2019年05月06日

平成の政治史を振り返る(第3回:自民党・公明党の共同路線の確立)

平成を振り返る日本の政治史第3回です。

9、単独から連立に再び舵を切った小渕内閣
1998年7月12日に投開票された第18回参議院議員通常選挙(7月12日投開票)で自民党が大敗したことで、橋本龍太郎首相が引責辞任をした結果、自民党総裁選挙が行われることになりました。

当時の自民党最大派閥の竹下派は派閥会長が小渕恵三(すなわち小渕派)になっており、辞任した橋本も小渕派の出身であったため、後継には同じ小渕派で派閥会長でもあった小渕が次期総裁に順当なところでありました。

しかし、この決定に同じ小渕派の梶山静六(前官房長官)が反発。派閥を離脱して総裁選に立候補。
梶山は竹下派を離脱した無派閥であり、支持基盤を持たなかったことから、河野洋平率いる大勇会(河野グループ)、三塚派の亀井静香らを中心としたグループ、旧渡辺派(元は中曽根派)の議員など、派閥を超えて広く支持を求めました。

一方で三塚派内で亀井の梶山支持を不満とし、当時小渕内閣の厚生大臣だった小泉純一郎が立候補したため、総裁選は三つ巴の戦いに拡大していきます。

7月24日投開票が行われ、予想通り小渕が225票を獲得し、自民党総裁に選出されました。
ただし、無派閥である梶山は104票を獲得して2位につけたことは驚きを以って受け止められました。

三塚派から立候補した小泉は3位に沈みました。
これ、すなわち、小泉は自分の出身派閥である三塚派すら、支持が固められなかったことになります。

同年7月30日、小渕派国会で首班指名を受け、第84代内閣総理大臣に就任。
ただし、当時の参院は与野党がねじれて野党が優勢だったため、参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、衆議院の優越規定により辛くも小渕が再指名される流れになっています。

西暦1998年(平成10年)7月30日 小渕内閣成立。
平成10年目にして「平成おじさん」が内閣総理大臣になったわけです。

内閣官房長官に同じ小渕派の野中広務(副長官は鈴木宗男)を据えて中を固めると共に、大蔵大臣に首相経験者である宮澤喜一を。外務大臣には橋本内閣で外務政務次官として、西暦1996年12月に起きた「ペルー日本大使公邸人質事件」の解決で手腕を発揮した高村正彦を。そして農林水産大臣には、農林水産政務次官の経験もある中川昭一を。そして郵政政務次官として経験のある野田聖子を郵政大臣に起用しています。

野田は「当時閣僚史上最年少(37歳)」の閣僚でした。

小渕内閣は上記のような経験・実務中心の人材を配置する一方、経済企画庁長官には官僚出身で作家として活動していた堺屋太一を民間から起用しました。また、元東大総長で物理学者にして国会議員当選1回にすぎない有馬朗人を文部大臣に起用しています。

令和の今、この内閣布陣を見ると全体的に「当時としては最強の布陣」のように私には映りました。

またこの時、外務政務次官に町村信孝(のちの衆議院議長)大蔵政務次官に谷垣禎一(のちの自民党総裁)が就任しています。

小渕内閣の最初の仕事は、橋本内閣時代から引き継がれていた「金融安定」でした。

橋本内閣では同年3月、金融機能安定化措置法に基づく金融危機管理審査委員会の決定で大手銀行や一部地銀に対して総額1兆8千億円の公的資金が投入されていました。奇しくも宮澤が言っていた「公的資金を使って不良債権を処理しないととんでもないことになる」というのが現実として起きていたのです。

ところが6月に入り、月刊「現代」日本長期信用銀行(長銀)の経営危機をスクープ報道したことがキッカケで長銀の株価は急落していました。

日本長期信用銀行とは、長期資金の財源を金融債の発行によって賄い、これにより長期資金を供給できる特権を持った銀行で、銀行法の適用を受けない長期信用銀行法によって設立されたいわゆる特殊銀行の1つです。長銀と日本興業銀行(興銀)日本債券信用銀行(日債銀)がこれにあたり、3行まとめて「長信銀」と呼ばれていました。

6月22日、マスメディアは長銀と住友信託銀行(住信)との合併を発表。しかし金融市場はこの発表後に、合併先である住信の格下げを行い、住信の株価も急落したことから、住信内部で合併を躊躇するようになります。

小渕内閣成立後、政府主導で長銀と住信との合併を実現させよう調整しながら、金融安定のための法案作成も急ピッチで進めていました。

政府は金融再生法案をまとめて国会に提出しましたが、衆議院では民主党・自由党らの野党はこれに反対。そんな最中、長銀と住信の合併が破談となり、状況は「待った無し」に陥ります。

なおかつ参議院では野党勢力が上であるため、成立のためには野党・民主党の意向を丸呑みせざるえず、金融再生法が10月12日、続く早期健全化法が10月16日に可決成立。同月22日施行。

これを受けて長銀は10月23日、東京地裁に破産を申請。即日認定され、金融再生法における特別公的管理適用となり、国有化されました。

これを受けて長信銀も再編が進み、同年12月長銀よりも規模が小さかった日債銀も国有化され、興銀は、第一勧業銀行、富士銀行と共にみずほフィナンシャルグループを設立し、みずほ銀行となります。

なお、長銀は現在、「新生銀行」として、日債銀は「あおぞら銀行」としてそれぞれその命脈を保っています。


この金融安定問題で、自民党は現状の参議院のねじれ状態では、単独政権安定が難しいことを痛感し、この頃から一部の野党との連携を進めるようになります。

まず同年11月、小渕は自由党代表の小沢一郎連立政権の基本合意を行いました。
そして11月7日、「新党平和」「黎明クラブ」などの旧公明党グループが結集し新たに「公明党」を再結成しています。
これが現在の公明党です。

少々わかりにくいのですが、公明党は1994年に新進党に合流したため、この時「政党」としては無くなっていました。

もともと政権交代を目的に結集した新進党でしたが、創価学会員の組織票を恐れた自民党竹下派の切り崩し工作により、旧公明グループは新進党から離れていき、最終的には新進党分裂に行き着きます。分裂した新進党は一部が鳩山由紀夫率いる民主党へ流れ、小沢一郎率いる自由党が生まれたものの、旧公明党勢力は衆議院で「新党平和」、参議院で「黎明クラブ」を結成していたのです。

自民党は自由党との連立だけでは安定多数を維持することが難しいため、この新「公明党」に接近し、同月協議を開始。公明党が政策としてあげている地域振興券を補正予算に組み込むことを約束し、政権協力の合意に取り付けます。

西暦1999年1月、小渕第1次改造内閣が成立。
この時、自由党から野田毅が自治大臣(兼国家公安委員長)として入閣しています。
この時点では公明党は閣外協力でした。

これ以後の小渕内閣は、のちの日本に大きな影響を残した以下の重要法案を次々と成立させていますが、これには自由党ならびに公明党の協力なしにはできなかったと思われます。


・重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(1999年5月18日)

・国旗及び国歌に関する法律(1999年8月13日)

・犯罪捜査のための通信傍受に関する法律(1999年8月18日)


また、小渕はこの時、ミレニアムである2000年を記念して、今ではプレミアム紙幣とも言われている「二千円札」の発行を決定しています。


同年9月21日、自民党総裁選実施。

この時、小渕は無投票再選を見込んでいましたが、自民党内の「YKK」である加藤紘一(加藤派)と山崎拓(山崎派)が総裁選に出馬し、またしても三つ巴の戦いになりました。

結果は小渕が350票を獲得し、自民党総裁に再選。加藤と山崎は落選覚悟の立候補で、将来の総裁選を見込んでの出馬でしたが、これを小渕は終生恨み、組閣の時は両派閥が推薦する人材をことごとく拒否したと言われます。

同年10月5日 小渕第2次改造内閣成立。
自民、自由、公明(自自公)の連立内閣の誕生でした。

内閣の顔ぶれとしては大蔵大臣の宮澤喜一と経済企画庁長官の堺屋太一は留任とし、外部大臣に村山内閣で実績のあった河野洋平(元総裁/河野グループ)を起用しています。

また、内閣官房長官に青木幹雄(党参院幹事長)。文部大臣に中曽根弘文(中曽根康弘の息子)。運輸大臣に二階俊博(現:自民党幹事長)らが初入閣しています。なお二階は当時自由党からの入閣です。

連立のパートナーである公明党からは、続 訓弘が総務庁長官として入閣していました。

また政務次官としては

外務政務次官:山本一太
通商産業政務次官:茂木敏光
建設政務次官:岸田文雄
経済企画政務次官:小池百合子


らの名前が見られます。

自民党は与党の安定政権のため、自由党、そして公明党を政権に取り込みましたが、この頃になると連立与党内で自由党の扱いが不安定になり始めていました。数の上では自民と公明だけで衆議院、参議院共に過半数を維持できるため、自由党の意向を政権に反映させる必要性が低かったというのもあります。

こういう時期を見るのに聡いのが小沢一郎でした。

西暦2000年(平成十二年)2月、小沢は自由党の存在意義を政権内に表すため、衆院の比例代表区定数を20削減する定数削減法を自民党に要求し、これを実現させると、自民党に選挙協力を求めますが、小渕はこれを巧みにかわします。

業を煮やした小沢は自民・自由両党の合併による新しい保守新党の設立を小渕に要求するものの、「小沢と一緒の政党ではやっていけない」という自民党議員の反発が生じ、小沢も「復党が認められなくれば連立解消」という主張を譲らず、4月1日の党首会談で決裂してしまいます。

同日午後、小渕は記者会見(定例会見?)時に記者から自由党の連立離脱に関する質問された時、10秒前後固まってしまい、その後、我に帰ったような表情でようやく言葉を発することができるという奇妙な現象が見られました。そして当日夜(正確には翌日4月2日の午前1時頃)、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院してしまいます。病名は脳梗塞でした。

小渕の入院後、この記者会見時の奇妙な間は一過性脳虚血発作という脳梗塞の前兆であると言われました。

小渕は心臓に持病を持っているにも関わらず、首相となり、その激務が脳梗塞を引き起こしたと考えられています。

もともと根が真面目であることから、執務終了後も大量の書類、書籍、新聞の切り抜きに目を通し、溜まっているテレビ録画を見、休日返上で様々な場所に出向き、また外遊もこなしていました。それに加え、様々な政策について有識者に意見を聞くために電話をかけまくっていたため(ブッチホン)、正直、気の休まることはなかったと思われます。


官房長官である青木が小渕の入院を知ったのは、小渕が入院した1時間後の2日午前2時頃と言われています。午前6時頃、小渕の主治医が青木を訪れており、この時に話を聞いた青木は小渕の「執務不能」を判断したと思われます。

ここから先は事実をベースに推測を交えて綴りますが、青木は小渕の「執務不能」の現実に官房長官としてどう対処するかと突きつけられつつも、そのための時間はほとんどありませんでした。取り急ぎ青木は自民党幹部の以下の4人をホテルニューオータニに緊急招集しました。

森 喜朗(自民党幹事長/森派会長)
野中広務(自民党幹事長代理/小渕派)
亀井静香(自民党政調会長/江藤・亀井派)
村上正邦(自民党参院議員会長/江藤・亀井派)


この時、党三役の一人である総務会長・池田行彦(加藤派)の出席がなかったのは、体調不良によるものでした。
すなわちこの時点で小渕内閣を支える主流派閥のトップがほぼ揃っていたのです。

ここで青木は小渕の病状が脳梗塞であり、首相としての執務は不可能であることを他4人に話し、善後策を協議しました。
おそらく、ここで「青木が総理大臣臨時代理を引き受ける」というシナリオができたと思われます。

2日午後7時、青木が順天堂大学医学部附属順天堂医院の小渕を訪れました。
ここで、青木は小渕より「あとを頼む」と臨時代理任命されたと言われます。

2日午後11時、青木が記者会見で小渕の入院を正式に公表し、その後3日午前0時、上記五人組により今後の事態の協議が行われました。

内閣総理大臣臨時代理はあくまでも「臨時代理」であり、正式なものではありません。小渕の回復が難しい現状において、青木が取るべき策は内閣総理大臣臨時代理としての地位を以って、内閣を総辞職し、新しい内閣を組閣することでした。

よってこの時の「今後の事態の協議」は必然的に「後継総裁・総理を誰にするか」でした。

江藤・亀井派の村上と亀井は森を後継に推挙しました。この時は、もうそういうシナリオができていたのか、野中は公明党に「森でいく」という了解を取り付けていたようです。結果、森が後継総裁となることで合意され、今後のスケジュールもこの時固まったと見られます。

3日午前11時、青木が記者会見し、小渕の病名を「脳梗塞」と公表し、小渕の意思で内閣総理大臣臨時代理に就任したと発表します。
この発表は「脳梗塞状態の小渕に代理指名が可能かどうか」の疑惑が起き、野党は一斉に批判しました。

しかし、政権与党としては自由党の連立離脱の流れに動いている渦中において、小渕の入院を理由に総裁選を行い、政治的空白を作ることは政治家としては許されないことであり、この時集まった4人(青木を含めて五人組)は、この時、世論に何を批判されても甘んじて受けるつもりだったと思われます。

4月4日、小渕内閣総辞職。

小渕の在任期間は通算616日(1年9ヶ月あまり)でしたが、長信銀の処理に伴う金融の安定、前述の通りのちの日本に大きな影響を与えた重要法案の可決二千円札の発行。そして令和の現在まで続く自民と公明の共同戦線の確立など、今から見れば、ここがのちの日本の分水嶺だったのかと思える内閣でした。

そして自民党内の話で言えば、派閥会長である小渕を失った小渕派は、前首相だった橋本を派閥会長に据えて急場を凌ぎますが、旧竹下派分裂の影響で次期総裁候補の人材不足に陥っており、これ以後、自民党の主流は福田赳夫の流れを組む森派に移っていくのです。


10.自らの健康を犠牲にして政治を行なった森内閣
西暦2000年(平成十二年)4月5日、前日の小渕内閣総辞職により、衆参両院本会議で森首相が内閣総理大臣に就任し、同日、第1次森内閣が正式に発足しました。ただし、内閣官房長官を含めて全て前内閣からの再任者で組閣されました。

連立離脱した小沢一郎の自由党内部では、政権与党の残留を希望した野田毅、海部俊樹らによって新たに「保守党」が結成され、与党への協力を維持したため、この連立政権は「自民・公明・保守(自公保)」となりました。

5月14日、入院中の小渕が死去。この翌日、森は神道政治連盟国会議員懇談会に出席し、「日本は天皇を中心とした神の国」と発言し、この内容がマスコミによって大々的に広められてしまいます。

森の発言は文字通り神道系の政治連盟の会合で発したものであり、国会はおろか一般の人々を向けに発したわけではないにも関わらず、メディアはこれを「問題発言」「首相の資質を疑う」など完全に揚げ足取りの論調を展開しました。

6月2日、野党は衆議院に内閣不信任決議案を提出。これを受けて森内閣は同日、衆議院解散を決定します。

同年6月25日、第42回衆議院議員総選挙が投開票され、与党である自民党は38議席を失い、公明は11議席を失い、保守党も11議席を失うなど、与党が合計65議席を失うという大敗を喫してしまいます。

一方、野党は民主党が32議席、自由党も4議席、社民党も4議席、その他も含め合計46議席増やし、与野党の攻防としては野党の圧勝に終わったものの、過半数は依然として政権与党にありました。

同年7月4日、第2次森内閣成立。
第1次森内閣が小渕内閣の引き継ぎであったため、森としての本格的な組閣はこれになります。

内閣官房長官を青木から森派の中川秀直に代えたものの、主要ポストである外務大臣(河野洋平)、大蔵大臣(宮澤喜一)は留任させ、なおかつ保守党党首である扇千景を建設大臣・国土庁長官に据えました。また環境庁長官には民間より川口順子が就任しています。

この時、内閣官房副長官に安倍晋三が、内閣総理大臣補佐官に中曽根弘文が就任しており、政務次官級では農林水産政務次官に石破茂が、自治政務次官に中谷元が、北海道開発政務次官に橋本聖子などの名前が見られました。

7月8日、第26回主要国首脳会議(サミット)に先立ち、福岡で蔵相会合開催。12日・13日には宮崎のシーガイアで外相会合開催。そして21日から23日までは沖縄で第26回主要国首脳会議が開催。森は議長を務めました。

しかし、同年10月、官房長官の中川秀直が数々のスキャンダルで辞任に追い込まれ、後任の官房長官に福田康夫が就任しました。福田は当時初入閣でありながら、失言の多い森をよくサポートし、その有能な執務能力を党内に見せつけることになりました。

ところが野党の攻勢は止まらず、11月21日、森内閣不信任決議案が再び提出されます。

不信任決議案は自民党の圧倒的多数で否決されると思われていましたが、この時、自民党内の加藤紘一と山崎拓がこの不信任案に賛同の意向をしていました。衆議院480議席のうち、与党は272議席。ここで加藤派45議席と山崎派19名の合計64議席が野党側に回れば、不信任決議案は可決される流れでした。

加藤と山崎が不信任決議案に賛同の考えを示したのは、小渕の入院に伴う森の総裁総理起用は密室政治の疑惑があったこと、その結果が国民の不満となり第42回衆議院議員総選挙で与党大敗に繋がったこと、森総理の失言がメディアに取り上げられ、この総理総裁では自民党が持たないと考えたことなどがあったと思われます。現に、この当時の森内閣の内閣支持率は低迷していました。

一方で、内閣不信任決議案が可決した場合、自民党橋本派の野中広務は「衆議院解散」を森に迫るつもりでいました。

野中はそれを見込んで選挙の際に効力を発揮する「自民党公認」の権力を最大限に利用し、不信任決議案に賛成した議員に公認は出さないどころか、対立候補すら擁立するとまで触れ、人によっては内容証明郵便まで発送する念の入れようで、とことんまで加藤・山崎両派所属の国会議員に揺さぶりをかけていました。

党公認を得られないと言うことは、解散されたら無所属で立候補することになります。
加藤・山崎両派は自民党を改革するつもりはあっても、自民党を離党する考えはなく、これは全くの盲点でした。
ましてや小選挙区比例代表並立制では政党の支援なしに当選するのは非常に難しいと言わざる得ませんでした。

野中の工作は加藤派・山崎派の議員の間に動揺を走らせ、特に加藤紘一は派閥の長として自派閥の議員の議員生命・政治生命を失うようなことを強制することはできませんでした。結果、加藤・山崎の両名は本会議を欠席し、その他の議員も多数が本会議を欠席する選択を行い、内閣不信任決議案は否決されました。

これが俗に言う「加藤の乱」でした。
これで宏池会(加藤派)は、加藤紘一を主とする「加藤派」、と当時の自民党総務会長である池田行彦や堀内光雄らが反加藤グループを立ち上げ(堀内派)、分裂することになり、加藤派は少数派閥に転落してしまいました。


2001年2月10日、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンビルと衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事故」が発生。森は第1報が入ったときゴルフ場にいたものの動かず、その後1時間半の間プレーを続け、危機管理上問題であるとして国会で攻撃されました。

この事件時、マスメディアは報道の際に「その時の映像とは全く無関係のゴルフの映像」を多用し、森のイメージを著しく貶めるような意図的としか思えないような放送をした結果、内閣支持率は8%に下落しています。

ただし、令和の今においては、この事件を「総理の危機管理不足」と評するのは少々お門違いと言えます。
まず、海難事故全般の主担当は海上保安庁(所管は国土交通省)であり、追突された船は県立高校の所有船であることから、文部科学省も関わってきます。なおかつ、アメリカ海軍が関わっていることから外務省も無関係ではありません。

国土交通省、文部科学省、外務省と言う3つの省庁が絡む事象の場合は、省庁間の調整を含め、内閣官房預かりとするのが正しいフローであり、官房長官が責任を以って処理に当たるのが筋道のようです。

この「えひめ丸事件」は翌月の3月5日に3回目の森内閣不信任決議案の提出につながり、決議案は否決されたものの4月26日、内閣総辞職に至っています。

森内閣は小渕の入院により、降って湧いたような設立経緯から「密室政治」「密室で決められた総理」と言われました。

森本人に方言癖があり、数々の失言をマスコミに取り上げられ、よってたかって叩かれまくりましたが、前述のように自由党の連立離脱という政局に繋がるようなタイミングで政治の空白を作ることなく、火中の栗を拾い、暫定的とは言え政治を安定にもって行ったこと評価されて然るべきではないかと思います。

のちに森は、首相就任時の所信表明演説後に前立腺がんが見つかったと話しています。

しかし、当時は政治の安定することが主命であったため、発表も手術もできず、放射線治療で抑えながら首相の執務をこなしていたと話しています。それゆえ、1年で辞めると決めていたようです。

ある意味、自分の命を危険に晒しながら、政治を行なっていた訳で、そう言う人間がこの世にどれだけいたかを少しは考えてみたほうが良いのではないかと思いました。

posted by さんたま at 12:01| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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