2018年10月27日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(101)-一条忠頼の死-

西暦1183年6月16日夜、侍所別当(長官)である和田義盛によって、主だった御家人が鎌倉大倉御所の西(侍所)に集められました。

集められたのは、

和田義盛(侍所別当)
工藤祐経(頼朝側近筆頭/伊豆国伊東荘領主/伊東氏の祖)
小山田有重(秩父一族/武蔵国小山田荘領主/小山田氏の祖)
稲毛重成(有重嫡男/武蔵国稲毛荘領主)
榛名重朝(有重次男/相模国榛谷御厨領主)
天野遠景(伊豆国田方郡天野の住人)
結城朝光(下野国小山政光四男/常陸国結城郡領主/結城氏の祖)

そして一条忠頼(甲斐源氏・武田信義嫡男)。
侍所の上座には頼朝が座しておりました。

「一条次郎殿、前へ」

義盛がそう声をあげると、忠頼は「はっ」と声を上げて一礼して立ち上がり、頼朝の御前に進んで着座、そこでまた一礼しました。

「次郎殿、そなたが鎌倉に戻られてからロクに話もできず、今日まで至ったのは申し訳ない。そなたは木曽義仲を討ちし功績を上げた者、きちんとその功績を皆に披露せねばならぬと思うておった。今日の日を嬉しく思う」

頼朝が忠頼を労うと忠頼は

「ありがたき幸せに存じまする。私は父・信義の名代として鎌倉殿に従い、鎌倉殿の為に働いておりまする。我が功績は鎌倉殿の功績。それ以上でも以下でもございませぬ」

と言葉を返しました。

「さすがは甲斐源氏棟梁・武田殿のご嫡男よ。あっぱれなお言葉じゃ。他の御家人も次郎殿を見本とせねばならん」

義盛もその堂々とした物言いに感じ入り、他も深く頷いてところ

「小四郎殿、無礼であろう」

と忠頼が窘めるような声を出したので、一同が一瞬静まりました。
忠頼は頼朝に向いていた顔を義盛に向けると

「そなたは侍所別当であり、鎌倉殿に仕える御家人を統括する責任者じゃ。それは否定せぬ。しかし私は違う。そなたの申す通り、私は甲斐源氏棟梁・武田信義の子。鎌倉殿と遠祖を同じくする源氏の一門ぞ。一門は一門としての働き方を申したまで。御家人の皆々がこの忠頼を見本にされてはたまらぬわ」

と言葉を続けると、義盛も

「......はっ、これはとんだご無礼を申しました。何卒お許しを」

と渋々詫びました。
頼朝は場の空気が白けてしまったのを取り繕うかのように

「次郎殿、今日はそなたの戦功を祝う宴じゃ、そう無粋なことを言うではない。」

「申し訳ござりませぬ。しかしながら、鎌倉殿の一門と御家人を同列に扱う小四郎殿の物言いが少々勘に触りました故」

この発言に頼朝は「はっはっは」と乾いた笑い声をあげて忠頼を宥めた。

「次郎殿、そなたは先ほど、父の名代として我に仕えていると申したな」

「はい」

「自分の手柄は我の手柄と申したな」

「申しました」

「その気持ち、心構えは御家人たちも同じじゃ。確かに我が源氏一門は御家人にとっていわゆる主筋になるが、我は殊更血族を重んじるつもりはない。我に従い、我の命で動くもの皆、御家人じゃ」

「さりとて、我は鎌倉殿と一門である甲斐源氏の名に誇りを持っておりまする。一門でもない御家人にそれを軽く扱われるのは納得しがたいものがありまする」

頼朝は忠頼の心が痛いほどよくわかっていました。

自分が流人として伊豆蛭ヶ小島に流され、山木館襲撃で挙兵するまで生きてこられたのは「河内源氏の嫡流」というプライドがあったからです。それがなければ遥か以前に自害していたかもしれません。

そして今、自分の前に「甲斐源氏の嫡男」という血統を誇りに生きている者がいました。

しかし、今の頼朝は鎌倉に己を頂点とした武士の政府を作ることを目的にしていました。

よって、忠頼の心は分かるものの、それを認めてしまっては、己の存在を否定することに繋がりかねませんでした。

座は鎮まり返り、誰も言葉を発しないまま、しばしの時が過ぎました。
頼朝は意を決して、忠頼にこう問いかけました

「では、次郎殿や武田殿、安田殿など甲斐源氏の皆々に対し、我が御家人に加われと命じたら如何される」

「その際は一度甲斐に戻らせて頂き、棟梁である父の判断に委ねまする」

「......さようか」

頼朝の目には悲しい光が宿っていました。
そして、横にいた義盛に目を泳がせ、軽く頷くと義盛も目は伏せました。

「いささか話し過ぎたようじゃな。少々喉が乾いた。これ、誰か、酒を持て」

頼朝がそう言うと、末席にいた工藤祐経が一礼して奥に引き込みました。

「私も少々言葉が過ぎました。鎌倉殿に対しご無礼申し上げました」

忠頼が一礼すると

「いやいや、忌憚ない意見が聞けた。礼を言うのはこちらの方じゃ」

と忠頼を労いました。

奥へ引っ込んだ工藤祐経は酒の入ったお銚子を抱えて、脇より侍所に入り、ゆっくり頼朝に歩みを進めてきました。
その姿を見た義盛は

(おいおい.....)

と思いました。
祐経の顔色は血の気が引いており、しかも手や足が微妙に震えていたのです。

この時、義盛の手筈では、忠頼を打ち取るのは祐経の役割になっていました。

祐経は武勇名高い忠頼を相手に首尾よく討ち取ることができるかどうか不安のあまり、それが顔、手、足に表れてしまったのです。

(あれではまずい.....)

そう思った義盛は、この場の最長老である小山田有重に目線を送りました。
確かに一条忠頼の討手は工藤祐経に命じておりました。

しかし、この暗殺に失敗は許されないため、義盛は万が一のために「第二の備え」をしていたのです。

有重は義盛の視線を受け、すぐに義盛の言いたいこと悟ると、帯にさしていた扇子を広げ、祐経と共に末席に控えていた天野遠景に合図を送りました。そして

「一掾i祐経)殿、待たれよ」

と声をかけて祐経の歩みを止めました。
突然、声をかけられ「ビクッ」とした祐経でしたが

「このような場でその方のような若輩者が鎌倉殿に酒を注ぐなど100年早い。こういう役目はこの年寄りに譲るものじゃ。ほれ、その膳を渡せ」

と言われたので

「ええ.....?」

とさらに困惑した表情を浮かべました。

「いいから、よこすのじゃ」

と膳を奪い取ると

「三郎(稲毛重成)、四郎(榛名重朝)そなたたちはこれを持って一条殿に酒を」

と自分の子供達を呼び、お銚子を渡しました。
二人は父から突然声をかけられ、戸惑いながらもお銚子を受け取って、一条殿に向かい、いざお銚子で酒を注ごうとすると

「こらこら、お前ら、宴の礼儀も知らんのか。」

とまたも父から止められました。

「古来より宴の際は、袴の括り紐はひざ下で留める『上括り』にするのじゃ。一条殿に無礼ではないか」

「は......はぁ」

父親に突然呼びつけられ、手伝わされ、その上、礼儀知らずとか言われて踏んだり蹴ったりの二人でしたが、父の言われるままにお銚子を置いて、袴の括り紐を結び直そうとしました。

「一条殿。礼儀を知らん、田舎者で誠に申し訳ない」

と有重が忠頼に詫びると、有重はもう1つのお銚子を持って、頼朝の元に進みました。

忠頼は重成と重朝は袴の紐を結び直しているのを、苦笑しながらずっと見ていました。
その間、彼の左横に天野遠景が動いているのも気づかずに。

「御免」

忠頼の左の耳元に遠景の放った一言が、彼の生前で聞いた最期の言葉になりました。

次の瞬間、彼の脇に太刀がズブリの差し込まれました。
痛みで忠頼が気づいた時、遠景の太刀はすでに心の臓に達していました。

「鎌倉.....殿.....」

忠頼はそう声を出すのが精一杯でした。

遠景に差し込まれた太刀はそのまま前に斬り出されたため、忠頼の肺は完全に切断され、以後、口をパクパクさせて声ひとつ出せなくなったからです。忠頼の体の前には大量の鮮血が吹き出ていました。

頼朝は何も言わず、無言で立ち上がり、従者が後ろの襖を開けると、そのまま襖の向こう側に消えて行きました。
次の瞬間、忠頼の体は前のめりに倒れ伏し、そして二度と動くことはありませんでした。

この時、侍所の庭先には、忠頼の家臣らが控えておりましたが、忠頼の体が伏して動かなくなったのを見るに、主人の元に駆け寄ろうと広間に上がりましたが、小山田有重に「無礼者!ここは侍所!御家人の資格なき者が上がって良い場所ではない!控えろ!」と一喝され、稲毛重成、榛名重朝、天野遠景の両名によって殺害されました。

こうして甲斐源氏棟梁・武田信義の嫡男・一条忠頼の命は絶たれたのです。

頼朝は、鎌倉政権は自身の一族を主筋として別格にすることで、その統治の主体を担おうとしていました。

かつては河内源氏(源頼朝)、信濃源氏(木曽義仲)、甲斐源氏(武田信義)と割拠していた源氏の勢力は、義仲の死で信濃源氏が衰退したため、頼朝を脅かす源氏勢力は「甲斐源氏」しかありませんでした。

一条忠頼の殺害は、その甲斐源氏を一御家人に落としめ、自らの鎌倉政権の下に組み込むための序章であったのです。

(つづく)
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2018年09月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(100)-和田義盛の謀略-

西暦1184年(元暦元年)4月21日、信濃源氏・源義仲の遺児・清水冠者源義高は、御所を脱走し、鎌倉殿・源頼朝の命により、同月26日御家人・堀親家が郎党、藤内光澄に討たれました。

このことは直ちに御家人に知らされました。
その結果、信濃国、甲斐国(現在の長野県、山梨県)に潜んでいた信濃源氏の残党がにわかに頼朝に謀反を起こす動きが出ています。

これに対処するため、同年5月1日、頼朝は足利義兼小笠原長清に甲斐国に出陣を命じ、小山政光、宇都宮朝綱、比企能員、河越重頼、豊島清重、足立遠元、吾妻助亮、小林重弘らを信濃国に向かわました。

同時に、相模(神奈川)、伊豆(静岡)、駿河(静岡)、安房(千葉)、上総(千葉)らの御家人に、叛乱の兆しを抑えさせるように侍所別当・和田義盛に命じています。


ここで名前が出てきた人間の多くは、この後の日本の歴史に大きく関わっています。


足利義兼は、河内源氏の棟梁・源義家(八幡太郎)の孫・源義康を祖とし、下野国足利荘(栃木県足利市)を本領とする源氏の一族です。
義兼は初代義康の子で足利氏2代目の棟梁であり、彼の7代後の子孫が足利幕府を開く足利尊氏になります。

小笠原長清は、源義家の弟・源義光(新羅三郎)の四男・加賀美遠光の次男で、甲斐国巨摩郡小笠原郷(現・山梨県北杜市明野町小笠原)を本領とする源氏の一族です。後に信濃守護に任ぜられたことにより、小笠原一族は戦国時代まで信濃国に深く関わることになります。

小山政光は、鎮守府将軍・藤原秀郷の子孫である太田行政の子で、下野国小山荘に土着して小山氏を名乗った小山氏の初代です。
下野国最大の武士団を持っており、妻が頼朝の乳母(寒河尼)であったことが縁で、頼朝に味方しました。
彼の嫡男・小山朝政は、源平争乱で戦功をあげて鎌倉幕府成立後は幕府宿老として重きをなします。

比企能員は、源頼朝の乳母である比企尼の甥で、この当時は頼朝の嫡男・頼家の乳母父となっていました。
後に娘を頼家の側室として差し出し、鎌倉幕府において有力御家人となりますが、その権勢を恐れた北条時政に滅ぼされます。

河越重頼は、秩父氏の一族で武蔵国最大の武士団を保持していた御家人です。
後に頼朝と義経の兄弟喧嘩の犠牲者の一人になってしまいます。

豊島清重も秩父氏の一族で、先祖は源義家、源義朝に仕えていた源氏累代の武将です。
石橋山の合戦で秩父一族はほぼ平氏方についたものの、父・清元と清重はこれに加わらず、逆に同合戦で敗れた頼朝が安房で再起を図った際に、秩父一族としては初めて頼朝に味方しました。

清重は奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の後に、奥州総奉行の職を頼朝より任じられ、後の戦国時代の葛西氏の祖となっています。

1つの史実に人が介在し、その人に紐付いて新しい歴史が紡がれる。
だからこそ歴史はドラマだと言えるのですが。


また、この頃、頼朝の長年の宿敵の一人である、源義広(志田三郎先生)がついにその命を散らしています。


同年5月4日、伊勢国羽取山(服部山)に潜伏していた源義広は、伊勢平氏の動向を調査していた波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊、大内惟義の家人らに見つかり、そのまま合戦となりました。合戦は丸一日かかり、ついに義広は捕縛されてその場で首を討たれました。

義広は源為義(頼朝の祖父)の三男で、頼朝にとっては叔父に当たります。

頼朝挙兵後、頼朝の勢力に合流することなく、逆に頼朝相手に叛乱を起こすこと数知れず、ついには義仲に味方し、義仲と頼朝の対立の原因にもなりました。

義弘は、源範頼・義経連合軍と義仲の京都での合戦にも義仲に従軍しており、そのまま敗れて行方知れずとなっていましたが、伊勢国に潜伏していたようです。

5月21日、頼朝は後白河法皇の近臣である高階泰経に書状を送っています。
その内容は、平家一門に連なって一斉解官となった平頼盛(清盛異母弟)を元の官位に戻すこと。

そして、源氏一族の者の中から、源範頼(頼朝異母弟/蒲冠者)、源広綱(源頼政の末子)、平賀義信(平治の乱後、頼朝と共に東国へ逃れた源氏の一人/大内惟義の父)の3名を国司(地方支配の責任者)に任官させて欲しいという内容でした。

この内容は受け入れられ、頼盛は6月5日付けで権大納言に還任されてますし、源範頼は「従五位下 三河守」、源広綱は「従五位下 駿河守」、平賀義信は「従五位下 武蔵守」に補任されています。

鎌倉の御家人が、頼朝の意向によって国司に補任されたのはこれが初めてのことでした。

6月1日、頼朝は頼盛を御所に招いて、宴を開いています。
おそらく上記のの権大納言還任の内示があり、京都に戻ることが確定したための別れの宴だと思われます。

この宴に参加したのは

一条能保(頼朝の義弟/妻・坊門姫は頼朝の妹/右馬頭)

平 時家(従四位下 右近衛権少将 / 故・上総広常の婿)


小山朝政(下野国小山荘の領主/妻は源頼朝の乳母である寒河尼)

三浦義澄(相模国三浦荘の領主)

結城朝光(小山朝政の弟/下総結城氏の祖)

下河辺行平(小山氏庶流)

畠山重忠(秩父一族/武蔵国男衾郡畠山郷の領主)

橘 公長(元平家の家人/右馬允)

足立遠元(武蔵国足立郡の領主)

八田知家(下野国茂木郡の領主)

後藤基清(一条能保の家人)


以上11名。

「吾妻鏡」によれば、これら「京都に馴染みのある者」という趣向で集められたようです。

この宴で頼朝は餞別として金で作られた剣一太刀、砂金一袋、鞍馬十疋を頼盛に与えています。
これは旧恩に報いるだけでなく、権大納言に戻る頼盛に朝廷工作を依頼していたのではないかと思えてなりません。

源義仲の遺児を討ち、平家一門に連なる頼盛を自陣に引き込んだ頼朝は、これより少しずつ源氏の一元化を考えていきます。

義仲存命中は、源頼朝、武田信義、源義仲という3人の棟梁がそれぞれ勢力を張っていました。


頼朝は相模を本拠としながら、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県)、そして朝廷より東海道全般の行政執行権を委嘱されていました。

信義は甲斐(山梨県)を本拠としながら、頼朝より駿河(静岡県東部)守護を任され、一族の安田義定が遠江(静岡県西部)を治め、3国に影響力を持っていました。

義仲は信濃(長野県)を本拠としながら、北陸道と越後(新潟県)を実効支配していました。

しかし、義仲はすでに滅び、源氏は頼朝と信義の2つの勢力のみとなりました。
三者の均等バランスは崩れ、頼朝は河内源氏の嫡流を誇り、信義は頼朝に助力するも一定の距離を保っていました。

そんな中、一の谷の合戦を終えて帰還し東国武将の中に一条忠頼という武将がいました。

一条忠頼は、甲斐源氏棟梁・武田信義の嫡男であり、甲斐国山梨郡一条郷(現:山梨県甲府市)を本領として一条氏を名乗っていました。

そして、忠頼は源範頼・源義経と共に京都に上って宇治川の合戦に参戦し、続く、粟津の戦いで源義仲、今井兼平を討ちとる功績をあげていました。鎌倉に帰着した忠頼はそのことを誇りとして、事あるごとに他の御家人に語って聞かせていました。

そしてその話は、侍所別当(長官)である和田義盛の耳にも入っていました。
義盛は

「武士が自分の手柄を誇らしげに語ることは別に悪いことではない」

と聞き流していましたが、時が経つに連れ、妙な噂が鎌倉に広がり始めました。

それは

「一条殿は、父の武田信義と相計らい、甲斐源氏の一族引き連れてこの鎌倉を狙っている」

というものでした。

忠頼個人の武勇の話であれば捨て置きますが、事が鎌倉の話になってくると、義盛も聞き流すことはできなくなり、ついに頼朝に言上せざるえなくなりました。

大倉御所主殿を訪れた義盛でしたが、そこには頼朝と中原親能、そしてその弟・中原広元の三人が頼朝を中心に議論を行っていました。

それを見た義盛は出直そうと思って退出しようとすると

「小太郎、なんぞ用か?」

と頼朝は呼び止めました。

「御談合の様子でしたので、また機会を改めまする」

と義盛は言葉を置いて、退出しようとしましたが

「良い。入れ」

と促されてしまったので、「はっ」と答えて主殿に入りました。
親能と広元は「では、我々は」と言って義盛と入れ違いに退出し、頼朝も頷きました。

「何の御談合でしたか」

着座するなり義盛は頼朝に尋ねると

「うむ。親能殿より新たな役所の提案があってな」

「役所?」

「院より東海道の行政執行を任されることになり、土地、田畑等の管理も行わねばならぬ。それにはこれまでの荘園管理の文書等を管理し、必要に応じて閲覧できる機関がいる。また平家の勢力減退により土地の所有権争いが増加しておる、それに対応する機関がいるという話であった」

「なるほど。言われてみれば道理。さすがは朝廷の文官、我ら武士が気づかないところに手が届きますな」

「して、小太郎。わしに用とは何か」

頼朝がそれまでの話を打ち切って義盛に来訪の目的を尋ねると

「鎌倉殿にお尋ね申し上げまする。一条次郎殿のこと、何かお聞き及びでしょうか」

と義盛は直球で質問をぶつけました。

「一条次郎のこと? ああ、義仲殿を討った話のことか」

と頼朝が笑みを浮かべながら答えると

「そのことではござりませぬ」

と義盛が笑み一つ浮かべずピシャリとたしなめるので、頼朝も笑みを消し

「申せ」

と小太郎に先を促しました。

「義仲殿を打たれた一条次郎殿の人気、御家人の中には非常に高く、その人望日々増えておりまする。しかるにここ最近、一条次郎殿、父・武田太郎信義殿と相語らい、この鎌倉を奪取するお考えありとの風聞、聞こえましてござりまする」

「はははは!」

頼朝は再び笑みを浮かべ、義盛の報告を遮りました。

「一条次郎がこの鎌倉を簒奪?小太郎、そなた正気で申しているのか?」

「もちろん、噂にて本気とは思えませぬ」

義盛は真顔で答えました。

「しかし、嘘ではないとは言いきれませぬ」

頼朝の顔から再び笑みが消えました。

「去る3月の頃、甲斐源氏の板垣三郎殿から土肥次郎の指揮下では働けぬという訴えがございました。鎌倉殿はこれを却下されましたが、土肥次郎は鎌倉殿が自身の名代として送り出した鎌倉殿の忠臣にござりまする。それをないがしろにすることは、鎌倉殿をないがしろにすることでござる。我らと鎌倉殿は同格という考え方、あれこそが甲斐源氏の皆さまの心底にある態度ではござりますまいか。」

「......」

頼朝は黙って義盛の申し状を聞いておりました。

「御家人はすべからく鎌倉殿を君主と仰ぎ、侍所によって統率されなくてはなりませぬ。富士川(の戦い)の頃ならいざ知らず、今の鎌倉殿は正四位下の位階を持ち、東海道の行政執行権を院よりお任せ頂いておりまする。無位無官の武田殿とは違いまする」

義盛がそこまで申し上げた時、

「来るべきものが来てしまったのかもしれぬ.....」

と頼朝が口を開きました。

「武田殿は甲斐を本領とし、駿河守護。一族の安田義定殿は遠江守護。同じ源氏とはいえ我が鎌倉とは別系統の勢力じゃ。したがって、その三国のことはわしは預かり知らぬつもりじゃった。じゃが、わしの指揮下にいる以上は、甲斐源氏であれなんであれ、鎌倉の御家人として従ってもらわねばならぬ」

「御意」

「それゆえに、鎌倉の秩序乱さんとする者は例え源氏の一族でも容赦はならぬ。そういうことだな。小太郎」

「仰せの通り」

義盛が我が意を得たりと深々と一礼すると

「では小太郎。一条次郎を侍所に呼び出せ。ただし、表向きの理由は義仲追討の任果たせしことによる褒美とせよ」

「はっ」

頼朝は義盛の側に近づき、耳元で囁きました

「その上で、綿密なる計画を練るのじゃ。このこと、絶対に失敗は許されぬ。」

「承知仕りました」

義盛は諸々承知して一礼し、主殿を退出しました。

頼朝は一人主殿に残り、思いを馳せていました。

「これで武田殿がどう出るか......」

(つづく)
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2018年09月23日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(99)-義高無残-

一の谷の合戦後、捕らわれの身であった三位中将・平重衡は、平家滅亡後に南都に引き渡され、斬首されましたが、この時、もう一人、鎌倉の世話になっていた平家の公卿がいました。

平清盛の弟・平頼盛(通称:池大納言)です。

頼盛は平家都落ちの際、平家棟梁・平宗盛の落ち度によって京都に留め置かれたため、後白河法皇に助けを求めていました。

法皇は頼盛が八条院の縁者(頼盛妻は八条院の女房)であったことから、八条院に頼盛を保護させていましたが、西暦1183年(寿永二年)10月、頼盛は京都を出奔し、同年11月6日、鎌倉に到着しています。これには何かしら院の密命を帯びていたのではないかと考えられています。

鎌倉の源頼朝は、平治の乱の際に自分の命を助けてくれた恩人である池禅尼(頼盛母)の恩を忘れず、頼盛を丁重に扱い、自分のブレーンの1人として側に置いておりました。

そして、西暦1184年(寿永三年)4月6日、頼朝は頼盛の旧領だった荘園33箇所を返還しています。
これは頼盛が頼朝政権に組み込まれ、なおかつ頼朝の朝廷工作の手駒として動いていた結果ではないかと言われています。

また、同年4月10日、京都の源義経からの飛脚が鎌倉に到着。
先月27日に朝廷より除目(任官の人事)が行われ、頼朝は正四位下に叙任されたことが書かれていました。

頼朝は昨年1183年(寿永二年)10月9日に従五位下に復位しており、わずか半年たらずで3位(従五位上、正五位下、正五位上)を超えての昇叙は、いかに後白河法皇が頼朝に期待をかけているのかの現れかと考えます。

そしてこの頃、頼朝の元には新たなブレーンが2人加わっております。

一人は三善康信(みよし やすのぶ)です。

康信の母は頼朝の乳母(比企尼)の妹という関係もあり、康信は流人時代の頼朝に京都の情勢を度々知らせていました。
その中には以仁王の挙兵大庭景親の動向などもあり、時には頼朝に「奥州へ逃げろ」とも伝えています。

一の谷の合戦を鎌倉軍の勝利で収めたことにより、京都は頼朝の支配下に入っていたため、頼朝は康信に鎌倉に来るように伝えていました。

西暦1184年(寿永三年)4月15日、頼朝が鶴岡八幡宮を詣でた際、八幡宮の廊下で康信と対面。以後、康信は頼朝の補佐官として鎌倉に詰めることになりました。

そしてもう一人は、中原広元(なかはらのひろもと)です。

広元は、このブログにも何回か登場した中原親能(義仲追討時、義経と共に上洛した頼朝の名代)の弟です。
ただ、広元の実父は大江維光で、実母が維光と離縁し、中原広季に再婚したため、中原家に養子に入ったと言われています。

広元は兄・親能にその才覚を認められ、親能の推挙により頼朝に仕えることになりました。
頼朝はこの1184年に、自らの家の家政機関として公文所を設置し、広元をその長官(別当)に任じます。

これが後に鎌倉幕府の政務機関「政所」になります。

広元は後に大江姓に復し「大江広元(おおえのひろもと)」を名乗っているため、歴史用語としてはこちらの方が有名です。

中原親能、三善康信、中原広元の三名は、頼朝の「智」のブレーンとして、朝廷工作や後の鎌倉幕府の重要な施策の立案、決定に大きく役立つ存在になるのです。


一方で、西暦1184年(寿永三年)4月には、悲しい出来事もありました。


去る1月20日、京都にて源範頼・義経連合軍によって討たれた源義仲(木曽義仲)の遺児・清水冠者源義高は、前年の西暦1183年(寿永二年)3月、頼朝と義仲の間で起きた一触触発の事態の際、和睦の証として頼朝に預けられ、頼朝の長女・大姫の婿として迎えられていました。

これにより頼朝と義仲は互いに敵対しないという約束でありましたが、頼朝は後白河法皇より義仲追討の命を受け、範頼・義経に軍勢率いて京都に派遣し、義仲を討っています。

これにより、頼朝ならびに鎌倉においても、義高を鎌倉に置いておく意味合いは全くなくなっていました。
しかも義高と大姫の仲は非常によろしく、頼朝としてはどう落とし所をつけるか頭の痛いところだったのが実情です。

頼朝としては、敵とはいえ源氏の一族。信濃源氏の命脈をつなぐためにも、我が手の内にに残しておきたい気持ちがなかったわけではないと思います。

しかし、侍所別当の和田義盛や、舅の北条時政などは、後々の謀反の種は摘んでおきたいという考えであり、これも鎌倉政権のことを考えれば間違いではありません。

頼朝は御所内で散々議論した結果、最終的に「殺害やむなし」となり、義高殺害を決定します。

しかし、思いもしないところから「異議あり!」が出ました。
妻の北条政子が「冗談じゃない!」と大反対してきたのです。

「義高殿と大姫は非常に仲睦まじい。二人の間に水を刺すようなことを親がするのですか!」
「義高殿はまだ11歳。長じた後、他国に封じるなりやり方はいろいろあるでしょう!」


頼朝は鎌倉政権の棟梁でありますが、大姫の親でもあります。
棟梁としてなすべきこと、親としてなすべきこと、その葛藤に苦しみましたが、頼朝の決定は覆りませんでした。

しかし、ここで引き下がる政子ではありません。

政子は密かに大姫付きの侍女に「鎌倉殿が義高殿を殺害しようとしている」ことを伝えたのです。
驚いた侍女はそれを大姫に伝えます。大姫はなんとかして義高を救おうと、義高の側近・海野幸氏(小太郎)に相談しました。

幸氏は今宵のうちに義高の寝所に向かい、義高と入れ替わると、義高を侍女たちの部屋に移しました。

西暦1184年(元暦元年/4月16日より改元)4月21日早朝、大姫は侍女たちと一緒に寺参りに出かけて行きました。
その中には女装した義高が隠されていました。

一方、義高の寝所で入れ替わった幸氏は、寝所で起きるなり、庭先を背にして一人で双六をやり始めました。

義高の日常は、大姫と遊ぶ以外は、幸長と双六に興じていました。
なので、義高が双六をしていても周りからは全く怪しまれることはありませんでした。
ただ、この日は義高に扮した幸長が一人芝居をしていたわけですが。

夕刻になり、大姫ら侍女が御所に戻ってくると、さすがの幸氏の芝居もバレてしまい、
義高の行方不明が明るみになってしまいます。


「申し上げます」

書院で書物をしていた頼朝に側近・安達盛長が声をかけました。

「何事じゃ」

と頼朝は書物の手を止めることなく答えましたが

「清水冠者殿、御所内の屋敷より脱走したよし」

と盛長が申し上げると、頼朝の手が止まり

「なんじゃと......??」

と言いながら、筆を硯に戻しました。

「どういうことじゃ」

「そのことにつきまして、主殿にて堀殿がお待ちでございます」

「わかった。すぐ参る」

頼朝はそのまま立ち上がり、急ぎ足で御所の主殿に向かいました。

主殿には堀親家が控えており、庭には縄で縛られた海野幸氏の姿がありました。
頼朝は主殿に入るなり庭の幸氏の姿を見て「小太郎......」と声をかけ、縁側に控えている親家

「藤次(親家)、説明しろ。どういうことじゃこれは」

鎌倉殿に申し上げまする。本日夕刻、それがし所用ありて清水冠者(義高)殿の屋敷尋ねたところ、冠者殿の姿なく、その場にあったのは一人で双六に興じていたこの者だけでございまする。冠者殿の姿、屋敷内にどこにも見当たりませぬ」

「小太郎(幸氏)、冠者殿はどこじゃ」

「存じませぬ」

「ではそなたはなぜ冠者殿の部屋におったのじゃ」

「昨晩、我が主(義高)より今日はここで休め、この部屋を自由に使うて良いと言われましてございまする」

「では、本当に冠者殿の行方、知らぬと申すか」

「存じませぬ」

「藤次、こいつを部屋に閉じ込めておけ」

「はっ」

親家は頼朝の命令を受けて畏まりました。さらに頼朝は

「それからその方に清水冠者捜索を命ずる。たった1日ではそう遠くまでは行ってはおらぬはずじゃ、郎党を使って必ず探し出せ」

とだけで行って退出しようとしました。
親家は

「お待ち下さりませ。して、冠者殿を発見した後は如何ように取り計らいまするや?」

と重ねて問いました。
頼朝は足をピタッと止め、しばし沈黙の後、一瞬瞑目、歯を食いしばり

「捕らえて連れて参れ、但し、抵抗すればその場で手討にして構わぬ.....」

と絞り出すようにして言うと、奥書院に消えました。
親家は自分の家人に幸氏を預けると、頼朝に一礼し、急いで御所を出て行きました。

頼朝は奥書院に戻り、硯の前にドカッと腰をおろすと

「愚かな真似をしくさりおって.....」

と独り言のように言いました。
しかし、次の瞬間、頼朝は不気味な笑みを浮かべていました。

頼朝はいかにあの朝敵・木曽義仲の嫡男とはいえ、なんら罪のない11歳の子供を殺すことに、ある種の罪悪感を感じていました。
それが自分の娘・大姫を悲しませる結果になることもその罪悪感に一層の「重し」を課していました。

しかし、義高が御所から脱走したとなれば、頼朝の命に背いたことになります。
自らの命に背いたものは、鎌倉を支配する為政者として、裁かねばなりません。

仮に親家が探し出すことができなければ、行方不明者として扱うだけで、頼朝が手を下すことはなくなります。

「天の助けじゃ.....」

頼朝がポツリとそう漏らした時、書院に政子がドカドカと入り込むなり

「義高殿が行方をくらましたとは本当ですか?」

とぶっきらぼうに聞きました。

「ああ、さっき藤次から聞いた。今、かの者捜させておる」

政子は頼朝の言葉を聞きながら、頼朝の脇に進み、座りました。

「わざわざ捜させる必要はないのでは?」

「馬鹿を申せ。我が命に背いた者が勝手に脱走を図ったのだ。捜して罰を与えねば示しがつかん」

「罰とは.....死罪でございまするか」

「さあな」

頼朝は政子の問い詰めをかわし、先ほどの書物の続きをするべく硯の上の筆を取りました。
政子はそれを不満そうに見つめ、やがて奥書院から出て行きました。


それから数日後の西暦1184年(元暦元年)4月26日、堀親家は鎌倉に帰参しました。
彼の手には1つの黒い首桶がありました。

頼朝は親家が首桶持参で参ったことを聞くと、頼朝は盛長以外の近習・侍女らはもちろん、小者に至るまで人払いを命じ、親家を主殿に通すように言いました。

頼朝が主殿に参ると、親家は庭先に手をついて一礼しました。

「......ご苦労であった」

頼朝がそう声をかけると、親家は無言でさらに頭を下げました。

「藤次、仔細を申せ」

親家は「はっ」畏まって顔をあげました。

「鎌倉殿の命により我が手勢は鎌倉を起点に相模、武蔵両国を捜索いたしました。その結果、武蔵国入間川付近にて馬で逃走中の冠者殿を発見しました」

「うむ」

「冠者殿は我らが鎌倉殿の手の者とわかると、馬に鞭を入れ、さらに逃亡を図ろうとしたため、我らは一旦馬を退き、数騎のみを河原繁みに潜ませ、また数騎を大回りさせえて冠者殿の先を塞ぎ、挟み撃ちにした次第でございまする」

「義高はおとなしく縛についたのか」

「それが、太刀を抜かれて我らを攻撃してきたため、我らもそれに応戦しました。やむなく冠者殿を斬りつけましたが、斬りどころが悪く、そのまま死に至らしめてしまいました」

「そうか......」

「鎌倉殿は抵抗すれば、手討にして構わぬという仰せでしたので、首を頂戴した次第でござりまする」

「役目大儀であった」

「ははっ」

「藤次。それから藤九郎(盛長)。このこと、他言無用じゃ。一切誰にも言うてはならぬ。義高は行方しれずのままじゃ、良いな」

「承知つかまつりました」

親家と盛長、両名が畏まると、頼朝は首桶を盛長に託し、弔いを命じました。

こうして、源義仲の嫡男・清水冠者源義高はわずか12歳の命を散らしたのでした。

親家、盛長は頼朝の命により、義高のことを一切喋りませんでした。

しかしながら、親家の郎党たちから方御家人の間で話に出てしまい、御所内にも「義高が討たれた」という話が広がってしまいました。

それを聞いた大姫はショックで寝込み、何を聞いても反応しなくなってしまったのです。

これに烈火のごとく怒りまくったのが政子でした。

「死罪にするかどうかわからぬと言っておきながら、殺すとは何事ですか!」
「大姫は水も喉を通らぬほどやつれています。このまま衰弱死したら如何されるおつもりですか!」


頼朝とて、義高を死地に追い込んだことは悔やまれて仕方ないところに、女の剥き出しの感情をぶつけられては、頼朝も堪ったものではありません。

「では、如何せよと申すのじゃ」

頼朝は政子の怒りを宥めようとしますが、政子の申し出は

「堀親家殿に自害をお命じくださいませ」

という、とんでもないものでした。

「たわけ!.....藤次は我が挙兵の頃からの御家人ぞ。それをお主のわがままで死ねとは言えぬわ!」

「大姫の気鬱の病は義高殿の怨霊が原因です。その怨霊を消し去るためには討った者を殺すしかありませぬ」

「もし義高殿の怨霊が原因ならば、わしに向けられて当然じゃ。なぜ大姫に向くのじゃ!道理に合わぬではないか!」

「義高と大姫はゆくゆくは夫婦の間柄、ましてやあなた様は大姫の父です。あなた様に恨みを成すなら、あなた様がもっとも大事にしている大姫に取り憑くことは十分有り得る話です!」

「埒もない.....」

「頼朝殿!」

政子はこれまでにない凄まじい怒気を放ちながらの着物に掴みかかりました。

「堀親家殿に自害を!このまま大姫を怨霊に取り殺されても、あなた様の心は痛まぬのですか?」

「お方様、お控えくださいませ」

ずっと傍に控えていた盛長でしたが、さすがに見過ごせず政子を引き放そうとしました。

「無礼者、我に触るでない!」

「これ、お方様を奥へ」

盛長は侍女を数人呼び、半狂乱の政子を主殿から追い出しました。

「やれやれ。女は強し、母はなお強しよのう」

頼朝は乱れた着物を直しながら、ぼやくようにして言うと

「さりながら、大姫様の気鬱の病の病巣を取り除こうとするのも親心の表れかと存じます」

盛長が畏まって言うと

「藤九郎、まさかそなたまで政子の味方ではあるまいな」

「滅相もない。あくまでも心情としての話でございます」

と盛長は苦笑しました。
頼朝はそれに安堵してため息一つつくと

「かと言って、心情で御家人の一人の命を失えるか。御家人は我が家の持ち物ではないぞ」

「仰せごもっとも。しかしながら、冠者殿を討たれたのは藤次殿ではございませぬ」

「.....何が言いたいのじゃ」

「直接手を下したのは、藤次殿の郎党.....ということでございます。郎党は御家人ではございませぬ」

「なるほど......」

それから数ヶ月後、堀親家の郎党・藤内光澄は鎌倉殿の命により、斬首の上、晒し首にされました。
義高の致命傷となった傷は光澄がつけた一撃であったためです。

鎌倉殿の命令にしたがって、心ならずも義高を討ち、恩賞の代わりに死を賜るとは。
光澄、ならびに親家の心境、いかばかりだったでしょうか。

なお、大姫の病状はこの後、回復することなく、不幸な生涯を閉じることになります。

そして義高の従者であった海野幸氏は、義高への忠義を高さを認められ、以後、鎌倉殿の御家人として幕府のために働くことになるのです。

(つづく)
posted by さんたま at 13:37| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする