2018年09月08日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(98)-重衡、鎌倉へ-

後白河法皇平重衡を通じて、平家一門に「三種の神器を返せば重衡の身も屋島に送る」という悪魔の交換条件を突きつけたのが、西暦1184年(寿永三年)2月14日で、平家一門棟梁・平宗盛が返書を送ったのが同月28日です。

その間の京都での動きを簡単にご説明します。

右大臣・九条兼実の日記「玉葉」によると、2月16日、後白河法皇は鎌倉の源頼朝の元に中原親能を遣わしています。

中原親能は源義経と共に鎌倉より京都にやってきた源頼朝の代官で、武家と公家との間の調整役でした。
法皇が親能を遣わしたのは

「4月までに上洛せよ。もしそれがない場合、我(法皇)が東国に臨幸する」

という意思を伝えるためでした。

九条兼実はこれを「ほとんど物狂い=狂気の沙汰」と呆れています。
法皇が東国に行かれるなど前代未聞であり、兼実の認識は間違っていません。
が、法皇としては頼朝とうまくやっていく良い方法が、これしかなかったのだと思われます。

一方で、鎌倉の源頼朝は2月18日、京都に使いを出しており、播磨、美作、備前、備中、備後(現在の広島県東部、岡山県全域、兵庫県西部)の五カ国梶原景時、土肥実平の両名を以って守護に任命しています。


月変わりて、翌3月1日付で、源頼朝は鎮西九国(九州?)の武家に平家追討を命じています。
その内容は、よくもまぁここまで自分を正当化できるものだという呆れる下記のような内容でした。


(ここから)
鎮西九国の武士共は鎌倉殿の御家人として平家の賊徒を追討しなさい。
これは法皇様の院宣を受け、そなたたちに命令している。

平家が謀反を起こし、昨年追討使として、東海道から遠江守義定(安田義定/甲斐源氏)、北陸道から左馬頭義仲(源義仲)を鎌倉殿の代官として上洛させた。ところが、義仲は平家と通じたため、追討の院宣を鎌倉殿が賜り、やむなく誅伐した。

平家は四国近辺に拠点を置き、通行中の船舶を襲撃し、人民のものを収奪する行為を繰り返している。
これ、人々の苦しみ耐えがたいものがある。

今に至っては陸上、海上問わず、官兵(天皇の軍)を以って、これを追討する他にはない。
鎮西九国の武士はこれを皆、承知し、平家を追討せよ。
追って勲功は沙汰する。

(ここまで)


安田義定は甲斐源氏であり、頼朝と祖を同じくする河内源氏の一族ではありますが、頼朝の家臣ではなく、あくまでも同盟勢力です。
そして義仲に至っては頼朝の従兄弟ではありますが、全く別個の勢力です。
それを「鎌倉殿の名代として上洛させた」とかどの口が言うのかと。
嘘八億もいいところです。

また、この頃、諸国の神社、仏閣が武士たちに横領、乱暴される事件が多発しており、何度か院庁から頼朝あてに諸国の武士の乱暴狼藉を取り締まるように宣旨が出されています。


3月2日、頼朝の命令で、土肥実平が山陽道に出立するため、実平の管理下にあった平重衡の身柄が、源義経に引き渡されました。

そして8日後の3月10日、平重衡は頼朝の命令によって、鎌倉に送られることになり、京都を出発しています。

この時の警護担当は梶原景時が務めました。

また、この頃、伊賀、伊勢両国(現在の三重県)において、伊勢平氏の一派の動きに怪しいものがある(平家一門の人間が潜伏してる?)報告を受けた頼朝は、その対策として、3月20日に大内惟義(清和源氏義光流・平賀氏/武蔵守)を伊賀国守護に任じ、大井実春(武蔵国荏原郡大井郷の住人)を伊勢に派遣しています。

鎌倉に送られた平重衡は、3月下旬に鎌倉に到着。
同月28日、重衡は立烏帽子に藍色の直垂をつけ、威風堂々とした姿で頼朝に引見しました。
重衡のそばには警護役であった梶原景時の姿もありました。

頼朝に対し、重衡は

「前の三位中将、平重衡にござる」

と平伏し、頼朝も

「前の右兵衛佐、源頼朝にござる」

とそれに答えて頭を下げると

「此度、このような形で中将殿と相対することになったことは私の本意ではない。しかし、御上(法皇)の怒りを慰めるため、また亡き父・播磨守義朝の仇を討つために心ならずも挙兵し、御上の心を安んじ奉るために平氏を退治せねばならなかったことは致し方のないことだったと存ずる。その結果、こうして中将殿と対面できたことは、私にとっては喜ばしいこと。いずれは内府殿(宗盛)とも対面する日が来るであろう」

と続けました。重衡は平伏したまま、顔をあげませんでした。
頼朝は重衡の言葉を待ちましたが、重衡の言葉は出なかったため

「ただ、1つだけ中将殿にお伺いしたいことがござる」

とさらに言葉を続けました。

「先年、中将殿は奈良の寺々を焼き討ちになされた。これは相国入道(清盛)のご命令か?それとも中将殿のご判断か?」

重衡は今一度深く頭を下げると、顔を上げました。

「お答え申し上げよう。奈良の寺々が炎上したのは我が父の命令でも、我の判断でもない。衆徒の悪行を鎮圧するために行った火計が予想以上に周りが早く、南都の寺々を灰塵に帰させてしまった。これは我の不得の致すところにござる。」

そう答えた重衡はさらに言葉を続け

「古来より、源氏と平氏は共に朝廷を守護し奉る者でした。ところがいつの間にか、源氏の運気が衰退し、平家のみが朝廷を守護することになり、数々の朝敵を討ち、主上(天皇)の外戚として昇殿する者(いわゆる公卿)60余名。その繁栄は20余年に及びまする。今、平家の命運尽き、我が身はこうして捕えられて鎌倉に送られてござる」

と申し上げました。
しばらく沈黙の間が漂い、頼朝が

「何事も世の移り変わりかと存ずる」

と発すると

「それがしは平治の戦いで父・義朝、兄・義平とはぐれ、平頼盛殿の家人・平宗清殿に捕らえられた。ありがたいことに池禅尼様の御慈悲を以って、死を免じられ伊豆に流された。伊東、北条、工藤などの諸氏に周囲を見張られ、一生ここで籠の鳥となって死ぬるのだと覚悟した。しかし、以仁王様、源三位殿が打ち上げた狼煙が、衰運しかなかった我ら源氏に一筋の光明を与えてくれた。」

「その光明を、たった1つの光明を通じて、それがしも、武田殿(甲斐源氏)も木曽殿(木曽源氏)も立ち上がったのじゃ。挙兵は人と物さえあれば誰でもできる。だが、戦って勝てるかどうかは時の運。かつて平治の戦いで源氏を衰退させた運気が、今回は我が源氏に味方したのじゃ。これ、すなわち世の中の道理ではなかろうか」

重衡は黙って頼朝の言葉を聞いていましたが

「鎌倉殿のおっしゃることが道理であるならば、『朝敵を討った者は七代後まで朝廷の恩を失わない』という我が国古来の道理はどこに行ったのでしょうな。我が平家は父・清盛入道の頃から、朝廷のために身を滅ぼしかけたこと数知れず。父亡き後、都を追われ、西国を彷徨うことの覚悟はあったが、まさか自身が捕らわれて鎌倉に送られるとは思いもせず。これも前世の報いであろうか」

と申し上げると

「武士たるもの、敵の手に捕らえられるのは恥とは思わぬ。すぐにこの首をはねていただきたくお願い申し上げまする」

と毅然とした態度で言上したので、景時は

(さすが平家の大将.....)

と感嘆しました。
頼朝も満足そうに頷くと

「平三」

「はっ」

頼朝は重衡の後ろに控えている景時に声をかけると

「侍所に狩野介が控えておる。呼んで参れ」

と命じました。

景時が一礼して主殿を後にするのを待ち、頼朝は再び重衡にむきなおり

「中将殿のあっぱれなお覚悟。右兵衛佐、感服つかまつりました。されど、平家だからと言ってそれがしの敵というわけではありませぬ。それがしの敵はこの世の秩序、すなわち御上と主上に仇なす者にございまする。また、中将殿の場合、少々事態が異なりまする」

「どういうことでござるか?」

「鎌倉の一存だけでは中将殿を裁くことはできませぬ。おそらく南都の衆の意向を以って、御上より宣旨があるものかと」

頼朝が言いたいのは、焼き討ちにされた南都の衆徒たちが引き渡せと申してくることが予想されるため、自分の意思で首を刎ねることはできないということでした。それは重衡にもよく理解できることでした。


主殿の廊下より足音が聞こえ、梶原景時と共にもう一人の武士が主殿に入りました。
このもう一人の武士は、工藤宗茂といい、伊豆国狩野荘の領主を務め、狩野介を通称としていました。
宗茂の父は工藤茂光といい、石橋山の合戦で討ち死にしております。

「狩野介、お呼びにより参上いたしました。」

宗茂は主殿の外の廊下で膝を付いて、かしこまりました。

「役目大儀。中へ入れ」

頼朝は主殿の中に狩野介を入れ

「狩野介、中将殿の身をその方に預ける」

と命じました。狩野介は

「ははっ」

とこれを受諾しました。加えて頼朝は

「良いか。中将殿は解官されたとはいえ、三位の位階にある方じゃ。決して粗相のないように、丁重におもてなし致せ」

と重ねて命ずると

「承知仕りました」

と平伏しました。

重衡は

「鎌倉殿のご高配、忝なく存じまする」

と頼朝に礼を述べると

「追って、沙汰あるまで、この狩野介に何なりと申しつけられませ」

と頼朝が答えました。
重衡は笑みを浮かべながら

「では」

と一礼し、狩野介と共に主殿を後にしました。

主殿に残ったのは頼朝と景時の二人だけとなり、頼朝は

「平三、中将殿の警護役、大儀であったな」

と景時をねぎらいました。
景時も頭を下げて、それに答えました。

「しかし、平家の公達。なかなかの器量でしたな。」

「まったくな.......平家一門、ましてや清盛入道の息子でありながら、源氏を敵視することも罵ることもせず、事の是非をきちんとわきまえることができる。そういう人間がこの鎌倉にはおらん。」

「はい」

「殺すには惜しい男よ」

そう言って、頼朝は主殿奥(頼朝の住居)に帰って行きました。

平重衡はこの後、壇ノ浦で平家一門が滅びた後、西暦1184年(元暦二年)6月22日、東大寺に引き渡され、翌日斬首。

その首は重衡自身が焼き討ちした般若寺の門前に晒されたのでした。
享年29。

(つづく)
posted by さんたま at 17:07| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月02日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(97)-取引-

西暦1184年(寿永四年)2月7日、摂津国一の谷(摂津国福原)にて、鎌倉軍(総大将・源範頼)平家軍(総大将・平宗盛)との間で起きた「一の谷の合戦」は、鎌倉軍の大勝利となり、平家軍は有力武将の多くを失いました。

敗走した平家は海路を取ったため、船を持たない鎌倉軍は平家を追撃することはできず、この戦いの本当の目的である「三種の神器の奪還」は成し遂げられませんでした。平家は瀬戸内海を彷徨い、屋島(香川県高松市)に落ち着きました。

2月9日、鎌倉軍別働隊大将・源義経は、本隊に先駆けて京都に帰還しました。その際、一の谷の合戦で捕縛した平重衡(正三位/左近衛権中将)を連行していたと言われます。

一方で、この戦いの勝利に困ったのが後白河法皇です。

まず、都落ちした平家が勢力を盛り返し、摂津国福原(兵庫県神戸市中央区あたり)まで迫ってきており、京都が脅かされていた現状を鎌倉軍が打破した影響は大きく、京都の安全は保たれました。

しかし、戦いの本当の目的である「三種の神器の奪還」はできておらず、未だ後鳥羽天皇の即位の正当性は不安定なままでした。
後鳥羽天皇の即位は、後白河法皇の院宣によって保たれており、三種の神器の奪還ができていない状況は、法皇の権威の低下に繋がっていたのです。

(なんとかして一刻も早く三種の神器を奪還せねば.....)

そういう法皇の焦りが、ある考えにつながりました。

(そうだ。義経が捕縛した重衡を立てて平家と交渉してみよう)

2月14日、院庁は重衡を八条堀川の御堂に移すように土肥実平に命じ、実平にその御堂の警護を命じました。
そしてその後、法皇の命を受けた藤原定長(蔵人・右衛門権佐/院伝奏)が御堂の重衡を訪ねました。

「これは蔵人殿。お懐かしい限りじゃ」

定長の顔を見るや重衡はまるで昔の旧友を見るように笑みを浮かべました。

「重衡殿もお変わりものう」

定長はそう述べると

「世辞はいらぬ。わしはこのように囚われの身。変わり果てた末じゃ」

重衡は笑って返しました。
それを黙って受け流した定長は

「今日は、御上(法皇)の使者として参りました」

と述べると、重衡は威儀をただして

「承る」

一礼しました。

「御上はあなた様を屋島にお送りするお考えでございまする」

「なんと」

「されど、それには条件がござりまする」

重衡は軽く頷き、定長に先を促せました。

「屋島にいる平家一門に、三種の神器を都に返還するように申しつたえて頂きたい」

重衡は目を丸くして、次に「あっはっは」と大声で笑いました。

「御上のご意向であらっしゃいますぞ」

定長が重衡の振る舞いを嗜めると

「これはご無礼」

と重衡も一礼して非礼を詫びました。

「されど、これを笑わずにおられましょうや。この重衡の身と引き換えに神器をお返しあれとは......。この重衡の身はもちろん、平家の郎党千人、いや万人の命がかかっていたとしても、兄(宗盛)は神器を渡しますまい。」

「重衡殿は都には新しい主上(後鳥羽天皇)がおわすことはご存知でいらっしゃいますか?」

「存じておりまする。しかし神器は我ら平家の手にござる。神器がこの手にある以上、この世の主上は我が主上(安徳天皇)にござりまする。都の主上は偽の主上にすぎませぬ」

「されど、あなた様方平家は院庁より追討を受ける身、すなわち朝敵にござりまする。朝敵が擁する主上になんの正当性がございましょうや」

「では神器なき即位した主上になんの正当性があるのでしょうか」

定長、重衡、双方ともに申す意見は互いに正しい。それゆえに妥協点が見出せない状況でした。
二人の間はしばしの沈黙が保たれ、御堂の外の鳥の鳴き声だけがかすかに響き渡っていました。

「とは申せ......」

その沈黙を破ったのは重衡の方でした。

「我が個人の思惑ならびに推測を以って、御上の意向を拒否することもまた非礼の極みで畏れ多いこと。結果は見えておりますが、我が家人に申し付け、御上の院宣、屋島にお送りしてみましょう」

「ありがたい.....」

重衡の提案に定長は深々と頭を下げました。

「ただし重ねて申し上げますが、結果は期待しないで頂きたい」

「承知つかまつった。院宣をお送り頂けるだけでも助かる」

「ご使者、ご苦労でござった」

重衡はそう言って、定長に深々と頭を下げました。

こうして、後白河法皇の神器返還の院宣は、重衡の家人・平三左衛門に託され、重衡の手紙とともに屋島に送られました。
その院宣の内容は下記のようなものでした。


(ここから)
安徳天皇が御所を出られ、諸国を彷徨われるとともに、三種の神器も京都から離れて数年が経過した。
これ、朝廷の嘆きであり、朝廷の安定を基礎とする我が国の終わりの始まりである。

現在、都に囚われし平重衡卿は東大寺を消失させた反逆の臣である。
これについては鎌倉の源頼朝が望む死罪を以って処するところである。

籠の鳥が雲を恋する思いははるか千里の南海に漂い、帰る雁が友を失う心は、いずれそなたらのいる屋島に届くだろう。

そのようなことをしたくはないゆえ、三種の神器を返還するならば、重衡卿を寛大に赦免するつもりである。
(ここまで)


この院宣は、寿永三年2月14日付けで発行されており、発行者は大膳大夫大江業忠となっており、宛先は平大納言(平時忠)になっていました。そしてこれが屋島に届いたのは2月28日。
またこの院宣には別して二位の尼御前(清盛正室/宗盛、知盛、重衡の母)への手紙が入っておりました。
そこには

「今一度、重衡にご覧になろうとお思いならば、三種の神器のことを大臣殿(宗盛)によくよく申し上げてくださいませ。でなければこの世でお目に書かれるとは思えません」

と書かれていました。
ただ、これは重衡が本当に書いたものか、正直わかりません。


この院宣を受理した時忠は、直ちに棟梁・宗盛に言上し、平家一門内での会議が開かれました。
その席上で二位の尼御前(清盛正室/宗盛、知盛、重衡の母)は宗盛に対し

「重衡がどんな思いでこれを届けてきたのか、心の内を察して余りあるもの。どうか、私に免じて、三種の神器を都にお返ししてもらいたい」

と懇願しました。
しかし、宗盛は

「私も弟の命をなんとか助けたいとは思いますが、ここで神器を返せば世間は平家を物笑いの種にいたしましょう。また今我らとともにおわします主上(安徳亭)の正当性は神器によって保たれております。ためらいもなく神器を返すことはできません。母上が子の命を案じられるのはわかりますが、重衡の命一つと平家一門の命運を秤にはかけられますまい」

と異議を唱えました。
これを受けた怒りの形相を浮かべ二位の尼御前は

「そなたが神器を返さないならば、重衡の命はあるまい。であれば、母の自分も同じ道に行くまでじゃ。もうこんな思いはごめんじゃ。さっさと私を殺してたもれ」

と大声で喚かれました。

「知盛はいかに思う」

「畏れながら、三種の神器を都にお返し申し上げたとしても重衡をお返しくださる可能性はほとんどないものと推察いたしまする。ゆえに、遠慮なく、我ら平家一門の決意を御返書に記されるべきかと存じまする」

「やはりそうするしかないか」

そう言うと、宗盛は院宣に対する返書を以下のように書き記されました。


(ここから)

今月14日の院宣、我ら一門、28日に拝受いたしました。
その内容と条件について考えましたところ、我らは先の一の谷の戦いで平通盛以下、当家の数人が鎌倉軍の手によって殺されてしまっております。それを踏まえるに重衡一人の寛大な処置のご処分を喜ぶことはできませぬ。

我が主上(安徳天皇)は故高倉院の皇位を継承して四年もの間、鎌倉の源頼朝、北陸の源義仲が都を脅かし、また朝廷内の外戚近臣の不満もあり、しばらく九州に行幸なさいました。
行幸先から都にお帰りになられないこの状況において、三種の神器をどうして陛下の御身から離せるでしょうか。

古来より、臣下は君主を以って心とし、君主は臣下を以って体とします。
君主の安寧が臣下の安寧であり、臣下が安寧であると国家も安寧であります。

君主が上の立場で不満を持つと、臣下は下の立場で楽しむことはできません。
心の中に悲し味みがあると、体の外に喜びは溢れません。

我が平家の先祖・平貞盛(伊勢平氏の祖)が平将門を追討して以来、関東8カ国を平定し、度々朝廷の逆臣を討伐し、現在に至るまで、平家は朝廷の聖運をお守りしてきました。我が父・平清盛は保元平治の合戦の際、勅命を重んじ、ひたすら君主のために働きました。

鎌倉の源頼朝は、平治の戦いの際、左馬頭義朝(頼朝の父)の謀反によって死刑にされるところ、我が父の並外れた慈悲によって朝廷に寛大な処分を申されました。ところが今は昔の大恩を忘れ、流人の身で実力行使の乱を起こしており、愚挙の数々はあまたあります。いずれ神の天罰により滅亡の未来が待っていることでしょう。

太陽と月は1つの物のために、明るさを提供せず、名君は一人のためにその法を曲げません。
1つの悪によって他方の善を捨てず、小さな欠点によって累代の功績を包み隠してはなりません。

御上が当家に累代の奉公、亡き父による忠節をお忘れでなければ、御上は四国への御幸をなさるべきでしょう。
その時に臣らは院宣を頂戴し、再び都に帰り、これまでの敗北の恥をすすぐことでしょう。

もしそうでなければ、我らは、鬼界、高麗(朝鮮)、天竺(インド)、震旦(中国)に渡るでしょう。
神武天皇以来、81代の御世にて、我が国の神代の霊宝は異国の宝となってしまうのでしょうか。

これらの趣旨を、しかるべき方法で密かに奏上されんことを願います。

寿永三年2月28日、従一位平朝臣宗盛が請文

(ここまで)


上記を簡単に要約すれば、

・重衡一人の命が安堵されたところで喜ぶことはできない。
・平家のこれまでの累代の奉公や忠節を思えば、法皇が四国にこられるべき
・そうでなければ、我らは神器を持って外国に行く


という内容です。

すでに日宋貿易で巨万の富を築いた平家だからこそ「外国に行く」という選択肢は、ハッタリではなく、現実味を帯びていると考えてよいかと思います。

また宗盛の返書は単なる重衡と神器の交換条件に止まらず、伊勢平氏累代の朝廷への忠節と、源氏の反乱勢力に対する批判を織り交ぜ、朝廷のために尽くしてきたのは源氏と平家どっちなのかを畏れ多くも法皇に説いている内容になっています。

要するに法皇の心が鎌倉の源氏に傾いていることを言下に非難しているわけです。
ぶっちゃけなかなかの名文ではないかと思っております。

(つづく)
posted by さんたま at 15:34| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(96)-重衡捕縛-

西暦1184年(寿永三年)2月7日、摂津国一の谷(兵庫県神戸市)で鎌倉軍と平家軍が激突しました。世に言う「一の谷の合戦」です。

当日未明に塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋)で起きた熊谷直実、直家父子、平山季重らの先陣に始まり、夜明けとともに生田口(兵庫県神戸市中央区)源範頼率いる鎌倉軍本隊五万騎が押し寄せ、本格的な戦闘が開始。

その勝敗をわけたのは、平家の本陣・一の谷の崖上(鵯越)から駆け下りて、奇襲攻撃を行った鎌倉軍別働隊・源義経の一千騎でした。
奇襲攻撃で一の谷に降り立った義経軍の放った火は、平家の本陣も燃やし、上がった炎と黒煙は、生田口の平家勢に動揺をもたらしました。

生田口の総大将である平知盛は自軍の動揺を抑えつつ、生田口の軍勢を一の谷に向けてジリジリと撤退させようとしますが、本陣の黒煙による平家軍の士気の減退は避けがたく、また本陣が落ちたことを知った鎌倉軍の勢い凄まじく、非常に苦しい撤退消耗戦を強いられました。

また同じ頃、塩屋口の城戸が破られ、土肥実平率いる鎌倉軍別働隊七千騎が一の谷に押し寄せました。
これより、戦況は鎌倉軍有利となり、平家軍は総崩れとなります。

平家は多数の船を要しており、万が一の逃走経路は海上と決まっておりました。
しかし、源氏には船がなかったため、追跡は砂浜もしくは海岸の浅瀬までが限界でした。

ですが、この戦いでの平家一門は多数討たれ、その被害は甚大なものがありました。
戦死した平家一門は次の通りです。


・平経正(清盛異母弟・平経盛の嫡男/左馬権頭/敦盛の兄)
武蔵国入間郡の住人・河越重房によって討たれる。

・平敦盛(清盛異母弟・平経盛の三男/能「敦盛」のモデル)
武蔵国熊谷郷の住人・熊谷直実によって討たれる。


・平通盛(清盛異母弟・平教盛の嫡男/中宮亮/夢野口守将)
夢野口を離れ、湊川付近で、近江国の住人・佐々木俊綱に討たれる。

・平業盛(清盛異母弟・平教盛の三男/五位蔵人/夢野口守将)
常陸国の住人・土屋重行に討たれる。

・平忠度(清盛異母弟/薩摩守)
武蔵七党の猪俣党の一人、岡部忠澄とその子によって討たれる。

・平経俊(清盛異母弟・平経盛の四男/若狭守/敦盛の兄)
・平清房(清盛八男/淡路守/生田口守将)
・平清貞(清盛養子/尾張守/生田口守将)

全員、生田口の城戸合戦で討ち死。

・平知章(平知盛嫡男/武蔵守)
武蔵七党の児玉党の一人が知盛を襲ったのを助け、これを討ち取った後、児玉党の武士たちに包囲されて討たれる。

・平師盛(小松家・平重盛の五男/備中守/三草山の合戦後一の谷に逃げてきていた)
知盛家臣・清衛門公長という男を助けるため、船に乗せたところ、鎧の重みで船が転覆し、武蔵国男衾郡畠山郷の住人・畠山重忠の手の者によって討たれる。

・平盛俊(越中前司/清盛政所別当/夢野口守将)
武蔵七党の猪俣党当主・猪俣範綱によって騙し討ちにされる。



この戦いで失った平家一門の有力武将は十名以上にも及びました。
また上記通盛の弟・平教盛(能登守)は、逃走中に通盛と離れ離れになり、生死不明となっています。

また、生田口の総大将だった知盛は、嫡男だった知章に命を救われ、逆に知章が代わりに討ち死にするという「子が親を助ける」という、なんとも悔恨の残る事態になっていました。

辛くも一命を取り留めた知盛は船に助けられた後、棟梁・平宗盛の御前に罷り出て

「嫡男・知章には先立たれ、心細くなっております。なんの因果で、子が親を助け、親がその子が討たれるのを見なければならないのか。親が子を助けず、このように生き恥を晒しているならば、他人ならば大いに罵ることでございましょう。しかし我が身の事であれば、よくよく命が惜しいものであると思い知った次第でございまする。お恥ずかしい限り」

と言って泣き伏したと言われます。それを受けた宗盛は

「知章がその方の命を助けたことは一門にとっては尊いことじゃ。腕も立ち、豪胆な若武者だった。我が倅・清宗と同じ年齢だったの.....」

と涙したと言われます。


さて、この戦いにおいて、特筆すべきことをこれから書かねばなりません。
それは、上記の死亡リストに入っていない、平家の有力武将・平重衡(清盛五男/左近衛権中将)の行方です。

平重衡は兄・知盛とともに生田口の大将として源範頼軍と戦っていましたが、知盛の命令で、一の谷の北方・夢野口(平通盛、教経、盛俊が大将)の加勢に向かいました。しかし、衆寡敵せず、夢野口は落ち、重衡は重臣・後藤盛長と共にたった二騎で西へ逃走しました。

大将軍の鎧は他の武将と違い、非常にきらびやかで派手目立つため、落ちていく重衡主従二騎は、範頼軍の梶原景季(梶原景時嫡男/源太)庄家長(武蔵国児玉党)が目をつけられ、猛追撃を受けます。

通盛が討たれた湊川を超え、刈藻川(兵庫県神戸市長田区付近)を渡り、須磨方面に向けて必死に猛スピードで逃げていく重衡主従。命がけの逃避行のため、景季や家長がどれだけ馬に鞭打っても、追いつくことができません。

「ええい!これでは埒が開かん!」

景季は追撃を諦め、弓に矢をつがえ、思い切り引っ張って、上の空に向けると

「南無八幡大菩薩......」

と唱えて、思い切りを矢を放しました。
矢は大きく弧を描いて飛び立ち、重衡には当たらなかったものの、重衡の馬に命中し、馬は足を詰めらせ、重衡は地面に叩きつけられました。

「おのれ......」

幸い重衡は落下時の打ち身以外は無傷で、立ち上がって振り返り、追っ手の方角を見、敵の姿を認めると

「盛長、敵は二騎じゃ。ここで見事立ち合って我らの未来の血路を開こうぞ」

と言って振り返ると、盛長は重衡の目線を逸らし、

「御免!」

と言って頭を垂れると、馬に鞭を入れ、一目散に駆けて行ってしまいました。

「盛長?。おい盛長、なぜ逃げる?お主、俺を捨てて一人だけ逃げるというのか?」

盛長はその言葉を背後で受けながら振り返らず、平家の武将の印である赤印を投げ捨て、一路、西へ西へ駆けて行きました。

後藤盛長は、重衡の乳母の子供で、幼い頃より重衡に仕えていた腹心中の腹心でした。

その腹心に裏切られた重衡は茫然自失となり、平家も遠く逃げてしまっていれば、観念するより他はありません。背後から景季、家長の馬の蹄の音が近づいてきていました。

重衡は兜を捨て、鎧を解き、その場に座って胡座をかき、いざ、自害せんと欲しました。
しかし

「あいや、待たれよ!しばらく!しばらく!」

という家長の声が聞こえ、脇差を抜こうとする手を止めました。
家長は馬から降り、重衡に駆け寄って

「大将軍ともあろう方が、このようなところで自害されるとは、なんと分別のないことをなされるか!」

と重衡に言いました。
家長に続いて、景季も後から重衡に近づき、重衡に膝を付くと

「それがし、相模国鎌倉郡梶原郷の住人・梶原源太と申しまする。将軍の御名をお聞かせ賜りたい」

と頭を下げると、重衡は脇差を家長に預け

「三位中将・平重衡」

とだけ名乗りました。
これには景季も家長も驚き、家長に至っては重衡より預けられた脇差をその馬に放り出して、平伏しました。

すでに平家の人間は、朝廷によって全員解官されているため、左近衛権中将の官位は無効となっておりますが、正三位といえば、上級貴族であり、これまで源氏が討ち取り、捕縛した平家の人間の中で、間違いなく最高位の公卿でした。

「三位殿、我らと共にご同行願い奉りまする」

景季をそう言うと、重衡を盛長の馬に乗せ、盛長は矢を受けて弱った重衡の馬を引き、本陣へ帰投しました。
こうして、清盛五男にして、正三位左近衛権中将・平重衡は鎌倉軍の捕虜となったのです。


これにて「一の谷の合戦」は鎌倉軍の大勝利で終了しました。

右大臣・九条兼実の日記「玉葉」によると、この戦いの翌日の2月8日に、藤原範季(従二位式部権大夫)の元に梶原景時より飛脚が送られており、そこには合戦の模様が克明に記されていました。

それによると、この戦いは2月7日の辰の刻(午前7時から午前9時)から巳の刻(午前9時から午前11時)までの一時ほどの間、と記載されており、およそ2時間程度の戦いだったようです。

また同じ日の「玉葉」に

「劔璽・内侍所の安否、同じく以て未だ聞かず」

とあり、この時点で鎌倉軍は「三種の神器」の奪回に失敗していることを報告しています。

つまり、平家が京都を奪還せんと一の谷・福原まで攻め寄せており、それを撃退したことは鎌倉軍の大手柄でした。

しかし、朝廷としてはそれ以上に「三種の神器」の奪還が至上命題でした。なぜなら、神器が朝廷に存在することこそが、後鳥羽天皇の即位の正当性を公家社会に示すものだったからです。

これを聞いた後白河法皇の苦虫を噛み潰した顔が思い浮かぶようです。


そして、2月9日、鎌倉軍は京都に凱旋しました。そこには囚われの身となった平重衡の姿もありました。
京都に着いた後の重衡の身柄は、土肥実平(鎌倉軍別働隊・義経名代)の屋敷に閉じ込められました。

一方、一の谷を追われた平家は、海流に従って紀伊方面へいく船、瀬戸内海を西へいく船、それぞれが行先の決まらない当てのない船路が始まっていました。

京都を追われた後、西国を基盤に再び十万余騎を従えて、京都を奪還せんと望んだこともたった一日の合戦で、多くの身内を失い、一の谷・福原を失い、また行先も決まらない不安な中では、眠ろうと思っても眠れないことだったと思われます。

なお、一の谷の合戦の前、一の谷北方の夢野口の大将を仰せつけられた平通盛の正室・小宰相(第87回「平教経の出撃」参照)は、通盛が討たれたことを知った日からおよそ七日後、平家の船団が屋島に到着する寸前に、お腹の子供と一緒に瀬戸内の海へ入水自殺されました。

平家物語は

「昔から夫が死んだ後、残された妻が出家することは多いが、身投げしてまでとは滅多にない。武士の世界は忠臣は二君に仕えずというが、女の世界でも貞女は二夫にまみえずというのだろうか」

という言葉で結んでいます。

(つづく)
posted by さんたま at 16:33| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする