2018年12月02日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(103)-東国固めと平家討伐-

西暦1184年(元暦元年)7月7日、伊賀・伊勢国で勃発した平家残党の反乱は、7月21日、佐々木秀義(近江国蒲生郡佐々木荘領主)大内惟義(伊賀国守護)の連合軍により、首謀者の平家継が打ち取られて京都で晒し首にされ、また8月に入って源義経(頼朝異母弟)によりもう一人の首謀者・平信兼本人が討たれた結果、収束へと向かっていました。

しかし、3人の首謀者のうち、最後の一人である伊藤忠清の行方はわからず、後白河法皇は義経を左衛門少尉・検非違使に任じ、京都の治安維持を図ろうとしていました。

法皇が義経を京都の治安維持に任じるということは、当初頼朝が考えていた義経を平家追討使として起用することができなくなったということでした。ゆえにこの人事に頼朝は非常に不満を持ったと言われています。


西暦1184年(元暦元年)8月8日、頼朝は源範頼(頼朝異母弟)に追討使を命じ、屋島に向けて出陣を命じました。

「吾妻鏡」によるとこれに従う御家人は次の通りです。


北条小四郎(義時/伊豆国北条荘領主・北条時政嫡男/頼朝の義弟)

足利蔵人義兼(足利氏当主/河内源氏庶流)

武田兵衛尉有義(武田氏当主・武田信義三男/甲斐源氏)

千葉介常胤(千葉常胤/千葉氏当主)

境平次常秀(千葉常胤孫)

三浦介義澄(三浦義澄/三浦氏当主)

男平太義村(三浦義村/三浦義澄次男)

八田四郎武者朝家(八田知家/下野国茂木郡領主)

同男太郎朝重(小田知重/八田知家嫡男)

葛西三郎清重(下総国葛西御厨領主)

長沼五郎宗政(小山氏当主・小山政光三男)

結城七郎朝光(小山氏当主・小山政光四男)

籐内所朝宗(比企朝宗/源頼朝乳母・比企氏の一族)

比企籐四郎能員(比企氏当主/頼朝嫡男頼家乳母父)
  
阿曽沼四郎廣綱(藤姓足利氏庶流/下野国安蘇郡阿曽沼領主)

和田太郎義盛(三浦一族・和田氏当主/侍所別当)

同三郎宗實(和田宗実/和田義盛末弟)

同四郎義胤(和田義胤/和田義盛三弟)

大多和次郎義成(三浦一族・大多和氏当主)

安西三郎景益(安房国丸御厨領主)

同太郎明景(安西景益弟)

大河戸太郎廣行(大河戸氏当主)

同三郎(大河戸行元か?)

中條籐次家長(八田知家養子)

工藤一臈祐経(工藤氏当主/伊豆国伊東荘領主)

同三郎祐茂(宇佐美助茂/工藤祐経弟/伊豆国宇佐美荘領主)

天野籐内遠景(工藤氏庶流/一条忠頼を斬った人物)

小野寺太郎道綱(首藤一族/下野国都賀郡小野寺荘領主)

一品房昌寛(源頼朝右筆)   

土左房昌俊 (土佐坊昌俊/土肥実平家人)

これらを合わせて総兵3万あまりで出陣しています。

これら頼朝に使える鎌倉御家人の中でも選りすぐりの精鋭部隊といえるものでした。

追討軍は同年8月27日に京都に到着。29日に朝廷より追討使の官符(命令書)を受け取り、翌9月1日に西国に向けて京都を出発しています。


またこの出陣と合わせて、頼朝自身が上洛する動きをとっています。
九条兼実の日記「玉葉」の8月23日の項目には、

「聞くところによると、法皇は摂政(近衛基通)を頼朝の婿にするため、五条亭を修理しているらしい。頼朝上洛時に新妻を迎えるためらしいが」

とあることから、頼朝上洛の報はすでに院庁に届いていたと思われます。
(結果的にこの時の頼朝の上洛はなかったんですが.....)


一方で頼朝は、同年8月24日、自身の鎌倉政権において、新たな行政機関として「公文所」を立ち上げています。
公文所は鎌倉政権における行政書類の発給・管理等の行政処理を目的とした機関です。

公文所は8月24日に棟上げ、同月28日に門が設置され、10月6日に業務開始となっています。

公文所の別当(長官)は、京都からやってきた中原広元が務めました。
ここに詰める担当役人として中原親能(広元の兄)、二階堂行政(公家)、足立遠元(武蔵国足立郡領主)、中原秋家(一条忠頼家臣)、藤原邦通(判官代/頼朝の右筆)など主に京都からの文官が配置されています。

これは頼朝に政務経験が全くなかったことが影響しているのではないかと考えています。


また、公文所稼働開始の14日後の10月20日、新たに「問注所」が設置されています。
問注所は上がってきた訴訟を迅速・円滑に処理するための機関です。
この初代問注所の執事は三善康信(頼朝乳母の妹が母)が務めました。

侍所が御家人の統制と管理、公文所が行政処理、問注所が訴訟処理を司ることとなり、この時期、鎌倉政権は着実に地固めを進めていました。

それに加え、平家討伐への準備も同時並行もやってるわけですから、この時期の頼朝の多忙さはなかなかですね。
そんな中、自分の家族のこともちゃんと考えているのが頼朝さんです。

同年9月14日、京都の源義経の屋敷に河越重頼の娘・郷が、頼朝の命令を受け、義経と結婚するために上洛しています。
この結婚にはいろいろな説があるのですが、「吾妻鏡」によると「もともと約束されていた」結婚のようです。

河越重頼は、東国武士のエリート集団・坂東八平氏の筆頭・秩父氏の嫡流で、武蔵国入間郡河越荘の領主です。
また、「武蔵国留守所総検校職」という国内の軍事統率権を有する重要な職責をもち、武蔵国最大の軍事力を持っていました。

加えて重頼の妻は源頼朝の乳母・比企尼の次女(河越尼)で、頼朝の嫡男・頼家の乳母でもあります。

つまり鎌倉政権を担う河内源氏棟梁の頼朝弟の義経と、政権を支える重要な御家人である河越氏との結婚は、頼朝にとっては河越氏を親類化することで鎌倉政権を固める重要な事項だったと私は考えています。。

頼朝としては、義経の無断任官を決して喜んでおりませんが、自らの軍事活動が「御上を安んじ奉る」ことを信条としている頼朝にとって、その官位を以って朝廷・院が安心できるのであれば認めないわけにはいきませんでした。

しかし、ここで河越重頼の娘を上洛させ、結婚させることは、義経に対し「お前の主人は俺だ」という意思表示だったのではないかとも考えられます。

また、義経の結婚がどう影響したのかはわかりませんが、この4日後の9月18日、朝廷(院?)は、義経を従五位下に叙しています。
こちらも義経を取り込もうとする法皇・朝廷の戦略の現れとするのは、少々穿った見方でしょうか?


去る9月12日、範頼率いる平家追討軍は播磨(兵庫県)に到着しました。

9月19日、頼朝は橘公業(元平知盛の家人・橘公長の子)に命じて、平家を離反した讃岐国の武士に向けて、九州に向かうことを命じています。これは追討軍が屋島を攻めた場合、平家の逃亡経路は九州であり、その退路を防ぐということもさながら、水軍の確保の目的もあったと思われます。

一方、範頼は淡路島の水軍攻略などに手を出していますが、水軍の調達はうまく行かず、10月12日には播磨から安芸(広島県)に向けて陸路で軍勢を進めています。

屋島の平家側はこれに対抗するため、軍船を張り出させて範頼軍の補給線を断つ作戦にでます。
平家側の武将は

小松中将資盛(小松家当主/平重盛次男)

小松少将有盛(小松家/平重盛四男)

丹後侍従忠房(小松家/平重盛六男)

飛騨三郎左衛門景経(藤原景経/平家譜代家臣)

越中次郎盛嗣(平盛嗣/平盛俊の子)

上総五郎兵衛忠光(藤原忠清の子)

悪七郎兵衛景清(藤原忠清の子/忠光弟)


らと500艘の軍船で対抗しました。

同年12月、平家追討軍は屋島から平家水軍が発したのを認めると、備前国西川尻藤戸(岡山県倉敷市藤戸)に陣を敷いて、これを迎え撃つことにしました。

しかし、源氏には水軍がないため、平家の元まで軍勢を進める方法がなく、源氏は山に登って野営をし、平家は船を出して

「源氏の芋侍、戦う気あるのか!」

と源氏を野次る毎日が続きます。

連日のヤジ攻撃に頭にきたのは、源氏方の佐々木盛綱(先の平家残党反乱で討ち死にした佐々木秀義の子)でした。

「おのれ!毎日毎日、言わせておけば!!」

怒った盛綱は密かに漁村に赴いて、漁師たちに純白の小袖や腹巻などを与えて漁民を買収し、情報を得ることにしたのです。

「このあたりの海辺で馬で渡れそうなところはないか?」

と聞き込みを行うと、そのうちの1人が

「村の人間が多いが、この辺りの地形まで知り尽くしたものはそうそういない。まぁ、この俺ぐらいだろうな。」

と言うので

「それはどこだ?」

と問い詰めると

「川で言うところの瀬みたいなところがあるだよ。ただ......こいつは動くんだよ」

「どういうことだ?」

「月初には東にあるだ。でも月末になると西に移ってしまう。」

「そんなバカな」

さすがの盛綱も呆れました。地面が動くとか言われても普通は信じることができません。
猟師はその盛綱の態度を見て

「信じないなら別にいいだよ。ただその瀬を通れば、あなた様の馬なら難なく渡れるだろうさ」

と言って、仕事に戻ろうとしました。
盛綱はしばらく考えましたが、他に手がない現状は変わりないため

「よし。お主を信じよう。その場所に案内してくれ」

と答えました。

仕事に戻ろうとしていた漁師は

「あいよ」

と答え、盛綱と共に、その瀬に向かって進んでいきました。

本来であれば、盛綱はこの情報を自陣に持ち帰り、総大将の範頼に報告し、指示を仰ぐべきでした。
しかし、盛綱は数ヶ月前に父・佐々木秀義を平家残党に殺されており、彼の行動は恨みによって引き起こされたものであると彼自身もわかっていなかったかもしれません。

しかし、これにより戦況は大きく変化していくのです

(つづく)
posted by さんたま at 22:49| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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