2018年08月16日

日本人が忘れてはならないもう1つの終戦 「宮城事件」

日付が変わってしまいましたが、昨日8月15日は「終戦の日」です。

ですが、厳密に言えば、太平洋戦争が集結したのは、東京湾上のアメリカ海軍の戦艦ミズーリの甲板上において降伏文書に調印された1945年(昭和二十年)9月2日を指します。

では、なぜ、8月15日が終戦の日と呼ばれるのでしょうか?
それはこの日が、「昭和天皇による終戦の玉音放送が流された日」であるからです。

1945年(昭和二十年)8月15日正午、当時日本で唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(NHKラジオ第1放送)から、昭和天皇による終戦の詔書の音読放送がなされ、日本国民が初めて天皇の肉声を聞いた日であります。

しかし、この玉音放送は様々の立場の人間の思いが複雑に絡み合い、血を流した末にたどり着いた太平洋戦争の結末でした。

今日はその当時の8月15日の玉音放送前に起きた「宮城事件」について話をしたいと思います。


1、ポツダム宣言(無条件降伏)受諾の背景
西暦1939年(昭和十四年)9月1日に起きたドイツのポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦は、ドイツ、イタリア、日本の三国(通称:枢軸国)イギリス、アメリカ、中華民国の三国(通称:連合国)の間に広がり、西暦1941年(昭和十六年)12月8日未明、日本海軍がアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島真珠湾を攻撃したことで、日米の間の太平洋戦争が始まりました。

戦争は1943年時点で連合国軍が優勢に進めており、同年、枢軸国の1つであるイタリアが連合国に降伏。西暦1945年(昭和二十年)5月7日、ドイツが連合国軍に降伏し、残る枢軸国は日本のみになっていました。

同年7月26日、連合国軍であるアメリカ合衆国大統領(ハリー・S・トルーマン)、イギリス首相(ウィンストン・チャーチル)、中華民国主席(蒋介石)3氏は、大日本帝国に対して「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言、いわゆる「ポツダム宣言」を出し、日本に無条件降伏を迫りました。

このポツダム宣言について、当時の日本の首相・鈴木貫太郎は「ノーコメント」とし、態度を明らかにしなかったのですが、マスコミはこれを「黙殺」と報じ、通信社に至っては「Reject(拒否)」と伝えたため、日本は国際的に完全に孤立化してしまいます。

態度を明らかにしない日本に対し、アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、当初の予定通り、同年8月6日の広島への原爆投下、9日、長崎への原爆投下を実施しました。

また8日は、ソビエト連邦(現:ロシア)のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣が日本の佐藤尚武駐ソ連大使に日ソ中立宣言の破棄を通達。翌日9日未明にはソビエト(現:ロシア)が日本へ宣戦布告したことから、日本はアメリカに加え、ソビエトも敵に加わったため、これ以上戦局を維持することが物理的に不可能となってしまいます。

8月9日、宮中において、最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾についての議論が行われました。

会議は外務大臣・東郷茂徳が主張する「天皇の地位保証(国体護持)の1条件付きの降伏受諾案」と、陸軍大臣・阿南惟幾が主張する「天皇の地位の保障、武装解除の日本側実施、東京を占領対象から除外、戦犯は日本側で処罰の4条件月の降伏受諾案」の2つに集約され、東郷案支持3名。阿南案支持が3名という平行線でした。

首相・鈴木貫太郎は議論は平行線のため、天皇臨席による御前会議の席上で、首相からの「聖断」を要請することを主張し、昭和天皇は東郷外務大臣の意見に賛成したため、翌10日未明、ポツダム宣言(すなわち無条件降伏)の受諾が決定されました。


2、陸軍省の動き
ポツダム宣言受諾という御前会議での決定を知らされた陸軍省では、本土による徹底抗戦となると見込んでいた決定が180度覆ったため、多数の陸軍将校から激しい反発が起きました。なぜなら、ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、大日本帝國陸軍及び海軍は組織解体の危機に陥る可能性があったからです。

10日午前9時、陸軍省で開かれた会議において、陸軍幕僚の中には「終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべき」という意見が出ました。

当時の日本は軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の補任については現役武官の大将・中将でしか慣れないという「軍部大臣現役武官制」という制度があり、軍部大臣が内閣に不満があれば辞任し、軍部が後任の大臣を出さなければ、内閣は総辞職しなければならないという、なんとも信じられない制度がありました。

つまり、陸軍大臣である阿南が辞職すれば、陸軍は後任の陸軍大臣を出すことを固辞できるので、終戦を行おうとする鈴木内閣を総辞職においこめるということです。

しかし、阿南はこの幕僚に対し

「御前会議の決定は天皇陛下の御聖断である。陛下の御聖断に不服の者は、まずこの阿南を斬れ」

と言って、ひるませたと言われます。



3、連合国軍の回答文
8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は、日本のポツダム宣言受諾(東郷案)に対する連合国の回答文を放送しました。この中で、東郷案に示されていた「日本政府による国体護持の要請」については、

「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官(のちのマッカーサー)に従うものとする」

と回答されていたため、日本国内ではこれでは「天皇の主権が保持されない」と解釈されてしまいます。

外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、予定通り終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「これは、天皇陛下が連合国最高司令官に隷属するものだ」であると解釈し、「やはり本土決戦!戦争続行!」を唱える声が多勢を占めました。

翌13日午前9時、最高戦争指導会議が開催され、ポツダム宣言の回答文について議論が紛糾。

阿南をはじめ、松坂広政(司法大臣)、安倍源基(内務大臣)らは「国体護持について明確な返答をするよう連合国に再照会すべき」として受諾反対府が唱えられましたが、同日15時の閣議においてポツダム宣言の回答文の受諾が決定されます。

閣議後、陸相官邸に戻った阿南は陸軍軍事課長・荒尾興功大佐以下5名の陸軍将校の面会を受けます。
その時、彼らが阿南に提示したのは「兵力使用計画」と題された軍事クーデター案でした。

この計画に記されていたのは、終戦を進めている主犯を鈴木貫太郎首相、木戸幸一内大臣、東郷重徳外務大臣、米内海軍大臣とし、東部軍及び近衛第一師団を用いて皇居を包囲して、内閣と天皇陛下を隔離し、政府要人を逮捕して戒厳令を発布。天皇陛下による国体護持を連合国側が承認するまで断固戦争継続を求めるものでした。

阿南はこの計画について「とりあえず参謀総長と相談をする時間をくれ、その上で決心を伝える」と返答し、一旦一同を解散させました。

この時の阿南は相当疲れていたのだと思われます。
またこのクーデター計画についてもその意図はわかるとしても、そんなことで戦争継続したところで、日本に未来はないことが阿南にはわかっていたのではないかと思います。


8月14日午前7時、陸軍省で阿南と梅津美治郎(参謀総長)との会談が行われました。この会談で阿南は「実はこんな計画があるんだが」と「兵力使用計画」のことを梅津に告げると

「アホか。陛下の大命は下った。これを武力を以って覆そうとか帝國軍人の風上にもおけん!」

と烈火のごとく激怒し、阿南も「全くその通り」と賛同しました。
阿南の心中は

「だが、その帝國軍人だからこそ、陛下のお立場を何としても守りたいというその心構えは見上げたもののではないか」

という感じだったかもしれません。

また、この頃、陸軍軍務課員・竹下正彦中佐(阿南の義弟/陸軍軍務課)同課員畑中健二少佐は、新たなクーデター計画案「兵力使用第二案」を練っていました。

14日正午過ぎ、阿南は首相官邸閣議室において竹下らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められましたが、阿南はこれを拒否しました。

この時点で、竹下らクーデター賛同派は独力で決起することを決意したと見られます。

一方で鈴木首相も「陸軍がこのまま納得するはずがない」と読んでおり、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集。

その会議において、鈴木首相は再度昭和天皇に「聖断」を要請し、昭和天皇は連合国の回答を受諾しました。

また、この会議で昭和天皇は「国内の動揺を抑えるため自分自身の肉声で国民へ語りかける形を取っても良い」と述べられており、これがレコード盤に陛下の肉声を録音してラジオ放送する「玉音放送」につながるのです。

この時、14日の午後11時を回っていました。



4、クーデター発生
15日、午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了し皇居を退出しようとしていた下村宏(国務大臣・内閣情報局総裁)と社団法人日本放送協会(現:NHK)職員など数名が、皇居坂下門付近において、佐藤好弘大尉(近衛歩兵第二連隊第三大隊長)により身柄を拘束され、守衛隊司令部の建物内に監禁されました。

同じ頃、陸軍軍務課員・井田正孝陸軍中佐椎崎二郎陸軍中佐は、近衛第一師団司令部に押しかけました。
近衛第一師団長の森赳陸軍中将は、第二総軍参謀である白石通教陸軍中佐と会談中でしたが、井田・椎崎両名はそこを割って入り、森に自分たちのクーデター計画への参加を求めました。

森は陛下の大命に従わないクーデター計画に否定的な態度を取りましたが「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と井田に約束したため、井田はその言葉を信じて師団長室を退出しました。

井田と入れ替わりに師団長室に入ったのは、井田、椎崎と同じ軍務課員の畑中健二陸軍少佐でした。

畑中も井田・椎崎同様に森に決断を促しますが、森は取り合いませんでした。

「埒が開かない」と判断した畑中は、部屋を退出し、航空士官学校の上原重太郎大尉と陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ、再度師団長室に入室。畑中が無言で森師団長を拳銃で撃ち、続いて上原が軍刀で森を斬殺。その場にいた白石も上原と窪田によって斬殺されてしまいます。


この殺害を合図とし、近衛第一師団参謀の古賀秀正陸軍少佐は、畑中が起案したとされる「近作命甲第五八四号」を各部隊に口頭で伝え、近衛歩兵第二連隊に兵力展開を命じます。同じく、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館(現:日比谷シティ)へも近衛歩兵第一連隊第一中隊を派遣しています。

一方、皇居内の宮内省では、近衛兵によって電話線が切断されて外界から隔離されていました。また、皇宮警察は強制的に武装解除されました。

坂下門で佐藤に拘束された下村並びに日本放送協会職員らが、玉音放送の録音盤を持っていなかったため、古賀は宮内省内部の捜索を命じました。しかし、録音盤は侍従・徳川義寛の機転で、皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫の書類の中に紛れ込ませていたため、近衛兵たちの手には渡りませんでした。


5、鎮圧へ
一方、井田は、森師団長が殺害されたことの報告のため東部軍管区司令部へ行く水谷一生(近衛第一師団参謀長)に随行し、東部軍管区のクーデター参加を求めましたが、軍管区司令官である田中静壱陸軍大将高嶋参謀長は既に鎮圧の命令を下していました。

高嶋参謀長は午前4時過ぎに近衛第二連隊長の芳賀豊次郎と連絡が取れると、上官である森師団長の殺害と現在の師団命令が畑中による偽造であることを伝えます。

芳賀連隊長は師団長殺害と畑中の言動に不審なものを感じていましたが、高島参謀長の言葉で不審が確信に変わり、その場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻皇居からの退去を命じました

皇居を追放された畑中は近衛第一師団第一中隊の占領する放送会館へと向かい、大日本帝國陸軍軍人すべての決起の声明の放送を要求しましたが、日本放送協会の職員によって未然に防がれています。


午前5時頃、東部軍管区司令官・田中静壱陸軍大将は数名のみ引き連れ、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵連隊の一連の行動を停止させました。

そして同じ頃、陸相官邸では阿南陸相が切腹していました。
介錯を拒み、2時間後の午前7時頃、息絶えたと言われます。


クーデターは粛々と鎮圧に向けて動いていましたが、竹下陸軍中佐は陸軍大臣印を用いて大臣命令を偽造しようとしていました。しかし、井田はもうこれが無駄であることがわかっていました。井田にはクーデターが失敗であることがすでにわかっていたのかもしれません。

田中静壱陸軍大将は近衛第一師団の兵すべてを自らの指揮下に収めると、御文庫と宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝達しています。

午前8時頃、近衛歩兵第二連隊の兵士が皇居から撤収。

宮内省に保管されていた2枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ、副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬されました。

最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎と畑中は、皇居周辺でビラを撒き決起を呼び掛けましたが、玉音放送が始まる1時間前の午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺しました。

また、近衛第一師団参謀だった古賀は、玉音放送の放送中、近衛第一師団司令部二階の森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自殺しています。

そして15日正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われたのです。


6、まとめ
上記の事件は、歴史用語で「宮城事件」と言われています。
この事件は「日本でいちばん長い日」というタイトルで小説化されており、ドラマ・映画化された事件です。

太平洋戦争の終戦において、終戦・抗戦、それぞれが自分の信ずるところの道を進み、最終的に血が流れる事件になったのは痛々しいことですが、この後の昭和、平成という時代は、これらの礎があった上に成り立っていることを、忘れてはならないと思います。

阿南陸相が切腹をしたのはいろいろ諸説があります。
ですが、阿南陸相が陸軍を抑えていてくれたから、鈴木首相の終戦工作は成功したとも言えます。

阿南は終戦の詔書にサインをした後、鈴木首相の元を訪れ

「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」

と述べたそうです。

鈴木首相は

「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」

と答えると、阿南は

「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」

と言って、愛煙家の鈴木に、南方の第一線から届いたという珍しい葉巻を手渡してその場を去ったと言われています。
これは鈴木に対してだけでなく、ポツダム宣言受諾において、激しく戦った外務大臣の東郷に対しても「色々と御世話になりました」と礼を述べていたそうです。

阿南が割腹自殺をしたと聞いた東郷は「阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語ったと言われます。
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2017年07月02日

幻の城・「宮崎城」についての物語

下記リンクは2017年6月27日(火)毎日新聞地方版の記事です。

▼国史跡目指す 今年度、市教委が発掘調査 南北朝時代に記述「幻の名城」 /宮崎
https://mainichi.jp/articles/20170627/ddl/k45/040/600000c

ここに出てくる「宮崎城」とは、宮崎市池内町の丘の上に築かれた城です。
具体的な場所はここ(↓)になります。
https://goo.gl/maps/LMtKCSiWAq62

宮崎城は、宮崎市池内町の南北に長く伸びた丘陵に築かれ、丘陵の西・南麓を流れる大淀川を天然の水堀として活用した要塞です。

自然の地形を有効に利用し、本丸・野首城・服部城・彦右衛門城・百貫城などの独立した曲輪(建物)からなり、船ヶ崎・万願寺・目引・野首の4つの登城口があります。

おそらく宮崎市民は、ここに昔、城があったことなど知らない人が多いと思います。今はロクに整備もされていない城跡なので。しかし、この城には様々な逸話が残されているのです。

今日はそれを綴ってみたいと思います。

1、宮崎城の成り立ち
宮崎城は、今から700年ほど前の室町時代初期(南北朝時代)の西暦1335年(建武二年)もしくは1336年(延元元年/建武三年)に、当時南朝方勢力だった図師六郎入道隋円・慈円父子が作った城と言われています。

しかしながら、日本が南北朝時代に入ったのは西暦1336年ですので、多分築城時期は前者の1335年ではなく、後者の1336年が正しいかと思います。

南北朝時代というのは、日本国に「北朝」「南朝」という二人の天皇が存在するという異常状態の時代で、前述の西暦1336年(延元元年/建武三年)から、1392年(元中九年/明徳三年)までの、56年間をいいます。主に北朝が幕府方南朝が宮方と言われました。

この宮崎城はその南朝方の城として築かれましたが、すぐに北朝方の土持宣栄に攻められて落城し、以後は北朝方・土持氏の持ち城となります。


2、伊東氏の重要拠点、そして島津氏の重要拠点へ
この頃、宮崎県内の有力な北朝方勢力は土持氏伊東氏でした。

土持氏は本姓を田部(たべ)といい、古代日向を支配した日下部(くさかべ)氏の権益を引き継いだ地元勢力の代表なのに対し、伊東氏は足利幕府よって送り込まれた中央勢力の代表でした。

南北朝争乱の時は、お互い協力しあって「共通の敵」だった南朝方と戦っていた両氏ですが、南北朝争乱が収束するとお互いの存在が邪魔になり始め、ついに伊東氏六代当主・伊東祐堯(いとうすけたか)が西暦1446年(文安元年)、宮崎城を土持氏の手から奪い、以後、宮崎平野支配の重要基地とします。

しかし、その16年後の西暦1572年(元亀二年)、伊東氏は、諸県郡木崎原(宮崎県えびの市)で、鹿児島を支配していた島津氏と戦って大敗し、有力武将の多くを戦死させてしまいます。その後、島津氏が宮崎県に侵攻し、伊東家家臣たちの裏切りが多発。ついに伊東氏は島津氏に国を追われてしまいます。

西暦1580年(天正八年)、島津氏当主・島津義久は、島津家の老中職にあった上井覚兼(うわいさとかね/かくけん)を宮崎城主として赴任させ、西暦1587年(天正十五年)の豊臣秀吉による九州征伐まで、宮崎県の支配を統括させました。この時の様子は『上井覚兼日記』に詳細に記されています。

この辺りは、私が尊敬している新名一仁先生(文学博士/鹿児島大学・志学館大学非常勤講師)の下記ブログをご覧ください。
http://sangoku-nyuto.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306094100-1


4、関ヶ原の合戦による「宮崎城合戦」
豊臣秀吉の九州征伐により、大淀川以北の宮崎市は高橋元種(右近大夫/延岡5万3000石)という武将の領地となり、宮崎城も高橋氏の持ち城となって、島津氏の支配から高橋氏の支配に変わります。

そこから13年後の西暦1600年(慶長五年)9月、岐阜県不破郡関ヶ原で起きた徳川家康 VS 石田三成の「関ヶ原の合戦」の影響は、全国各地にも広がっていました。

当時、宮崎市の大淀川以南と日南市全域を治めていた日向伊東氏当主・伊東祐兵(いとうすけたけ)は、徳川家康の「東軍」に味方しており、大淀川を挟んで国境を接する高橋元種は「西軍」に味方していました。

しかし祐兵自身は重病で大坂を離れられなかったため、密かに嫡男・祐慶を飫肥に送り、黒田官兵衛に頼んで、軍使(見届け人)・宮川伴左衛門を飫肥に遣わしてもらいました。

伊東家家老・稲津重政(いなづしげまさ)は、この宮川伴左衛門と相談し、東軍お味方の軍功を上げるため、西軍の高橋元種の持ち城である宮崎城を攻撃する計画を立てます。当時の宮崎城は権藤種盛(ごんどうたねもり)という武将が城代を務め、700兵が城を守っていました。

西暦1600年(慶長五年)9月26日、重政は3000の兵を率いて宮崎城を攻撃し、たった1日でこれを落城させ、宮崎城を伊東氏の持ち城にしました。しかし、同じく国境を隣接していた佐土原城の島津氏は、

「そんなドロボウみたいなマネ、許せるわけねーだろ」

と、伊東氏の宮崎城所有を認めなかったため、伊東氏と島津氏の間に緊張が走ります。

10月に入り、島津氏は、佐土原、穆佐、倉岡等から連続で数千の兵で宮崎城に攻撃を仕掛けますが、重政は城を出てこれをほぼ全部撃退して宮崎城を守り続けました。

それだけではなく、重政は、関ヶ原の合戦に敗れて、日向細島に流れ着き、そこから佐土原経由で薩摩に帰ろうとしていた島津義弘の撤退中の軍勢(60足らず)を八代村(国富町)で奇襲をかけています。

この時の経験から、島津義弘は国境警備を固める必要性を痛感し、高岡(宮崎市高岡町)に城を築き、比志島国貞を城主と定め、去川に関所をもうけました。

この時、高岡に作られた城が、高岡城であり、現在は天ケ城公園・歴史資料館として整備されています。
地図: https://goo.gl/maps/G9WrzJ84fAn


5、宮崎城返還
伊東家家老・稲津重政が宮崎城を落とした功績により、伊東氏にも領地加増があるかと思われました。

ところが、高橋元種は「関ヶ原の戦い」では兄の秋月種長(あきづきたねなが/長門守/日向高鍋3万石)と行動を共にして大垣城に籠城し、関ヶ原の本戦には参加しておりませんでした。

9月15日の本戦で西軍が東軍に敗れると、徳川家康方の水野勝成の説得を受け、まず種長が東軍に内応し、元種もそれに従いました。

さらに一緒に籠城していた相良頼房(さがらよりふさ/左衛門佐/肥後人吉2万石)を誘って、大垣城を守っていた守将らを次々と城中で殺害。23日には大垣城守将のトップである福原長堯を降伏させ、徳川家康から領地を安堵されています。

宮崎城合戦はそれから3日後の同年9月26日に発生しており、この時、すでに元種は東軍に内応していたため、この戦いは結果的に東軍VS東軍という同士討ちの戦いになってしまいました。このことは当然、稲津重政も権藤種盛も知らないことでした。

また家康が元種の領地を安堵したため、宮崎の地を伊東氏の新領地とする大義名分は失われてしまいます。その結果、伊東氏は宮崎城を高橋氏に返還せざるえなくなりました。その代わり、家康は伊東氏の軍功は認め、伊東氏の飫肥・曽井・清武の領地は安堵されました。

西暦1601年(慶長六年)、伊東氏は宮崎城を高橋氏に返還しますが、それより14年後の西暦1615年(元和元年)、徳川幕府が出した法令「一国一城令」(一つの国に城は一つ(国内に複数の大名が存在する場合は、その支配領域において1つのみ)残して、すべて叩き壊せ)が発布されたため、廃城となってしまいました。


6、宮崎城、国史跡認定へ
前述の毎日新聞の記事によれば、この度、宮崎市の手によって初の発掘調査が入ることになります。この宮崎城の土地は民有地のため、これまで大規模な発掘調査を行うことはできませんでした。

もし、今回の発掘調査の結果、国史跡認定となれば、宮崎県内では、

都於郡城跡(宮崎県西都市):室町時代から戦国時代にかけて日向伊東氏の居城となった城

佐土原城跡(宮崎県宮崎市佐土原町):戦国時代の伊東氏の拠点であり、江戸時代佐土原藩の藩庁となった城。

穆佐城跡(宮崎県宮崎市高岡町):南北朝時代、足利幕府の直轄城として日向の国府として機能した城。

に続く、城郭としては4番目の国史跡になります。

かつて私は、高校時代に宮崎城に調査に行ったことがありますが、手入れが全くされていないあまりの繁み具合にため息をついたのを覚えています。

是非とも、国史跡としての認定を受け、きちんと整備し、地元に人たちに誇れる史跡にしてもらいたいと思います。
posted by さんたま at 23:57| Comment(2) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月03日

「博多どんたく」の中核・「博多松囃子」とは?

今日、5月3日と明日5月4日の両日に渡って、福岡市では「博多どんたく」というお祭りが行われています。
国内最大級の約200万人の人出が出るお祭りですが、この「博多どんたく」という祭りは、「博多松囃子(はかたまつばやし)」をルーツとなっています。

そして、そこには、もちろん、歴史的背景が存在してます。今日はそれを綴っていきたいと思います。
話は平安時代にまで遡ります。


1、博多松囃子の起源
平安時代後期、朝廷政治の実権を握っていたのは平家(平氏)でした。

その平家一門の棟梁・平清盛は、西暦1158年(保元三年)に太宰大弐(太宰府の次官)に就任し、博多に日本で初めて人工の港を作り、それまで平家が主として行っていた宋との貿易(日宋貿易)を「国事」として発展させました。

この時作られた港が「袖の湊」と言われていますが、12世紀には埋め立てられていて、その規模は現在でも正確なところはわかっていません。ただ、この「袖の湊」の土木工事を実質的に行ったのは、清盛の嫡男・平重盛でした。

袖の湊、及びそれに伴う日宋貿易は博多の町に大きな発展を呼び起こしました。
重盛は西暦1179年(治承三年)閏7月29日、42歳の若さで父・清盛に先立って亡くなりますが、その重盛に対し博多の人々が感謝の気持ちを表したのが、「博多松囃子」の始まりとされています。


2、博多松囃子の最初の記録
それから400年以上が経過した、西暦1587年(天正15年)6月、時の関白・豊臣秀吉は九州征伐を行い、その帰り道の途中、荒廃した博多に立ち寄って、博多復興計画を黒田孝高(官兵衛)に立案させ、石田三成、滝川雄利、長束正家、小西行長、山崎片家の五人に奉行を命じています。

秀吉は、博多商人としてその名が知れ渡っている神屋宗湛嶋井宗室らにも協力を求め、戦火を避けて博多を離れた人を呼び戻すとともに、当時は入り組んでいた入り江や湿地を埋め立て町屋を作って、息浜(現在の冷泉町や呉服町近辺)博多浜(現在の御供所町や博多駅前一丁目付近)を一つの町としました。

造成した町の真ん中に大路を作ってこれを「一小路」(現在の大博通りあたり)とし、平安京のような碁盤目の形の七小路に編成し、「流」(ながれ)という自治単位に集合させました。

この時形成された「流」が、

東町流(現:稚児東流)
市小路流(呉服町流)
西町流(現:稚児西流)
土居町流(現:土居流)
石堂流(現:恵比須流)
魚町流(現:福神流)
洲崎町流(現:大黒流)

と呼ばれており、現在につながる「流」の元となっています。

つまり、博多松囃子の起源は平安後期ですが、現在の形に元になったのは豊臣秀吉の博多復興計画によるところが非常に大きかったわけです。

この「流」が形成された後の西暦1594年(文禄四年)10月29日、博多の衆が松囃子をしたてて、年賀の祝いに当時の筑前国主・小早川秀秋名島城(福岡県福岡市東区名島)を訪れていることが、当時の豪商・神屋宗湛「宗湛日記」に記録されています。

時期的に見て、小早川隆景が養子・秀秋に家督を譲った時期とも符合するので、その祝いもかねて行われたのではないでしょうか。

何れにしてもこれが「博多松囃子」としての記録の初見です。


3、博多松囃子の中止と再開
西暦1599年(慶長四年)に、小早川秀秋が肥後国主・加藤清正に年賀の使者を送った際に、松囃子の一行と鉢合わせになって口論となり、松囃子一行の者が使者の侍を殺害する事件が起きています。

おそらく西暦1594年から同1599年までは博多松囃子は「毎年の恒例行事」として行われていたのではないかと思いますが、この事件がきっかけで中止になってしまいます。

時は流れ、徳川幕府の時代、西暦1642年(寛永十九年)、42年間中止されていた「博多松囃子」は、福岡藩主・黒田忠之によって、博多の流が藩主へ表敬訪問する年賀の挨拶(皇居の一般参賀のようなもの)という形で、正月十五日に行われる藩の公式行事となって復活します。

この時、松囃子一行が通ったルートは、福岡城へ年賀の挨拶をしたあと、博多に戻り、神社仏閣や町の有力者をお祝いする形になりました。この松囃子一行の後にそれぞれ奇妙奇天烈、破天荒な趣向を凝らした人や出し物が続くようになり、現在の「博多どんたく」の元になっています。


4、明治期から現在までの博多松囃子
「博多松囃子」は、その後、明治時代には天長節を祝う行事に変わり、西暦1938年(昭和十三年)についに廃止に追い込まれました。しかし、戦後の西暦1946年(昭和21年)5月に戦災の瓦礫の中、子供山笠とともに松囃子が行われて3度目の復活となります。

西暦1949年(昭和二十四年)に現在の開催日が固定され、やがて松囃子よりも「博多どんたく」としてのパレード主体となっていく中、西暦1953年(昭和二十八年)に松囃子の伝統保存を目的とした「博多松ばやし会」が結成されました。

その後の「博多松囃子」は、西暦1954年(昭和二十九年)福岡県無形文化財指定。西暦1969年(昭和四十四年)には福岡県民俗資料指定。西暦1976年(昭和五十一年)には「博多松ばやし」の名称で国の選択無形民俗文化財に選ばれて現在に至っています。

平安時代に端を発し、豊臣秀吉によって復興計画によって作られた「流」が、国主への年賀の挨拶として始まった「松囃子」は二度の廃絶を乗り越え、戦後期にGWの祭りとして確たるものになりました。

また秀吉が復興計画で作った七つの「流」は、「博多どんたく」「博多松囃子」のみならず、「博多祇園山笠」の発展にも大きく寄与しているのは、もうお判りかと思います。

私たちの生活には必ず歴史というものが存在し、それこそが1つのドラマであります。
だからこそ、こういうこと後世に後世につないでいくことが、大事なことだと私は思っています。
posted by さんたま at 23:10| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする