2016年11月18日

真田丸解体新書(10)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(後編)

西暦1614年(慶長十九年)4月、豊臣秀吉が自身の権威のために作らせた寺で、西暦1596年(文禄五年)9月5日に発生した慶長伏見大地震で倒壊した方広寺が豊臣家の手によって再建され、4月には梵鐘が完成しました。

これらの総奉行は片桐且元(東市正)
秀吉の直参家臣であり、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉亡き後は秀頼傅役として豊臣家を支え、この時点では大和竜田2万4千石の大名となっていました。

主だった豊臣恩顧の大名が亡くなっていく中、秀頼の家臣の中において家康とうまくやっていけるのは、戦国の時代から家康を知っている且元をおいて、他に人はいませんでした。

且元は、開眼供養の開催に向けて、京都所司代・板倉勝重を通じて、駿府の家康と綿密なるやり取りを行っていました。

同年5月、且元より相談を受けた家康は、方広寺の堂供養の導師に真言宗仁和寺門跡の覚深法親王(後陽成天皇の第一皇子・良仁親王で、御水尾天皇の兄)を指名しました。

さらに同年7月、後水尾天皇より大仏開眼供養を天台宗妙法院門跡の常胤法親王(後陽成天皇の弟・智仁親王で後水尾天皇の叔父)を指名する勅命が下されます。
堂供養、開眼供養ともに親王をお迎えすることになり、開眼供養は予定通り順風満帆で動いておりました。

家康は、開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出しました。
しかし、18日は、秀吉十七回忌の大祭の日と重なっていたため、且元は、両法要を8月3日の1日にまとめ、早天(早朝)に常胤法親王を開眼堂法要の導師を覚深法親王とし、終日、天台宗僧侶を上座とすることを決定しました。

同じ頃、京都所司代・板倉勝重から家康への報告により、方広寺梵鐘銘文等に疑惑がかけられます。

これを受けて、家康の宗教政策担当補佐官・金地院崇伝や、本多正純らによるプロジェクトチームが組まれました。

プロジェクトチームの調査結果が家康の耳に入った同年7月26日、家康は板倉勝重を通じて片桐且元にあてて

「開眼・大仏殿供養日が同日であること」
「大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないこと」
「その内容に問題がある」


として開眼・大仏殿供養の延期を命じました。

それは銘文の中にある「国家安康」が家康の諱を分断しており不吉であることでした。

そして8月に入り、家康は自分の教養担当補佐官・林羅山五山(臨済宗の最高寺格)の僧に、方広寺梵鐘銘文の解読を命じ、それぞれ意見を出させました。

五山の僧は「家康の諱」を分断して使用したことは手落ちであると認めましたが、家康を呪詛するものでとまでは認めず、これを呪詛と解したのは幕府の林羅山ただ一人でした。

教科書等ではこれを「家康が豊臣家を滅ぼすための言いがかり」とする解釈が多いようですが、実際は五山の僧の言う通り、呪詛とまでは言えるものではありませんでした。

ただ、諱を分け隔てるのは良くないこと、諱は通常避けるべきものと解釈されており、そんなつもりはなくても呪詛を疑われる余地は十分にあったと思われます。

話を戻して。。。これでびっくりしたのは片桐且元です。
これまで全てを幕府と密に相談しながら進め、段取りもほぼ完璧に整えていた且元に取って、大仏開眼・大仏殿供養の延期はまさに寝耳にでした。

「一体、大御所は何を考えているのだ!」

豊臣家は、家康の真意を探るため、8月13日に且元と銘文を作成した文英清韓を急ぎ駿府に派遣しますが、17日に清韓が駿府で捕縛されてしまいます。且元は19日に駿府に入ったものの、家康と会うことは叶わず、もっぱら崇伝相手の弁明しか行えませんでした。

且元から何の連絡もなく、また帰りが遅いことを心配した豊臣家は、同月29日、大蔵卿局、正栄尼(秀頼乳母)ら3名を駿府に派遣すると、家康はこれを上機嫌で迎え、鐘のことなど話題にも出しませんでした。さらに彼女らが9月8日、大坂帰る際に崇伝から

「大御所様の機嫌は上々。徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いように心得えられよ、後ほど江戸に幕府への盟約書を送ってもらえれば、あとは何の心配もいらぬ」

と伝えられています。

これを「家康の2枚舌」「二重外交」と評することがありますが、私の考えは、家康は最初から大蔵卿局たちと真面目な話をするつもりはなく、適当にお茶を濁して帰ってもらうために、ああいう態度をとったのではないかと思います。

それゆえ、家康は正規の使者である且元とは一切会おうとしませんでした。これが家康の大御所としての無言の圧力であり、それを以て、豊臣家の出方を伺っていたのだと考えています。

家康に全く会ってもらえなかった且元は失意の中、大阪への帰途の途中、豊臣家が徳川家に異心ないことを何らかの形で示さねばこの怒りは解けないことを痛感していました。その彼が考えたのが

「他大名と同じく、江戸や駿府への参勤に努める」
「淀殿を江戸詰め(人質)とする」
「現在と同じ石高のまま、秀頼が大坂城を出て、近隣の大和、山城国に移る(転封)」


というものでした。
当時、まだ参覲交代は制度化されていませんでしたが、諸大名は年に1度は江戸の将軍家に伺候していましたし、大名の妻子は江戸詰めでした。また、幕府に転封を願い出ることは、幕府に臣従することを意味していました。

且元はこの三か条を到底受け入れられないことはわかっていました。
しかしながら、これを受け入れられなければ、徳川と豊臣は戦闘になることもわかっていました。
これは且元として最後の賭けだったと思います。

且元は大坂に戻って、自分の私案としてこの3か条を秀頼と淀殿に提示しました。
しかし、一足先に戻っていた大蔵卿局から家康の機嫌を聞いていた淀殿は、且元のこの態度に不信を抱き、淀殿付きの大野治房(大野治長の弟)らが「東市正(且元)は徳川に内通しているのではないか」と疑いを持ち始めました。

9月23日、大阪城内において、薄田隼人正らを首謀者とする「片桐且元暗殺計画」が立案されました。
しかし、これを知った大阪城内の客将・織田信雄(織田信長の次男)が且元に密告したため、且元は大坂城内の自分の屋敷を兵で固めて襲撃に備えました。

9月28日、すぐすぐ討ってくる様子がないことを見て取った且元は、秀頼に対し「高野山に入って謹慎します」と言上。それまで且元に寛容な態度を取っていた秀頼もこれには怒り、即座に改易(領地没収)を命じます。

しかし、且元は改易にも全く動じず、豊臣家奉行の仕事を後任に引き継ぐと、10月1日、弟の片桐貞隆(播磨1万5000石の大名)、そして同じく内通を疑われた石川貞政(2000石の豊臣家旗本)と共に大坂城を退去しました。

ところが、且元は高野山には入らず、貞隆の居城・茨木城(大阪府茨木市)へ入城。暗殺計画に基づいて豊臣家からの追討軍が攻め寄せることを想定しましたが、茨木城の兵力では敵わないかもしれないと思った且元は、旧知の京都所司代・板倉勝重に援軍を要請します。

これが、豊臣家には「片桐且元・貞隆兄弟は、徳川に味方した」と映ってしまったのです。
板倉勝重の兵が茨木城に到着したことを以て、豊臣家は片桐且元の裏切りは事実と決定し、大坂城内の片桐且元屋敷を打ち壊しました。

片桐且元は豊臣家における徳川家交渉全権大使でありました。その屋敷が破壊されたことを知った家康は、これを将軍家に対する「手切れ」と判断し、正式に豊臣家に宣戦布告します。

こうして、大坂冬の陣が始まってしまったのでした。

家康に豊臣家を滅ぼす考えがあったかどうか。
世間一般では、徳川幕府にとって豊臣家は主筋であり、屈服させることができない存在であったことから、謀略を用いて勝てない戦争に持ち込み、豊臣家を滅ぼしたという説が通っています。

しかし、大坂冬の陣以前の家康の豊臣家に対する気の遣い方などを考えると、謀略を用いてまで豊臣家をこの世から消し去りたかったとは、私にはどうしても考えられません。

豊臣家を臣下におけないならば、自分たちの支配が及ばない違う次元(朝廷)のところで栄えてもらいたいという考えがあり、ゆえに豊臣家は公家として生きてもらいたかったという考えが、家康にはあったのではないかと思ってます。

ただ、それを許さなかったのが、難攻不落の大坂城の存在でした。
秀吉が築城技術の粋を集めて作った大坂城は、徳川の太平の世では生きられない浪人武将にとって、「この城で戦争すれば徳川に勝てるかもしれない」という希望であり、同じように徳川の世を認められない豊臣家の諸将と利害が一致してしまったのが、間違いの始まりだったと思います。

歴史に「もしも」はないだけに、なんとも残念です。

(このシリーズ終わり)
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2016年10月16日

真田丸解体新書(10)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(中編)

1、徳川家と豊臣家の微妙なバランス関係
西暦1603年(慶長八年)2月12日は、内大臣・徳川家康は朝廷より、右大臣ならびに征夷大将軍に任ぜられました。

これは家康が「天皇の代理となって朝敵を滅ぼす権利」を得たことになり、名実ともに「武士の頂点」に立ったことを国内外に示しました。

現実問題として、関東に250万石近い直轄領を持ち、全国の諸大名に号令できるような大名は家康以外は誰もいませんからね(汗)。

家康はこの将軍宣下にもカラクリを施していました。

まず、家康は前年の西暦1602年(慶長七年)1月6日に「正二位」から「従一位」に昇叙されています。
従一位は豊臣秀吉の極官であり、関白に任じられる者と同等の位になります。

家康はここで「為政者」としての下地を作った上で、翌年の征夷大将軍に臨むのですが、それと時期を合わせて、嫡男である秀忠の官位を上げる工作を行っていました。

秀忠の官位は

西暦1601年(慶長六年)3月28日
権大納言に補任。
西暦1602年(慶長七年)1月8日 
正二位に昇叙 権大納言如元。


と成っており、さらに家康の征夷大将軍補任の2か月後

西暦1603年(慶長八年)4月16日
右近衛大将 兼任


となっております。
右近衛大将は朝廷においては武官最高の官職であり、鎌倉時代に源頼朝が平家を滅ぼした後、上洛した際に「権大納言兼右近衛大将」に任じられて以来、武家政権の権威とされてきました。

つまり秀忠がこのタイミングで右近衛大将に任じられることは、征夷大将軍である家康の後継者であることを諸大名に示したことになります。

ただし、この時点では、家康も豊臣家を主筋とするスタンスは変わりありませんでした。

西暦1601年(慶長六年)3月27日、秀頼は8歳で権大納言に任じられており、その翌日、秀忠が同じ権大納言に任じられてます。

また翌年西暦1602年(慶長七年)1月6日、秀頼は従二位から「正二位」に昇叙しており、その2日後の1月8日に秀忠が「従二位」に昇叙されていることから、ここまでの動きは、すべて豊臣家を前面に立てています。

その後、前述のとおり秀忠は「右近衛大将」に任じられておりますが、その6日後の西暦1603年(慶長八年)4月22日には、秀頼が内大臣に任じられています。これは、家康が右大臣に任じられる前の内大臣を秀頼が受け継いだことになります。

さらに家康は、同年7月、秀吉の遺言通りに、千姫(秀忠娘/家康孫)を豊臣秀頼に嫁がせています。
七歳での輿入れは当時としてもかなり早い方ですが、家康としてはとにかく豊臣家を刺激したくない考えからだと思われます。

こうして微妙なバランスの上に成り立っていた豊臣家と徳川家でしたが、西暦1605年(慶長十年)に最初の亀裂が生じることになります。


2、家康、豊臣家を公家化する
家康は、将軍宣下を受けて8か月後の西暦1603年(慶長八年)10月16日付で右大臣を辞任し、西暦1604年(慶長九年)には嫡男の秀忠に将軍職を譲ることを決め、将軍職は「武家の棟梁」である代々徳川家が世襲していくことを世に示すための方策を打っていきます。

同時に、徳川家の主筋に当たる豊臣家をどう位置づけるのかもはっきりさせていく必要に迫られていました。

家康は、朝廷に秀頼を右大臣に任じるように奏請し、秀忠を正二位に昇叙させ、秀頼の後任の内大臣に任じた上で、征夷大将軍を秀忠に譲る考えでした。
これで秀忠は征夷大将軍に任じられたとはいえ、官位においては秀頼が上という図式になります。

征夷大将軍は全国の武士の棟梁であり、軍事指揮権を持っています。秀頼の官位を秀忠より上に位置したのは、豊臣家を徳川家の権力の下に入れるのではなく、豊臣家が摂関家の一家に位置していることから、豊臣家を自らの権力の外に置き、豊臣家を公家化する目的に他なりませんでした。

西暦1605年(慶長十年)4月13日 
豊臣秀頼、右大臣に昇任。

西暦1605年(慶長十年)4月16日
源(徳川)家康、征夷大将軍辞任。
源(徳川)秀忠 従二位に昇叙。内大臣に転任。征夷大将軍宣下。


家康は全国の諸大名に上洛を求め、秀忠の征夷大将軍就任、秀頼の右大臣昇任を祝わせることを計画していました。家康は高台院(秀吉正室・北政所)を通じて豊臣家に上洛を求めましたが、秀頼生母の淀殿が

「主筋の者が臣下の者と揃って祝賀を受けるなど無礼千万。まずは秀忠殿が秀頼に挨拶に伺うのが筋」

と頑強に反対したため、病気を理由に辞退しました。
家康はここでも豊臣家を立て、六男・松平忠輝を「将軍の名代」として大坂に遣わし、豊臣家との融和に心を砕いています。

それから6年後の西暦1611年(慶長十六年)3月、後陽成天皇が譲位なされて後水尾天皇が即位されるということで、家康はそれらの儀式に出席するために上洛をしました。その際、家康は二条城での秀頼との会見を豊臣家に申し入れています。

この時の理由がなんだったのかははっきりわかりませんが、孫娘の千姫が輿入れして十年が経っており、その様子を伺いたいのと、成人した秀頼に会っておきたいという考え、もう1つは徳川家と豊臣家の間には何事もないというパフォーマンスの意味合いだと思われます。

これに対し、豊臣家の態度は「会いたければ大坂にくれば良い」という反発もありましたが、豊臣恩顧大名である加藤清正、福島政則、浅野幸長らと客将である織田長益(信長弟/有楽斎)の取り成しもあり、会見は3月28日に実現しています。

この会見により、徳川家と豊臣家との関係は一旦平穏に収まりますが、この後、秀吉子飼いの大名たち(加藤清正、浅野長政・幸長父子、池田輝政など)が次々と亡くなっていき、豊臣家を支える大名たちが激減していくと、豊臣家は「自分の身は自分で守る必要性」を感じ、諸国の浪人、兵糧、弾薬などを蓄えるようになります。

この頃、家康はまだ大坂の動きを正確につかんでいませんでした。
そんな中、大坂の陣の直接の引き金となる「方広寺鐘銘事件」が勃発するのです。

(つづく)
posted by さんたま at 17:50| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月03日

真田丸解体新書(10)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(前編)

久しぶりの「真田丸解体新書」の更新です。

大河ドラマ「真田丸」は放送期間が残り3か月となり、クライマックスの「大坂冬・夏の陣」に向けてまっしぐらに物語が進んでおります。

この戦いの詳細についてはドラマに譲るとして、この「真田丸解体新書」は、ドラマをもっと楽しく見るコラムでありますので、違った側面からネタ切りしようと思います。

では、今回のお題は......

「なぜ、大坂冬の陣が起きたか?」

です。


1、関ヶ原の戦いの波及効果

西暦1600年(慶長五年)9月15日、徳川家康率いる東軍と、毛利秀元(名目上の総大将名代)率いる西軍は、岐阜県関ケ原で激突し、小早川秀秋の裏切りによって東軍の圧勝となりました。

この結果、徳川家康は「豊臣家を救った功労者」としてのポジションを確立することになり、敗れた西軍を「逆賊」として貶めました。

結果、西軍は「秀頼公の名を語って謀反を働いた狼藉者」となり、首謀者である石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が斬首。その他の西軍大名は領地没収、減封(領地を減らすこと)処分に処されました。

そこまでは戦いの勝者の権利ですので、至って普通のことだとお思いになるかもしれませんが、家康の策謀はここから始まっていくのです。

家康は、自分に味方した豊臣系大名(外様大名)には大幅な領地加増を行い、厚く報いました。
主だった外様大名をあげると

福島正則(尾張清洲24万石→安芸廣島50万石)
加藤清正(肥後半国20万石→肥後一国50万石)
細川忠興(丹波亀山12万石→豊前中津39万石)
池田輝政(三河吉田12万5000石→播磨姫路52万石)
藤堂高虎(伊予宇和島8万石→伊予今治20万石)
山内一豊(遠江掛川5万9000石→土佐浦戸9万8000石)


という感じです。
だいたい皆さん、倍近い加増ですよね。

それに対し、一方、家康の譜代武将(元々の徳川家臣)はどうかというと

井伊直政(上野館林12万石→近江佐和山15万石)
本多忠勝(上総大多喜10万石→伊勢桑名10万石)


こんな感じで直政が微増。忠勝に至っては横ばいという有様。
ケチで倹約家の家康にすれば、外様大名の加増はかなりの太っ腹になります。しかし、これには全て意味がありました。

まず1つ目は、「外様大名は、ほぼ全て大坂より西、もしくは江戸より遠いところに移されている」ということです。これは、大坂より東側、特に江戸周辺を譜代大名で固めるという家康の方針により、豊臣系の外様大名は遠国に飛ばされています。普通に転封(領地替え)だと不満が出るので、大幅な加増にしてその不満を抑えたのです。

そしてもう1つの意味は「太閤蔵入地の没収」です。
太閤蔵入地とは豊臣家の直轄領のことです。これらは豊臣系大名に預けられており、約200万石近くあったと言われています。

多くの豊臣系大名が、家康によって新しい領地に加増転封されることは、この太閤蔵入地がなくなることを意味しました。

これによって、200万石近い収入を得られていた豊臣家は、大名に預けられていた蔵入地を失い。大坂城周辺の摂津・河内・和泉合わせて65万石程度の平大名に格下げられてしまいました。これは豊臣家の諸大名にとっては大幅な計算狂いでした。現代でいえば、年収1000万の家庭が一気に300万くらいまで収入減になるようなものです。


2、巧みな朝廷工作
さらに家康は、関ヶ原の戦後処理と同時に朝廷工作を巧みも行っていました。

まず同年12月19日に、豊臣秀次切腹以来、空位となっていた関白職に五摂家(摂関家の意味で、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家)の1つである九条家当主・九条兼孝を補任するように奏請しています。この時、九条兼孝はすでに従一位准三宮(名誉職)の地位にあり、朝廷の第一線から退いていたのを、わざわざ当時の最高政務責任者である関白、および藤氏長者に復帰させてるので、相当な乱暴な奏請であったと思われます。

そして、これは「関白職が豊臣家世襲の官職ではない」という牽制にも等しい行為でした。
ただ、当時の秀頼は幼子に等しいため、秀吉の遺言で政務は家康が見ることになってることから、豊臣家も異議はなかったと思います。

ですが、家康にしてみれば、関白職を本来あるべき五摂家に戻したことで「関白職は公家の官職」と、自らを「武士の棟梁」としてポジショニングすることに成功したのです。この後、翌年3月、家康は大阪城西の丸を出て伏見城に入り、はっきり「為政者」として自らを位置付けます。

しかし、それはあくまでも「内大臣・徳川家康」という朝廷内の権威と、大名中最大の実力者というある種のカリスマ上に成り立っており、それは信長、秀吉と同じでした。しかし、家康が望んでいたのは、家康一代限りの支配体制ではなく、徳川氏としての公的な支配のお墨付きとその支配の永続的確立でした。

ここからは私の持論ですが、家康のこの悩みを解決するために、知恵を授けたのが関白・九条兼孝だったと考えております。

家康が望む、朝廷の序列に取り込まれず、なおかつ徳川家の武力に依拠する支配を確立させるには、朝廷の大臣職だけではなく、その武力を自由に行使できる官職が必要でした。それが朝廷内の令外官(臨時職)である「征夷大将軍」でした。この知恵を出したのが兼孝ではないかと思っています。

西暦1603年(慶長八年)2月12日、家康は征夷大将軍ならびに源氏長者の宣下を受け、右大臣に昇任しました。これにより家康に従わない勢力は逆賊となり、朝廷公認の「武士の棟梁」となりました。

そして、この家康の将軍補任は、徳川家の主筋に当たる豊臣家との間にいびつな権力構造を生み出していくことになっていくのです。

(つづく)
posted by さんたま at 20:40| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする