2013年08月18日

臣下が天皇になりかけた事件:宇佐八幡宮神託事件

天皇はヤマト王権の時代より、天皇家の血筋の中から選ばれて皇位についていました。直系の子孫がいなければ傍系から皇位継承者が選ばれており、奈良時代には天智系、天武系という二代系統が出来ていました。しかし、同時代に一歩間違えれば臣下(家臣)が天皇に就きかねない事件が起きていたのです。それは「宇佐八幡宮神託事件」と言われている事件です。

【事件の背景】
西暦760年(天平宝事5年)、時の上皇である孝謙上皇は、平城京の修理のため、帝である淳仁天皇と共に近江国の保良京に移ります。そこで上皇は重い病気にかかってしまいます。その際、宮中に出入りしていた道鏡禅師が祈祷によって孝謙上皇の病気を治療し、以後、上皇は道鏡へ信頼を寄せて行きます。

一方で、朝廷に隠然たる力を持つ実力者であり、皇族以外で初の太政大臣(行政のトップ)となった藤原仲麻呂(またの名を藤原恵美押勝)という者がいました。藤原四家のうちの1つ南家の出身で、聖武天皇の皇后であった光明子(光明皇后)の甥にあたります。この仲麻呂は、淳仁天皇を擁立させた最大の功労者であり、その権勢は天皇をはるかにしのいでいました。

天皇を意のままに操る仲麻呂にとって、上皇の側近となりつつある道鏡は目の上のタンコブでした。そして上皇は独身であり、上皇と道鏡が男女関係にあったりすると朝廷の聞こえもよろしくなくなることから、仲麻呂は天皇を通じて上皇に、道鏡との付き合いを考えるように諫言します。しかしこれが完全に逆効果で、天皇と仲麻呂は上皇の逆鱗に触れてしまいました。

西暦762年(天平宝字6年)6月3日、上皇は五位以上の官人を集め、「天皇が親不孝者である」というワケの分からない理由で仏門に入って別居することを表明。さらに国家の大事である政務は上皇である自分が、小事は天皇が執るように宣言しました。出家して別居するが政務は上皇が見るというなんともトンチンカンな宣言ですが、これはどう見ても天皇と仲麻呂の諫言に対する意趣返しでした。

仲麻呂はこれまで朝廷を意のままに動かして来たため、国家の政務を上皇に執られるのは非常に都合が悪い上、自分の権勢を丸ごと道鏡に奪われるのではないかと危惧し始めます。西暦764年(天平宝字8年)9月、仲麻呂は天皇に「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」への就任を求め、軍兵を集めることを画策します。

しかし、仲麻呂から兵の動員指令を受けていた高丘比良麻呂和気王が、上皇に密告したため、上皇は仲麻呂の動きを「謀反」と断じ、山村王に命じて淳仁天皇を幽閉し、皇権発動に必要な玉璽と駅鈴を回収。これで仲麻呂は「朝敵」となった為、太政官印を持ち出して平城京を脱出しますが、同月18日、近江国高島郡で仲麻呂は惨殺されました。これを「藤原仲麻呂の乱」と言います。

淳仁天皇は上皇に幽閉されていたため、乱の責任は問われませんでしたが「仲麻呂と近しい関係にあった」ことを理由に廃位の上、親王に格下げされて淡路島に流されました(以後、淳仁天皇は「淡路廃帝」と呼ばれます)。空位になった天皇の地位には、孝謙上皇が重祚(一度退位した者が再度即位すること)して「称徳天皇」となり、西暦765年(天平神護元年)、仲麻呂が務めていた太政大臣の地位には道鏡が僧侶のまま就任しました。道鏡は翌年の西暦766年(天平神護2年)には法王に昇ります。

孝謙上皇が称徳天皇になったとしても、天皇は依然として独身であり、皇太子を立てられない状態でした。貴族達の関心は「誰が皇位を継ぐのか」という点に絞られていました。そんな中、この事件が勃発するのです。


【宇佐八幡宮からの御神託】
西暦769年(神護景雲3年)5月、道鏡の弟で大宰帥(九州を統括する太宰府の長官)の弓削浄人と大宰主神の中臣習宜阿曾麻呂は突如上京し、称徳天皇に宇佐八幡宮(八幡宮の総本社。皇室からの崇敬を受けている特別な存在)からの御神託として「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」と奏上しました。

これに驚いたのが他でもない称徳天皇でした。

”道鏡を天皇に?”
”道鏡は太政大臣、法王であれど臣下には変わりがない、臣下の者が皇位につくなど聞いてことがない”
”しかし宇佐八幡の御神託となると無下にもできぬ”


悩んだ末に、称徳天皇は都から使者を送り、今一度宇佐八幡宮の真意を確かめることにしました。
この使者に天皇は、上皇時代より自分に付き従っていた大尼・法均(和家広虫)に白羽の矢を立てます。しかし病気がちだった法均はこの任を断り、弟である和気清麻呂に替えて命じるように天皇に奏上し、天皇は清麻呂を「勅使」として宇佐八幡宮の神託の真意を確かめる任務を与えました。

道鏡は自分の弟・浄人からこの御神託がどういう性格を持つものか知っていたと思われます。道鏡はすでに太政大臣禅師、法王として位、人、臣を極めました。残るは皇位だけ。しかし臣下が皇位につく前例はないため、歴代の帝が尊崇を集める「宇佐八幡の御神託」という一種の絶対的超法規優位性を持ってそれを実現しようと賭けたのではないでしょうか?。

故に道鏡としては、和気清麻呂にも「骨を折ってもらわねば」なりません。
宇佐八幡宮に向かう清麻呂に「帝の思し召し通りのお役目を無事果たされますように」とねぎらいの声をかけた道鏡でしたが、これは清麻呂にとって「無言の圧力」に他なりませんでした。


【再度の御神託】
西暦769年(神護景雲3年)8月、清麻呂は天皇の勅使として宇佐神宮に参宮しました。
宝物を奉り宣命(天皇の命令書)の文を読もうとしたその時、神が禰宜(神官)の辛嶋勝与曽女に乗り移り、託宣、宣命を訊くことを拒みました。清麻呂はこれに不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈の僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊くことを拒みました。

"なぜだ?なぜ神は宣命を聞こうとなさらないのだ"

清麻呂にはわけがわからない。だが、ここで清麻呂はある一つの仮説が浮かびました

”もしや神はこの宣命そのものが、聞くに値しないものだと仰られているのならば......”
”それならば、答えはひとつしかない”



【暴かれた真実】
清麻呂は平城京に戻って参内し、称徳天皇の御前にて報告をします。
「宇佐八幡の御神託は次の通りです。『天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし』
つまり、皇位継承は皇族によって成されるべきで、それ意外の人は払い除けということです。
これを聞いた称徳天皇は一言も発せず、内裏より退席されました。
この清麻呂の報告を聞いた道鏡は、烈火の如く怒り「偽の御神託を帝に聞かせた不忠者」という罪科で、和気清麻呂を「別部穢麻呂」と改名させて大隅国へ、姉の和気広虫も「別部広虫売」と改名させられて備後国へそれぞれ流してしまいました。

清麻呂の報告を聞いて、天皇は今回の最初の御神託が、道鏡本人、もしくは道鏡の弟である弓削浄人が仕組んだものであることを確信したものと思われます。これ以後、天皇は道鏡をお側から遠ざけ、二度と身辺に近づけませんでした。そして同年10月1日、称徳天皇は皇族や諸大夫らに対して「妄りに皇位を求めてはならない」「皇太子は私自身が決定する」ことを改めて表明します。それは天皇の道鏡との決別の表れだと思われます。

西暦770年(神護景雲4年)3月に称徳天皇は病気で寝たきりになります。本来であれば道鏡の出番のはずですが、看病の為に近づけたのは女官の吉備由利(右大臣吉備真備の妹)だけでした。道鏡が持つ太政大臣禅師と法王が持つ権限であれば天皇に会えないことはないはずですが、それができないということは、道鏡の権力はこの時点でかなり衰退していたと思われます。また、天皇はこの時、勅命をもって軍事権を左大臣藤原永手右大臣吉備真備に委ねております。道鏡の「ど」の字も出てきません。

西暦770年(神護景雲4年)8月4日、称徳天皇、平城宮西宮寝殿にて崩御。

自身の最大の理解者であり、自身の後ろ盾であった称徳天皇の崩御は、道鏡の持つ権勢が地に堕ちた事を示します。同年8月21日、道鏡は下野国薬師寺別当を命ぜられて東国へ流されました。道鏡はそのまま下野国で没します。

道鏡の弟である弓削浄人は御神託を偽った罪で財産没収の上、土佐国に流されました。

尚、道鏡によって流罪に処された和気清麻呂法均(広虫)の姉弟は、後継の光仁天皇が即位すると直ちに都に呼び出され、従五位下の官位に復職。後に清麻呂は平安遷都を進言し自ら造営大夫を務めています。現代の京都の町割りを作ったのは清麻呂ということになります。また広虫は孤児救済に尽力し、没後従三位を贈られています。


【皇位簒奪事件なのか?それとも?】
本件は道鏡の皇位簒奪事件という見方が強いと言われていますが、それにしては事件収束後の道鏡の扱いが非常に軽いような気がします。本来、皇位の簒奪は「謀反」と同じですから、藤原仲麻呂のように惨殺されても文句は言えません。それが、死罪どころかそれが東国の寺の住職としての左遷で済んでいるところが、なんとも不思議なところです。ただ、これは本件の黒幕が道鏡であるという確たる証拠が得られなかったかもしれませんが。

いずれにせよ、臣下が皇位を窺った最初の事件がこの「宇佐八幡宮神託事件」であることは間違いないと私は思います。


【天皇家その後】
天皇は生涯独身であり、子もいなかったので、左大臣藤原永手らが推す中納言白壁王と、右大臣吉備真備が推す文室大市もしくは文室浄三の後継者争いが起きました。両者は一歩も引きませんでしたが、永手らが「称徳天皇の遺言は白壁王に皇位を譲るとある」と言い出したため、白壁王が即位して光仁天皇となります。御年齢61歳の即位だったようです。。。

後にこの「称徳天皇の遺言」は偽造であることが明らかになりますが、このあたりは藤原氏と吉備氏の権力争いも絡んでいそうなので、また別のお話ということで。。。
posted by さんたま at 03:48| Comment(0) | 奈良時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする