2018年12月09日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(104)-藤戸の戦い-

西暦1184年(元暦元年)12月某日、源範頼ら平家追討軍は備前国藤戸(岡山県倉敷市藤戸)まで進軍しましたが、屋島から出撃した平家迎撃軍に行く手を阻まれていました。

平家は児島(岡山県倉敷市児島)に砦を築いてそこにこもり、そこから軍船で岸辺まで進出して、海上から牽制攻撃を行っていました。しかし、源氏に船はなく、平家を迎え撃つことができません。

平家の牽制攻撃に怒りに震えた佐々木盛綱(佐々木秀義の三男)は、同月6日の夜、近所の漁村の漁師を買収し、馬で島に渡る方策はないか相談したところ、一人の漁師が「浅瀬を知っている」というので、その者を案内に立てて、盛綱は一人、その浅瀬に向かっていました。

半刻ほど行くと、

「ここだ」

と漁師が海を向いて指差しました。

「普通の海と変わらんぞ」

盛綱は不審がって言いました。

「じゃあ、俺についてきな」

と漁師が服を抜いて、海の中に入りました。
漁師は足から、膝、腰、胸、肩まで入ったところで、盛綱を手招きしたので、来ていた狩衣を抜いで盛綱も入りました。
海の水は肩まで浸かりましたが、しっかりと底に足が着いています。

「これは.....」

盛綱が驚くと、漁師はさらに奥に歩いて進んでいきます。
盛綱もそれに続き、ずっと底に足が着いているのを確認しました。

「この辺りはこの深さがずっと続いていて、あの島(早島?向山?)までは馬で渡れる。だが、これ以上進むと平家に見つかって、討ち死にされてしまう恐れがあるから、一旦引き上げた方がいい」

「うむ」

二人は海から岸へ向かって歩き始めました。

漁師は岸辺にあった漁師小屋に行き、火を起こして蒔をくべ、すぐに暖がとれる支度をテキパキとこなしました。
一方で盛綱は火にあたりながら、漁師小屋にあった布で体を拭くと、狩衣を身にまといました。

盛綱は岸から上がったあと、ずっと無言でいました。
それはあることを考えていたからでした。

「おぬし、漁師仲間を口説いて源氏に味方するように説き伏せられないか」

盛綱はそう言うと、漁師は「はぁ?」という怪訝な顔で答えました。

「俺たちはこの土地の漁師だ。西国は平家の領地だけれども、俺たちには源氏も平家も関係ねぇ。ただここで漁をして生活したいだけだ」

「そうか......そうだよな」

盛綱は思った通りの答えが出てきたことに苦笑しながら、その顔は悲壮に満ちていました。

「その方らは土地の漁師。源氏にも平家にもつかぬ。ということは、お主はこの情報を平家にも教える可能性がある」

「あんた......」

「すまぬが、この情報を敵に知られるわけにはいかんのだ.....」

「ひぇっ.....!!」

盛綱が放った殺気は、漁師に背を向けさせるのに十分でした。
しかし盛綱の方が動きは早かった。

盛綱は大きく一歩踏み込み、即座に刀を抜いてそのまま漁師の背を下から上に斬り上げました。
鮮血がシパッと跳ね、漁師の体が一瞬ぐらっと崩れると、今度は右から左に刀を走らせ漁師の首をスパッと刎ねたのです。

「......悪く思うな」

盛綱はそう言うと、その場を立ち去って刀の血を海の水で洗った後、自分の陣所に帰って行きました。


翌12月7日、平家は再び児島より軍船を出し、船より矢を放って源氏への牽制攻撃を行おうとしていました。

それを見た佐々木盛綱は自分の郎党七騎を率いて

「進めぇい!!」

と進軍の合図を送り、一目散に海に駆け込みました。
他の武士たちは、「おい、やめろ」「自滅する気か!」と声をかけましたが、盛綱は進軍を止めませんでした。
その姿は当然、総大将である範頼にも見え

「誰か佐々木殿を止めよ!!」

と命じられたので、土肥実平が承って馬を駆って盛綱に追いつきました。

「佐々木殿!待たれよ!!大将軍(範頼)の命令もなしに突き進むとは乱心されたか!留まられよ!」

実平の言葉を聞いていた盛綱は「はっはっは」と笑いし、

「我に続かれれば、理由(わけ)がわかり申す」

とだけ言って、そのまま海中への進軍を止めませんでした。

実平にとって大将軍である範頼の命令は絶対でしたので「止められませんでした」とは言えません。
やむえず、実平も盛綱に続いて馬を進めました。

海水は馬の足をすべて呑み込み、場合によっては深みに入って鞍まで浸かったこともありましたが、馬ごと沈むということはなく、むしろ島に近くにつれ、今度はどんどん浅くなっていきました。

「こ、これは.....」

実平の狼狽を見て盛綱はニヤリと笑うと、

「土肥次郎殿!御助勢感謝!」

とだけ言い放ち、さらに馬に鞭を入れて目の前の島に向けて進軍を進めました。

これを見ていた対岸の範頼は

「佐々木の三郎め......いつの間にあんな浅瀬を知り得たのじゃ」

と独り言のように言うと

「全軍!佐々木殿の後に続け!」

と総攻撃の下知を下されました。


驚いたのは平家です。
絶対不可侵領域であるはずの海に馬で渡れる浅瀬があろうとは、想像もしていませんでした。

浅瀬近くの軍船は急ぎ櫓を漕いで、戦線から離れようとし、船上では前にもまして弓矢をつがえましたが、ことごとく源氏の軍勢の船の侵入を許し、次々に討たれていきました。

源氏はついに児島の平家砦に上陸を果たしましたが、時すでに遅く、平家軍お主力はすでに島を捨て、屋島に撤退していました。
海は浅瀬で渡れても、瀬戸内海を馬で超えることは難しく、源氏は平家に追い討ちをかけることができなかったのです。

こうして、のちに「藤戸の戦い」と呼ばれた合戦は源氏の辛勝となりました。

一方で、大勝利のきっかけを作った佐々木盛綱には、「総大将・源範頼の命令違反」という罪が残されました。

しかし、同月26日付で頼朝から下記の感状が出されました。

「昔から今に至るまで、馬で川を渡る武士は数多いが、馬で海を渡るインド、中国はいざ知らず、我が国では極めて珍しいことである。盛綱の働きあっぱれである」

よって盛綱の命令違反の罪は帳消しとなり、逆に盛綱は恩賞として備前国児島の地を所領として充てがわれたのです。


源範頼率いる平家追討軍は、藤戸の戦いを経て、本来の目的である九州へ向けて軍勢を進めました。
しかし、鎌倉を経ってすでに4ヶ月がたち、範頼の元には諸所いろんな問題が積み上がってきていました。

1、兵糧の問題
2、水軍確保の問題


1については、瀬戸内海の制海権を平家に握られている以上、海路ならびに西国陸路における補給が満足に行き届いていませんでした。
2については、藤戸の戦いで追い討ちができなかったのと、来るべき屋島討伐のために、どうしても軍船が必要で、その確保がなかなか進みませんでした。

この頃、範頼はこれらの窮状を鎌倉に報告する文書を送っているようですが、それに対する頼朝の返事が「吾妻鏡」に残っています。
それは下記のような内容でした。


「風聞で物資が欠乏していると聞いたので、その手当が完了したという手紙を送ろうとしたら、お前の11月14日の手紙が、正月6日に到着した。

よってその返事をここに書く。

手紙の内容は承知した。

九州の御家人連中も平家の衰運はなんとなく感じているはずだから、それでも従わないのはお前に問題があるのだと思う。お前はこの頼朝の名代なのだから、もっと堂々と行動しろ。何事も落ち着いて対処し、現地の人達に憎まれるようなことをしてはならない。

追加で馬を送れとの件だが、戦に軍馬が必要なのは理解している。だが、平家も京都奪還を目指してそれなりに情報収集をしていることを考えると、戦場の大将に馬を送って、万が一平家に横取りでもされては本末転倒なので、鎌倉から送るのは難しい。

又、内藤盛家が周防国遠石庄(山口県周南市)を横領した事は驚いた。
しかし、地元の人達を怒らせるようなことをしてはならない。

今、屋島におわす安徳天皇や二位の尼(清盛未亡人・時子)や女房たち等を疎略なきようにお迎えを送ることを考えているが、それを公表すれば、二位殿などは、安徳天皇をお連れなされて、自決しかねないだろう。

御上への配慮は今に始まったことではないが、かつて木曾義仲は山の宮と鳥羽四宮を討ち奉ったので自滅した。
平家は、三條高倉宮(以仁王)を討ち奉ったので、今まさに自滅の道を歩んでいる。

そういうことなので、急がず良く考えて、敵を討ち洩らさないようにじっくりと計略を立てて、命令を出しなさい。

内府(清盛三男:平宗盛)は、臆病者なので、自害はしないだろう。生け捕りにして京都へ連行せよ。その事が世間の隅々まで伝われば良いことだ。

しかし、安徳天皇の身の上が心配だ。よってどんな手を使ってもいいから、うまくやりなさい。
他の武士たちにも、このことを良く言い含めるよ。団結を強めるため、懇切丁寧に説明せよ。

よいか。よくよく考え、九州の者共に憎まれないように振る舞うのだ。
関東武者の勢いだけで、九州の者共に頭ごなしに屋島の攻撃を急がせたりするな。

もう平家が弱体化したとはいえども、敵を侮るようなことは、絶対にあってはいけない。良く考えて、敵を討ち漏らすことの無いように、よくよく検討をして決定せよ。

なお、安徳天皇ことは、特に念を入れて、何事も無いように計らえ。

二月十日頃には、ある程度船を上洛させられると思う。

話は違うが、佐々木三郎盛綱が、九州へ下って行きたいと言うたので、遣わしたら備前の児島を攻め落としたらしいな。

何れにしても、慎重に考え、うまく軍隊を使うように心得よ。

侍たちにあ細かい指図をすると大将としての要を問われるぞ。

それと、お前、食料などが足りなくなって、京都などにあちこちに催促をしているらしいが、そんなものを要求しても意味ないと思うぞ。

鎌倉でも、時に変わったことはない。千葉介(千葉常胤)は、戦上手だからうまく使え。


九州の者共が降伏してくるようなことがあれば、丁重にもてなして、疎略なきようにしろ。

豊後(大分県)の船を調達できれば、たやすいことなので、もし船があれば自分たちで攻めて行くように地元の者共に伝えよ。(さっきも書いたが)関東からの船は二月十日ごろに出発できるように準備中だ。

今一度言う、九州の事は慎重に疎略なき指図を心がけよ。

しかし、東国の侍たちが帰りたがっているとは意外だったが、四ヶ月も鎌倉を離れれば、それもやむなしかな。

いろんな人がいろんなことを言うが、いちいち人の云うことなんか聞くことはない。本当に良いと思う方法を行うことが大事なのだ。

人の云うことなんか気にするな。所詮、大将と侍は背負ってる物が違う。

小山一族(長沼宗政と結城朝光)のことはくれぐれも宜しく。

私は思うが、これ以降に合戦に参加する者共は、今現在誰の領地や知行地だとかは気にするな。そんな事を考えていて、その者共が合戦の邪魔者になるのが面倒だ。

今は地元の人達をなだめすかしてでも旨くこの場だけでも気遣って、九州の武士たちに四國を攻めさせるのだ。

追伸:命令書を一枚送付したので、九州の地元の武士たちに披露しなさい。

そうそう、甲斐の武士たちの中の、いさわ殿(石和五郎/武田信光)、かがみ殿(秋山光朝/秋山氏の祖)は特に大事にせよ。かがみ殿は、次郎(小笠原長清/小笠原氏の祖)の兄だが、平家についたり、木曾義仲についたりした者なので、所領などを与える必要はない。弟の次郎殿だけを大事にせよ」



この前の範頼の書状の内容がどういうものかこの内容から類推するしかないのですが、まぁ、いわゆる「愚痴」を書き送ったものと思われます。それにしても頼朝の弟に対する気遣いが随所に現れている返書だと思います。

そして、この時、つけていた命令書が以下の通りです。


「九州地方の武士たちへ

可及的に速やかに鎌倉殿(頼朝)の御家人となって本領を安堵され、三河守(範頼)の命令に従って、力を合わせて、朝敵となった平家を滅ぼせ。

右(上記)のとおり、九州の武士たちに命令して、朝廷の敵を退治するように、後白河法皇の命令書が出されています。これによって鎌倉殿の代官として二人が京都へ上り、三河守(範頼)は九州へ行き、源九郎義經(義経)は四国へ派遣され流ことになった。

これにより、四国にある平家の部下、また九州へ着いた(逃れた?)としても、皆それぞれに後白河法皇の命令で動く三河守(範頼)の命令に従って、力を合わせ、朝敵退治するように命じる。

九州の朝廷へ着いた兵隊たちは、これに速やかに従い手柄を立てよ。

以上を命令する。

元暦元年正月  前右兵衛佐源朝臣(頼朝)」



この頼朝の命令書には「義経を四国に遣わす予定」とあります。
この時の義経は、後白河法皇の命令により「従五位下 左近衛少尉 検非違使」の官職を賜っており、京都の治安維持を命じられていたため、頼朝は追討軍の大将から外していました。

しかし、ここで義経の名前が出たことから、頼朝の朝廷工作がなんらかの成果をあげ、結果、義経に出陣ができる様子が整ったと考えられます。

屋島の戦いまであと少しです。

(つづく)
posted by さんたま at 19:15| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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