2017年07月02日

幻の城・「宮崎城」についての物語

下記リンクは2017年6月27日(火)毎日新聞地方版の記事です。

▼国史跡目指す 今年度、市教委が発掘調査 南北朝時代に記述「幻の名城」 /宮崎
https://mainichi.jp/articles/20170627/ddl/k45/040/600000c

ここに出てくる「宮崎城」とは、宮崎市池内町の丘の上に築かれた城です。
具体的な場所はここ(↓)になります。
https://goo.gl/maps/LMtKCSiWAq62

宮崎城は、宮崎市池内町の南北に長く伸びた丘陵に築かれ、丘陵の西・南麓を流れる大淀川を天然の水堀として活用した要塞です。

自然の地形を有効に利用し、本丸・野首城・服部城・彦右衛門城・百貫城などの独立した曲輪(建物)からなり、船ヶ崎・万願寺・目引・野首の4つの登城口があります。

おそらく宮崎市民は、ここに昔、城があったことなど知らない人が多いと思います。今はロクに整備もされていない城跡なので。しかし、この城には様々な逸話が残されているのです。

今日はそれを綴ってみたいと思います。

1、宮崎城の成り立ち
宮崎城は、今から700年ほど前の室町時代初期(南北朝時代)の西暦1335年(建武二年)もしくは1336年(延元元年/建武三年)に、当時南朝方勢力だった図師六郎入道隋円・慈円父子が作った城と言われています。

しかしながら、日本が南北朝時代に入ったのは西暦1336年ですので、多分築城時期は前者の1335年ではなく、後者の1336年が正しいかと思います。

南北朝時代というのは、日本国に「北朝」「南朝」という二人の天皇が存在するという異常状態の時代で、前述の西暦1336年(延元元年/建武三年)から、1392年(元中九年/明徳三年)までの、56年間をいいます。主に北朝が幕府方南朝が宮方と言われました。

この宮崎城はその南朝方の城として築かれましたが、すぐに北朝方の土持宣栄に攻められて落城し、以後は北朝方・土持氏の持ち城となります。


2、伊東氏の重要拠点、そして島津氏の重要拠点へ
この頃、宮崎県内の有力な北朝方勢力は土持氏伊東氏でした。

土持氏は本姓を田部(たべ)といい、古代日向を支配した日下部(くさかべ)氏の権益を引き継いだ地元勢力の代表なのに対し、伊東氏は足利幕府よって送り込まれた中央勢力の代表でした。

南北朝争乱の時は、お互い協力しあって「共通の敵」だった南朝方と戦っていた両氏ですが、南北朝争乱が収束するとお互いの存在が邪魔になり始め、ついに伊東氏六代当主・伊東祐堯(いとうすけたか)が西暦1446年(文安元年)、宮崎城を土持氏の手から奪い、以後、宮崎平野支配の重要基地とします。

しかし、その16年後の西暦1572年(元亀二年)、伊東氏は、諸県郡木崎原(宮崎県えびの市)で、鹿児島を支配していた島津氏と戦って大敗し、有力武将の多くを戦死させてしまいます。その後、島津氏が宮崎県に侵攻し、伊東家家臣たちの裏切りが多発。ついに伊東氏は島津氏に国を追われてしまいます。

西暦1580年(天正八年)、島津氏当主・島津義久は、島津家の老中職にあった上井覚兼(うわいさとかね/かくけん)を宮崎城主として赴任させ、西暦1587年(天正十五年)の豊臣秀吉による九州征伐まで、宮崎県の支配を統括させました。この時の様子は『上井覚兼日記』に詳細に記されています。

この辺りは、私が尊敬している新名一仁先生(文学博士/鹿児島大学・志学館大学非常勤講師)の下記ブログをご覧ください。
http://sangoku-nyuto.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306094100-1


4、関ヶ原の合戦による「宮崎城合戦」
豊臣秀吉の九州征伐により、大淀川以北の宮崎市は高橋元種(右近大夫/延岡5万3000石)という武将の領地となり、宮崎城も高橋氏の持ち城となって、島津氏の支配から高橋氏の支配に変わります。

そこから13年後の西暦1600年(慶長五年)9月、岐阜県不破郡関ヶ原で起きた徳川家康 VS 石田三成の「関ヶ原の合戦」の影響は、全国各地にも広がっていました。

当時、宮崎市の大淀川以南と日南市全域を治めていた日向伊東氏当主・伊東祐兵(いとうすけたけ)は、徳川家康の「東軍」に味方しており、大淀川を挟んで国境を接する高橋元種は「西軍」に味方していました。

しかし祐兵自身は重病で大坂を離れられなかったため、密かに嫡男・祐慶を飫肥に送り、黒田官兵衛に頼んで、軍使(見届け人)・宮川伴左衛門を飫肥に遣わしてもらいました。

伊東家家老・稲津重政(いなづしげまさ)は、この宮川伴左衛門と相談し、東軍お味方の軍功を上げるため、西軍の高橋元種の持ち城である宮崎城を攻撃する計画を立てます。当時の宮崎城は権藤種盛(ごんどうたねもり)という武将が城代を務め、700兵が城を守っていました。

西暦1600年(慶長五年)9月26日、重政は3000の兵を率いて宮崎城を攻撃し、たった1日でこれを落城させ、宮崎城を伊東氏の持ち城にしました。しかし、同じく国境を隣接していた佐土原城の島津氏は、

「そんなドロボウみたいなマネ、許せるわけねーだろ」

と、伊東氏の宮崎城所有を認めなかったため、伊東氏と島津氏の間に緊張が走ります。

10月に入り、島津氏は、佐土原、穆佐、倉岡等から連続で数千の兵で宮崎城に攻撃を仕掛けますが、重政は城を出てこれをほぼ全部撃退して宮崎城を守り続けました。

それだけではなく、重政は、関ヶ原の合戦に敗れて、日向細島に流れ着き、そこから佐土原経由で薩摩に帰ろうとしていた島津義弘の撤退中の軍勢(60足らず)を八代村(国富町)で奇襲をかけています。

この時の経験から、島津義弘は国境警備を固める必要性を痛感し、高岡(宮崎市高岡町)に城を築き、比志島国貞を城主と定め、去川に関所をもうけました。

この時、高岡に作られた城が、高岡城であり、現在は天ケ城公園・歴史資料館として整備されています。
地図: https://goo.gl/maps/G9WrzJ84fAn


5、宮崎城返還
伊東家家老・稲津重政が宮崎城を落とした功績により、伊東氏にも領地加増があるかと思われました。

ところが、高橋元種は「関ヶ原の戦い」では兄の秋月種長(あきづきたねなが/長門守/日向高鍋3万石)と行動を共にして大垣城に籠城し、関ヶ原の本戦には参加しておりませんでした。

9月15日の本戦で西軍が東軍に敗れると、徳川家康方の水野勝成の説得を受け、まず種長が東軍に内応し、元種もそれに従いました。

さらに一緒に籠城していた相良頼房(さがらよりふさ/左衛門佐/肥後人吉2万石)を誘って、大垣城を守っていた守将らを次々と城中で殺害。23日には大垣城守将のトップである福原長堯を降伏させ、徳川家康から領地を安堵されています。

宮崎城合戦はそれから3日後の同年9月26日に発生しており、この時、すでに元種は東軍に内応していたため、この戦いは結果的に東軍VS東軍という同士討ちの戦いになってしまいました。このことは当然、稲津重政も権藤種盛も知らないことでした。

また家康が元種の領地を安堵したため、宮崎の地を伊東氏の新領地とする大義名分は失われてしまいます。その結果、伊東氏は宮崎城を高橋氏に返還せざるえなくなりました。その代わり、家康は伊東氏の軍功は認め、伊東氏の飫肥・曽井・清武の領地は安堵されました。

西暦1601年(慶長六年)、伊東氏は宮崎城を高橋氏に返還しますが、それより14年後の西暦1615年(元和元年)、徳川幕府が出した法令「一国一城令」(一つの国に城は一つ(国内に複数の大名が存在する場合は、その支配領域において1つのみ)残して、すべて叩き壊せ)が発布されたため、廃城となってしまいました。


6、宮崎城、国史跡認定へ
前述の毎日新聞の記事によれば、この度、宮崎市の手によって初の発掘調査が入ることになります。この宮崎城の土地は民有地のため、これまで大規模な発掘調査を行うことはできませんでした。

もし、今回の発掘調査の結果、国史跡認定となれば、宮崎県内では、

都於郡城跡(宮崎県西都市):室町時代から戦国時代にかけて日向伊東氏の居城となった城

佐土原城跡(宮崎県宮崎市佐土原町):戦国時代の伊東氏の拠点であり、江戸時代佐土原藩の藩庁となった城。

穆佐城跡(宮崎県宮崎市高岡町):南北朝時代、足利幕府の直轄城として日向の国府として機能した城。

に続く、城郭としては4番目の国史跡になります。

かつて私は、高校時代に宮崎城に調査に行ったことがありますが、手入れが全くされていないあまりの繁み具合にため息をついたのを覚えています。

是非とも、国史跡としての認定を受け、きちんと整備し、地元に人たちに誇れる史跡にしてもらいたいと思います。
posted by さんたま at 23:57| Comment(2) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月03日

「博多どんたく」の中核・「博多松囃子」とは?

今日、5月3日と明日5月4日の両日に渡って、福岡市では「博多どんたく」というお祭りが行われています。
国内最大級の約200万人の人出が出るお祭りですが、この「博多どんたく」という祭りは、「博多松囃子(はかたまつばやし)」をルーツとなっています。

そして、そこには、もちろん、歴史的背景が存在してます。今日はそれを綴っていきたいと思います。
話は平安時代にまで遡ります。


1、博多松囃子の起源
平安時代後期、朝廷政治の実権を握っていたのは平家(平氏)でした。

その平家一門の棟梁・平清盛は、西暦1158年(保元三年)に太宰大弐(太宰府の次官)に就任し、博多に日本で初めて人工の港を作り、それまで平家が主として行っていた宋との貿易(日宋貿易)を「国事」として発展させました。

この時作られた港が「袖の湊」と言われていますが、12世紀には埋め立てられていて、その規模は現在でも正確なところはわかっていません。ただ、この「袖の湊」の土木工事を実質的に行ったのは、清盛の嫡男・平重盛でした。

袖の湊、及びそれに伴う日宋貿易は博多の町に大きな発展を呼び起こしました。
重盛は西暦1179年(治承三年)閏7月29日、42歳の若さで父・清盛に先立って亡くなりますが、その重盛に対し博多の人々が感謝の気持ちを表したのが、「博多松囃子」の始まりとされています。


2、博多松囃子の最初の記録
それから400年以上が経過した、西暦1587年(天正15年)6月、時の関白・豊臣秀吉は九州征伐を行い、その帰り道の途中、荒廃した博多に立ち寄って、博多復興計画を黒田孝高(官兵衛)に立案させ、石田三成、滝川雄利、長束正家、小西行長、山崎片家の五人に奉行を命じています。

秀吉は、博多商人としてその名が知れ渡っている神屋宗湛嶋井宗室らにも協力を求め、戦火を避けて博多を離れた人を呼び戻すとともに、当時は入り組んでいた入り江や湿地を埋め立て町屋を作って、息浜(現在の冷泉町や呉服町近辺)博多浜(現在の御供所町や博多駅前一丁目付近)を一つの町としました。

造成した町の真ん中に大路を作ってこれを「一小路」(現在の大博通りあたり)とし、平安京のような碁盤目の形の七小路に編成し、「流」(ながれ)という自治単位に集合させました。

この時形成された「流」が、

東町流(現:稚児東流)
市小路流(呉服町流)
西町流(現:稚児西流)
土居町流(現:土居流)
石堂流(現:恵比須流)
魚町流(現:福神流)
洲崎町流(現:大黒流)

と呼ばれており、現在につながる「流」の元となっています。

つまり、博多松囃子の起源は平安後期ですが、現在の形に元になったのは豊臣秀吉の博多復興計画によるところが非常に大きかったわけです。

この「流」が形成された後の西暦1594年(文禄四年)10月29日、博多の衆が松囃子をしたてて、年賀の祝いに当時の筑前国主・小早川秀秋名島城(福岡県福岡市東区名島)を訪れていることが、当時の豪商・神屋宗湛「宗湛日記」に記録されています。

時期的に見て、小早川隆景が養子・秀秋に家督を譲った時期とも符合するので、その祝いもかねて行われたのではないでしょうか。

何れにしてもこれが「博多松囃子」としての記録の初見です。


3、博多松囃子の中止と再開
西暦1599年(慶長四年)に、小早川秀秋が肥後国主・加藤清正に年賀の使者を送った際に、松囃子の一行と鉢合わせになって口論となり、松囃子一行の者が使者の侍を殺害する事件が起きています。

おそらく西暦1594年から同1599年までは博多松囃子は「毎年の恒例行事」として行われていたのではないかと思いますが、この事件がきっかけで中止になってしまいます。

時は流れ、徳川幕府の時代、西暦1642年(寛永十九年)、42年間中止されていた「博多松囃子」は、福岡藩主・黒田忠之によって、博多の流が藩主へ表敬訪問する年賀の挨拶(皇居の一般参賀のようなもの)という形で、正月十五日に行われる藩の公式行事となって復活します。

この時、松囃子一行が通ったルートは、福岡城へ年賀の挨拶をしたあと、博多に戻り、神社仏閣や町の有力者をお祝いする形になりました。この松囃子一行の後にそれぞれ奇妙奇天烈、破天荒な趣向を凝らした人や出し物が続くようになり、現在の「博多どんたく」の元になっています。


4、明治期から現在までの博多松囃子
「博多松囃子」は、その後、明治時代には天長節を祝う行事に変わり、西暦1938年(昭和十三年)についに廃止に追い込まれました。しかし、戦後の西暦1946年(昭和21年)5月に戦災の瓦礫の中、子供山笠とともに松囃子が行われて3度目の復活となります。

西暦1949年(昭和二十四年)に現在の開催日が固定され、やがて松囃子よりも「博多どんたく」としてのパレード主体となっていく中、西暦1953年(昭和二十八年)に松囃子の伝統保存を目的とした「博多松ばやし会」が結成されました。

その後の「博多松囃子」は、西暦1954年(昭和二十九年)福岡県無形文化財指定。西暦1969年(昭和四十四年)には福岡県民俗資料指定。西暦1976年(昭和五十一年)には「博多松ばやし」の名称で国の選択無形民俗文化財に選ばれて現在に至っています。

平安時代に端を発し、豊臣秀吉によって復興計画によって作られた「流」が、国主への年賀の挨拶として始まった「松囃子」は二度の廃絶を乗り越え、戦後期にGWの祭りとして確たるものになりました。

また秀吉が復興計画で作った七つの「流」は、「博多どんたく」「博多松囃子」のみならず、「博多祇園山笠」の発展にも大きく寄与しているのは、もうお判りかと思います。

私たちの生活には必ず歴史というものが存在し、それこそが1つのドラマであります。
だからこそ、こういうこと後世に後世につないでいくことが、大事なことだと私は思っています。
posted by さんたま at 23:10| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

戦国武将なのに日記をつけていた上井覚兼という男

アマチュア歴史研究家である自分にとって、尊敬すべき研究者は何人かいるのですが、その中の一人に、新名一仁先生(文学博士/鹿児島大学・志学館大学非常勤講師)がおられます。

新名先生は宮崎県宮崎市のご出身で、今も宮崎市にお住まいですが、宮崎県内において学芸員資格を持たれている数少ない貴重な人材であらせられます。

▼新名先生の略歴
http://researchmap.jp/kniina/?lang=japanese

新名先生はこれまで、日本中世史において数々の論文、著作を表されておりますが、その研究成果を正しく評価することができない方々が某所いらっしゃるようで、溜息しか出ません。

新名先生の著作は下記リンクをご参照ください。
http://amzn.to/2lALVco

その新名先生曰く、「今日、2月11日は、「上井覚兼(うわいさとかね/かくけん)の誕生日」だということです。

はい、みなさんの疑問はごもっともです。

「誰やねん、それは!(笑)」

と思われることだと思います。

この人は戦国時代の薩摩(鹿児島)島津家の家臣なのですが、我が郷土・宮崎県にゆかりのある人なのです。

西暦1545年(天文十四年)2月11日、大隅国上井(現在の鹿児島県霧島市国分上井あたり)の領主であった上井薫兼の子として生まれた覚兼は、西暦1559年(永禄二年)の元服(成人式)と共に、薩摩・大隅国主である島津貴久に仕えました。

西暦1571年(元亀二年)に貴久がなくなると、貴久嫡男(後継ぎ)の島津義久の側近となり、西暦1576年(天正四年)からは、島津家の老中(行政担当)の一員となります。

覚兼は、義久の戦いの多くに参加しましたが、彼の運命を大きく変えたのが、西暦1578年(天正六年)に、高城川原(現在の宮崎県児湯郡木城町付近)で起きた「高城川の戦い」です。

一般的には「耳川の戦い」とも言われているので、ご存知の方のいらっしゃるのではないかと思います。

この戦いは、島津義久に日向国(現在の宮崎県)を追放された伊東義祐が、日向にカムバックしたいために、親類の豊後(現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟に泣きついて、宗麟が日向国に攻め入ったものでした。

この時の大友軍の兵力は約4万

対する島津義久は3万の兵でこれを迎え討ち、見事、大友軍をギッタギタに大敗させた上、大友家の有力武将を次々と冥土送りにしました。この結果、大友氏は勢力を失い、二度と日向に攻め込めないほど消耗してしまいます。

一方、この戦いで日向国の支配を確立した義久は、西暦1580年(天正八年)、覚兼に宮崎地頭(領主)に任じ、宮崎城に入るように命じました。宮崎城は現在の宮崎県宮崎市の北部、池内町にあった山城です。

この時の覚兼は、現在の宮崎市全域を直接支配しつつも、佐土原城(現在の宮崎県宮崎市佐土原町上田島)主の島津家久(義久末弟)と連携して、新納院や穆佐院(要するに宮崎平野一帯)に対しても「島津家の代官」として命令できる権限を持っていたと言われます。

ただし、軍事権まで委任されていたかはわかりません。

覚兼が日向支配を行ったのは、西暦1587年(天正十五年)3月、羽柴秀吉が九州征伐の一環で、日向国に攻め寄せるまでの7年間でした。今風に言えば、宮崎県知事を約2期つとめたことになるのでしょうか。

覚兼は武将でありながら、教養人としても非常に優れており、「上井覚兼日記」なる日記を現代に残しています。
この時代、日記をつけているのは公家か歌人か僧侶くらいで、現役の戦国武将がつけている日記は非常に珍しいものです。

また、彼が日記をつけているのは、西暦1574年(天正二年)から1586年(天正十四年)の十二年間で、つまり彼が宮崎城で過ごした日々が(ところどころ欠落はあれど)記録されていることになります。

内容は、だいたいお仕事(政務)のことが多いのですが、また国内に起きている問題について、誰にどう相談して、どういう意見が出ていたとかの人間のやりとりが、かなり克明に記録されています。

それでもなかなかに面白いのは、出た意見に対して「あれはおかしい」とか「納得いかない」とか個人的な感情や、「◯月□日、誰々さんと酒を飲んだ」みたいな個人的な親交ものまでちゃんと記録されているところです。ひどいのになると

「この日は大酒を飲んだので、仕事を◯◯さんに代わってもらった」

みたいな「オイオイ!」と突っ込みたくなるようなものまで(汗)。

多分、戦国時代にFacebookがあったらこんな使い方されるんだろうな、と思った次第です。

なお、この日記は現在、東大史料編纂所に所蔵されており、同編纂所が発行している「大日本古記録」にも収録されていますが、中古でも5万円近い値段なので、なかなか手が出せません。

前述の新名一仁先生が現代語訳をブログに挙げられていますので、興味のある方はご参考までに。
http://sangoku-nyuto.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306094100-1
posted by さんたま at 15:50| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする