2013年11月03日

伊達政宗の一世一代の大バクチ「葛西・大崎一揆」(終)

1.政宗の策略
伊達政宗関白豊臣秀吉の薦めもあり、京に一ヶ月ほど留まりました。その間、西暦1591年(天正十九年)3月、政宗は左京大夫から侍従に遷任され、さらに越前守を兼任し、羽柴の苗字を秀吉から下されています。

米沢に戻った政宗は、同年6月14日、再び出陣し、一揆の本格的鎮圧活動を開始しました。上方からは秀吉の命令で豊臣秀次徳川家康が援軍として政宗に助力し、翌7月4日、一揆勢の重要拠点である寺池城を落城せしめました。寺池城が落城すると、一揆勢力は全員武装解除して降伏し、ここに葛西大崎一揆は一応の鎮圧を見ました。残るは首謀者の処罰と論功行賞でした。

政宗は一揆勢の主だった者たちへ、陸奥国桃生郡須江山(現在の宮城県石巻市須江山)に来るように申し伝えました。一揆勢は思案の末これに応じました。一揆勢からすれば「政宗は自分たちの味方」として見ていました。ところが、政宗は一揆を裏切って攻撃してきました。一揆の首謀者たちはそれを政宗に詰問するつもりでした。

同年8月14日、一揆勢の首領は指定された須江山に向かいましたが、そこに待っていたのは政宗ではなく、伊達家重臣の泉田重光と屋代景頼でした。重光と景頼は主君伊達政宗の命令として、集まった一揆の首謀者を一人残らず皆殺しにしました。政宗は、首謀者を全員殺戮することで口封じを計ったのです。


2.論功行賞
関白秀吉は政宗の「鶺鴒(セキレイ)の眼」蒲生氏郷からの謀反の疑いを退け、政宗の嫌疑を無罪と裁定しました。秀吉は「鶺鴒の眼」が、政宗の細工であることは気づいていました。しかし、秀吉は政宗の武将としての用心深さに感服し、同時に氏郷の「何かあると関白頼り」の甘えた根性を叩き直すため、あの場は氏郷に敗北の屈辱を味じあわせました。

ただ、秀吉は決して政宗を許してはいませんでした。いずれは、物凄いしっぺ返しを下してやろうと密かに企んでいたのです。

関白秀吉は今回の論功行賞を下記の内容で下しました。

▼木村吉清
一揆勃発と自力で責任を取り、葛西大崎十三郡すべて没収。改易(大名の地位から格下げ)。


▼伊達政宗
一揆鎮圧の功により、葛西大崎十三郡(胆沢、江刺、磐井、気仙、本吉、登米、桃生、牡鹿、栗原、遠田、志田、玉造、加美)を与え、長井、信夫、伊達、安達、田村、刈田の六郡を没収(いわゆる領地交換)。


▼蒲生氏郷
旧伊達領の長井、信夫、伊達、安達、田村、刈田の六郡を加増。


木村吉清の所領没収、改易は当然です。赴任早々に一揆を勃発させた責任は重いです。ただ九州征伐後に肥後一国拝領し、やはり国人一揆が怒って鎮圧後に切腹させられた佐々成政に比べれば、命があるだけマシかもしれません。

伊達政宗は、書面だけみると新たに十三郡もらった代わりに六郡失いました。差し引き五郡の加増のように見えますが、石高でみると、葛西大崎十三郡は三十万石、失った六郡は四十四万石ですので、実質十四万石の減封になってます。さらに伊達家発祥の地である伊達郡、そして父祖伝来の地である信夫郡、長井郡の三郡を失ったことは、政宗にとって精神的ダメージは計り知れないものがありました。

これが秀吉流の報復だったのです。

そして蒲生氏郷は、秀吉が政宗から奪った六郡をそのまま宛てがわれ、これまでの会津八郡と合わせ、合計十四郡九十二万石の大大名にのし上がりました。最終的に氏郷の一人勝ちという結果でした。


3.論功行賞の真相
政宗からすれば、氏郷から着せられた謀反の罪は消え、木村吉清救出および一揆鎮圧に功があるにもかかわらず、減封扱いにされるのはたまったものではなかったでしょう。ですが、秀吉はすべてを見抜いており、証拠こそないが一揆を煽動したのは政宗であるという確信を持っていたに違いありません。

しかし、それを表立って咎め立てすれば、関白が下した無罪判決を自ら撤回にすることになり、自らの威信に傷が付くのは必定でした。そこで秀吉は、書面では加増に見せかける領地交換を行い、政宗を北へ追いやって、直参大名の蒲生氏郷に手厚く報いて対伊達の監視を強める方策に切り替えたのです。

不思議なのは政宗がこの処分を素直に受け入れていることです。
私は、そこにおそらく徳川家康の影を感じています。

徳川家康は、秀吉の命により、葛西大崎十三郡を政宗に引き渡す役目を務めています。家康は、木村吉清が中途半端で終わらせていた十三郡の検地を実施後、岩手沢城の改築等を行い、およそ四十日間滞在しています。その間、家康が政宗を宥め、また家康も政宗を自陣営に引き込む工作を行ったりしてもおかしくはありません。現に関東より以北の大名を統括、牽制するのは豊臣政権下の家康の役割でもあるから、理に適っていると言えます。

政宗は当時奥州随一の米沢七十二万石の大大名でした。今回の減転封で岩手沢五十八万石の大名となり、一方で氏郷は六郡四十四万石を加増され、会津九十二万石の大名となり、奥州随一の大名の座に着きます。


4.秀吉の本当の狙い
政宗が新たに拝領した葛西大崎十三郡は痩せ細った土地で、数百年に渡ってか伊達氏が開発して来た長井、伊達、信夫ら六郡の代わりになる土地では到底ありませんでした。石高が下がったため、伊達家家臣の知行も下がり、家臣の叛乱、出奔が相次いでいます。「伊達家の内部崩壊」これが秀吉の第二の狙いでした。

新領土である葛西大崎十三郡が伊達六郡と同じレベルの十分な石高を上げるようになるのは、江戸時代の寛永年間における北上川改修まで待たねばなりませんでした。この土地がどれだけ貧弱だったかがわかりますね。

時の権力者である関白秀吉に対し、政宗が仕掛けた一世一代の大ばくちは手痛いしっぺ返しとなって返ってしまいました。政宗はよほど懲りたのか、これを境に二度と秀吉に歯向かうようなことをしませんでした。

政宗が、次に時の権力者に対し工作を仕掛けるのは、これより9年後、西暦1600年9月に起きた徳川家康と石田三成の対立による「関ヶ原の合戦」に乗じて、南部領で一揆煽動を仕掛けた「岩崎一揆事件」でした。この時も政宗は失敗して家康の「百万石のお墨付き」をフイにしていますけどね(汗)

(おわり)
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2013年10月26日

伊達政宗の一世一代の大バクチ「葛西・大崎一揆」(下)

<ここまでのあらすじ>
会津黒川城主の蒲生氏郷は、陸奥国中部起きた「葛西大崎一揆」が米沢城主伊達政宗の煽動であると、関白豊臣秀吉に訴えました。政宗は言下に否定しますが、氏郷は「書状の証拠がある」と申し出た為、関白と政宗の眼の色が変わりました。


1.政宗詰問<二>
「その書状には、一揆勢について影で伊達勢が援助すること、兵糧、武器等必要なものは申し出ることなどが書き記されており、末尾は左京大夫(政宗)殿の花押で締められております」
氏郷は書状を差し出しながらそう言いました。

花押とは戦国大名が書状の最後に「これは自分が書いたもの(命令したもの)」という証として書き記したマークのことで、いわゆる「サイン」とか「印鑑」みたいなものです。

それを聞いていた政宗は、またも嘆息しながら
「左少将(氏郷)様、そのようなものまで持ち出して....なぜ、それが私が書いたものと言えるのです?そんなものは偽物です」
と平静を保ち、取り合えません。しかし氏郷は政宗に向き直って

「いや、左京大夫殿。須田伯耆なる者の言葉によれば、これは、そなたの祐筆、曽根四郎助なる者の手によるものと聞いておる。これの正偽の判断行うには、過去のそなたの書状と見比べれば明白と存ずるが?」
政宗をまじまじと見ながら、言いました。

(やっべぇーぞ、これ......)

政宗は思いました。
書状が曽根四郎助の手の物とまで判明してるとなると、ほぼ間違いなく同じ筆跡であり、政宗の花押も同じものであることは明白です。政宗は思わず氏郷の眼を逸らしてしまいました。

(もう逃げられんぞ、伊達の痴れ者め)

氏郷の心境としてはこんな感じでしょう。

秀吉は一通り、氏郷の話を聞くと
「治部(三成)」
と、三成に声をかけました。
「はっ」
三成は畏まって次の言葉を待ちます。

「書院に行って左京大夫の以前の書状を持って来い」
「ははっ」
三成は一礼し、また、氏郷、政宗両名に平伏して座を立ちました。石田三成は従五位下治部少輔の位階にありますが、氏郷は正四位下左近衛少将、政宗は正五位上左京大夫の位階のため、三成よりも位が上になりますので、この所作は理に叶っています。

「左少将様、訴えを取り下げるなら今のうちでございますぞ」
三成を待っている間、政宗は氏郷にそう言いました。
「左京殿、そりゃ逆じゃ。恐れ入りましたと謝るなら今のうちじゃぞ」
氏郷も負けてはいません。

しばらくして三成が一通の書状を持って、広間に戻ってきました。

「殿下、左京大夫様の書状はこちらにございます」
三成が平伏して一通の書状を差し出しました。
「なんじゃ、一通だけか」
秀吉は不満そうでしたが
「まぁ、いいじゃろう」
と手に取ると、氏郷が証拠として提出した書類と並べて、丁寧に見比べました。

(ヤバいなぁ......どうすりゃいいんじゃ......)

大広間にしばしの静寂な時間が流れています。しかし政宗の心境は穏やかではありません。どう言い訳をすべきか必死で頭を巡らせており、額にはじわじわと脂汗が流れていました。

「ふむ」
書状から目を離した秀吉は、政宗と氏郷の方に目をやりました
「間違いないな」
秀吉は独り言のように言いました。氏郷の顔が満面に笑みに。そして政宗の顔が蒼白になっていきました。
「この書状の花押は二つとも全く同じじゃ!」
秀吉が凄まじい眼光で政宗を凝視しました。
政宗も背筋がビクッとなり思わず唾を飲み込んだ程の気迫でした。

(くそ......ここまでか......)

まさに絶体絶命とはこのことでしょう。
秀吉は上段の座を立ち上がり、
「ようも儂をたばかってくれたの、左京大夫!」
ゆっくり政宗に近づいていきながら言いました。
一方の氏郷は薄笑いを浮かべながら右脇に下がって控えました。
また、政宗も頭を低く、平伏しています。
それは顔色を悟られたくない、政宗の精一杯の抵抗でした。

秀吉は政宗の目前にドカッと座り、2つの書状をバンと畳の上に叩き付けて、
「どうじゃ!何か言い訳があるか!左京大夫!」
と怒鳴りつけました。

政宗はもう一度唾を飲み込み、
「お、恐れながら......」
と、声を苦しみながら絞り出すと
「し、書状を、は、拝見させて頂いてもよろしいでしょうか?」
とお願いしました。
秀吉は
「好きなだけ見るがいい」
と吐き捨てるように言いました。
秀吉の眼は小動物を哀れむような寂しい目で政宗を見下していました。
そして、政宗に背を向けて上段の座に戻って行きました。

政宗は二つの書状を見比べました。氏郷が持ってきた書状を「偽物」と断定する証拠を、過去に自分が秀吉に出した書状の中から探し出さねば命がありません。

(何かあるはずだ......何か.....)


2.大 逆 転
政宗は二つの書状を畳の上に並べて交互に見比べ、次に手にもって透かしてみたり、文字の上の墨を削ったりしていました。氏郷から見れば

(アホなことをやっとるわ。無駄なあがきを)

としか思えず、また秀吉は、政宗の一挙手一投足を見逃すまいと政宗を凝視しておりました。その眼には一点の許しも甘えも許さない。政宗を「謀反人」と決めつけた、冷たく寂しい眼光が宿っていました。

政宗は何度も二つの書状を見比べました。そして突然
「おや?」
という声を上げました。

「左京大夫様、何か?」
三成が尋ねると、

「あははははは!」
と政宗が突然高笑いをし始めました。
氏郷は「気が触れたか?」と思い狼狽しましたが、秀吉は全く動じません。

(そうか、これはつかえるぞ!)

政宗にひとつのとんでもない考えが思い浮かび、これからの展開に笑いを堪える事ができず、その場で高笑いが出てしまったのです。

「左京大夫様、お気をたしかに」
三成は政宗が気が触れたと思い、やさしく諭しますが

「お案じめさるな治部少輔殿。私は正気です」
と答えました。
そして、まだ笑いたい気持ちを強引に納めると、秀吉の方をしっかりと見据えて

「関白殿下に申し上げます!やはりこれは偽の書状にございまする!」

と言い放ちました。その言葉には迷いや戸惑いはなく、そして先程と変わって血色十分な顔色に戻っていました。

「左京大夫殿、そなた関白殿下の目が節穴と言われるか!無礼にも程があろう!」
今度は氏郷が怒りますが
「だまらっしゃい!」
と政宗も怒鳴り返します。政宗よりも位階が上の氏郷が怒鳴り飛ばされたのですから、氏郷は狼狽してしまいました。

畳に手を付き、上体を屈ませた政宗は
「恐れながら、重ねて関白殿下に申し上げます!私の花押は鳥の鶺鴒(セキレイ)をモデルにしています。この二つの書状にある、私の花押の『鶺鴒の眼』の部分をとくとご覧下さいませ!」
と言いながら平伏しました。

政宗の花押は、鳥の「鶺鴒(セキレイ)」が左を向いた形とモデルに作られたものです。今、政宗が秀吉に言っているのは、この二つの書状には、花押の鶺鴒の眼に違いがあるということになります。

「鶺鴒の眼じゃと?」
秀吉は三成に命じて書状を再び取り返させて、もう一度書状を見ますが
「左京大夫、この花押の鶺鴒の眼がどう違うというのだ?」
と秀吉が政宗に聞き返します。
「とくと、とくとご覧下さい」
政宗は平伏したまま言上します。

「わからん。治部少輔、お前、わかるか?」
秀吉は書状を三成に渡します。
三成は頭を下げて受け取り、花押の部分を見ましたが、
突然「あ!」と声を上げました。

「わかるか?」
秀吉が再度尋ねます。
「はい。わかりました。左京大夫様が何を仰りたいのか」
三成は答えると、二つの書状のうち、以前の政宗の書状の花押の部分を、秀吉の近くの蝋燭にかざしました。すると、鶺鴒の目の部分から一筋の光が秀吉の目を指しました。

「お?こ、これはいったい…」
秀吉は何が起きたかわからないような感じでした。それを見た政宗は

「この伊達左京大夫、小田原にて殿下に従いました時より、私を快く思わぬ方々がおられることを感じました。そこで、身を守るための万が一の対策として、私が書いた書状には、花押の鶺鴒の眼に針の穴を通しておりました。このたび左少将様が差し出された書状の鶺鴒の眼は、空いておりません
と申し上げました。

秀吉は氏郷が差し出した書状の花押を蝋燭にかざしましたが、光が指してきません。穴があいていないのです。

「おお!確かにこっちのには空いておらん。前に、左京大夫から貰ったこっちの書状には鶺鴒の眼が空いておる……」
秀吉は何度も蝋燭に交互に書状をかざして確かめ、そして驚きの声を上げました。

「それゆえ、左少将様のお出しなされた書状は、私が書いた書状ではありませぬ!真っ赤な偽物でございます!
政宗は殿下に申し上げるように、氏郷を睨みつけて言いました。

「そんな馬鹿な……」
氏郷が放心状態で独り言のように言いました。

「いや、左少将、おぬしも見てみろ」
秀吉は氏郷を招いて書状を渡し、氏郷も身近な明かりに照らして愕然としました。しかしこれで納まる氏郷ではありません。
「恐れながら、これは左京大夫殿の細工としか思えませぬ!」
と引き下がらりませんでした。

秀吉は上段の座に座り直すと
「しかし、左少将。おぬしが証拠として提出したこの書状が偽物と分かった以上、左京大夫に対する嫌疑は晴れたと考えるしかあるまい。それとも他になんぞ証拠でもあるのか?」
と問い返すと

「そ、それは......」
氏郷は言葉に詰まってしまいました。

それを見た秀吉は
「左少将、大儀であった。もう下がって良いぞ」
と、声をかけてこの場を下がらせようとしました。
「いや、しかし」
と氏郷は尚も残ろうとしましたが、秀吉は脇息を手に取り、氏郷に向かって投げつけました。
脇息は見事に氏郷の頭にあたり、痛みをこらえつつ平伏する氏郷でした。

「たわけ!おぬし、まだ儂に恥をかかせたいのか!よいか、このような偽書状に騙されて左京大夫との共同作戦を勝手に中止し、軍律を乱したおぬしの方こそ、問題じゃぞ!恥をしれ!」
と怒鳴りつけました。

氏郷はただその場に平伏し
「恐れ入りました......」
と声を上げるのが精一杯でした。

「左少将様、どうぞお下がり下さいませ」
三成が座を去るように言うと、氏郷はすごすごと大広間を出て行きました。
政宗は瞑目して氏郷と目も合わせませんでしたが、心中にて

(ざまぁみろ!。やったぜ!)

と思っていたに違いありません


3.無罪放免?
「左京大夫」
秀吉が声をかけます。
「ははっ」
政宗は平伏してそれに答えました。

「許せ。左少将も悪気があってやったのではないのだ。偽書状とはいえ、あやつも自分の家臣や兵を失う可能性があることはできなかったのじゃ。奴も一軍の将、どうか分かってやれ」
と諭すように言うと

「関白殿下のごもっともな仰せ。私には何の恨みも遺恨もございません」
と答えました。

「嫌疑が晴れた以上、改めてお前に命ず。米沢に帰り、残った一揆の残党を討伐せよ。但しひと月の洛中の滞在を許す。妻子に会ってから帰国せよ」
この頃、秀吉は諸大名の妻子を京都に住まわせていました。政宗の妻子も同様でした。

「お気遣いありがたく存じ奉ります」
と答えると
「追って、豊臣中納言(秀吉の甥:豊臣秀次)、ならびに駿河大納言(秀吉の妹婿:徳川家康)の軍勢を援軍として遣わす」
と秀吉は言葉を続けました。

「ありがたき幸せ。関白殿下のご威光を以て直ちに鎮圧致しまする」

こうして、政宗の謀反の嫌疑は晴れ、秀吉は改めて政宗に一揆の討伐を命じたのですが、援軍として付けられた秀次と家康は、政宗から見れば「監視役」としか思えませんでした。

(このジジイ、やっぱ俺を信用してねぇな)

政宗がそう考えたとしても不思議はないでしょう。

秀吉はこうやって本件の裁きを終えると
「三成、あとはよきに計らえ」
と言って座を去って行きました。

(つづく)
posted by さんたま at 18:27| Comment(0) | 葛西・大崎一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月23日

伊達政宗の一世一代の大バクチ「葛西・大崎一揆」(中)

西暦1590年(天正十八年)10月、陸奥国中部(宮城県北部から岩手県南部)の旧葛西、旧大崎領の領民と地侍が一揆を起こし、新領主である木村吉清、清久親子を佐沼城に監禁し、木村領全域を支配下に落とした「葛西大崎一揆」が勃発しました。

解決にあたったのは、会津領主・蒲生氏郷(会津三郡四十二万石、黒川城主)米沢領主・伊達政宗(伊達十二郡七十二万石、米沢城主)でしたが、氏郷の陣所に伊達家家臣・須田伯耆守が「ダンナ、一揆を煽動しているのは政宗でっせ」とチクったため、さあ、大変。氏郷は「政宗に謀反の疑いあり」と関白豊臣秀吉に報告、石田三成が奉行として派遣され、政宗に「上洛せよ(京都に出て来い)」と命令を下しました。


1.政宗の上洛
石田三成から上洛命令を受けた伊達政宗は米沢城に戻り、上洛の準備に入りましたが、そこで須田伯耆守が行方不明になっている事実をはじめて知りました。政宗は須田伯耆守に「伊達は一揆勢に味方する」という内容の機密文書を一揆勢に届けるように命じてありました。

その須田伯耆守が行方不明。そして今、政宗に上洛の命令が届いている。この時点で政宗は「まさか、須田伯耆守に渡した機密文書が関白の手に渡っているんじゃねーだろーな?」と思い始めました。だとすれば、今度の上洛命令は木村親子救出の披露ではなく、一揆煽動を詰問するための上洛命令ではないかと気づいたのです。

西暦1591年(天正十九年)2月、政宗は上洛しました。上洛の際、政宗は白の死装束に金箔を貼った大きな十字架を担いで入京してきたと言われています。このドハデな演出に京の民衆は驚き、洛中の大きな話題となりました。そしてその声はもちろん関白・豊臣秀吉の耳にも入りました。

「ほほう、白装束に十字架か......己がおかれた状況をよく分かってるということか」
三成から政宗の入京を聞いた秀吉は薄笑いを浮かべながら言いました。

「関白殿下のご裁可により、死ぬのも厭わぬ覚悟であるということでしょうか」
と答える三成ですが

「いや、違うな」
と即座に否定する秀吉。

「あれは死ぬ気などない。だからああやって京の民に話題振りまいておるのだ。己に謀反の嫌疑がかけられているのに、あれだけ堂々としたことができるものか。あれが伊達のやり方よ」
と、三成の言を笑い飛ばしました。


2.政宗詰問(1)
同年2月4日、政宗は聚楽第(豊臣政権の政庁)に赴き、大広間に通され、豊臣秀吉石田三成蒲生氏郷と対面しました。上段の間に秀吉が、政宗から見た上手に石田三成が、下手に蒲生氏郷が着座しておりました。

尚、この場面に登場するキャストの官位は以下の通りです。
豊臣秀吉(従一位 関白 太政大臣)
蒲生氏郷(正四位上 左近衛少将<左少将>)
伊達政宗(正五位上 左京大夫)
石田三成(従五位下 治部少輔)


冒頭の挨拶として石田三成から
「遠路はるばる御苦労に存じます。また、こたびの奥州一揆の件、関白殿下におかせられましては、左京大夫(伊達政宗)様が伊勢守(木村吉清)殿親子を助け出したる件、誠に祝着であるとお慶びでございました」
と木村親子救出の件の謝辞が述べられました。

「恐縮至極に存じ上げ奉りまする」
と平伏する政宗。しかし三成が言を続けます。

「しかしながら、こたびの件につき、左京大夫様にお尋ねしたいことがあり、わざわざご足労頂きました」

「治部少輔(石田三成)殿、かしこまった物言いは必要ござらぬ。なんなりと申されよ」
政宗は顔色一つ変えず正面を向いたまま答えました。
三成はそれを受けて
「恐れ入りまする。先頃、左少将(蒲生氏郷)様より関白殿下へ訴えがございました。こたびの奥州一揆は、左京大夫様が一揆勢を煽動したものであると、この件につき、左京大夫様のお考えはいかがですか?」
と問いかけました。

「滅相もない」
と政宗は即座に否定しました。さらに言葉を続けます。

「先程、治部少輔殿の申される通り、一揆勢と戦い、伊勢守殿親子を助け出したのは私です。もし治部少輔殿の言葉が正しければ、私は自分で起こした一揆と戦ったことになります。そんなことで自分の大事な兵を失うほど、私は愚かではございません」
さらに政宗は言葉を続けます。

「あえて申し上げれば、そもそもこの件は、私と左少将様とで共同で一揆へ攻撃する約束をしておりました。にもかかわらず、左少将様は約束を破り、勝手に兵を動かして名生城を落とされ、そのままお籠りになられた。それこそ心外です」

一通り政宗の発言を聞き終えた後、脇に控えていた蒲生氏郷が
「恐れながら」
と発言しました。

「今の左京大夫殿の言い分、私には受け入れられません。確かに、左京大夫殿の仰る通り、私は左京大夫殿と共に一揆勢を攻撃し、伊勢守親子を助け出す考えでございました。しかしながら、出陣の前日に伊達家家臣の須田伯耆守と申す者が私の陣所に現れ、一揆勢に加担しているのは左京大夫殿と申しました。これが本当であれば、私は一揆勢と左京大夫殿の敵となり、私の軍勢が壊滅してしまう危機になります。そのため、独自の判断で名生城を落として篭城したのでございます」
氏郷の一通りの発言が終わると、

「あっはっはっはっはっ!」
と政宗は大笑いしました。

「左京大夫様、関白殿下の御前ですぞ、お控え下され」
と三成がたしなめます。

「いやいや、これは、失礼いたした。あまりにも馬鹿馬鹿しいお話にて」
政宗は笑いながら三成に詫びました。

「馬鹿馬鹿しいとは無礼であろう」
氏郷が怒りをあらわにすると

「無礼なのは左少将様ではございませんか?そんなウソで私を惑わすなど......
政宗は溜息まじりに言い捨てました。それを見た氏郷が

「左京大夫殿、そなた、私を馬鹿にするのか?」
と怒りを込めて言い返しました。氏郷の怒りは静まりません。むしろ政宗の言葉が火に油を注いでました。

「皆、静まれ」
秀吉が初めて発言し、三人が平伏します。

「左京大夫に尋ねる。須田伯耆守なる者はお前の家中の者か」
秀吉が政宗に尋ねました。政宗は居ずまいを糾して

「恐れながら申し上げます。須田伯耆守なる者、某の家臣に相違ございません。されどこたびの一揆の最中に行方不明となりました。まさか左少将様にごやっかいになっているとは思いませんでした」
と答えました。

それに対し秀吉は頷くと、次に氏郷を見て
「左少将に尋ねる。須田伯耆守なる者は、左京大夫が一揆に加担したと申しただけか」
と尋ねると、氏郷は
「仰せの通りにございます」
と答えました。

「左少将様は、私の家臣のウソを真に受けられたのでございましょう」
と、政宗が先程と同じく溜息まじりに言うと

「左京大夫殿、そこまで言われるか」
氏郷は両手に握りこぶしを固めてブルブル震わせていました。政宗の一言は氏郷が「ウソつきに惑わされた愚か者」と言っているのに等しい意味でした。氏郷が怒るのも無理はありません。

「左少将」
秀吉が呼びかけました。

「須田伯耆守なる者、確かに伊達家中のものらしいが、その者が申したことが本当かどうかは、これだけでは分からん。現に左京大夫は一揆に加担した動きはしておらん。むしろ一揆と戦い伊勢守を救い出しておる。これだけでは左京大夫が謀反を計画してるとは問えぬぞ」
と秀吉が氏郷を諭すように言いました。
氏郷は何かを決意したかのように口を真一文字に結んで秀吉に向き直ると
「関白殿下に申し上げます!」
と手を床につき、まっすぐ秀吉の眼を見据えて言いました。

「殿下の仰る通り、須田伯耆守なる者の言だけで左京大夫殿が殿下に逆らったかどうかは問えません。しかしながら、須田伯耆守なる者が持っておりました、左京大夫殿が一揆勢に宛てた機密文書がございます!


「なに?」
これの一言には、秀吉、政宗、三成の三者が同時に声を上げました。

「これを、証拠としてて差し出したく存じます」
と言いながら、一通の書状を胸元より取り出して、自身の前に差し出しました。

「証拠じゃと?」
秀吉の目がギロっと氏郷を見ました。
同時に政宗の隻眼がクワッと開きました。

(おのれ、須田伯耆のアホんだらーーーー!)

政宗の心中はこんな感じだったに違いありません。

(つづく)
posted by さんたま at 13:11| Comment(0) | 葛西・大崎一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする