2019年05月02日

平成の政治史を振り返る(第2回:非自民連立政権から自民党単独政権への復活)

昨日、新しい天皇陛下が即位され、令和の時代に入りました。
新しい令和の時代に、新しい風と多くの幸があらんことをお祈りいたします。

さて、平成時代の日本の政治史第2回です。

今回は自民党の下野後の非自民連立政権とその崩壊、そして復活した自民党単独政権までの流れを追っていきます。


5、政治改革を実現させた細川内閣
1993年(平成五年)7月18日に行われた第40回衆議院議員総選挙は、大量離党者を出した与党・自由民主党(自民党)が改選前の議席をほぼ確保した223議席(1議席増)を獲得したもの単独過半数割れとなり、野党第一党の日本社会党(社会党)も66議席を失う70議席という大敗に終わりました。

代わって、新党である新生党が55議席、日本新党が35議席、新党さきがけが13議席を獲得し、既存野党である社会党、民社党、社会民主連合(社民連)と合わせて243議席を獲得し、与党・自民党が結党以来初の野党に落ちることになりました。

宮澤内閣は総辞職となり、同年8月9日、野党8党派による細川連立政権が誕生。細川内閣の成立となります。
公選知事経験者の首相就任は史上初です。

内閣の顔ぶれとして特筆すべきなのは

内閣官房長官:武村正義(新党さきがけ)
内閣官房副長官:鳩山由紀夫(新党さきがけ)

運輸政務次官:二階俊博(新生党)
総務政務次官:小池百合子(日本新党)
防衛政務次官 山口那津男(公明党)


というところでしょうか。

細川内閣の最大の公約は「自民党政権が成し遂げられなかった政治改革の実現」の一点に絞られていました。
首相は年内に政治改革の実現を掲げ、できなければ政治責任を取ると明言しています。

連立政権側は

・公職選挙法の一部を改正する法律
(小選挙区制比例代表並立制の導入)

・衆議院議員選挙区画定審議会設置法
(衆議院小選挙区選出議員の選挙区の改定などの調査を行う機関の設置)

・政治資金規正法の一部を改正する法律
(連座制の強化等)

・政党助成法
(政治献金の規制。政党交付金の創設)

をまとめて「政治改革4法案」として提示しましたが、選挙制度改革において、連立政権側が小選挙区比例代表並立制(現在の選挙制度)を主張したのに対し、野党・自民党は「小選挙区制の導入は民意を正確に反映しない」と主張し、これに社会党議員も同調したため、審議は難航しました。

同年11月18日に衆議院で連立与党案が可決されましたが、当初の公約どおり年内には成立させられず、結局、翌1994年(平成六年)1月21日、参議院にて否決され、両院協議会に持ち込まれました。

このまま衆議院での再議決を行うのはリスクが伴うことから、衆参両院議長の斡旋で1月29日、細川首相と河野洋平自民党総裁のトップ会談が行われ、両者の合意案を取りまとめることに成功。衆参両院を通過し、3月4日に成立を見ました。

1991年の海部内閣の時代から足掛け3年に渡り、非自民の連立政権によって政治改革が成立するのは皮肉な話です。

この時成立した「小選挙区比例代表並立制」と「政党交付金」は、現在まで継続されています。

政治改革関連4法案を通過・成立させた実績は、公約通りに行かなかったものの、世間は「自民党ができなかったことをやり遂げた」として好意的に受け止め、内閣支持率は高い水準を維持していました。

この支持率を背景に細川は2月3日、消費税を福祉目的税に改めて税率を3%から7%に引き上げる「国民福祉税構想」を発表します。

実は前年9月の日米間の経済問題を協議する日米包括協議において、クリントン大統領から「内需拡大とそのための所得税減税」が要求されており、細川はこれを「翌年実施する」と回答し、次回首脳会談の翌年2月11日までに日米包括協議の合意を図ることまで約束していました。このため、日本側は減らす所得税分を別の方法で埋める財源確保の必要に迫られていたのです。

しかも細川内閣は「赤字国債を発行しない」を政権公約にしていたため、新生党の代表幹事小沢一郎は大蔵事務次官の斎藤次郎と共に消費税増税で補填しようと計画しました。

2月2日の政府・与党首脳会議でこの計画を披露した細川は、「消費税増税は絶対反対」という社会党が反発。官房長官である武村も反対を示します。にも関わらず、細川は翌3日の深夜に突然「国民福祉税構想」を発表したのです。

これには官房長官はもとより内閣閣僚までも寝耳に水の話で、翌4日は撤回されてしまいます。
もちろん2月11日に予定されていた日米首脳会談で約束を果たせなくなり、細川はついに赤字国債の発行に踏み切らざる得ませんでした。

この国民福祉税構想は小沢一郎と斎藤次郎の間で考えられていたもので、内閣官房長官である武村は一切知りませんでした。
小沢は、連立政権による内閣発足後、内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を招集し、その政権の実権を掌握しようと動いており、あくまでも官邸主導の政治を行う武村とは主義主張が噛み合って合いませんでした。

「国民福祉税構想」はそんな小沢と武村の間の対立を一気に悪化させ、そしてそれは内閣の崩壊に繋がっていきます。

小沢は細川に対し、自分を取るか武村を取るかの選択を迫り、細川は武村排除を目的とした内閣改造を計画します。ところがそこに降って湧いたような話が持ち上がります。「細川自身が佐川急便から金を借り、未返済のままとしている」という疑惑です。

細川は「佐川から借りた金は熊本の自宅の門・塀の修理のための借入金で既に返済」と釈明しましたが、返済の証拠として提出された領収書は発行者名も押印もなかったため、証拠とみなすことは出来ず、野党自民党は予算審議を拒否、国会は空転してしまいます。

これら諸々の問題が積み上がり、進退窮まった細川は西暦1994年(平成六年)4月8日、突如辞意を表明。25日、内閣総辞職となりました。

細川内閣の在任期間は263日間で1年にも満たない期間でしたが、自民党が3年かかっても成し得なかった政治改革四法案を半年ほどで成立させ、政治改革を実現させたのは後世の歴史に残る実績と言えるでしょう。とはいえ、これが唯一の実績ですが。


6、不幸が重なった羽田内閣
細川の突然の辞意に対し、小沢一郎は後継首相を自民党の渡辺美智雄(ミッチー/渡辺派会長)に求めました。小沢は渡辺に「自派の議員を引き連れて新生党に入党すれば首相に推戴する」という話をしたようです。これには最大野党である自民党の勢力減少の狙いもあったではないでしょうか。

結果としては渡辺に同調する議員が少なかったのと、自民党の河野洋平総裁に離党を慰留され、この話は立ち消えになりました。

一方、連立政権側の代表者は新生党党首の羽田牧を首相にすることで合意が取れていました。これを小沢も了承し、西暦1994年(平成六年)4月25日、与党7党1会派(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合)と、自民党を離党した議員により結成された3党(自由党、改革の会、新党みらい)が、羽田を国会で首班指名しました。

1994年(平成六年)4月28日、羽田内閣成立。

ここまではよかったのですが、羽田内閣成立後、当時、民社党委員長の大内啓伍が余計なことをやってしまいます。
それは、大内が連立与党側の新生党、日本新党、民社党、自由党、改革の会の5会派に働きかけ、統一の院内会派「改新」を立ち上げたからです。

連立与党内の最大勢力は社会党の70議席で、2位の新生党の55議席には25議席の差がありました。
しかし、5会派が統一会派を組むと総勢130近い勢力となり、社会党の勢力を超え、名実ともに連立与党の最大会派となったのです。
これは明らかに与党内の社会党の勢力を低下を狙いとしたものに他なりませんでした。

しかも5会派はこれを社会党になんの相談もなく行ったため、当時の社会党委員長だった村山富市(のちの総理大臣)が大激怒し、連立政権から離脱を表明。武村正義率いる新党さきがけもこれに続いたため、羽田内閣は少数与党勢力に陥ってしまいました。

政治の実情は細川内閣が予算成立前に辞任したため、平成六年度は4月1日に50日間で11兆0514億円の暫定予算を可決、これが失効する5月20日には期限を会期末の6月29日まで40日間延長して10兆8930億円を追加の暫定補正予算を可決という綱渡りで急場をしのいでいました。

ゆえに羽田内閣のミッションは「年度予算の成立」が急務となっていました。

すったもんだがあった挙句、平成六年度予算案が参議院で可決され成立したのは6月23日です。

そして予算成立を待っていたかのように、自民党が羽田内閣不信任案を提出しました。

自民党は、羽田内閣の与党が少数であり、これが民意を反映したものではないこと、民意を反映したものでない勢力が政権運営をしていることが民主主義の原理原則に背くことなどを理由に挙げていました。

本来であれば、連立与党の勢力は野党自民党の単独勢力を上回っていたはずですが、統一会派「改新」の結成の影響で社会党と新党さきがけの議席を失い、野党勢力は300近くに及んでいたはずです。すなわち内閣不信任案は25日正午に開かれる衆議院本会議で可決されることがほぼ決定的になっていました。

これに対し、羽田は解散も考えたようですが、この時点での解散総選挙は新しい選挙区区割り法が成立していなかったため、このまま解散しても従来の中選挙区制での総選挙となり連立側に勝算が薄いと判断。25日の本会議開会の直前に衆議院議長に対して内閣総辞職を通知しました。

羽田内閣の在任期間は64日で戦後2番目の短命内閣でした。


7、46年ぶりの社会党政権の誕生・村山内閣
西暦1994年(平成六年)6月29日、内閣総理大臣指名選挙が行われ、野党である自民党と社会党、新党さきがけは当時社会党委員長である村山富市を首班指名。連立与党側は小沢一郎の要請により海部俊樹が自民党を離党して首班に指名されました。

実は自民党は社会党が連立政権から離脱した時点で、自民党前幹事長だった梶山静六以下の特命部隊が結成され、社会党との連立を模索し、政策研究を進めていました。その結果、自民・社会にさきがけを加えた「自社さ連立政権構想」となり、既存連立与党に対抗する準備を着々を進めていたと思われます。

また、小沢は海部俊樹を擁立したことで、自民党から連立与党側への造反が多数出ると予想していました。

しかし、結果は思ったほどの造反は起きず、投票結果は村山富市が261票海部俊樹が214票、47票の票差で村山が内閣総理大臣に選出されました。
この内閣総理大臣指名選挙は自民党が2年ぶりに政権与党に返り咲いた瞬間であり、46年ぶりの社会党委員長を首班とする内閣でした。

1994年(平成6年)6月30日、村山内閣成立。

外務大臣に河野洋平(自民党総裁)、大蔵大臣に武村正義(新党さきがけ代表)と連立を組む政党の代表を据え、通産大臣にベテランの橋本龍太郎を置いたあとは

文部大臣:与謝野 馨
運輸大臣:亀井静香
自治大臣:野中広務、
経企庁長官:高村正彦
科技庁長官:田中真紀子


など、自民党の若手部隊を初入閣させるなど、従来の自民党とは一新されたイメージを打ち出しました。

また村山自身も同年7月の第130回国会の所信表明演説で「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、従来の日本社会党の政策を転換しています。

村山内閣在任中は「阪神・淡路大震災」「地下鉄サリン事件」「全日空857便ハイジャック事件」など、日本の歴史に確実に残る大事件が起き、その対応に苦慮することも多かったようです。

また「日本が太平洋戦争前、同戦中に行ったとされるアジア諸国への『侵略』や『植民地支配』について公式に謝罪する」という、いわゆる「村山談話」を発表したことは、日本の外交史に大きな影響を残したと言っても過言ではないでしょう。


西暦1995年(平成七年)7月23日、村山内閣の最初の国民審判となる第17回参議院議員通常選挙は、与党3党としては過半数超えを維持したものの、日本社会党単独では大きく議席を減らしました。

村山はこのことで辞意を漏らしたと言われますが、与党側が慰留し、内閣改造を行うことで続投となったそうです。
これは、村山の後継に当時の自民党総裁である河野洋平(副総理兼外務大臣)が意欲を見せていましたが、自民党最大派閥である小渕派の支持を得られず、止む無く続投になったと言われています。

そのせいか、この年10月に行われた自民党総裁選では小渕派は橋本龍太郎を擁立。河野は推薦人を確保できず辞退に追い込まれています。

ところが、1996年(平成八年)1月5日、突然の首相退陣を表明します。
辞意の理由は現在まで明確になっておりませんが、予算審議に入る前の辞任にマスコミ、世論は一斉に村山を批判しました。

同年1月11日、村山内閣は総辞職しました。


8、自民党を復活に導いた橋本内閣
村山が辞任したものの連立与党の「自民・社会・さきがけ」の枠組みは崩れることなく、後継総理には自民党の橋本龍太郎が選ばれました。

西暦1996年(平成八年)1月11日、橋本内閣成立。
厚生大臣に菅直人、沖縄開発政務次官に森田健作が起用されています。

橋本内閣が解決すべき最初の課題は「住専問題」でした。

当時、バブル景気崩壊によって地価が下落し、住宅金融専門会社(住専)は多額の不良債権を抱えていました。これらの住専には農林系金融機関を中心とした金融機関が貸し込んでおり、これらが貸し倒れ、処理が遅れると約6兆円以上の損失が発生し、日本中の金融システムの連鎖破綻が懸念されていました。

橋本は金融システムの連鎖破綻を防ぐため、6,850億円の公的資金を投入する政策をまとめ、「特定住宅金融専門会社の債権債務の処理の促進等に関する特別措置法」(住専法)を成立させて住宅金融債権管理機構を設立し、その処理を合法化させました。

また外交面ではアメリカに対し、普天間飛行場の返還を要求。4月に全面返還で日米政府が合意しています。
普天間の代替基地についても名護市の受け入れ表明を取り付けて、普天間基地返還に本格的道筋を付けています。
これが令和の現在まで尾を引いている普天間基地移設問題の始まりです。


同年9月27日、臨時国会冒頭に衆議院を解散。小選挙区比例代表並立制の下で初の第41回衆議院議員総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席を獲得。橋本内閣の信任投票としての成果は十分でした。しかし連立を組んでいた日本社会党は議席を半減させ15議席に。さきがけは7議席を減らして2議席と言う散々な結果でした。

この選挙結果を受けて同年11月7日、第二次橋本内閣が組閣され、3年ぶりに自民党単独内閣を実現しています(社会党、新党さきがけは閣外協力へ)。

西暦1997年(平成九年)4月1日、村山内閣時代に成立していた消費税法改正が施行され、既存消費税3%に地方消費税2%が上乗せされて5%となりました。

またこの年の通常国会では、沖縄のアメリカ軍軍用地を日本政府が用立てる駐留軍用地特措法において、当時の沖縄県知事である大田昌秀が土地強制使用の代理署名を拒否したことで、1996年に米軍が個人の土地を不法占拠している「駐留軍用地特措問題」が勃発しました。

この問題の解決のため、橋本は「政府が土地を永久にかり受けられるようにする」改正案を国会に提出。同年4月、新進党(新生党改め)党首の小沢一郎と党首会談を行って特措法の合意を取り付け、新党さきがけを離党した鳩山由紀夫が結成した民主党の協力も取り付け、見事成立させました。

順調に政権運営を行なっていた橋本内閣でしたが、少しずつ陰りが見え始めます。

同年9月、自民党総裁に再選された橋本は内閣改造を行い、第二次橋本改造内閣を成立させました。

この時、橋本はロッキード事件で有罪が確定していた「全日空ルート」の中心人物・佐藤孝行を総務庁長官に起用しました。
しかし、これは橋本の本意ではなく、自民党旧渡辺派(派閥会長である渡辺美智雄は1995年9月15日に病没)の元老・中曽根康弘の強い推薦を受けての起用でした。

前述の通り、橋本内閣は自民党政権でありながら、若手人材を閣僚に起用したことで「自民党一新」を強くイメージづけ、住専問題、普天間返還要求、駐留軍用地特措法改正など数々の政治課題を解決してきました。

しかし、ここで「古き自民党の亡霊」とも言うべきロッキード事件の有罪確定者を閣僚に起用したことは、(橋本の本意ではないとはいえ)国民にする裏切りに他ならず、完全に「悪手」でした。たちまちマスコミ・世論は橋本を批判。佐藤は在任日数11日で辞任に追い込まれ、内閣支持率は一気に20%ダウンし、30%台に急落します。

とはいえ、橋本の首相としての力量には些かの陰りはなく、同年11月に、ロシアのクラスノヤルスク市内で行われた日露首脳会談では、2000年までに領土問題を解決することに合意し、同月には「財政構造改革の推進に関する特別措置法」(財政構造改革法)を成立させて、2003年まで毎年度赤字国債の削減を明文化し、財政再建にも尽力します。

しかし時代の波は橋本の予想をはるかに超えるスピードで進んでいました。

同年11月3日、準大手証券会社である三洋証券が会社更生法の適用を申請しました。戦後初の証券会社の倒産でした。

この時、三洋証券は10月31日(金曜日)に借り入れた無担保コール翌日物の返済期限である11月4日(火曜日)を待たずして、その前日である11月3日(祝日)に会社更生法の適用を申請したため、無担保コール・劣後ローン市場の大混乱を引き起こしました。

各金融機関のクレジットラインは急速に縮小したため、コール市場で綱渡り的資金調達を行なっていた北海道拓殖銀行は耐えきれず、同月15日経営破綻。これは史上初の都銀の破綻でした。

さらに11月24日、かねてより週刊誌で疑惑が取り沙汰されていた四大大手証券会社の一角である山一證券が自主廃業を発表

たった1ヶ月の間に大手証券会社、準大手証券会社、都市銀行の3社が吹き飛ぶと言う前代未聞のこの事象は政権に強いショックを与え、と自民党内や米国から「財政再建の前に景気対策に注力すべき」と言う意見が飛び交うようになり、翌12月、2兆円の特別減税を発表しています。

しかし、日本経済の閉塞感は変わらず、翌1998年(平成十年)4月、橋本は4兆円減税と財政構造改革法の改正(赤字国債発行の毎年度削減を一時停止を可能とする「弾力条項」の追加)を表明し、財政再建路線を転換してしまいます。

方針転換後の橋本の動きは素早く、同年5月には社民党(社会党改め)と新党さきがけとの連立政権を完全に解消しています。これは離党議員の復党や無所属議員の取り込みで衆議院の勢力が自民党単独で過半数を超えたことが要因でした。

あた、日本経済に潜む金融不安に対する政府体制の強化として、同年6月、大蔵省から大蔵省銀行局や証券局の所掌事務のうち、民間金融機関等の検査・監督を分離させ、内閣総理大臣直轄の「金融監督庁」(現:金融庁)を設置しました。

ところが、世論はこれについても冷ややかに受け止め、なおかつ閣僚級の発言不一致などが連なり、同年7月12日に行われた「第18回参議院議員通常選挙」で、与党自民党は改選前の69議席を44議席に減らし、惨敗。この責任をとり、橋本内閣は総辞職となりました。

橋本内閣は3年ぶりの自民党政権として復活を果たし、数々の政治課題を解決に導きました。
しかし、バブル崩壊後に押し寄せた景気後退の波が大きく、財政再建から景気対策に方針転換したものの、景気低迷・失業率の増加につながってしまい、参議院議員通常選挙で支持されなかったのが敗因でした。


posted by さんたま at 13:18| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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