢の間に小競り合いが起き、それが徐々に大きくなって銃撃戦に発展したのがきっかけでした。

両軍共に士気は十分に高まっており、いつ始まってもおかしくない緊迫感に満ち満ちていました。
それゆえ、茶臼山の真田信繁は小競り合いが始まったことを聞くと、勝永に「敵の挑発に乗るな」と伝令しました。

しかし、緊迫している空気は、小競り合いが戦いに発展するのにそれほど時間はかかりませんでした。
勝永は信繁の伝令通りにひたすら自重していましたが、銃撃戦レベルまでになってくると、応じないわけにはいかず、これがトリガーとなって天王寺口に着陣していた両軍の全兵力が一気にぶつかり始めたのです。

毛利勝永は、本多勢を攻め続けてこれを破り、本多忠朝は討ち取られて徳川方の一番隊が崩壊します。
その影響を受け、同じ一番隊に属していた秋田実季(秋田城介/常陸宍戸5万石)浅野長重(浅野長晟弟/采女正/下野真岡2万石)も大損害を受けますが、長重の小姓・大石良勝などが奮戦し、毛利勢に一矢報いています。

大石良勝はこの戦功で1500石取りの浅野家の永代筆頭家老になります。この良勝の孫が、のちに「忠臣蔵」で活躍する大石良雄(内蔵助)です。

話を戦場に戻します。

本多忠朝が討ち取られ、本多勢が崩れようとするのを、二番隊に属する小笠原秀政(信濃守/信濃松本8万石)とその子・忠脩が救援に入りました。

しかし、毛利勢は亡き後藤基次(又兵衛)木村重成の残存兵を擁しており、これが非常に精強で、忠脩は討死、秀政は重傷という「ミイラ取りがミイラになる」事態に陥ってしまいます。

徳川方一番隊が完全に壊滅し、勢いづいた豊臣方の軍勢が二番手大将・榊原康勝らの軍勢に攻めかかります。泰勝は思いもしない一番隊の壊滅に狼狽しながら、敵の勢い強く長く支えること叶わず、二番隊も壊滅。

さらに三番隊も雪崩を打ったかのように壊滅し、気がつけば徳川家康の本陣前はガラ空きになっていました。

一方、茶臼山南の真田信繁は、天王寺口の松平忠直と戦っていました。

松平忠直は、家康次男で結城家当主・結城秀康の嫡男で、非常に気性が激しい人物であると伝わっています。

前年の「大坂冬の陣」では戦の指揮を家康に咎められたため、この戦いで汚名返上の思いを強く持っていました。本来、阿倍野近辺には大和口大将の水野勝成を配置されていましたが、将軍家に許しも得ず、抜け駆けして水野隊の前に出、真田勢と戦っていました。

忠直は真田勢と戦いながら、軍勢の一部を茶臼山の脇を抜けて大坂城へ向けました。

真田勢は目の前の敵が大坂城に向けて進んでくるのを見、これを防がんとしましたが、徳川方の一番隊、二番隊、三番隊が崩れ、家康の馬印が見えると

「これはチャンス!」

と考え、騎馬の一団を率い、家康の本陣に向けて進軍を開始します。
しかし、茶臼山の西方・紀州街道沿いには浅野長晟、伊達政宗、松平忠輝の軍勢が温存されており、これに対する備えをおろそかにすれば茶臼山の真田本陣が落ちる可能性がありました。

そこで信繁が立てた策が、徳川方に「浅野が裏切った」という虚報を報じることでした。

浅野長晟は紀州街道の最南に陣を敷いており、もし本当に浅野が裏切ったら、浅野の手前、すなわち勝間村、天下茶屋近辺に着陣している松平忠輝、伊達政宗らは挟み撃ちにされてしまいます。

真田勢は徳川方の軍勢にあたりながら

「浅野但馬守が裏切ったぞー!」

と叫び回ったため、天下茶屋、勝間付近の徳川勢に動揺を与え、攻めの動きを封じてしまいました。
徳川方の攻めの動きが鈍ったのを見届けた信繁は、すぐさま家康本陣への攻撃を開始します。

驚いたのは家康本陣です。
豊臣方・毛利勝永勢によって一番隊、二番隊、三番隊を重ねた三重の構えがもろくも崩れ去り、本陣がガラ空きになるというのは家康も経験のない状況でした。

ましてや、本陣の中の旗本連中は実戦の経験がほとんどない者ばかり、そこに赤備えの真田勢が攻めかかってくるというのですからパニックなるのは必定です。

しかし、歴戦の大将・家康はなかなか動じませんでした。
攻め寄せる真田勢の攻撃を察知し、騎馬で後方へ逃げるという判断を咄嗟に下しています。

ただ、現場の旗本衆は右往左往するばかりで、これまで倒れたことないという家康の馬印が倒されてしまったため、「すわ、本陣陥落か?」と徳川方の諸将が危ぶんだ時もありました。

また家康が騎馬で逃げたため、真田勢の騎馬武者からは容易に捕捉されてしまい、家康は幾度となく切腹を口走ったと言われます。

その家康を救ったのは、松平忠直に出し抜かれた水野勝成率いる大和路方面軍でした。

前述の通り、勝成の前線にいた松平忠直は、軍勢の一部を大坂城に向けて進めていたため、その防備は弱く、そこを真田勢に突かれて家康本陣への侵入を許してしまっていました。

加えて、真田の「浅野裏切り」の虚報が忠直の軍勢の動きを鈍くしていました。

勝成ら大和口方面軍は、忠直勢の中に入って真田勢の攻めを支え、一方で本多忠政(美濃守/伊勢桑名10万石)、松平忠明(下総守/伊勢亀山5万石)らを本陣の援軍として差し向けています。

結果として、信繁は家康をある程度まで追い詰めましたが、忠政・忠明の援軍が横から入り、家康の追撃を足止めされてしまいます。

その間に勝成と忠直は真田勢の本陣である茶臼山を陥落させ、取って返して、忠政・忠明が足止めしている信繁らを後方から追撃するという見事な機動力を発揮していました。

勝成、忠政、忠明の3方向が攻撃され、信繁率いる真田勢はついに壊滅してしまいます。

信繁は戦場から離れ、安井神社(大阪府大阪市天王寺区逢阪)で戦いに疲れた体を休ませていたところを、松平忠直の鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討たれたと言われます。

茶臼山の陥落、そして真田勢の壊滅は、天王寺口戦いの勝敗を決定的なものにしました。
これまで天王寺口の最前線で軍勢を指揮して戦っていたのが、真田信繁と毛利勝永の二将とその寄騎だけだったからです。

勝永はこの戦いで、徳川方の一番隊、二番隊、三番隊を壊滅させ、およそ10以上の大名の軍勢を悉く退けてきました。しかしそれは真田勢と連携することでできたことと言っても良いものでした。

しかしその真田勢が壊滅したとあっては、徳川方の攻撃を一身で受け止めなくてはならず、衆寡敵せず、勝永はジリジリと大坂城に後退せざる得ない状況に追い込まれていくのでした。

この時、遊撃隊として動いていた明石全登は、松平忠直勢に突撃を敢行しています。これが勝永の撤退に有利に働いたのは言うまでもありません。

この時の全登の奮戦ぶりは見事なもので、一時は忠直隊の態勢を崩すほどでした。

しかし、忠直隊を中から支えていた水野勝成が自ら前面に出て再び押し返し、逆に全登勢を壊滅に追い込んでいます。この時以後、明石全登は行方不明となってしまうのです。

(つづく)
posted by さんたま at 02:34| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする