2019年04月30日

平成の政治史を振り返る(第1回:55年体制の崩壊)

今日、2019年4月30日は平成最後の日です。

いろんなところで「平成最後の〜」と言われており、この言葉を使うのも正直うんざりではありますが(苦笑)、レキドラはレキドラらしい「平成の振り返り」を行いたいと思います。


題して「平成時代における日本の政治史を振り返る」です。

昭和天皇が崩御され、平成時代となった西暦1989年1月7日当時の内閣総理大臣は竹下登(竹下改造内閣)でした。

その後、平成最初の組閣・総理大臣となったのは宇野宗佑です。
以後、平成31年現在の安倍晋三に到るまで、16人の総理大臣が日本の国政の舵取りを行ってきました。

その中には昭和で確立された政治体制の崩壊、復活、混沌など様々な事象がありました。

その流れをまとめて見ていきたいと思います。
第1回は昭和の自民党支配(55年体制)の崩壊と、非自民政権の誕生についてです。

なお、文中の人物については特別な場合を除き、敬称略とします。


1:昭和から平成に渡った竹下内閣
平成元年の改元当時の内閣は竹下内閣(内閣総理大臣・竹下登)でした。
言うまでもないDAIGOのお爺さんですね。

天皇崩御・改元・大喪の礼など、日本国憲法下初の事態に、内閣官房長官・小渕恵三と共に適切に対処されました。

この方の時代に消費税法が成立し、平成元年4月1日(すなわち平成元年度)から施行されています。

しかし、この時、戦後最大の企業贈収賄事件と言われる「リクルート事件」が政界を揺るがしており、ついに竹下本人にも疑惑が及びます。消費税導入よる世論の批判と合間って、内閣支持率は急落し、1989年(平成元年)6月3日、竹下内閣は総辞職となります。


2:戦後4番目の短命内閣だった宇野内閣
竹下内閣総辞職後、自民党有力者は後継総裁をどうするかが問題となりました。当時の自民党において、後継総裁に当てはまる人材は、ほぼリクルート事件に関わっており、新しい内閣はこの事件に関わっていない人間であることが必須だったためです。

当時の自民党総務会長でお金に極めてクリーンな伊東正義の名前が上がりましたが、伊東はこれを拒否。そのほか数人が打診されるものの、サミット開催が控えるこの難局の舵取りに難色を示すものもあり、最終的には竹下内閣改造内閣の外務大臣で、リクルート事件と関係も薄い宇野宗佑が、急遽自民党総裁に抜擢されることとなります。

1989年(平成元年)6月3日、宇野内閣成立。

しかし、6月6日、週刊誌『サンデー毎日』が神楽坂の芸妓の告発(「自分の愛人になるならこれだけ(指3本=30万)だす」と言われた)が掲載れ、女性スキャンダルが勃発。

ただでさえ消費税、リクルート事件で逆風の自民党に新たな火種が加わってしまい、これが同年7月23日に行われた第15回参議院議員通常選挙を直撃。開票後は野党・日本社会党が46議席を獲得し、自民党の獲得議席は36。結党以来初めて参議院の単独過半数を失いました。

選挙開票翌日、宇野は内閣総辞職を表明。在任期間はたったの69日でした。
辞任会見の「明鏡止水(邪念が無い、静かに落ち着いて澄みきった心)の心境であります」は流行語にもなりました。

宇野宗佑は「女性スキャンダルで辞任した総理」と言われますが、外相時代の彼は極めて有能で、外務省の官僚から「あれだけ手のかからない外務大臣はいない」とまで評されており、国会答弁などはほぼ完璧にこなしていたそうです。時期が時期とはいえ、総理に祭り上げられてしまったのが彼の不運だったのかもしれません。


3:政治改革を断念せざる得なかった海部内閣
消費税導入、リクルート事件、女性スキャンダルなどのトラブルにまみれた自民党の後継総裁選びは、竹下内閣総辞職の時以上に難局を極めていました。宇野内閣は建前上、中曽根派の宇野宗佑が総理でしたが、実質は竹下派の院政に等しく、宇野の辞任の後の総裁候補は竹下派からは出せない状況でした。

しかし、前述の通り、リクルート事件により後継世代が総裁候補に出てこれない事情は、竹下内閣総辞職時と変わっていなかったため、竹下派は中小派閥の河本派に所属しながらも竹下派の議員たちとパイプが強かった、海部俊樹を支持することになります。

この時、自民党総裁選が開催され、林義郎(宮澤派)と石原慎太郎(安倍派)が立候補しましたが、海部俊樹が279票を獲得し、第14代自民党総裁に就任。西暦1989年(平成元年)8月10日、海部内閣が成立します。

少々脇道に逸れますが、この時の政務次官には

文部政務次官:町村信孝、
農林水産政務次官:中山昭一
通商産業政務次官:甘利明
防衛政務次官:鈴木宗男


と言う、後の日本の政治に大きく関わっている人たちが就任しています。

海部俊樹の所属する河本派は中小派閥であり、竹下派の支持がなければ到底総理になることはできませんでした。

よって、海部内閣も宇野内閣時代と同じで、竹下派の傀儡に近いものでした。内実は竹下派のトップ(すなわち経世会会長)である金丸信、竹下登、そして自民党幹事長で竹下派七奉行の一人である小沢一郎をはじめとした党三役が取り仕切っていました。

そんな中、政治改革関連法案の成立だけは海部本人の政治生命をかけて成立させようとしました。同法案は閣議決定されたものの、野党はもちろん、自民党内の宮澤派・三塚派・渡辺派およびYKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)グループなどの身内からも猛反発を受けました。

これは海部が「中継ぎ登板」であるのに大それたことをやろうとしていることと、リクルート事件に関わり、入閣できなかった議員からの格好の攻撃材料にされてしまったことが遠因と思われます。

委員会の意見はまとまらず、衆議院政治改革特別委員長だった小此木彦三郎は、西暦1991年(平成三年)9月30日、「審議日数の不足」を理由に廃案にすることを提案し、与野党理事が合意。「政治改革法案廃案」は内閣総理大臣の知らないところで勝手に廃案となりました。

これを受けて海部は「重大な決意(決心)で臨む」という発言をし、これが「衆議院の解散」と受け取られ、反対グループをさらに刺激します。海部は衆議院解散に踏み切ろうとしましたが、竹下派の支持を取り付けることができず、結果的に解散を断念。内閣総辞職となりました。


4:55年体制の崩壊を作ってしまった宮澤内閣
海部の辞意を受けて自民党総裁選が行われることとなり、派閥の長である宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄らが総裁選出馬を表明します。

前回宇野内閣総辞職の際に派閥候補を出せなかった竹下派は、金丸信が小沢一郎を擁立しようとしましたが、小沢はこれを拒否。またしても竹下派は自派閥からの候補を擁立できない状態に陥りました。

とはいえ、自民党内最大派閥である竹下派の支持が総裁選に勝利することに繋がるため、三候補は「竹下派参り」を行うことになります。竹下派トップの金丸信、竹下登、小沢一郎の協議の結果、派閥としては宮澤喜一を推すことを決定しました。

西暦1991年(平成三年)11月5日、宮澤内閣が成立。
参議院議員出身者として初の内閣総理大臣でありました。

宮澤内閣は国際平和協力法(PKO協力法)を成立させ、国連によるPKO活動のほか、国連その他の国際機関等が行う人道的な国際救援活動に参加するための自衛隊海外派遣を合法化させました。

ただ、世の中はバブル景気が後退し始め、地価や株価等の資産価格の大幅な下落が発生しており、宮澤はこれを「単なる景気後退ではない」と判断。当時の日銀総裁・三重野康と共に東証閉鎖・日銀特融による「金融機関への公的資金投入」を計画します。

ところが、この計画は大蔵省(当時/現:財務省)の猛反対を受け、やがてマスコミ、世論も反発し、宮澤はこの計画の取り下げざるを得なくなりました。

この時、反発する勢力はほぼ国内情勢しか見ておりませんでした。しかし海外の投資家は日本の地価や株価が非常識のレベルまでに達しており、その査定の甘さが不良債権化するのに時間がかからないこともわかっていました。

宮澤は何らかのルートでこれを知り、金融機関が保有している資産が不良債権化する前に処分するため、公的資金を使用するつもりだったと思われますが、世論に理解がなかったと見るしかないでしょう。

そして、宮澤内閣の在任中、また大きな政界疑獄事件が勃発します。「東京佐川急便事件」です。

西暦1992年(平成四年)2月14日、東京地検特捜部は、東京佐川急便の渡辺広康社長、早乙女潤常務ら4人を、会社に952億円の損害を与えたとし、特別背任容疑で逮捕しました。この時、自民党竹下派会長・金丸信は東京佐川急便から5億円の政治献金を受けており、政治資金規正法違反で略式起訴されました。

金丸は罪を認め、罰金刑を受けましたが、参議院議員の青島幸男(のちの東京都知事)が抗議のハンガーストライキを国会議事堂前で行ったことで世論がこれに追随。金丸は議員辞職に追い込まれます。

ところが、日本社会党の吉田和子(新潟県出身)と同じく社会党で新潟県選出の筒井信隆にも東京佐川急便から献金疑惑が浮上。新潟県知事の金子清も1億円献金疑惑が生じ、事件は与党自民党だけでなく最大野党・社会党などにも飛び火していきました。

この事件は国会での証人喚問にまで発展しましたが、最終的に真相の究明には至りませんでした。
しかし、リクルート事件に続く、この「東京佐川急便事件」は世論に「既存政党不信」を強く印象付けました。

加えて、自民党竹下派は金丸の後継会長を巡って竹下派七奉行同士の内部紛争が起き、竹下支持派の小渕恵三が派閥会長(小渕派)となり、金丸支持派だったの小沢一郎・羽田牧らが竹下派を離脱、「小沢・羽田グループ」を立ち上げる動きに発展しています。

これを踏まえて、宮澤内閣は内閣改造を実施。小渕派(旧・竹下派)の支持無くして内閣を維持できない宮澤は、小沢・羽田グループを冷遇するあからさまな閣僚人事を行ったため、小沢・羽田グループは宮澤内閣に対して反抗勢力となってしまいます。

小沢・羽田グループは政治改革推進派でしたが、リクルート事件、東京佐川急便事件という政界疑獄事件が勃発しているにも関わらず、宮澤は政治改革の推進に消極的でした。しかし、宮澤はテレビ番組で「やります。やるんです」と言い切ったにも関わらず、与党内部での意見の取りまとめを行いきれず、結果として次期国会に先送りするという「悪手」を打ってしまいます。

これに対し、西暦1993年(平成五年)6月、野党(日本社会党・公明党・民社党)は通常国会最終日に内閣不信任案を提出。これに小沢・羽田グループが同調し、内閣不信任案が可決され、衆議院は解散・総選挙へと移行します。

選挙に到るまでの間、自民党若手議員の武村正義、田中秀征、園田博之、鳩山由紀夫らが自民党を離党し「新党さきがけ」を結成。これを見た小沢一郎・羽田牧らも自民党の離党を決意、「新生党」を結成しました。

これら大量離党者の続出により、選挙前の時点で自民党は過半数を割り込んでいました。

さらに突然の離党者に対する戦略も代替候補も立てることができず、加えて東京佐川急便事件などの影響による世論の「既存政党不信」が合間って、西暦1993年(平成五年)7月18日の投開票された第40回衆議院議員総選挙は、自民党の単独過半数を維持することが不可能な事態に陥ります。

また、東京佐川急便事件により日本社会党も影響を受け、選挙前136あった議席は70に止まり、66議席を失う大打撃を受けました。

それ代わって、大きく勢力を伸ばしたのが日本新党(代表:細川護熙)の35議席(開戦前:0)。次に新生党(党首:羽田牧)の55議席(改選前:36)。次いで公明党(委員長:石田幸四郎)の51議席(改選前:6)の3党でした。

日本の国会は1955年(昭和三十年)以来、与党第一党:自民党、野党第一党:社会党で維持され、「55年体制」と言われていました。
それがこの第40回総選挙でついに崩壊し、自民党の長期支配38年が終わったのです。

野党であった社会党、新生党、公明党、民社党、社会民主連合の5党は選挙前から連立協議を行っていましたが、選挙の結果、5党合計で195議席で過半数に達することが出来ませんでした。一方の自民党も223議席で過半数に届かないという事態でした。

また、日本新党と新党さきがけは統一会派を組んでいたため、両党が政権のキャスティング・ボートを握ることになりました。

協議の結果、「細川首相」を提示した非自民側が取り込みに成功。両党は非自民勢力・民主改革連合を加えた8党派による連立政権樹立で合意し、日本新党代表の細川護煕を首班とする細川内閣が成立しました。

非自民連立政権の誕生です。

(つづく)
posted by さんたま at 16:58| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: