2013年09月22日

反乱軍が官軍に勝ってしまった戦い「壬申の乱」(上)

西暦672年(天武天皇元年)6月24日、古代日本史において最も大きな内乱であり、最大の親族戦争と言われた「壬申の乱」(じんしんのらん)が起きます。これは、大海人皇子大友皇子という2人の皇族が天皇の地位を争ってドンパチやった事件です。

これまで皇位争奪を巡って陰謀やら謀略やら暗殺やらはたくさんあったのですが、周辺諸国の兵や豪族などを用いてまともにドンパチやらかしたのは、日本史上これが初めての例だと思います。。

そして、日本史上非常に稀なことではあるのですが
「反乱軍が官軍に勝ってしまった戦争」
なんですね。実は。

今回はこれをテーマに取り上げたいと思います。

1.原因はなんなのよ?
これには諸説が色々あって定説をみないのですが、おそらく最大の原因は、時の帝だった天智天皇の親バカ&優柔不断が根本であることは間違いさそうです。

この天智天皇ですが、昔は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と名乗ってまして、その昔、西暦645年に中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に、独裁権力者だった大臣蘇我入鹿(そがのいるか)を天皇の御前で斬り殺し、蘇我氏を滅亡に追いやった張本人だったりします。あとトリビアとして「漏刻」(ろうこく)という水時計を日本で初めて作った人だったりします。

この天智天皇がどういう原因を作ったかと言いますと、西暦668年(天智天皇七年)8月1日、天智天皇が即位した時に、自分の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)を皇太弟のポジションに置きました。これが皇太子の意味を持つという説はありますが、私は単に天皇の弟で、天皇の執政の補佐というポジションにあったと仮定しています。

ところが、天智天皇はだんだん自分の子供である大友皇子が不憫なってきたんですね。大友皇子は今上天皇の子供なのに、次の天皇の地位は皇太弟である大海人皇子を一番近い地位に置いちゃったので、次の天皇の地位は難しかったんです。


2.天智天皇の嫌がらせ
悩んだ末に、天智天皇は大海人皇子に揺さぶりをかけはじめます。

まず西暦671年(天智天皇十年)正月2日、天智天皇は大友皇子を太政大臣というポジションに就ける人事を発表し、その4日後に「近江令」という新たな法令を発布します。そこには、政権運営は太政大臣1名、左大臣1名、右大臣1名、御史大夫3名の合計6人によって運営されるものと規定されていました。

これまで、天智天皇と大海人皇子の二人三脚によって運営されていた政治は、この時をもって近江令の政権体制に移ってしまったわけです。これは完璧に大海人皇子から実権を奪い、大友皇子以下で政権運営をさせ、自分の死後は大友皇子に皇位を譲ろうとする天智天皇の工作でした。

これに怒ったのが大海人皇子です。まぁ、当たり前ですよね。何の相談もなしに近江令だかなんだか知らないものが制定、施行され、気がつけば自分は政権の蚊帳の外に置かれてたんですから。ここまで露骨なハブり方は今の社会でもなかなかないと思います。

この頃から天智天皇と大海人皇子の兄弟仲はだんだんと悪くなっていきます。


3.大海人皇子、すべてを捨て吉野に隠棲
それから10ヶ月後の西暦671年(天智天皇十年)10月、天智天皇は病に倒れ、死期を悟ると蘇我安麻呂を遣わして大海人皇子を自分の病床に呼びました。その際、安麻呂は大海人皇子に向かって「有意ひて言へ(真意を察してお話なさいませ)」と語ったと言われています。

病床で起き上がることもできない天智天皇はその場で
「大海人、そちに後事を託す」
と告げます。

しかし先程の安麻呂の一言が気にかかり、それが天皇の本心ではないことを伺い知ると
「皇位は姉上(天智天皇の皇后)を立てて、大友皇子に執政を委ねるのが得策と存じます。私は出家して、遠く吉野の里で政治の行方を見ております」
と答えて、床から離れたと言われます。

皇太弟というポジションを捨てて、その日のうちに出家し、妻や子供達を連れて吉野宮に隠棲する態度まで取ったのは「皇位に興味がないことを公にするため」と言われますが、この時から大海人皇子には皇位簒奪の野心がバリバリあったんじゃないかと思うんです。この吉野隠棲はあくまでもカモフラージュにすぎなかったんだと。


4.大海人皇子の暗躍
西暦671年(天智天皇十年)12月、天智天皇、近江宮にて崩御。

大友皇子は即位せず、あくまでも朝廷の代表者として太政大臣を兼ねて、左大臣の蘇我赤兄、右大臣の中臣金らと共に政治を混乱なくまとめようとします。

ですが、天智天皇の治世下において行われた「白村江の戦い」の出費や敗戦処理、都を飛鳥京(奈良)から近江京(滋賀)への遷都などが重なり、豪族や民人たちの朝廷への不満は臨界点に達していました。

大海人皇子の言う通り、故・天智天皇の皇后であった倭姫王が即位せず、大友皇子が朝廷の主導権を握ることになりました。ですが、前述の豪族達の不満をうまくグリップできていないこの状況を知った大海人皇子は、

「チャーンス、到来!」

と思ったに違いありません(汗)
なぜなら、ここから先の大海人皇子の行動が凄まじい早さで動いていて、ホントにこの状況を待っていたかのようだったからです。

西暦672年6月22日、大海人皇子は、美濃国安八磨郡(現在の岐阜県安八郡安八町)の湯沐令(皇族の領地の管理人)である多品治(おおのほんじ)宛に挙兵の準備と不破道(現在の岐阜県不破郡関ケ原町松尾)を閉鎖するように命じます。そして東国(関東地方)の豪族達に兵を集めて美濃へ来るように檄文を飛ばすと、二日後の6月24日に吉野を脱出し、伊賀国を抜けて伊勢国に入りました。

6月27日、大海人皇子は美濃国不破郡野上(現在の岐阜県不破郡関ケ原町野上)を本営として、東国からの兵の到着を待ちます。

一方で、近江朝廷のやり方に不満を持つ豪族達が、大海人皇子とは別に独自に兵を起こそうとしている考えていました。そのうちの一人であった大伴吹負(おおとものふけい)は、6月29日、旧飛鳥京に駐屯してある朝廷軍を計略を用いて自分の手勢として旗下におさめてしまいました。

大海人皇子のこれらの行動は当然、近江朝廷も把握していました。大友皇子は東国(関東)と吉備国(現在の広島県東部から兵庫県西部にかけての広大な区域)と筑紫国(現在の福岡県中央部と西部)に兵の動員を命令しました。

しかし、東国はすでに大海人皇子の勢力下に入っており、命令が届く事すらなく、吉備、筑紫は共に在地豪族が朝廷の命令を聞かなかったことから、いずれも兵の動員に失敗しました。

さらに、前述の大伴吹負が旧飛鳥京に駐屯していた朝廷軍を奪ったため、朝廷の兵力は著しく低下しておりました。

西暦671年7月2日、東国の兵を結集する事に成功した大海人皇子は、隊を2つに分け、一隊は自分の長子である高市皇子(たけちのみこ)が率いて美濃路から、もう一隊を大伴吹負が率いる別働隊と合流させて大和路から、近江への総攻撃を命じました。

ここに、大海人皇子は敢然と近江朝廷に対して反逆の軍を挙げたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 23:17| Comment(0) | 大和時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月17日

日本初の能力主義人事制度は「冠位十二階」

我が国は長い間、年功序列の人事評価制度でしたが、バブル崩壊後から能力、実力に見合った人事評価制度が多くなりました。これはこれまでの秩序を破壊するということで、賛否両論あったわけですが、実はこういう人事評価制度は実は大和時代からあったんです。今日はそれをご紹介します。

歴史書『日本書紀』によれば、西暦603年(推古十一年)12月5日、時の帝であり、史上初の女帝である推古天皇は、「冠位十二階」を発布します。これは天皇を輔弼する摂政厩戸皇子(うまやどのおうじ / またの名を聖徳太子)と、臣下として天皇の治世を支える大臣蘇我馬子(そがのうまこ)によってまとめられた「我が国最初の能力実力人事評価制度」だったのです。


1.冠位十二階以前の評価制度
大和朝廷においての人事制度は、氏(うじ)姓(かばね)によって支配されておりました。
「氏」とは天皇に仕える血縁上の同族集団を指し、その集団が土着した場所、天皇から与えられた仕事の内容、もしくは天皇から与えられた文字を取って氏を名乗りました。

一方「姓」とは、天皇によって与えられた職務(役目)や政治的ポジションを指し、それに任じられた氏が与えられた姓を代々引き継ぐことから、この制度は「氏姓制度」(しせいせいど)と言います。蘇我馬子の大臣(おおおみ)も1つの姓です。

大和朝廷は長年、この「氏姓制度」によって朝廷の意思決定や執行機関を機能させてきました。しかし推古天皇の時代に入ると朝廷の機構も多様化が進み、こなしていく実務が膨大に増えてきたため、従来の氏姓制度では適材適所に人材を活かしきれないという問題を抱えはじめていました。


2.冠位十二階の制定
推古天皇の摂政を務めていた厩戸皇子は、この氏姓制度の問題点にいち早く気づき、朝廷の中に新しい人事制度を作る必要を感じていました。皇子は蘇我馬子の協力を得て、近隣諸国の制度を参考にしながら、新しい人事制度を作成していきます。それは、氏素性や姓に関係なく、個々人の能力やこれまでの功績を考慮し、それを「冠位」の色という形で第三者にも明らかにするというものでした。

冠位十二階は、徳、仁、礼、信、智というそれぞれの6つの大階層にそれぞれ大小の区別を与え、十二の階層に仕立てたものでした。つまり位の高い順に並べると

大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大智、小智

という形になり、それぞれ色が分かれていました。


3.能力実力主義の評価制度
冠位十二階の最も大きな特長は、「個人を対象」とし「その能力と功績」によって位が評価され「世襲できない」ところにあります。

それまでの氏姓制度は、その個人がそれだけ優秀だろうが、あるいはどれだけスカポンタンだろうが、大臣の家なら代々大臣の職につき、連(むらじ)の家なら代々連の職につくという制度であり、個人ではなく氏単位で評価され、その職は必ず世襲されていきました。

冠位十二階はこれを完全否定し、対象は氏ではなく個人、評価基準は実力と功績、そして世襲ではなく一代限りとしました。

そしてもう1つの大きな特長は「昇進が可能」ということです。
氏姓制度では姓は世襲でその姓からより天皇に近いポジションに着くことは、天皇の意思でなくして個々人の努力では不可能でした。しかし冠位十二階であれば、世襲ではなく一代限りでありますが、働き度合いに応じて、位が上がっていくことが可能だったのです。

例えば、遣隋使を務めた小野妹子(おののいもこ)は、随に渡った時は「大礼」の位でしたが、後に彼は最上位である「大徳」に上り詰めています。

こんなことは氏姓制度上では絶対にあり得なかったことであり、それだけ「冠位十二階」の制度が当時としては画期的でかなりユニークな制度だったということになります。


4.冠位十二階が与えた歴史的インパクト
冠位十二階は、我が国ではじめて「冠」と「位」を定義づけ、個人能力の優劣を視覚的に明らかにした制度でした。人事評価によってポジションを変えることは今では当たり前ですが、この当時としてはかなりエポックメイキング的なものであったことは間違いないでしょう。

冠位十二階は、西暦647年(大化三年)に十三階に改訂され、その後もこれをベースに改訂されていきました。

西暦649年(大化五年)冠位十九階
西暦664年(天智天皇三年)冠位二十六階
西暦685年(天武天皇十四年)冠位四十八階


正直、どこまで位が増えて行くの?と思いたくなる感じですが、それだけ朝廷の業務が増え、ポストを新設しないと業務が回らなくなっていたんだと思われます。

そして、西暦701年(大宝元年)、我が国最初の法律と言える「大宝律令」が成立すると、冠位四十八階をベースにして、位と仕事を一体にした官位相当制(官位によって、担当する仕事がセットで法に定められる)に全面改訂され、以後は細かい変更はあれど、大きな変動はありませんでした。

日本の能力主義の人事評価は、欧米流と言われたこともありましたが、その源は大和時代にあったのです。
意外と日本人に合ってるのかもしれませんね。
posted by さんたま at 02:22| Comment(0) | 大和時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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