2019年02月17日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(107)-屋島の戦い・本戦-

西暦1185年(元暦二年)2月17日未明。平家追討軍別働隊・源義経隊50騎100兵余は、摂津国渡辺津(大阪府大阪市天満橋付近)から船を出し、18日、阿波国椿浦(徳島県阿南市椿町?)に到着。現地の武士・近藤親家を味方に引き込み、阿波国勝浦郡託羅郷(徳島市本庄町)にある平家方の有力武将・桜庭良遠の居城・本庄城を落城させました。

ここで、義経は、有益な情報をゲットします。

それは、讃岐国(香川県)を支配下においている田口成良(平家方/桜庭良遠の兄)が3,000騎を率いて、源氏に味方している伊予国(愛媛県)の河野通信(源氏方)討伐に出陣しており、屋島の平家軍は1,000騎余しかいないこと。

また残り1,000騎も屋島近郊の港などの警備に割かれていて、本陣は手薄という情報でした。

これを聞いた義経は、直ちに全軍を率いて徹夜の大行軍を開始します。

義経が行軍を急いだのは、平家の兵力が分散しているうちに屋島を攻略することと、自分たちが小勢だということを平家に知られたくないという思いと2つの理由があったと思われます。

屋島(香川県高松市屋島)は、今でこそ相引川を挟んで「陸続き」になっていますが、これは江戸時代に盛んになった塩田事業等の埋め立てによるもので、昔は完全な島だったそうです。

屋島と四国の間に流れている「相引川」は昔の海の名残と言われています。


2月19日未明。屋島の対岸に到着した義経は手勢を隠し、郎党を使って、物見(偵察)を行わせました。
義経はこちらが130騎兵の少数部隊だと悟られたくなかったのです。

物見の結果、目算で敵は500-600騎程度の兵力であること、また、近藤親家の情報によれば、干潮時を狙えば、馬で屋島まで渡れることもわかったため、義経は

「頃はよし。総攻めの用意」

と言い

「まずは屋島周辺の民家に火をかけて、焼き払え!」

と下知しました。
これも、義経軍が小勢ではなく、大軍勢であることを平家に見せつける策謀でした。

義経軍により、現在の高松市の海岸沿いの民家に次々と火がかけられ、空にはおびただしい量の黒煙が上がりました。
これは義経の目論見どおり、平家方は慌てふためくことになります。

「源氏の敵襲じゃあああ!!」

屋島の平家軍は突然の源氏の襲撃に大騒ぎとなります。
平家の主だった武将たちは、屋島を包囲されては叶わない(ぶっちゃけ戦えない)ため、船に乗って屋島から脱出します。

一方、屋島から100メートル程度離れたところで、源氏の軍勢80騎ほどが喚声をあげながら、御座船に向かって駆け出してきました。

義経は船に向かい、

「我こそは五位左衛門少尉、源九郎義経!後白河院の命により参上仕った!」

と大きな声で名乗りをあげると

「伊豆国の住人、田代冠者信綱!」
「武蔵国の住人、金子十郎家忠!」
「同じく、与一親範!」
「伊勢三郎義盛!」
「後藤兵衛実基!」
「佐藤三郎兵衛継信!」
「同じ四郎兵衛忠信!」
「武蔵坊弁慶!」


と義経を取り巻く武者全員が名乗りをあげました。

これを見た平家の御座船の武士たちは

「奴らを射落とせ!」

と矢合戦の命令を伝えると、御座船内の武士が次々と出てきて、義経らに向けて矢を繰り出してきました。

平家の武士たちは揺れる船の中から矢を放っており、狙った通りに満足に当たるものでもありません。一方で義経主従はその矢をかわしながら、逆に矢を放ち返していきました。

しばらくすると、屋島の内裏(平家の屋敷)から火の手が上がるのが見えました。
義経主従の一人、後藤実基が単身上陸し、建物に火をかけたのです。

「ああ......内裏が、我らが苦心してこしらえた内裏が焼けていく.....」

平家一門の棟梁である宗盛は火をかけられ、焼け落ちていく内裏を見ながら、胸を掻きむしらんばかりに苦しみました。

「一体、源氏の兵力はいかほどぞ?」

宗盛が近くの武士に尋ねると

「100はおらぬかと思われます」

と答え、宗盛は

「たったの100......この屋島には500騎を超える兵力があったのだぞ。それが民家を焼き討ちにした敵襲と聞いて慌てて船に乗って内裏を離れ、焼かせてしまっては、主上になんと申し上げれば良いのか......これは我らの浅はかさぞ。」

宗盛の苦し紛れの嗚咽は、周りの人間の悲しみにも通ずるものがありました。

「能登を呼べ.....」

宗盛は嗚咽をこらえて、側衆にそう言うと、御座船の外で源氏の兵と戦っている平教経を呼びました
教経は呼ばれているのを聞くと、急ぎ御座船の中に入り

「内府殿。お呼びでございまするか」

「そなた、これより陸へ上がり、源氏の兵を相手に一戦してくれまいか。このまま何もせず内裏が焼け落ちるのは我慢がならん」

「承知いたしました。できましたら越中次郎(平盛嗣)もお借りしたく」

「好きにせよ」

教経は宗盛の前に畏ると、平盛嗣を連れて小船に乗り、屋島の内裏正門の波打ち際に上陸しました。

それを見た義経軍も屋島の内裏正門近くまで寄せてきました。弓矢の射程距離を伺っているようです。

一方、教経も強弓に矢をつがえて、義経に狙いを定めますが、義経主従とその兵が入れ替わり立ち替り、義経の前に立ちふさがって、狙いがつけられませんでした。

「ええい!そこの郎党ども!邪魔じゃ。どかんか!」

と大声をあげますが、義経主従は一切聞く耳を持ちません。

「どかんならどかんで良いわ。まとめて冥土に送ってくれる!」

教経は強弓から次々と矢を放ち、義経の兵を10人ほど射殺すと、教経の目の前に義経を遮るものがなくなりました。

「ようやく視界が開けたわ......死ね!九郎判官!」

と新たに強弓に矢をつがえて放ったところ、義経の前に被さるように黒い1つの騎馬が走り去って行きました。
騎馬上の武士の左の肩から右脇にかけて矢が貫いており、おびただしい鮮血を吹き上げていました。

騎馬上の武士は、佐藤継信でした。

継信は矢を受けながらも馬を走らせていましたが、やがて力尽きたのか、腕をだらりと下げ、騎馬からふらりと落馬しました。

それを見た教経の下男・菊王丸は倒れた継信に駆け寄り、その首を取ろうとしますが

「下郎!兄に触れるな!」

と佐藤忠信が駆け寄り、弓に矢をつがえて放ち、今度はそれが菊王丸の胴丸に命中しました。
受けた矢の勢いで、尻餅をつく菊王丸。

それを見た教経は急ぎ菊王丸に駆け寄って、菊王丸を右に抱え、自らが乗ってきた小舟に投げこみました。
菊王丸の首を取られないようにするための咄嗟の判断でした。

「次郎(盛嗣)、菊王丸の手当を頼む」

教経はそう言いながら、依然として義経主従の方に向いて弓と矢をつがえ、義経の隙を伺っています。

しかし

「能登殿。手遅れです」

という盛嗣の声が聞こえると

「なんだと?」

「すでに事切れています」

菊王丸は胴丸に矢を受け、すでに重傷でした。
その重傷の状態で、教経の片腕に担ぎ上げられ、小舟に投げ込まれては、受け身を取ることもできず、衝撃で首の骨を折り、そのまま死んでしまったのです。

菊王丸は、もともと、教経の兄・平通盛の召使でしたが、通盛が一の谷の合戦で戦死した後は、教経に仕えていました。
教経とはわずか1年足らずの付き合いでした。

「なんと不憫な子か.....」

教経は菊王丸の亡骸を横目に哀れむと、弓につがえていた矢を外し、小舟に乗り込んで御座船に帰って行きました。
菊王丸の死は、教経に戦いを続ける気力が萎えさせてしまったのです。

しかし、このおかげで、義経主従は落馬した継信の体を担ぎ上げ、自陣に連れ帰る時間が稼げました。

陣幕の中で板木の乗せられた継信の顔面は真っ青となっており、目は虚ろな状態でした。
義経は継信の手を取り

「三郎兵衛、しっかりしろ。気分はどうか」

と声をかけるのが精一杯でした。

「もはや......これまでと存じます....」

主人の問いかけに継信は必死で答えました。

「何か思い残すことはないか」

義経は継信の命がもう尽きかけているのを察知すると、せめて遺言だけでも聞きとろうと必死でした。

「何を思い残すことがありましょうか。ただ、殿がこの世で栄えある姿をみることなく死ぬことが悔しゅうございます。それ以外のことは武士の家に生まれた者の定め。覚悟の上でございます」

「三郎兵衛......」

「お嘆きなさいますな。この三郎兵衛、後世まで『源平の戦の中、屋島の磯にて主君を身代わりに討たれた』と語り継がれることでしょう。これぞ無上の喜び、良い冥土の土産になりまする......」

継信は言葉を続けようとするが、掠れて声が出なくなっていました。

「誰かある!」

義経は人を呼び

「この辺りの寺から僧を召し出し、ここに連れてまいれ!」

と命じると、程なく、一人の僧侶が連れてこられました。
義経は僧に会い、深々と頭を下げると

「わが手の者が今まさに息絶えんとしておる。すまぬがこれより経文を書き、唱え、かの者の弔いをお願いしたい」

と言って

「そのお礼にこの馬を貴殿に差し上げる」

と「大夫黒」と呼ばれた義経の名馬を僧に献上されました。
これまで義経の主だった戦いにずっと加わってきた名馬を惜しげも無く献じる姿に、義経の将兵は皆、感じ入ったと言われます。

佐藤三郎兵衛継信。享年28と伝わっております。

(つづく)
posted by さんたま at 23:34| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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