2019年04月15日

新しい五千円札の顔:自立した日本女性のための教育者・津田梅子

2024年度に刷新される新しい紙幣の肖像に選ばれたのは

・一万円札:渋沢 栄一
・五千円札:津田 梅子
・千円札:北里 柴三郎


の3名です。

先日は、一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一を語りましたが、今日は津田梅子を語ってみたいと思います。

津田梅子と言えば、一般的には「津田塾大学の創設者」として知られていると思いますが、それ以外のことを知っている人は少ないかもしれません。

レキドラの視点で言えば、津田梅子は

・本人の意思に関係なく米国留学を強制
・上流階級が苦手で生涯独身に。
・自立した日本女性のための教育を提唱


という壮絶な人生を送っています。
この辺りの踏まえて、津田梅子の人生を語っていきます。


1、全ての発端は岩倉使節団

津田梅子は、東京府・士族である津田仙の次女として、江戸に生まれました。

父・仙は佐倉藩士(千葉県佐倉市)で、藩命でオランダ語、英語の他、洋学や砲術を学んだ後、藩に出仕し、さらに江戸で遊学した結果、24歳で徳川幕府の外国奉行の通訳として採用されています。

徳川幕府が無くなった後は築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤め、西洋野菜の栽培などを手がけており、極めて開明的な思想の持ち主であったことがわかります。

西暦1871年(明治四年)、明治政府が設立した開拓使の嘱託となり、その開拓使の次官だった黒田清隆(元薩摩藩士/のちの第2代内閣総理大臣)が、「数人の男女の若者をアメリカに留学生として送って、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせる」ことを企画すると、そこに娘の梅子を応募しました。

おそらく仙にとって、これはまたとない機会だと思ったのでしょう。

仙は西暦1867年(慶応三年)、幕命で幕府発注の軍艦を引取りに行った小野友五郎(徳川幕府勘定吟味役)と共に、通訳としてアメリカに渡っており、その文化的レベルの高さを体験しています。幼少期からその高い文化的教育を受けさせれば、必ず後々役に立つと考えたとしても不思議はありません。

しかも費用は全部政府持ちです。

要するに梅子は自分の意思ではなく、親の教育指導の一環によって留学を強いられたことになります。
(当時の風習では子が親に逆らうとかあり得ないですけど)

留学生は条約改正予備交渉として出発する岩倉使節団の随員に組み込まれ、西暦1871年(明治四年)11月に横浜を出発しました。


2、アメリカでの生活

梅子がアメリカで預けられた先はジョージタウン(現:ワシントンDC)で日本弁務館書記を務めていたチャールズ・ランマン夫妻の家でした。
一時期、ワシントン市内に移されますが、すぐに戻され、結果としてこの家で十数年を過ごします。

梅子がこの家からコレジエト・インスティチュートに通い、西暦1878年(明治十一年)にコレジエト校を卒業。私立女学校のアーチャー・インスティチュートへ進学し、西暦1882年(明治十五年)7月に卒業しました。

この間、梅子は英語、ラテン語、フランス語などの語学、英文学、自然科学、心理学、芸術学など多くの学問を得ました。
また、この時、同じ留学生だった、山川捨松、永井繁子とは生涯を通じての親友となります。


3、伊藤博文との再会

西暦1882年(明治十五年)11月、梅子は山川捨松と共に日本に帰国しました(永井繁子は先に帰国)。
しかしながら、日本では

「女性が社会に進出するなど以っての外」

と言われ、女子留学生が活躍できる職業など、今以上にほとんどありませんでした。

特に捨松は日本語の文法が怪しくなっており、読み書きがほとんどできず、思想もアメリカ風だったため、「アメリカ娘」と蔑まれたようです。

梅子の日本語能力は捨松以下で「日常会話に通訳がいる」レベルであり、6歳から18歳までをアメリカで過ごした梅子は日本的風習が全く備わっておらず、相当のカルチャーギャップを受けています。

そんな梅子に転機が訪れます。

西暦1883年(明治十六年)、梅子は外務卿・井上馨(元長州藩士)の邸で開かれた夜会にて、伊藤博文と再会しました。
伊藤博文は岩倉使節団の副使の一人で、梅子と共にアメリカに渡った人間でした。
梅子の話を聞いた伊藤は、梅子に下田歌子を紹介します。

下田歌子は、宮中女官の出身で、礼儀作法、学識、和歌の才能などを秀でており、この時は、華族子女を対象にした教育を行う私塾「桃夭女塾」を開設していました。

伊藤は、梅子が今後日本で生きていくに必要な作法、知識を歌子から学ばせ、同時に梅子を英語教師として塾で教えさせれば一石二鳥だと考えました。梅子は伊藤の申し出を喜びましたが、1つだけ条件を出しました。それは「私を伊藤家に置いてくれること」でした。

梅子は伊藤の英語の個人教師ならびに通訳として伊藤家に住み、歌子から日本語および作法を学んで「桃夭女塾」に英語教師として通いました。

西暦1885年(明治十八年)、皇族・華族子女のための官立の教育機関として「華族女学校」(現:学習院女子中・高等科)が創立されると、歌子が教授となり、梅子が英語教師として迎えられています。この女学校の設立には留学時代の親友・大山捨松(旧制:山川。この時すでに大山巌と結婚していたので、姓が変わっている)も関わっていました。

この華族女学校の英語教師時代に、梅子に縁談がなんども持ち込まれているようです。
この時代の華族と呼ばれる上級階級の結婚には、一定の学識・教養が必要であり、当時21歳の梅子は絶好の的でした。

しかし、梅子自身は上流階級の華族の気風には馴染めなかったようで、「縁談はうんざり」と全ての縁談を拒否しています。


3、再留学

西暦1888年(明治二十一年)、大山捨松が華族女学校の英語教師として留学時代の友人であるアリス・ベーコンを招聘しましたが、華族女学校は日本古来の儒教的道徳観に即した教育が行われており、アリスは窮屈な時を過ごします。

梅子はアリスとは旧知であり、アリスに再度の留学を薦められて留学を決意し、女学校を説得して2年間の猶予を与えられています。
前回の留学は父親の希望でしたが、今回の留学は「梅子自身の意思」によるものでした。

西暦1889年(明治二十二年)、梅子は再び渡米します。

渡米後の梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、名門女子大学群セブンシスターズの名門ブリンマー・カレッジ で生物学を専攻しました。

通常3年間の課程を切り上げて終了させた上、留学2年目の西暦1890年(明治二十三年)6月にトーマス・ハント・モーガン教授(のちに染色体の存在を実証し、ノーベル生理学・医学賞を受賞)との共同研究で、蛙の卵の発生に関する論文を執筆しており、西暦1894年(明治二十七年)イギリスの学術雑誌に発表されています。

また、この頃、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行っています。


4、女子英学塾創設へ

西暦1892年(明治二十五年)8月、大学から引き止められるものの帰国。再び華族女学校に勤めます。

梅子は西暦1894年(明治二十七年)明治女学院の講師を、西暦1898年(明治三十一年)には女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学の前身)教授も兼任して活動の幅をどんどん広げています。

それに呼応するかのように、政府は西暦1899年(明治三十二年)、都道府県に高等女学校の設置義務を課した「高等女学校令」を公布して女子教育機関の設立を促進し、私立学校を日本近代教育の1つに位置付けた「私立学校令」を公布して、官立以外の教育機関の整備を充実させていました。

これらの法律と環境の整備が、梅子に一念発起させます。

西暦1900年(明治三十三年)、梅子は全ての官職を辞め、同年7月「女子英学塾」を設立願を東京都に提出。
認可を受けると東京都麹町区一番町(現在の東京都千代田区一番町27番地)に開校しました。この塾が「津田塾大学」の前身になります。
最初の入学者は10名ほどであったと言われます。

この時、梅子に多大な援助を惜しまなかったのが、大山捨松瓜生繁子(旧姓:永井)でした。
特に捨松は留学時代の友人である前述のアリス・ベーコンに再来日を要請し、塾の理事を務めるなど塾の運営に深く関わっています。

「女子英学塾」はそれまで風習や礼儀作法に重きを置きがちだった当時の日本の女子教育とは根本的に異なった方針を打ち出していました。

それは自立した女性を目的とした真の日本女性を世に送り出す「進歩的で自由なレベルの高い授業」を目指していました。

この梅子はこの独自の教育方針を貫くため「第三者の介入を許さない」というスタンスを堅持し、そのために周囲からの資金援助をほとんど受けなかったと言われています。

また塾だけでなく、西暦1901年(明治三十四年)には英文新誌社を設立し、英語教科書や英文学書の出版にも尽力しています。

西暦1903年(明治三十六年)3月には専門学校令が公布され、女子英学塾は社団法人化。同区五番町16に移転しました。

苦しいながらも塾の経営は徐々に安定を見せはじめますが、西暦1917年(大正6年)、創設者であり塾長でもある梅子自身が、長年の激務のため、病に倒れてしまいます。

塾の創設者でありシンボルであった梅子の発病は、それまでなんとか切り盛りしていた塾の運営を一気に窮地に落とし込みます。
それを支えたのは、留学時代の親友・大山捨松でした。

捨松は梅子に変わって塾の運営を一時的に取り仕切り、当時米国コロンビア大学に短期留学していた女子英学塾講師の星野あいを呼び戻して塾教頭に据えて、運営を安定させました。

捨松はこの直後、スペイン風邪(インフルエンザ)にかかってそのまま58歳で亡くなっています。
捨松がどれだけ必死で塾の運営を行なっていたかがわかります。

西暦1919年(大正8年)、梅子は女子英学塾の塾長を辞任
鎌倉に隠棲して、闘病生活の後、10年後の1929年(昭和4年)、脳溢血で64歳で亡くなりました。生涯独身でした。

2代目塾長には塾教頭だった星野あいが就任し、西暦1933年(昭和八年)に塾名を「津田英学塾」に改称。
西暦1943年(昭和十八年)に理学科を新設して「津田塾専門学校」となり、太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に現在の「津田塾大学」の設立が認可。星野あいが初代学長を務めました。


5、津田塾の建学精神へ

津田塾大学のWebサイトによると、梅子は「女子英学塾」の開校式で次のように語ったそうです。

「受け継がれる建学の精神 真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。それは、一口に申せば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心とであります。」

「人々の心や気質は、その顔の違うように違っています。したがって、その教授や訓練は、一人々々の特質に、しっくりあてはまるように仕向けなくてはなりません。」

「英語を専門に研究して、英語の専門家になろうと骨折るにつけても、完き婦人となるに必要な他の事柄を忽せ(ゆるがせ)にしてはなりません。
完き婦人即ちall-round women となるよう心掛けねばなりません。」


(上記出展:https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html


この言葉は津田塾の教育精神として現在までも受け継がれています。


礼儀作法一辺倒だった偏った女子教育ではなく、「自立した日本女性」を目指した「本当の女子教育」に一生を費やした津田梅子の思いと生き様が、次の五千円札に宿ることを、我々日本人はよくよく理解する必要があると思います。
posted by さんたま at 11:31| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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