2018年12月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(105)-源氏、西国に橋頭堡を築く-

源範頼率いる平家追討軍は、西暦1184年(元暦元年)12月7日、備前国藤戸(岡山県倉敷市藤戸)で平家の先発隊を破って勝利をおさめ、周防国(山口県西部)に入国しました。

依然として瀬戸内海の制海権は平家にあり、水軍はもとより船の手配、食糧補給もままならない範頼軍は、京都や鎌倉に追加の補給を願い出ていました。そんな中、義兄・頼朝からの返書が、年が明けた西暦1185年(元暦二年)1月6日付で範頼の元に送られました。

そこには

「とにかく西国の武士と揉め事を起こすことなく、平家を追討することだけ考えよ」

というアドバイスにもなんにもならない内容が書かれていたものの「2月10日前後には船を手配して西国に送る」という内容も書かれており、追討軍に多少の明るさが戻ったことは間違いでしょう。

また、頼朝は範頼が九州の源氏勢力を統合し、平家に対抗する力となることを期待しつつ、同時に京都の治安維持に当たっている義経を四国へ派遣することも書状に書かれてありました。

時同じくして、同年1月8日、義経は後白河法皇に西国への出陣許可を求めていました。
これが頼朝の指図によるものかどうかはわかりません。

吉田経房(正三位権中納言)が記した「吉記」によると、法皇は義経の出陣願いに対し

「それは判官自身が出陣するのか?それともお主の郎党が出陣するのか?」

と尋ねられ、義経自身の出陣については即答で許可することができませんでした。それは先の平家残党による伊勢・近江反乱の首謀者である残りの一人・伊藤忠清が未だに京都に潜伏しており、捕縛されていなかったからです。

法皇としては、ここで義経に京都を離れられては安心できぬという心境でしょう。

しかし、義経は

「これより2、3ヶ月経過し、兄・範頼軍の食糧が尽き、京都に引き上げてきたならば、今、源氏に味方する在地豪族の連中は再び平家に味方することになります。それこそ一大事ではありませぬか?」

と院に迫っています。

ここで経房は

「御上(法皇様)、判官(義経)殿の申し状も一理あります。ここで判官殿ご自身が出陣せず、その郎党を遣わしたところで、追討の意味がありませぬ。ならば、今春のうちに判官殿に後出陣いただき、源氏・平氏の戦いに終止符を打っていただくのがもっとも良策であると考えまする」

と義経の出陣に賛意を示しています。
法皇は、この経房の意見に法皇はこれ以上の反論は無駄だと悟り、翌々日の1月10日、義経に西国への出陣を許可しました。


1月12日、九州への行軍を続けていた範頼の平家追討軍は、ついに九州との境である赤間関(山口県下関市)に到着しました。

追討軍はここで九州へ渡ろうとしますが、西国は平家の勢力下であり、ここには平家最強の武将・平知盛(清盛四男・平家最強の武将)彦島(山口県下関市の南端にある島)に砦を築いて、軍勢を駐屯させていました。

水軍も船も持たない追討軍は海を渡る方法もなく、かといって戦いを仕掛けてくる彦島の平家軍を駆除することもできず、進むことも退くこともできなくなっていました。有効な打開策もなく、兵士の食糧も尽き、完全に八方塞がりとなり、追討軍の士気はどんどん落ちていったのです。

彦島の平知盛は、惟を狙っていたので、範頼は完全に知盛の術中にはまったと言えましょう。

追討軍は8月に鎌倉を経ってすでに5ヶ月の長旅に飽き始めていました。
範頼に従っていた御家人の中にはこっそり鎌倉に帰ろうとする者もいましたが、その中には和田義盛(侍所別当)の姿もありました。

本来、御家人を監督する立場の侍所の長官である義盛ですら鎌倉に戻りたいと言い出す程の厭戦状況は、よっぽどであったと思われます。

そんな追討軍ではありましたが、周防国の豪族・宇佐那木上七遠隆が食糧の援助を申し出たり、豊後国(大分県)の豪族・緒方惟栄(豊後国大野郡緒方荘領主)とその弟である臼杵惟隆が、豊後の武士をまとめ上げ、82の軍船を率いて平家追討軍の援軍に加わるなど、少しずつ風向きが変わってきました。


1月26日、範頼率いる平家追討軍は、周防国の抑えに三浦義澄(相模国三浦郷の住人)を残し、周防国を出発。

「吾妻鏡」の記録によれば、翌2月1日、平家追討軍のうち、北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河清実らが豊後国に上陸し、筑前国葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町あたりの湾港)にて、大宰権少弐(太宰府の副長官)を務める原田種直とその子・賀摩種益を攻撃しました。

原田種直と賀摩種益父子の弓矢の腕は凄まじく、これに下河辺行平、渋谷重国の両名が弓矢で応戦し、双方弓矢合戦となりましたが、行平が種直の弟・美気敦種を討ち取り、重国が種直を射抜き、初戦の勝利を飾りました。

これにより、筑前(福岡県北部)、豊前(大分県北部)、豊後(大分県南部)の三国は源氏の勢力下に置かれました。

これまで優位に戦いを進めていた彦島の平知盛は、正面の周防国に三浦義澄、背後の豊後国に平家追討軍総大将・源範頼に挟まれることになってしまい、源氏を釘付けにするための知盛の作戦が、逆に知盛を彦島に釘付けにする結果に変わってしまったのです。

これが、のちに屋島の戦いでの平家の敗因の1つとなってしまいます。

また同じ頃(2月)、後白河法皇より平家追討の命令を受けた義経は、摂津国、紀伊国、伊予国の水軍衆の調略に成功し、摂津国渡邊津(大阪府大阪市天満橋付近)に兵を集め、四国へ渡るタイミングを見計らっていました。


次回、いよいよ屋島の戦いです。。

(つづく)
posted by さんたま at 17:05| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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