2019年09月04日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(109)-先陣争い-

西暦1185年(元暦二年)2月19日、四国・讃岐国屋島(香川県高松市)にて、その地に拠点を築いていた平家本陣は、源氏の源義経軍の奇襲を受けました。

この時、平家本陣は4,000騎程度の兵力を有していましたが、平家の武将・田内教能が、伊予(愛媛)の河野通直を討つため、3,000騎を率いて伊予に出陣していたため、屋島の本陣は手薄になっていました。

さらに残った1000騎を屋島の周辺の防備に当たらせていたため、屋島の本陣に残っていたのは200から300騎程度だと思われますが、奇襲をかけた義経軍の騎兵200騎ほどの地元軍勢の猛攻に耐えきれず、やむ得ず屋島の里内裏を放棄して海上に逃れました。

翌21日、平家は屋島の東方およそ10kmにある志度(香川県さぬき市志度)にある志度寺に立て篭もりましたが、ここも夜明けと共に義経軍の奇襲を受け、平家一同は平知盛が固めている彦島(山口県下関市)へ海路をとりました。
また、この頃、伊予の河野通信(戦国大名・河野氏の祖)が義経に合流したため、讃岐、阿波、伊予は源氏の勢力圏に入りました。

22日、摂津国から渡辺党を中心とした梶原景時の水軍200叟が義経軍と合流。義経軍は騎兵だけでなく十分な水軍も擁する体制になっていました。

一方、鎌倉より陸路山陽道を進軍していた源範頼軍は、去る2月1日、葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町付近)の戦いで、平家方の武将・原田種直を撃退。周防国東部・豊後国、筑前国東部(山口県東部、大分県南部、福岡県東部)を源氏の勢力下に置いていました。

しかし、3月9日に鎌倉の頼朝に届いた範頼の書状によると、豊後国に渡ったものの、農民たちが逃亡し、兵糧の調達までままならない状況で、それに嫌気がさした和田義盛、工藤祐経ら歴戦の勇士が鎌倉に帰ろうと海を渡りそうになったとの報告が届いています。

この書状にはさらに熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の第21代別当である湛増が九州へ進軍する噂をきき、湛増が来るなら自分の立場がなくなるじゃないかと恨み言に近いことを訴えています。

これを受けて頼朝は同月11日、湛増が九州に進軍する噂は事実ではないとし、また千葉常胤をはじめとし、北条義時、小山朝政、小山宗政、中原親能、葛西清重、加藤景廉、工藤祐経、宇佐美祐茂、天野遠景、仁田忠常、比企朝宗、比企能員ら十二人の御家人にこれまでの軍功を讃える書状を遣わしています。

ちなみに頼朝が否定した湛増出陣の話ですが、湛増が240叟2000人の水軍を率いて義経に加わったのは事実です。


範頼と義経は相通じ、3月24日の卯の刻(午前6時)に、豊前国門司、赤間関(山口県下関市)にて矢合わせ(攻撃開始)と決めました。

3月22日、義経は周防国から壇ノ浦に向けて出発しようと準備を整え、船の数や乗員の算段を組み立てていました。
この日、義経の陣にちょっとした揉め事が起きました。
梶原景時が義経に先陣を願い出たのです。

景時の願いに対し、義経は

「この義経がいなければ平三(景時)殿に先陣をお願いしましょう」

と却下されました。
これに驚いた景時は

「なんと申される。九郎(義経)殿は大将軍でござりまするぞ」

と反論すると

「もってのほかでござる。鎌倉殿こそ大将軍。我は鎌倉殿の命にただ従うのみ。平三殿と立場は同じ、一御家人にござるぞ」

と義経がさらに畳み掛けたので、景時は

「心得違いをなされては困りまするな。山陽道では蒲(範頼)殿、四国では九郎殿、鎌倉殿が何故、ご舎弟殿を派遣されたとお思いか。お二人は鎌倉殿の名代でござるぞ。鎌倉殿が大将軍であるならば、名代である九郎殿も大将軍。九郎殿はご自身の立場をなんとお考えか」

と大声をあげてしまいました。
これに義経軍の他の兵、武将らも「何事か」と集まってきました。

「我は鎌倉殿の命で平家を討伐し、三種の神器を朝廷に返還しようとしているだけじゃ。我が鎌倉殿の御家人であることは間違いないが、名代などとは恐れがましい。」

と義経が首を振りながら、景時に背を向けると

「では、どうあってもご自身が先陣を?」

という景時の問いに

「是非もなし」

と答える義経。

景時はため息をつくと

「戦は総大将が討たれたらそこで終わりでござる。先陣で切り込んで命落とされたらいかがなされる。戦の大将は最後まで生きてもらわねば負けなのじゃ。それがお分かり頂けぬなら、九郎殿は大将の器にあらず!」

と罵りました。

「平三殿こそものの道理が理解できぬ。愚か者じゃ!」

と義経も負けじと罵り返したので、両者の間に緊迫が漂い、刀の柄に手をかけようとします。

只事ならぬ雰囲気に景時の嫡男・源太景季、次男・平次景高、三男・三郎景季が景時の周りを守ろうとします。

一方で、義経の周りには佐藤忠信、伊勢義盛、源広綱(源三位頼政の子・仲綱の養子)、江田広基、武蔵坊弁慶らが景時一族を取り囲み、妙な動きがあれば、今にも討ち取らんとしていました。

緊迫した空気と静寂がしばらく続きましたが、それを打ち破ったのは

「あいや、しばらく!しばらく!」

という三浦義澄の声でした。

義澄は義経の前に立ちはだかり、景時を斬ろうしている義経を両手をあげて止めました。
一方、景時の方は土肥実平が押しとどめていました。

「これから戦じゃと言うのに、お二方とも何をなされておられるか!」

と義澄が声を荒げると、実平が景時に向かって

「平三殿。そなたは戦目付であろう。後見役のそなたが九郎殿と諍いとは......恥を知られい!」

と怒鳴ったので、景時は刀の柄から手を離し、義経を睨みながらその場を離れていきました。

また、義澄も

「九郎殿も九郎殿じゃ。こんなところで同士討ちなんぞしては、それこそ鎌倉殿のきついお叱りを受けましょうぞ」

と諭すと、義経も刀の柄から手を離しました。

「やれやれ、ようやく九郎殿の陣に来れたと言うのに、とんでもない場面に出くわしたものじゃ」

義澄がそう言うと、義経が

「三浦介殿、仲裁、忝い。何か我に用でござるか?」

と尋ねたため

「豊後に渡られた蒲殿より、九郎殿と合流せよと言う命令を頂戴しまして、馳せ参じた次第」

「ちょうどよかった。そなたは門司の海をご存知のはず。我らを壇ノ浦まで先導してはくださらぬか」

「承知つかまつった」

こうして、三浦義澄は義経軍の先導として壇ノ浦を目指すことになります。
これに対し、平家の方も彦島より出陣して、赤間関を通過し、田ノ浦(北九州市門司区田ノ浦埠頭付近)に陣取りました。

先ほどの義経と景時との先陣争いは、「平家物語」に詳しく書かれています。
平家物語は、この先陣争いがのちに梶原景時が義経を讒言することに繋がると書かれていますが、本当のところはわかりません。

さて、いよいよ壇ノ浦の戦いに突入です。
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2019年03月12日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(108)-屋島の戦い・扇の的-

西暦1185年(元暦二年)2月19日未明。平家追討軍別働隊・源義経隊130騎余は、讃岐国屋島の平家本拠を急襲しました。

驚いた平家は御座船に移って逃走を図りますが、源氏がわずか100騎程度であることを知った平家一門の棟梁・平宗盛は、平教経(能登守)を遣わして、源氏の軍勢と戦うことを命じます。

教経は宗盛の期待に応え、見事、義経の郎党・佐藤三郎兵衛(継信)を矢で射抜きました。
また、平家が屋島に築いた里内裏に火をかけてこれを焼失させ、平家の士気を大きく下げました。

佐藤継信は源氏の本陣に抱え込まれたものの、手当のしようがなく、そのまま絶命してしまいます。

継信が絶命していた頃、四国各地の源氏に味方する武士たちが義経の上陸を知り、我も我もと合力し始め、屋島に集まった源氏の勢力はすでに300騎を超えるものになっていました。

しかし、義経は継信を失ったことでやや気鬱になり、継信が絶命したあとは、再び出陣することができなくなっていました。
奥州を出立して以降、ずっと付き従っていた郎党の初の欠落に、戦う気力を欠きかけていました。

戦う気力を失いつつあったのは平家側も同じでした。
頼みの綱であった平教経は下男・菊王丸を失ったショックで戦意を喪失し、苦労した屋島の里内裏は焼失。宗盛は彦島砦にいる知盛に合わす顔がありませんでした。

「平家の命運、ここに尽きたか.....」

二位尼(平時子)が御座船の中でそう呟くと

「いえ。我らが平家の主力部隊は彦島にいる知盛の部隊です。ここにいるのは主力のおよそ六分の一。また河野征伐に出かけた田口の軍勢も間もなく駆けつけてくるでしょう。まだ終わりませぬ」

宗盛はそう言いますが、女房たちの顔には生気がありませんでした。

「宗盛。お前の言い分や理屈はよくわかる。じゃが、もはや私には神仏のご加護が平家にあるとは思えぬ」

「何を仰せられます!我らは主上を、ミカドを擁し奉っておるのですぞ?この世の主は我が平家の手中。これに過ぎたる武器がございましょうか」

「では、平家に神仏の加護があることを、我らに示してたもれ」

「は?」

「まだ我らに神仏の加護があることを信じさせてくれるものを見せてくれ」

「それは......」

宗盛は言葉に詰まりました。

「すまぬ。無理な相談じゃな......」

二位尼はポツリ独り言のよう言いましたが

「いや......我らにご加護があるかどうかはわかりませぬが、試すことはできまする」

宗盛は自信たっぷりに二位尼に断言しました。


やがて日が暮れ始め、これ以上の戦いは難しくなると、義経は郎党たちを通じて「陣に戻れ」と帰陣を命じました。

ところが、帰陣の命令を出しているにもかかわらず、郎党や御家人が戻ってくる気配はありませんでした。
それどころか、海岸あたりが騒がしくなり、さすがの義経も何が起きているのか気になり始めました。

(何をしてるのだろう......)

義経は陣の外に出て、海岸に出向きました。
すると、平家の女官らしい者が乗った一層の小舟が海に浮かんでいました。
女官は船に1つの扇を掲げ、陸地の源氏に手招きしていたのです。

「あ、御大将」

最初に義経に気づいたのは弁慶でした。

「あれは、なんだ?」

「さあ.....?」

弁慶も首をかしげて見当もつかないという仕草で応えます。


「言うならば、平家から源氏への挑戦というところでしょうか」

弁慶の隣にいた後藤実基が答えました。

「挑戦?」

「さよう。あの扇を射抜いてみよ?と言う問いかけではないかと」

「なんのために、そのようなことを」

「それはわかり申さぬ。しかし、これは平家からの挑戦とも受け取れまする。受けざれば源氏の名折れは必定と存じまする」

実基の進言に、腕組みをする義経でしたが

しかし、あれを射抜けるものが我が手勢におるのか?」

と実基に尋ねると

「たしか......下野国那須郡の住人・那須十郎が弓の名手と聞いておりまするが」

「では三郎(実基)殿、其の者を我が陣に連れてまいられよ」


実基は那須十郎を軍勢の中から探し出し、義経の前に連れてきました。

十郎は二十代後半の凛々しく精悍な出立の若武者でしたが、右の腕に大きな刀傷を負っており、郎党の介添が必要なほどでした。

「その腕はいかがした?」

義経は十郎の姿を見るなり、その腕の傷を気遣いました。

「今日の戦いで不覚を取りまして.....」

「三郎殿、この腕では弓はとれまい。誰か他の者はおらぬか?」

「恐れながら、言上仕ります」

十郎が控えながら申し上げると

「なんじゃ?」

「ここに控えておりまする与一は我が弟にて、我とは比べものにならぬ弓の腕前を持っておりまする」

「何?そなたは十郎の弟か?」

てっきり郎党かと思っていた義経は介添え役の者をまじまじと見ました。
与一と呼ばれた介添えの者は顔を見られまいと頭を低くしました。

「これ、御大将にご挨拶せぬか」

十郎が与一と言う者を叱りつけると。

「お初にお目にかかります。那須十郎が弟、与一宗高と申しまする」

「そちはいくつじゃ?」

「二十になったばかりでございまする」

「十郎に劣らぬ弓の腕前というのは誠か?」

「滅相もない。兄の腕前に遠く及びませぬ」

与一は一度も頭を上げることなく、義経の問いに答えました。
義経は十郎にむきなおり

「十郎に尋ねる。与一の腕前はいかほどじゃ」

「私と飛ぶ鳥を射落とす競争で、三羽のうち、二羽は必ず仕留めまする」

「おお......」

実基をはじめ、義経の郎等から感嘆の声が上がりました。
義経は大いに感心し

「そなた、兄の名代として、あの小舟の扇を見事射抜いてみよ」

と平家の小舟を指差しました。

さすがの与一も頭をあげ、義経の指の先にある小舟と扇を見ると

「恐れながら申し上げまする。私の腕前では射抜けるかもしれませぬが、確実ではございませぬ。ここは源平の名誉の場、確実に射抜ける者にお命じあるべきかと存じまする」

「馬鹿者!御大将のご命令であるぞ。控えよ!」

十郎が与一を叱責すると

「十郎の申す通りじゃ。我はこの軍の大将である。我の命令に従わぬ者は、鎌倉殿の命に従わぬことと同じことぞ。それでも拒むか?」

義経の言葉には荒々しさはありませんでしたが、有無を言わさない、拒否を許さない怒気を与一は感じました。

「ご命令とあれば、是非もなく」

与一は観念して、義経の命令に従いました。


一方、平家の御座船では、宗盛が二位尼にあの小舟を見ながら語りかけていました。

「よろしいですかな。母上。あの小舟の竿に乗っている扇、今、源氏に向かって、これを射落してみよと煽っておりまする」

「なんのためにじゃ」

「母上が申したのではありませぬか。平家に神仏の加護があるかどうかを見せてくれと」

宗盛の言い分に二位尼は首を傾げました。

「もはや日没は近く、あたりはどんどん暗くなります。我らの挑戦を源氏が躊躇すればするほど、状況は不利になるばかり。しかしながら、こちらの挑戦を受けなければ源氏は武士の物笑いでございましょう」

二位尼は宗盛の説明でようやく理解ができたようでした。

「仮に源氏が我らの挑戦を受けたとして、この暗さであんな小さい扇の的を弓矢で射落としたならば、それこそ神のご加護がなければ成し得ないものと私は思います」

「確かに」

「しかし我が平家に神仏の加護があれば、扇の的はそのままのはずです。」

「なるほど......」

二位尼は完全に飲み込めたものの、事の顛末がどのようになるのか、不安で仕方がありませんでした。



与一は十郎を連れて陣所に戻ると、自分の弓を従えて馬を引き、義経の陣所前で一礼すると、愛馬に跨って岸で弓を構えようとしました。

岸から平家の小舟までおよそ90メートル前後。与一は確実に射抜くため、距離を縮めることを考え、馬を海に乗り入れました。


西暦1185年2月(元暦二年)2月18日の午後6時頃、北風がやや激しく、平家の小舟は上下に揺れ、それに伴って扇も揺れていました。

(こんな条件の中で、あんな小さい扇を射ぬけとか、御大将も無茶を言いなさる.....)

与一の心境はさざ波のように荒れてました。

的の大きさ、距離などを考慮しても、与一の腕前ならば射抜けないものではありません。

しかし、的は小舟の竿の上、波に揺られて上下に動きます。鳥ならその飛行の先を読んで矢を放てますが波はなかなか読めません。おまけに日没が近く、周辺が暗くなるのも時間の問題でした。

(もたもたしてるわけにはいかぬ)

そう思った与一は、目を閉じ

「南無八幡大菩薩。並びに我が下野国の守護神・日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神よ。願わくば、我にあの扇の真ん中を射させ給え。もしこれを射損じるものならば、弓を切り折り、自害して相果てまする。もう一度、我を国へ帰したいとお思いならば、この矢を決して外させることのないように......」

と祈念して目を開けると、一瞬だけ北風が止み、無風状態になりました。
その瞬間を逃さない与一ではありませんでした。

すかさず鏑矢を矢に番えて、ひきしぼったかと思えば、溜めもなく速射。
放たれた鏑矢は岸まで聞こえる大音を放ちながら、扇めがけて直進し、見事扇の根元を貫きました。

貫かれた扇は上下に回転しながら竿の上空を舞い、しばらくして、そのまま海に落ちました。

「おおおおお!」

これを見た平家の武士たちは船端を叩いて感嘆し、岸の源氏側は鎧や武具を叩いて、与一の腕を褒め称えました。
そして平家方では、扇が掲げてあった竿の小舟に乗り移った一人の老兵が、竿の近くで舞い始めました。

与一は役目を果たしたと一息つくと、馬を岸に返そうとしました。
しかし、自分に近付いてくる馬があることを確認すると、その場に止まりました。馬に乗っているのは義経の郎党・伊勢義盛でした。

「ご命令じゃ。あの老兵も討ち取れ」

義盛が与一にそう言いました。
与一は気乗りしない様子でしたが、命令では是非もなし。
背から一本の矢をつがいで、老兵の首を狙って見事射落としました。

「何をするか!!!」

これに怒った平家の武士達数人が船を岸につけ、源氏の陣を攻撃しようとしたため、源氏側も五騎ほどを繰り出して再び小競り合いが生じました。そのうち、我も我もと上陸して、およそ二百人前後の合戦へと発展しますが、完全に日没となったため、双方、陣に戻りました。

御座船から「扇の的」の一部の始終を見ていた宗盛は

「まさか、あの的を射落すとは......」

と驚きしかありませんでした。しかし二位尼は

「これにてスッキリしました。」

と言って、宗盛に笑みを浮かべると

「我が平家の頼みとするのは我が力のみ」

とだけ言って、安徳帝の元に戻って行かれました。

二位尼は、平家に神仏の加護があれば、どんな苦境でもそれを頼りに生きていけると考えていました。

しかし、扇の的によって、神仏の加護は源氏に付いていることがわかると、もはや神仏の加護をあてにするのではなく、我らのみの力で事態を切り開くしかないと改めて悟ったのでした。

ただし、二位尼は全ての希望を捨てた訳ではありません。
平家が再び神仏の加護を受けることもあるかもしれない。それには我が力を以ってどこまでやれるのかを神仏に見せるしかないと考えていたのです。


その日の夜、義経軍はほぼ全員が死んだように眠りました。
義経軍は阿波勝浦に上陸し、平家方の桜庭良遠の居城・本庄城を攻めた後、徹夜で行軍し、屋島の合戦に突入したため、ほぼ休む暇がなかったのです。

一方で、平家の御座船では平教経を大将として、手勢五百騎で夜討をかけようと計画していましたが、平盛嗣海老盛方が先陣争いをしてまとまらず、結局夜討は中止となりました。

この時、夜討をかけていれば、義経軍は総崩れになったことは間違いなかったでしょう。

(つづく)
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2019年02月17日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(107)-屋島の戦い・本戦-

西暦1185年(元暦二年)2月17日未明。平家追討軍別働隊・源義経隊50騎100兵余は、摂津国渡辺津(大阪府大阪市天満橋付近)から船を出し、18日、阿波国椿浦(徳島県阿南市椿町?)に到着。現地の武士・近藤親家を味方に引き込み、阿波国勝浦郡託羅郷(徳島市本庄町)にある平家方の有力武将・桜庭良遠の居城・本庄城を落城させました。

ここで、義経は、有益な情報をゲットします。

それは、讃岐国(香川県)を支配下においている田口成良(平家方/桜庭良遠の兄)が3,000騎を率いて、源氏に味方している伊予国(愛媛県)の河野通信(源氏方)討伐に出陣しており、屋島の平家軍は1,000騎余しかいないこと。

また残り1,000騎も屋島近郊の港などの警備に割かれていて、本陣は手薄という情報でした。

これを聞いた義経は、直ちに全軍を率いて徹夜の大行軍を開始します。

義経が行軍を急いだのは、平家の兵力が分散しているうちに屋島を攻略することと、自分たちが小勢だということを平家に知られたくないという思いと2つの理由があったと思われます。

屋島(香川県高松市屋島)は、今でこそ相引川を挟んで「陸続き」になっていますが、これは江戸時代に盛んになった塩田事業等の埋め立てによるもので、昔は完全な島だったそうです。

屋島と四国の間に流れている「相引川」は昔の海の名残と言われています。


2月19日未明。屋島の対岸に到着した義経は手勢を隠し、郎党を使って、物見(偵察)を行わせました。
義経はこちらが130騎兵の少数部隊だと悟られたくなかったのです。

物見の結果、目算で敵は500-600騎程度の兵力であること、また、近藤親家の情報によれば、干潮時を狙えば、馬で屋島まで渡れることもわかったため、義経は

「頃はよし。総攻めの用意」

と言い

「まずは屋島周辺の民家に火をかけて、焼き払え!」

と下知しました。
これも、義経軍が小勢ではなく、大軍勢であることを平家に見せつける策謀でした。

義経軍により、現在の高松市の海岸沿いの民家に次々と火がかけられ、空にはおびただしい量の黒煙が上がりました。
これは義経の目論見どおり、平家方は慌てふためくことになります。

「源氏の敵襲じゃあああ!!」

屋島の平家軍は突然の源氏の襲撃に大騒ぎとなります。
平家の主だった武将たちは、屋島を包囲されては叶わない(ぶっちゃけ戦えない)ため、船に乗って屋島から脱出します。

一方、屋島から100メートル程度離れたところで、源氏の軍勢80騎ほどが喚声をあげながら、御座船に向かって駆け出してきました。

義経は船に向かい、

「我こそは五位左衛門少尉、源九郎義経!後白河院の命により参上仕った!」

と大きな声で名乗りをあげると

「伊豆国の住人、田代冠者信綱!」
「武蔵国の住人、金子十郎家忠!」
「同じく、与一親範!」
「伊勢三郎義盛!」
「後藤兵衛実基!」
「佐藤三郎兵衛継信!」
「同じ四郎兵衛忠信!」
「武蔵坊弁慶!」


と義経を取り巻く武者全員が名乗りをあげました。

これを見た平家の御座船の武士たちは

「奴らを射落とせ!」

と矢合戦の命令を伝えると、御座船内の武士が次々と出てきて、義経らに向けて矢を繰り出してきました。

平家の武士たちは揺れる船の中から矢を放っており、狙った通りに満足に当たるものでもありません。一方で義経主従はその矢をかわしながら、逆に矢を放ち返していきました。

しばらくすると、屋島の内裏(平家の屋敷)から火の手が上がるのが見えました。
義経主従の一人、後藤実基が単身上陸し、建物に火をかけたのです。

「ああ......内裏が、我らが苦心してこしらえた内裏が焼けていく.....」

平家一門の棟梁である宗盛は火をかけられ、焼け落ちていく内裏を見ながら、胸を掻きむしらんばかりに苦しみました。

「一体、源氏の兵力はいかほどぞ?」

宗盛が近くの武士に尋ねると

「100はおらぬかと思われます」

と答え、宗盛は

「たったの100......この屋島には500騎を超える兵力があったのだぞ。それが民家を焼き討ちにした敵襲と聞いて慌てて船に乗って内裏を離れ、焼かせてしまっては、主上になんと申し上げれば良いのか......これは我らの浅はかさぞ。」

宗盛の苦し紛れの嗚咽は、周りの人間の悲しみにも通ずるものがありました。

「能登を呼べ.....」

宗盛は嗚咽をこらえて、側衆にそう言うと、御座船の外で源氏の兵と戦っている平教経を呼びました
教経は呼ばれているのを聞くと、急ぎ御座船の中に入り

「内府殿。お呼びでございまするか」

「そなた、これより陸へ上がり、源氏の兵を相手に一戦してくれまいか。このまま何もせず内裏が焼け落ちるのは我慢がならん」

「承知いたしました。できましたら越中次郎(平盛嗣)もお借りしたく」

「好きにせよ」

教経は宗盛の前に畏ると、平盛嗣を連れて小船に乗り、屋島の内裏正門の波打ち際に上陸しました。

それを見た義経軍も屋島の内裏正門近くまで寄せてきました。弓矢の射程距離を伺っているようです。

一方、教経も強弓に矢をつがえて、義経に狙いを定めますが、義経主従とその兵が入れ替わり立ち替り、義経の前に立ちふさがって、狙いがつけられませんでした。

「ええい!そこの郎党ども!邪魔じゃ。どかんか!」

と大声をあげますが、義経主従は一切聞く耳を持ちません。

「どかんならどかんで良いわ。まとめて冥土に送ってくれる!」

教経は強弓から次々と矢を放ち、義経の兵を10人ほど射殺すと、教経の目の前に義経を遮るものがなくなりました。

「ようやく視界が開けたわ......死ね!九郎判官!」

と新たに強弓に矢をつがえて放ったところ、義経の前に被さるように黒い1つの騎馬が走り去って行きました。
騎馬上の武士の左の肩から右脇にかけて矢が貫いており、おびただしい鮮血を吹き上げていました。

騎馬上の武士は、佐藤継信でした。

継信は矢を受けながらも馬を走らせていましたが、やがて力尽きたのか、腕をだらりと下げ、騎馬からふらりと落馬しました。

それを見た教経の下男・菊王丸は倒れた継信に駆け寄り、その首を取ろうとしますが

「下郎!兄に触れるな!」

と佐藤忠信が駆け寄り、弓に矢をつがえて放ち、今度はそれが菊王丸の胴丸に命中しました。
受けた矢の勢いで、尻餅をつく菊王丸。

それを見た教経は急ぎ菊王丸に駆け寄って、菊王丸を右に抱え、自らが乗ってきた小舟に投げこみました。
菊王丸の首を取られないようにするための咄嗟の判断でした。

「次郎(盛嗣)、菊王丸の手当を頼む」

教経はそう言いながら、依然として義経主従の方に向いて弓と矢をつがえ、義経の隙を伺っています。

しかし

「能登殿。手遅れです」

という盛嗣の声が聞こえると

「なんだと?」

「すでに事切れています」

菊王丸は胴丸に矢を受け、すでに重傷でした。
その重傷の状態で、教経の片腕に担ぎ上げられ、小舟に投げ込まれては、受け身を取ることもできず、衝撃で首の骨を折り、そのまま死んでしまったのです。

菊王丸は、もともと、教経の兄・平通盛の召使でしたが、通盛が一の谷の合戦で戦死した後は、教経に仕えていました。
教経とはわずか1年足らずの付き合いでした。

「なんと不憫な子か.....」

教経は菊王丸の亡骸を横目に哀れむと、弓につがえていた矢を外し、小舟に乗り込んで御座船に帰って行きました。
菊王丸の死は、教経に戦いを続ける気力が萎えさせてしまったのです。

しかし、このおかげで、義経主従は落馬した継信の体を担ぎ上げ、自陣に連れ帰る時間が稼げました。

陣幕の中で板木の乗せられた継信の顔面は真っ青となっており、目は虚ろな状態でした。
義経は継信の手を取り

「三郎兵衛、しっかりしろ。気分はどうか」

と声をかけるのが精一杯でした。

「もはや......これまでと存じます....」

主人の問いかけに継信は必死で答えました。

「何か思い残すことはないか」

義経は継信の命がもう尽きかけているのを察知すると、せめて遺言だけでも聞きとろうと必死でした。

「何を思い残すことがありましょうか。ただ、殿がこの世で栄えある姿をみることなく死ぬことが悔しゅうございます。それ以外のことは武士の家に生まれた者の定め。覚悟の上でございます」

「三郎兵衛......」

「お嘆きなさいますな。この三郎兵衛、後世まで『源平の戦の中、屋島の磯にて主君を身代わりに討たれた』と語り継がれることでしょう。これぞ無上の喜び、良い冥土の土産になりまする......」

継信は言葉を続けようとするが、掠れて声が出なくなっていました。

「誰かある!」

義経は人を呼び

「この辺りの寺から僧を召し出し、ここに連れてまいれ!」

と命じると、程なく、一人の僧侶が連れてこられました。
義経は僧に会い、深々と頭を下げると

「わが手の者が今まさに息絶えんとしておる。すまぬがこれより経文を書き、唱え、かの者の弔いをお願いしたい」

と言って

「そのお礼にこの馬を貴殿に差し上げる」

と「大夫黒」と呼ばれた義経の名馬を僧に献上されました。
これまで義経の主だった戦いにずっと加わってきた名馬を惜しげも無く献じる姿に、義経の将兵は皆、感じ入ったと言われます。

佐藤三郎兵衛継信。享年28と伝わっております。

(つづく)
posted by さんたま at 23:34| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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