2019年04月09日

新しい一万円札の顔:日本で最初の近代ベンチャー創始者・渋沢栄一

すでに報道の通り、日本政府と日本銀行は、2024年度前半に千円、五千円、一万円の各紙幣(日本銀行券)を一新させることを発表しました。

紙幣刷新は2004年以来実に20年ぶりのことです。

今回、紙幣の肖像に選ばれたのは

・一万円札:渋沢 栄一
・五千円札:津田 梅子
・千円札:北里 柴三郎


の3名です。

2004年度の刷新に続いて、五千円札に女性を起用していますね。

しかしながら、この名前を聞いて、津田梅子や北里柴三郎はなんとなく

「ああ、あの人ね.....」

とイメージできても、渋沢栄一のイメージは、なかなかしにくいのではないでしょうか。

渋沢栄一とは一言で言うならば
「日本の近代ベンチャー企業の礎を作った人」
と言えると私は思います。


1、クーデター計画から幕臣への転身

渋沢栄一は西暦1840年(天保十一年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の豪農・渋沢家の長男として生まれました。

21歳の時に江戸に出て、学問を学ぶ傍ら、勤王志士と交わったことがキッカケで尊王攘夷にかぶれてしまい、従兄の渋沢成一郎と共に高崎城を乗っ取って、横浜を焼き討ちにし、長州と連携して幕府を倒すという荒唐無稽な計画をたてています(もちろんこれは実行には移されませんでした)。

この計画が一族に累が及ぶことを恐れた渋沢家は、栄一を勘当し京都に放逐します。しかし、ここで旧知の水戸藩士・平岡円四郎の推挙を受け、一橋徳川家当主・一橋慶喜に仕えることになります。そして慶喜が徳川幕府十五代将軍になると、自動的に幕臣の一人となるのです。

栄一が幕臣として表舞台に立つのは、西暦1867年(慶応三年)に行われたパリ万国博覧会で、将軍名代として出席した徳川昭武(清水徳川家当主/慶喜の異母弟)の随員として選ばれた時でした。

栄一は、昭武に従ってヨーロッパ各国を歴訪し、西欧各地で先進的な産業や軍備を見たことで、日本が大きく立ち遅れていることを痛感します。

一方、その頃の日本は、西暦1867年(慶応四年)1月に慶喜が大政を朝廷に奉還したため、徳川幕府はその社会的地位を失い、急ごしらえの明治新政府が設立され、同年3月、それに反抗する旧幕府勢力との間に戦争が勃発していました(戊辰戦争)。



2、幕臣から官僚。そして実業家へ

徳川昭武らは明治新政府より帰国を命じられたものの、慶喜から「聞く必要はない」と言われたため、帰国要請を無視して外遊を続行。

しかし、5月に正式に帰国命令が下され、昭武の兄で水戸藩主の徳川慶篤の死去の報も届き、同年11月、日本に帰国します。

栄一は慶喜の元に戻るものの、慶喜より「自分の道を進め」と言われ、西暦1869年(明治二年)10月、明治新政府の大蔵省に入省。官僚としての道を歩み始めます。

官僚時代の栄一は、国立銀行条例の立案に関わっており、これが彼の後の人生に大きく影響しています。
しかし、急造の明治新政府では、各省における政府内部の予算の取り合いが生じ、それを逆恨みした人事の追い落としなどが生じ、栄一はこれに巻き込まれて、西暦1873年(明治六年)に大蔵省を辞職します。以後、彼は二度と国政の要職につくことはしませんでした。

野に下った栄一は、辞職前年西暦1872年(明治五年)に、当時両替商として大きな力を持っていた三井組小野組が設立した「三井小野組合銀行」を、日本最初の株式会社「国立第一銀行」(現:みずほ銀行)として改組することに成功。また同年、輸入に頼っていた洋紙の国産化を目的とした抄紙会社(現:王子製紙)を設立しています。

国立第一銀行は、三井、小野両名が頭取を務め、栄一は総監役でしたが、西暦1874年(明治七年)11月に小野組が破綻し、三井が独自に銀行設立を企んでいたことから、西暦1875年(明治八年)8月、栄一が頭取に就任しました。

また同年には、森有礼が設立した商法講習所(現:一橋大学)に資金援助を行った後、商工業者による横のつながりの形成を目的とした東京商法会議所(現:東京商工会議所)を西暦1878年(明治十一年)3月に設立。

その後、栄一は実業家、投資家としての腕を存分に振るうようになります。
彼が設立に関わった会社の一部を抜き出すと下記の通りです。

ーーーー

1882年(明治十五年):藤田伝三郎・松本重太郎と共に大阪紡績株式会社(現:東洋紡績)を設立。

1888年(明治二十一年):大倉喜八郎と共に、外国人の接遇所を兼ねた国を代表する大型ホテルの運営会社として有限責任東京ホテル会社(現:帝国ホテル)を設立。

1878年(明治十一年):有力者95名と共に東京株式取引所(現:東京証券取引所)を設立。

1879年(明治十二年):岩崎弥太郎以下三菱関係者と共に、日本初の保険会社東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)を設立。

1885年(明治十八年):浅野総一郎らと共に東京瓦斯会社(現:東京ガス)を設立。

1887年(明治二十年):大倉喜八郎、浅野総一郎らと共に札幌麦酒株式会社(現:サッポロビールホールディングス)を設立。

1896年(明治二十九年):砂糖の製造加工を目的とした日本精糖株式会社(現:大日本明治製糖)を設立。代表取締役に就任。

1906年(明治三十九年):実業家グループと共に大阪と京都を結ぶ電気鉄道を建設する目的で京阪電気鉄道株式会社を設立。

1906年(明治三十九年):小川䤡吉、相馬半治と共に、台湾での粗糖製造を目的とした明治製糖株式会社(現:大日本明治製糖)を設立。
    
1918年(大正七年):東京府荏原郡(目黒区、品川区、大田区)の開発を目的とした田園都市株式会社(現:東急電鉄、東急不動産)を設立。

ーーーー

彼が設立に関わった会社の多くは形を変えながらも現在も脈々と続いていると共に、今の社会になくてはならない存在になっているところがポイントかと思います。

これすなわち、日本の近代ベンチャーの走りとも言える存在だと言えるのではないでしょうか。


3、栄一の社会貢献活動

栄一は実業で得た資金を社会全体のために惜しみなく投じており、東京慈恵会、日本赤十字社、ハンセン病予防協会の設立などに携わっただけでなく、大倉商業学校(現:東京経済大学)学校法人国士舘、女子教育奨励会を設立にも関わっています。

これらは、栄一が幼少期に学んだ『論語』の影響が強く出ているようです。

栄一の信条は

「倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説く」

にあります。

これすなわち、稲盛和夫氏の

「物事はすべからく原理原則に従う」
「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」


に通じるものがあると思いました。



4、財閥解体
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)が占領政策として財閥解体を実施し、昭和21年(1946年)12月に持株会社指定委員会から指定を受けた十五大財閥の1つに、渋沢栄一により設立された渋沢同族株式会社も「財閥」と見なされました。

栄一は日本の近代化のため、社会に必要な産業を担う新たな企業を起こし、それを軌道に乗せることを主命としており、自身の規模と営利の追求をしておりませんでした。しかし、保有する株式により資産が増加することを憂いた栄一は、晩年、渋沢同族株式会社を設立し、一族が保有している関係会社の株式を同社に集め、一族には同社の株式を渡していました。

また渋沢同族株式会社が保有する関係各社の保有株式率は全て30%を割っており他の財閥が過半数の株式を保有するのとは全く異なる構図を持っていました。

これがGHQの再調査で明らかになり、渋沢同族株式会社は、グループ関係各社に対する支配力が存在しないことから、財閥の持株会社に相当せず、GHQは同社に指定解除を願い出る様に通知しました。

ところが、当時の渋沢家当主で渋沢同族株式会社社長の渋沢敬三(のちのKDDI初代社長)は、戦中戦後にかけて、自身が日本銀行総裁、戦後直後には大蔵大臣として日本の金融財政等の経済政策運営に係わってきた当事者である事実は動かし難く、その点から見てもGHQからの財閥指定解除の願いについて、「それでは世間が承知しない」と言い、財閥には当たらない持株会社ながら、粛々と財閥指定を受けることになりました。

渋沢一族および渋沢同族株式会社が、近代日本のために行ってきた総決算がここにあるのではないかとつくづく思います。


この度、新たな一万円札の肖像画として選ばれた渋沢栄一。
今回の肖像の起用で、彼の成したことの一部でも人々の中に伝われば良いと思っております。
posted by さんたま at 17:52| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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