2013年08月16日

天皇陛下から「頼む」と言われて総理になった男・鈴木貫太郎

8月15日は終戦記念日です。

今から68年前、日本とアメリカは戦争をしていました。
日本は中国に進出して満州国を建国し、中国の支配を強めていましたが、アメリカは日本の中国進出を許さず、対日資産を凍結し、原油の輸出を停止しました。これがキッカケとなり日本とアメリカは戦争の道を進むことになります。

西暦1941年(昭和十六年)12月8日、真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争は、開始して半年程は日本が優位に戦争を進め、南方(東南アジア)をほぼ支配下に置きました。

しかし翌1942年(昭和十七年)6月のミッドウェイ海戦で、日本海軍は空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)と多数の航空機と約3,000の将兵を失ったことから、戦況は悪化し始め、西暦1943年(昭和十八年)2月、ガダルカナル島から撤退
西暦1944年(昭和十九年)6月のマリアナ沖海戦で日本海軍は太平洋の制海権と制空権を失い、やがて日本本土が無差別空襲に晒されることになります。

日米開戦は東條英機内閣によって開始されたのですが、上記のマリアナ沖海戦の失敗による制海権、制空権喪失による責任が東條内閣への風当たりにつながり、西暦1944年(昭和十九年)7月18日に内閣総辞職
これは岡田啓介元首相木戸幸一内大臣による「東條引きずり降ろし」前提の結果でした。ですが、彼らは後任のことをマトモに考えていませんでした(苦笑)。

そこで軍人の第一線を退いて朝鮮総督に収まっていた小磯国昭が、急遽首相に指名されたのですが、現職の軍人でもない小磯に軍のコントロールができるはずもなく、西暦1945年(昭和二十年)3月、アメリカ軍の沖縄上陸を許してしまいます。その結果、翌月、在任期間わずか9ヶ月で総辞職してしまいます。

信じられないことではありますが、戦争中でしかも敗戦必至のこの段階で、日本は政治的に完全にアンコントローラブルに陥っていたのです。

1945年4月、内大臣木戸幸一によって重臣会議が招集され、後継総理を選ぶべく以下の人間が集められました。

若槻 礼次郎(元首相)
岡田 啓介(元首相)
広田 弘毅(元首相)
近衛 文磨(元首相)
平沼 騏一郎(元首相)
東條 英機(元首相)
鈴木 貫太郎(枢密院議長)
木戸 幸一(内大臣)


※「枢密院」とは戦前の日本にあった天皇陛下の諮問機関(意見を求める有識者会議)です。

この会議において、若槻、近衛、岡田、平沼の4人は、後継総理に枢密院議長であり元侍従長だった鈴木貫太郎を挙げました。この4人の中でも岡田は東條内閣を引きずり降ろし、暫定的に小磯内閣を作らせた張本人のくせに、舌の根も乾かぬうちに鈴木を支持とか、何をかいわんやであります(笑)。
しかし鈴木貫太郎は元々「軍人が政治にかかわるべきではない」という考えを持論として持っており、

「とんでもない話だ!断固としてお断りだ!」

と烈火の如く怒ってこれを否定しました。

ですが、「重臣会議」は建前上、内大臣が招集した形になっていますが、実際はその前にすでに根回しが出来上がっているのが常であり、この時も、すでにそうなっていたのです。
つまり先の4名だけでなく、内大臣の木戸も鈴木支持に回っていたことになります。東條は会議当初は鈴木の擁立に反対していましたが、岡田に寄り切られた形でしぶしぶ鈴木を支持することなり、重臣会議は全員一致で鈴木を首相とすることに決しました。

呆れたのは当の鈴木自身です。
本人の知らぬところであれよあれよと決まってしまったものですから、さあ大変です。

内大臣の木戸が天皇陛下(昭和天皇)に重臣会議の結果を奏上すると、陛下は鈴木を呼び出し、鈴木に対して「組閣の大命」を下しました。戦前の日本では、首相は天皇の指名で選ばれ、組閣を命じられていたのです。しかし、鈴木は

「誠に恐れ多いことながら、私は海軍の出身であります。軍人が国政を預かることは決して宜しからずと存じます。何卒ご容赦くださいませ。何卒、何卒......」

と、繰り返し固辞します。
しかし、天皇陛下は「鈴木よ」と声をかけられ、

「おまえの言いたい事もおまえの気持ちもよくわかる。だが、戦争の激化しているこの重大な局面において、もう他に人はいないのだ」

と鈴木を諭すように言った上で

「鈴木よ、だから、どうか、頼むから、引き受けてくれ」

と言葉を続けられました。
この言葉に鈴木は自らの主義とワガママを通せなくなり、ついに組閣の大命を拝受します。

1885年12月22日に伊藤博文が大日本帝国の初代内閣総理大臣に就任して以来、現在に至るまでの128年間、天皇陛下から「どうか頼む」と言われて就任した首相は鈴木貫太郎の他にはいないでしょう。

そして天皇が鈴木に望んだことはただ1つ
「大日本帝国陸海軍や帝国臣民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」
この一点だけでした。
その意向に応えるべく、鈴木は77歳の老体に鞭打って不眠不休で終戦工作に奔走します。

西暦1945年(昭和二十年)8月9日、同年7月28日にアメリカ、イギリス、中国の3国(以下連合国)の国家主席の名前で日本に提示された無条件降伏(ポツダム宣言)受諾の可否について、天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)が開催されました。

参加者は
鈴木 貫太郎(首相)
東郷 茂徳(外務大臣)
阿南 惟幾(陸軍大臣)
米内 光政(海軍大臣)
梅津 美治郎(陸軍参謀総長)
豊田 副武(海軍軍令部総長)
平沼 騏一郎(枢密院議長)


会議の内容は、東郷外相による1条件(天皇の地位の保障)付での受諾案と、阿南陸相による4条件(天皇の地位の保障、武装解除の日本側実施、東京を占領対象から除外、戦犯は日本側で処罰)での受諾案が提示され、米内と平沼は東郷案に賛同。梅津と豊田は阿南案に賛同しました。つまり3対3の同数にまっぷたつに割れてしまったのです。しかし、これは鈴木の狙い通りの展開でした。

鈴木は文官と軍部で考えが全く違う事をよくよくわかっていました。故に「天皇の名の下に始まった戦争を誰しもが納得する形に終わらせるには、天皇の御聖断しかありえない」という考えに行き着き、その為の演出を施したのです。

日が変わり8月10日午前2時頃、鈴木は会議の席上で起立し

「議論は出尽くし、意見は別れ、もはや収拾の余地がありません。誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が陛下の御前にまかり出て、陛下の聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」

と申し上げて天皇の御前に向かうと、天皇陛下は

「朕は、先程からの外務大臣の案に同意である。陸軍大臣ならびに軍令部長の弁を聞くに、現状として陸海軍の本土決戦準備がまったくできていない。この状態でこのまま戦いを続ければ、さらなる犠牲は勿論、最終的に日本という国がなくなってしまう可能性すらある。それだけは避けなくてはならない」

と仰られて、東郷案によるポツダム宣言受諾が決定されたのでした。

この「天皇の地位の保障と国体維持」の条件での受諾は連合国側に伝えられましたが、連合国は「天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定される」という回答だったため、従来通りの国体維持が困難になったことから、8月14日に再度御前会議が開催され、再度の天皇陛下の御聖断を仰いでいます。

そして「終戦の詔書」が発布され、翌8月15日正午、玉音放送がNHKラジオ放送で流されました。

鈴木は、内閣としての政治力ではなく、最終的に天皇陛下の御聖断を引き出すしか終戦に至れなかった責任を感じ、同日天皇に辞表を提出し、8月17日、鈴木内閣は総辞職となりました。

敗戦色濃厚な戦時下において、政治的にも混乱していた日本政府をまとめあげ、天皇陛下の意に沿った終戦工作を実施して、ポツダム宣言受諾を成し得たのは、この鈴木貫太郎の尽力によるところが大きいと私は思います。

68回目の終戦記念日において、どうか知っておいてください。戦争終結の影には「鈴木貫太郎」という人物がいたということを。
posted by さんたま at 01:11| Comment(0) | 昭和時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする