2013年10月09日

反乱軍が官軍に勝ってしまった戦い「壬申の乱」(終)

西暦672年7月23日、近江朝廷の総大将、大友皇子の自害を以て「壬申の乱」は終結しました。これは古代日本史上最大の内乱で、反乱軍が官軍に勝って皇位を簒奪した事件ですが、これがこの後の日本という国体において、どういう影響を与えたのかに触れて、この章を終わりにしたいと思います。

1.中央集権国家の建設
西暦673年2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮にて即位し、天武天皇となります。皇后に鸕野讃良皇女を立てた以外は一切の大臣を置きませんでした。政治は天皇と皇后、そして高市皇子を筆頭とした一部の皇族によって運営されました。これを皇親政治と言います。これは豪族の台頭を制限すると共に、皇族に権威を持たせ、その最上にある天皇が権力の中枢にあることを世の中に示したことになります。つまり天皇が目指したのは天皇を政権の中枢においた中央集権国家の建設だったのです。

天武天皇即位から三ヶ月後の同年5月、天皇は畿内豪族の朝廷への出仕法を定めました。これは天皇の権威を高め、壬申の乱によって乱れた官僚の制度を再整備するのが目的でした。それはやがて畿外の豪族にも適用されていきました。

さらに西暦675年2月、天皇は豪族が有する私有民(家臣)や土地、山林、池など私有財産を悉く国家に返せという命令を出します。さすがにこれは豪族から凄まじい反発が出ました。豪族に取っての私有財産は「権威同然のもの」だったからです。しかし天皇はこの反発を権力を以てねじ伏せました。簡単に言うと、文句を言う人間を次々と謀反人扱いにして処罰し、朝廷から追放、流罪にしたのです。

この頃の天武天皇はまさに独裁者でした。ですが、それは彼の中の強烈な信念である「中央集権国家を建設する」ために必要な措置であり、それを実現する為には「あえて鬼になる」つもりでした。

西暦675年10月、諸王以下の一部の有位者に限って武器の私有を認める→御所の治安と軍事力の向上。
西暦676年1月、国司任命に必要な位を定める→中央による地方支配の確立。
西暦678年10月、官人の勤務成績を評価する「進階の制」を制定する。

こうして国家における中央支配と地方支配の再整備を一段落させた天皇は、西暦681年2月、兄の天智天皇を見習い、新たな法律の制定に取りかかります。これは「飛鳥浄御原令」(あすかきよみはられい)と言われ、後の大宝律令の原型になったものです。しかし、これは天皇の存命中には完成せず、後の持統天皇によって公布されました。


2.八色の姓の制定
かつての聖徳太子の「冠位十二階」の導入によって、それまでの氏姓制度による「姓(かばね)」の概念は崩れ、一代限りの能力主義に移行したものの、長年続いた「姓」自体は、蘇我氏の大臣を筆頭に根強く生きていました。さらに大化の改新によって新たな支配体制が築かれ、壬申の乱による近江朝の滅亡や没落した貴族もあったことから、このわずか三十〜四十年間で貴族間のポジションが、わけの分からない混沌(カオス)状態になっていました。

中央集権国家を目指す天武天皇にとって、政治を行うのは皇族であっても、それを実際に世の中に執行するのは豪族達であるので、氏族統制は国家の要とも言うべき問題でした。西暦681年、天皇は各氏族に氏上(うじのかみ/一族の責任者)を定める命令を出しましたが、その氏がどのポジションに位置するのかが不透明で、これをどう官僚化させるかが天武天皇の大きな問題でした。

西暦684年10月1日、天皇は「八色の姓」を発布しました。
これは、従来の姓を廃止し、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)という八種類の姓を新たに制定し、これを準皇族、遠皇族、非皇族、下級官僚に大別して、下記の通りに賜姓しました。

真人(まひと):継体天皇以後の皇裔氏族<準皇族>→十三氏
朝臣(あそん):旧来の臣姓の有力氏族<遠皇族>→五十二氏
宿禰(すくね):旧来の連姓の有力氏族<非皇族>→五十氏
忌寸(いみき):旧来の国造、渡来人系<その他>→十一氏
※道師(みちのし)、稲置(いなぎ)は賜姓なし
※臣(おみ)、連(むらじ)は旧来から続く姓だが、実質的に大幅格下げ。

これにより、従来より存在していた氏姓制度は完全に廃止されました。しかしこれでは旧来の氏姓制度を単に改訂しただけに過ぎません。天皇はこの「八色の姓」を制定後、さらにもう1つの爆弾を落とします。それが「親王諸王十二階・諸臣四十八階」でした。


3.親王諸王十二階・諸臣四十八階の制定
西暦685年正月、天武天皇は新たに「親王諸王十二階・諸臣四十八階」を制定しました。これは「明、浄、正、直、勤、務、追、進」の名称からなる六十の爵位を定め、明と浄のみの十二階を皇族用の爵位とし、残りの四十八階を豪族達の爵位としたものです。

この制度の大きな特徴は、これまで冠位制度の「枠外」とされていた皇族も爵位授与の対象としたことです。日本書紀によれば、天武天皇の第二皇子草壁皇子が浄広壱(第六位)、大津皇子が浄大弐(第七位)、高市皇子が同じく浄広弐(第七位)、川島皇子と忍壁皇子には浄大参(第九位)が与えられたとされてます。

これにより、爵位を持たないのは天皇と皇后だけになり、天皇の皇子も「天皇の臣下の一人に位置づけられる」ということを世の中に知らしめたことになります。これは当時としてはかなりの衝撃的なことだったと思います。

そして先の「八色の姓」とセットになっている所以は、真人、朝臣、宿禰、忌寸の四姓の中から、天武天皇が考える中央集権国家を担うに相応しい能力のあるものを高位の爵位、高官に抜擢して政府指導層に引き上げたことです。これは従来の氏姓制度では実行する事は難しく、また、天武天皇直参ともいえる官僚を編成したとも言えます。

つまり天武天皇は旧態依然とした従来の氏姓制度を完全に破壊する代わりに新しい氏姓制度として「八色の姓」を作り、皇族や豪族の序列を作っておきながら、それを自分の皇子も含めて「臣下」という位置づけにし、能力のあるものは爵位を以て抜擢するという新しい官僚制度を作り上げたことになります。これが以前にも増して天皇の権威と権力を高める結果になったことは言うまでもありません。


4.吉野の盟約
壬申の乱によって誕生した天武天皇は、これまでの古代日本にはなかった天皇を中心とした中央集権国家の建設と、氏族統制における豪族の官僚化を成し遂げたと言えると思います。「独裁者」でありつつも、時には「八色の姓」制定時におけるように、皇族と豪族の間の「調和」を考える天皇だったと考えます。その天武天皇にとって頭の痛い問題が後継者問題でした。

なにしろ自分自身が自分の甥を殺して皇位を簒奪してますから、自分の死後兄弟間の争いが行われる事を最も危惧していたでしょう。

そこで西暦679年(天武天皇八年)5月5日、天武天皇と鸕野讚良皇后は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、施基皇子を連れて吉野に行幸しました。吉野は天武天皇が大海人皇子と名乗って出家して隠棲した場所でした。

天武天皇はこの場所で草壁皇子を皇太子とすることを宣言し、他の皇子たちの了承を取って、お互い助け合って相争わないことを誓わせました。草壁皇子が皇太子と決まったのは、彼が天武天皇と皇后の実子だからに他なりません。もちろんこの当時は長子相続が当たり前ではなかったのですが、おそらく皇后の意向が強く働いたのだと推測されます。

天皇の資質という面で言えば、実績面では高市皇子、人望という面では大津皇子だったでしょうが、高市皇子は母親の身分が低く、皇位を望むべくもないことは理解していました。大津皇子は皇后の姉(大田皇女)の子だったので皇位継承はあり得たでしょうが、いかんせん母が早逝した為、有力な後見人がいませんでした。川島皇子と施基皇子は天智天皇の子なので最初から対象外なのですが、叛乱でも起こされてはたまらないと思ったのか、この誓いに同行させたようです。

西暦681年(天武天皇十年)2月、草壁皇子が立太子。

しかし、この決定を一番迷っていたのは当の天智天皇でした。天皇は草壁皇子を皇太子と決めたにも関わらず、西暦683年(天武天皇十二年)2月、天武天皇は大津皇子を朝政に参加させています。これがどういう意味合いかはわかりません。草壁皇子の補佐としてなのか、それとも皇太子を廃嫡させるつもりだったのか。しかし、政治に関しては独裁者と言われるほど厳格な天皇が、自身の後継のこととなると優柔不断と言われても仕方ないですね(汗)。まぁ、人間らしくていいですが。


5.天武天皇の死後

西暦686年(朱鳥元年)9月11日 天武天皇 崩御。

壬申の乱は古代日本最大の内乱でしたが、その結果生まれた天武天皇によって、これまでの合議制的な朝廷は破壊され、天皇にすべての権力が集まり、豪族が官僚化され、日本の律令政治の基礎が築き上がったのだと私は思います。

天武天皇の死後から一ヶ月も経たない同年10月2日、川島皇子の讒言により、大津皇子が謀反の疑いがかけられ、皇子は自邸にて自害しました。本当に大津皇子が謀反を企んでいたのか、またその内容はどういうものだったのか、何の記録もないのでハッキリとはわかっておりません。

天武天皇の死後は、皇后が称制して政務を執りました。天武天皇の死後すぐ草壁皇子を即位させなかったのは、大津皇子死後の動揺が朝廷内に広がっていたからだと言われています。しかし、そんな草壁皇子も西暦689年4月13日死去してしまい、結局皇位に就くことはありませんでした。

西暦690年1月、皇后は即位し持統天皇となりました。そして天武天皇の政治路線を堅調に維持し、やがて時代は奈良時代へ移って行くのです。

(このシリーズおわり)
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2013年10月07日

反乱軍が官軍に勝ってしまった戦い「壬申の乱」(下)

西暦671年7月2日、東国の兵の集めた大海人皇子は、美濃国野上(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町野上)を本陣とし、全軍およそ4万の軍勢に出陣の命令を与えました。

第一方面軍の司令長官は大海人皇子の第一皇子である高市皇子(たけちのみこ)です。長男でありながら母親の身分が低かったので他の皇子(大津皇子、草壁皇子他)から低く見られていましたが、大海人皇子の中で最も年長(当時20歳ぐらい)でしたので、一軍の将として前面に立ち、兵の士気を高めました。

第一方面軍は不破から近江路を通り、琵琶湖の東岸から大津に攻め上がるのをミッションとしていました。

一方、第二方面軍の司令長官は紀阿閉麻呂(きのあへまろ)が就任し、数万を率いて倭京でゲリラ的な展開をしている大伴吹負を助けるべく、大和路を目指して進みました。

第二方面軍の大和および奈良盆地の戦いは、前のエントリーでアップした通りですが、ここでは本隊である第一方面軍の戦いを描いていきます。

ですが、その前に。。。この事態を大海人皇子の敵である「近江朝廷」がどう把握していたのかを説明致します。

1.近江朝廷軍の動き〜おいおい、内輪もめ?〜
近江朝廷だってバカじゃありません。そして大海人皇子の吉野行きが単なる隠棲とも思っておりません。大海人皇子が吉野に隠棲している時から、密かに密偵を放って、所々行動の把握はしておりました。ですが、大海人皇子が吉野を出奔した際に密偵の目をくらましており、そこから対応が完璧に後手後手になってました。

しかし、大海人皇子が兵を集めている事実を知ったからには朝廷を手をこまねいてみているわけではありません。東国に向けて大海人皇子に味方しないように勅令を放ちますが、美濃国不破で見事に大海人皇子の手の者に捕まってしまいます。

事の次第を重く見た近江朝廷は、山部王(やまべのおおきみ)、蘇我果安(そがのはたやす)、巨瀬比等(こせのひと)の三人の将軍を不破に向けて出陣させました。不破に向かった三武将は犬上川(滋賀県東部を流れる川)付近で陣を張りましたが、西暦671年7月2日、この三人の間で内輪揉めが起き、なんと果安と比等が山部王を殺してしまう事件が起きてしまいます(まったく、いったい何をやってるのか......(汗))。喧嘩の原因は今でも分かっていません。

翌7月3日あたりに、大海人皇子第一方面軍はこの果安と比等の二将率いる朝廷軍と玉倉部(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町玉)で戦闘になっていますが、第一方面軍の勝利に終わっています。

前日に三人のうち一人が殺され、しかも殺した二将に従わなくてはならない山部王の軍勢は士気が上がるわけもなく、おそらく、この朝廷軍は軍としての統制が取れていなかったのではないかと思われます。現に果安は近江に帰国後、責任を感じて自殺しています。巨勢は壬申の乱終結までの動きが分かっておらず、最終的には流罪に処されました。


2.倉歴の戦い
蘇我果安、巨勢比等の連合軍を打ち破った第一方面軍は、莉萩野(たらの / これが現在のどこを指すのかわかりません)の地と伊賀と近江を繋ぐ鹿深道(滋賀県土山町)に3000の兵を駐屯させて、近江と伊賀の連絡を遮断させる方策を取ります。

7月5日、第一方面軍は西へ進軍を進め、倉歴(現在の滋賀県甲賀市)で朝廷軍(田辺小隅軍)とぶつかり、夜戦となりました。

田辺軍は合言葉を使うことで暗闇で敵味方を区別し、同士討ちを防ぎ、軍としての統制が取れた戦術を展開していました。しかし、第一方面軍は視界がきかず統制がとれすで戦術、戦略的になす術がなく、多数の兵を失って敗走せざる得ませんでした。

敗走した第一方面軍への追撃を行う田辺軍でしたが、第一方面軍が莉萩野まで撤退すると、莉萩野に駐屯していた多品始率いる無傷の3000兵がこれを迎撃。田辺軍を散々に敗って、逆転勝利に導きました。敗れた朝廷軍の大将の田辺小隅はこの戦で行方不明になっています。


3.村国男依の活躍
7月7日、第一方面軍は進軍を続け、ついに近江に入り、息長横河(滋賀県米原市を流れる梓川あたりか?)まで軍を進め、ここでも朝廷軍と戦闘状態になります。高市皇子の補佐役である村国男依(むらくにのおより)が全軍を指揮し、朝廷軍を敗走せしめます。

村国男依はこの後、7月9日の鳥籠山(場所不明、恐らく滋賀県近江八幡市あたり?)の戦い、7月17日の栗太郡(近江国府 / 現在の滋賀県大津市、栗東市付近)の戦い、7月22日の三尾城(現在の滋賀県高島市付近?)の戦い、も引き続き指揮を執り、連戦連勝で快進撃を続けました。

おそらく第一方面軍の戦闘指揮は最初は高市皇子が取っていましたが、倉歴の戦いの序盤で敗戦し、その後逆転させたのは村国男依の指揮によるものではないかと思われます。実質的な大将はたぶん彼だったのでしょうね(そもそも若干20歳の高市皇子に数万の軍勢を指揮できるわけがない)。


4.決戦!瀬田の戦い
7月22日、三尾城の戦いに勝った第一方面軍は瀬田川(現在の大津市瀬田にある「瀬田の唐橋」)に軍勢を進めました。瀬田川の東岸に第一方面軍が陣を張り、川を挟んで西岸に大友皇子率いる朝廷軍が陣を張っていました。しかし、兵力では朝廷軍の方が勝っていたようです。

川を挟んでの戦いは弓が主力兵器になるため、双方弓を射かける戦いで始まりました。瀬田川の東西を結ぶ瀬田の橋を渡って、歩兵で攻め込めば戦を有利に進められると考えた高市皇子でしたが、それは敵も同じなのに敵は橋を渡ってきません。

「なにかある」

そう思った男依は部下に命じて橋を調べさせると、なんと、橋の中程の床板が可動式になっていました。第一方面軍の軍勢が橋を渡り、床板に乗ると朝廷軍が綱を引き、橋の床板が外されて、床板の上の兵は川に落ちるような仕掛けになっていたのです。

「橋を大軍で渡るのは自殺行為です」
男依が高市皇子に進言すると
「しかし、これでは埒があかんではないか」
高市皇子も反論します。

矢戦では弓兵の数が物を言います。元々兵力は朝廷軍の方が上ですので、第一方面軍は少しずつですが、兵を損ねつつありました。高市皇子の言う通り、このままの持久戦は命取りです。また橋が朝廷軍の手中にある以上、地の利も不利でした。

さすがの男依も打つ手なく一時三尾城へ撤退も考えていた頃、大海人皇子の皇子の第三皇子である大津皇子付きの将だった大分稚臣(おおいたのわかおみ)が、突然「うおおおお!」と喚声を上げながら橋の上に乗り、刀を抜いて突進していきました。

朝廷軍も稚臣に気づき、数名の弓兵が即座に稚臣に矢を射かけ、稚臣の体に次々と矢が刺さりますが、稚臣は鎧を重ね着しており、矢は体に達していなかったため、動きが止まるなく全速力で朝廷軍に向かって突っ込んでいきます。

そして仕掛けられた橋の床板を踏んで大きく跳躍し、床板を外す仕掛けになっていた綱の近くに着地すると、その綱を刀で切断しました。その間、体中に十数本の矢を受けた稚臣は切断した綱を大きく掲げて、「よっしゃあ!」と勝ち時を上げると形勢逆転。

「稚臣に続け!」

男依が全軍に命令し、次々と対岸へ攻め入ります。朝廷軍は橋を奪われたことで戦意を喪失し、三々五々散り散りに敗走していきました。第一方面軍は深追いをせず、残った兵で軍としての体勢を整えると、朝廷の本拠地である大津京に向けてゆっくり進軍して行きました。


5.大友皇子の死と乱の終結
一方、大友皇子膳所(現在の滋賀県大津市膳所)に本陣を構えていましたが、瀬田川の戦いが形成不利で敗走の報を聞くと、本陣を引き払い、近臣だけ連れて長等山(現在の滋賀県大津市園城寺町246、園城寺境内)に移ります。また、同日22日、倭京(旧飛鳥京)に駐屯していた第二方面軍は、難波へ進軍を開始し、別働隊の朝廷の残存兵力を叩いて難波を支配下に置きました。

そして翌7月23日、大友皇子はその地で自害しました。。わずか24歳の若さでした。それ以外の近臣は皆、大海人皇子の軍勢に捕らえられました。

7月26日、大海人皇子は、本陣である野上(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町野上)にて、大友皇子の首実検(実際に首を検分すること)を行いました。その後、大海人皇子は不破に留まって戦後処理を行い、8月25日に近江朝廷の主だった者の処分と論功行賞を行いました。

左大臣だった蘇我赤兄は子孫と共に流罪
右大臣だった中臣金は斬罪。子孫は流罪
御史大夫だった蘇我果安は前述の通り自殺巨勢比等は流罪紀大人はなぜかお咎なし

およそ一ヶ月に渡って続いた古代日本においての最大の内乱「壬申の乱」はここに終了しました。
皇位を争う戦いとしては古代史上最大であり、なおかつ、謀反を起こした反乱軍が勝って、正当に皇位を継承した朝廷軍が負けるという前代未聞の結果でした。

ある意味、力で皇位を簒奪したとも言えますが、天智天皇が己の政治のツケを残して死に、その後を継いだ大友皇子の政治では、そのツケが払われないと思った豪族達の不満が爆発し、その受け皿と成った大海人皇子が戦いに勝利したのは、道理と言えば道理かもしれません。

大海人皇子はその後も美濃に留まり、飛鳥岡本宮に拠点を移した後、西暦673年(天武天皇二年)2月27日 大海人皇子は即位して帝(天武天皇)の地位に就きました。

そして兄の天智天皇が行った政治を刷新(ハッキリ言うと否定)し、古代日本における律令政治の基礎を作りあげることになるのです。
次回はその政治体制について語って本章を終わりにしたいと思います。

(つづく)
posted by さんたま at 20:23| Comment(2) | 大和時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月28日

反乱軍が官軍に勝ってしまった戦い「壬申の乱」(中)

西暦671年7月2日、ついに大海人皇子は、東国の兵力を結集して美濃国不破(現在の岐阜県不破郡)で挙兵し、敢然と朝廷に対し反旗を掲げました。その兵力はおよそ4万。
大海人皇子は隊を2つに分けて二方向から、近江大津京を目指します。

第一方面軍:司令長官は高市皇子(たけちのみこ)。近江路を通り大津京へ
第二方面軍:司令長官は紀阿閉麻呂(きのあへまろ)。飛鳥京の大伴吹負への援軍として飛鳥へ

ここでは、大和路の戦いを追って行きたいと思います。

1.衛我河の敗戦
7月3日、飛鳥京に駐屯していた大伴吹負の軍(これを飛鳥軍と言います)は隊を2つに分けました。第一飛鳥軍は自分が率いて、第二飛鳥軍は坂本財という武将を司令官にしました。

第二飛鳥軍は進軍の途中、行きがけの駄賃代わりに、朝廷軍が籠る高安城(奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市に跨がっている生駒山地の南端にあった山城)を攻撃すると、高安城に籠っていた朝廷軍は米蔵に火をかけて大阪方面に撤退してしまいました。

7月4日、第二飛鳥軍は勝ちに乗じて、撤退する朝廷軍の追撃を続けました。その前に立ち塞がったのが難波(現代の大阪市中央区、浪速区)から攻め上がって来た壱支史韓国(いきのふひとからくに)率いる朝廷軍でした。
両者は衛我河(大阪府を流れる石川付近)で戦いとなり、第二飛鳥軍は大敗を喫して飛鳥京に撤退してしまいます。


2.飛鳥軍の一時壊滅
同日、一方の第一飛鳥軍も乃楽山(現代の奈良市北部)大野果安(おおのはたやす)が率いる朝廷軍と戦い、こちらも兵が散り散りになるほどの大敗を喫してしまいます。
果安はさらに飛鳥軍の駐屯基地である飛鳥京まで攻め寄せますが、高台から見下ろした京内に無数の盾が立てかけられていたのを「罠」と勘違いして攻め込まずにそこから引き返して行きました。
これが原因だったのかどうかは分かりませんが、果安はこれ以後、戦いの記録から名前が見えませんので、少なくとも大将のポジションからは降ろされたのではないかと推定されます。

一方で、敗れた飛鳥軍の大将の大伴吹負は飛鳥京に戻る事ができず、一時、宇陀(現在の奈良県宇陀市)に敗走せざる得ませんでした。

第一、第二飛鳥軍が共に壊滅寸前の時、美濃国不破からの援軍として第二方面軍司令長官である紀阿閉麻呂の与力の一人である置始兎(おきそめのうさぎ)の軍がこの窮地を救い、第一飛鳥軍はなんとか体勢を立て直します。

これは、紀阿閉麻呂が飛鳥軍の勢力で朝廷軍と当たるのは危険と判断し、置始兎に命じて1000騎の先行を命じた結果でした。おそらくここで置始兎の援軍がなければ、飛鳥軍は確実に壊滅していたと思われます。


3.飛鳥軍の復活と奈良盆地の制圧
7月5日、置始兎を軍勢を取り込んで体勢を立て直した飛鳥軍は、進軍を再開し、衛我河で第一飛鳥軍を敗った壱支史韓国率いる朝廷軍と、当麻(たぎま:現在の奈良県葛城市當麻)の地で激突。飛鳥軍はここで朝廷軍を完敗せしめます。敗れた壱支史韓国はこの地を退却し、その後の行方が分かっていません。

7月6日、勝ちに乗じた飛鳥軍は、紀阿閉麻呂率いる第二方面軍と合流して、さらに進軍を進め、箸墓(現在の奈良県桜井市箸中)に現れた朝廷軍(おそらく犬養五十君盧井鯨の軍と推定)と戦いとなり、これを敗りました。以後、大友吹負は進軍することなく飛鳥京に留まり、守りを固めることになります。

しかしこれ以後、奈良盆地での朝廷軍の戦闘記録なく、この時点で、大海人皇子は、奈良盆地を中心とした大和、飛鳥圏の制圧に成功したことになりました。大友吹負の奈良盆地での戦闘活動は朝廷側の兵力を割く結果となり、第一方面軍の援護射撃の役割を果たしたことになります。

これからしばらく飛鳥軍ならびに第二方面軍の動きはありませんが、7月22日、両軍は飛鳥を出発して難波へ移動し、難波を制圧していた朝廷軍と戦闘になってこれを敗っています。この日は第一方面軍が近江の瀬田で大友皇子と決戦となっていた日であり、これと連動した動きなのかどうかは分かっていません。

次回は近江大津京を攻めた本隊である第一方面軍の活躍をアップします。

(つづく)
posted by さんたま at 09:47| Comment(0) | 大和時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする