2018年11月27日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(102)-平家反乱と九郎判官-

西暦1184年(元暦元年)6月21日、源頼朝は侍所別当・和田義盛に命じて、甲斐源氏・武田信義の嫡男・一条忠頼を謀殺しました。


甲斐源氏は、源頼朝の河内源氏の同族であり、同じ源氏の一族です。

しかし、頼朝は今や朝廷より正四位下に叙任され、後白河院より東海・東山両道諸国の行政権を委ねられており、同じ源氏とはいえ無位無官の武田信義とは大きな差が開いていました。

また、甲斐源氏一族である安田義定は密かに源義仲に通じて朝廷より「従五位下 遠江守」に任ぜられており、甲斐源氏は嫡流である信義の統率力が行き届かなくなっていたことも事実です。

頼朝は朝廷により東国の支配権を委ねられるに連れ、鎌倉を東国武士の拠り所にするとともに、その政権は河内源氏嫡流にとって治められるべきと考えるようになっていました、それは頼朝を支える鎌倉御家人も同じ考えでした。

そんな中、勢力としてはかなりの差がついていたにもかかわらず、甲斐源氏の血統を誇りとし、河内源氏棟梁である頼朝を「同族」と考えていた一条忠頼の存在は、頼朝にとって獅子身中の虫に他なりませんでした。

頼朝が忠頼を討ったのは、甲斐源氏の勢力を削ぐ意味に加え、「鎌倉の主は誰か」を御家人に明示したとも言えます。

頼朝が忠頼を討った後の翌月、今度は信濃源氏(義仲とは行動を別にし、早くから頼朝に従った)の井上光盛が鎌倉に呼び出される途中、駿河国蒲原(静岡県静岡市清水区蒲原)で殺害されています。

信濃源氏、甲斐源氏の勢力を抑え込んだ頼朝は、自分自身による中央集権政府を目指していくのです。


一方、平家の主力は以前として瀬戸内海の屋島(香川県高松市)にありました。
頼朝はその追討についても、朝廷に働きかけており、同年7月3日、弟・源義経を総大将として向かわせる考えであることを朝廷に奏上しています。

しかし、この計画を狂わせる大事件が勃発します。


西暦1184年(元暦元年)7月7日、平家継(平家家令・平家貞の嫡男)を総大将とし、平信兼(頼朝の挙兵時のターゲット・山木判官兼隆の父)伊藤忠清(故・清盛の侍大将)らを中心とした平家の残勢力が、平家の本貫地である伊賀・伊勢国(三重県)で大規模な反乱を起こしたのです。

反乱軍は伊賀国守護である大内惟義(清和源氏義光流の平賀氏の出)の屋敷を急襲し、惟義の郎党が多数殺害されました。
この時、惟義自身も伊賀国外に逃走しています。

一方、伊勢では平信兼らが鈴鹿山(鈴鹿峠)を封鎖したため東国への連絡が断絶されてしまい、京都の院や朝廷は鎌倉に助けを求めることができなくなってしまいました。

九条兼実の日記「玉葉」によると、京都がこの自体を把握したのは翌7月8日になってからです。

家継は、伊賀を支配下に治めると、その勢いのまま、近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市)に侵入しています。

鎌倉がこの事態を知り、頼朝が山内首藤経俊(源頼朝の乳母・山内尼の子)加藤景員(頼朝挙兵時からの腹心)加藤光員(景員の子)らに反乱軍の追討を命じたのは、乱が勃発して10日あまり経った後の7月18日頃でした。

しかし、この翌日19日、近江国甲賀郡上野村(滋賀県甲賀市甲賀町上野)で、甲賀郡に隣接している蒲生郡佐々木荘(滋賀県近江八幡市安土町南部)の領主・佐々木秀義と、伊賀国外に逃げていた大内惟義の連合軍が、平家継率いる反乱軍と合戦になっていることから、出発した鎌倉軍は間に合わなかったと考えられます。

佐々木・大内連合軍は、反乱軍を百騎近くを打ち取ってこれを殲滅。反乱軍の総大将・平家継を見事討ち取りました。
しかし、連合軍側も数百名近い損害を出し、大将・佐々木秀義は流れ矢に当たって戦死しています。


佐々木秀義は、頼朝挙兵の際に平家の家人・大庭景親が頼朝を捕縛しようとしているのを密かに知らせるだけでなく、自分の息子四人を頼朝に味方させ、山木兼隆の山木館襲撃に多大な貢献をした頼朝生え抜きの御家人です。

この時の山木館襲撃の戦功を以って、近江国蒲生郡佐々木荘他16箇所の所領を安堵されていました。

彼の子孫は本家の佐々木氏だけでなく、六角氏、京極氏などに分かれ、その中から後に元弘の乱で鎌倉幕府を倒した武将の一人・佐々木高氏(佐々木導誉)が出ています。


これにより、平家残党の反乱はひとまず落着し、8月2日、大内惟義からの書状が鎌倉に届きました。
その内容は

「去る7月19日の酉の刻、平家の反乱軍と合戦し、彼らを敗北させました。討ち取った者は90人以上、その中には総大将の平家継もあります。残念ながら平信兼父子や伊藤忠清は逃してしまいました。佐々木秀義、義清父子とともに戦いましたが、秀義は討ち取られました。私は伊賀国を逃亡する不名誉を被りましたが、この勝利を以って雪辱はこれにて晴れたと考えております。何卒恩賞のこと、お考えくださいますよう、お願い申し上げます」

という内容でした。
これを読んだ頼朝は烈火のごとく怒り

「今回の反乱は伊賀国に端を発し、お前は伊賀国守護を命じられている身。同国内の反乱軍を討つことはお前に与えられた役目であり、その役割を果たしたことは殊勝である。しかしながら、反乱軍に屋敷を急襲され、多くの家人・郎党を失いながら、お前自身も国外に逃亡するような事態になったのは、守護として日頃の備えができておらぬ証拠である。あまつさえ、我が頼みとする佐々木三郎(秀義)を討たれるとは言語道断。よって今回の件に恩賞を下すかどうかは、我が決めることである」

と怒りの返書を返しています。


7月21日、打ち取られた反乱軍の首謀者の1人である平家継の首は京都で晒し首にされました。

残る首謀者の平信兼、伊藤忠清の2人は山中に逃れ、行方不明となりましたが、頼朝はこれを許さず、8月3日、京都に駐屯していた義経に平信兼の捜索を命じています。

命令を受けた義経は、8月10日、信兼の3人の子息、兼衡・信衡・兼時を屋敷に招いて斬殺し、8月12日には信兼が篭っていた伊勢に軍勢を進め、信兼を討ち取ったと言われています。

この戦功により、義経は、頼朝から「京都における平家家人の所領を支配する権限」を与えられました。
この頃までは頼朝と義経の関係は良好であったと考えられています。


この頃の京都は反乱の首謀者の一人・伊藤忠清がまだ京都周辺の山に篭っていると言われていたため、院も朝廷も不安な毎日に変わりはありませんでした。

それゆえ、後白河法皇は8月6日付けで源義経に「左衛門少尉 検非違使」の官位を授け、京都の市中警固を命じています。

「左衛門少尉」は衛門府(宮城の門の警護部所)の三等官の役職、「検非違使」は平安京の治安維持を担務としています。
つまり、義経は平安京の出入り口である門を固め、外敵から平安京を守る役割と、平安京の中の警察業務を担うことになったわけです。

また「左衛門少尉」は朝廷の四等官の三番目「判官(じょう)」になることから、義経が「九郎判官」と呼ばれる所以になっています。

義経はこの任官のことについて、すぐさま、鎌倉に報告の使者を発しています。
その使者が鎌倉に着いたのは10日後の8月17日でした。

使者の書状には

「去る8月6日、左衛門少尉の任じられ、検非違使の宣旨を賜りました。これは私が望んだことではありませんが、院としては数々の私の功績何ら表彰できておらず心苦しくあり、院としての自然の感謝の気持ちであると仰せられては受けないわけにはいきませんでした。」

と書かれてありました。

去る西暦1184年(元暦元年)6月5日、頼朝の奏請により、平頼盛が権大納言に還任され、一条能保、源範頼、源広綱、平賀義信ら、源氏の一族が皆、国司に補任されているのに対し、義経には一切官位が授けられていませんでした。

義経に関しては朝廷より内々に官位を与えても良いかと頼朝に下問がありましたが、頼朝はこれに対しはっきり答えていませんでした。

それは院から下問あるということ自体が「義経が官位を望んでいる」という意思があるからではないかと頼朝が考えたからでした。

「吾妻鏡」によると、これ以前にも頼朝が義経に抱いた不満はあったようですが、文字として表されたのはこれが初めてだったようです。

これにより、頼朝は当初、平家追討使の総大将として義経を遣わす予定でしたが、これを一旦猶予する決定を下しています。

しかしながら、院より検非違使に任じられた義経を、平家追討使として屋島に向かわせるのは、頼朝の軍事行動が「平家への私怨ではなく院や朝廷を安んじ奉る」という方針と反してしまうため、平家追討使から外すという決定は、院の意向を頼朝が無視できなかったとも言えます。


何れにしても、平家残党による反乱が、義経の「左衛門少尉 検非違使」の任官につながり、それが頼朝の平家追討行動に影響を及ぼすとは、平家継、平信兼、伊藤忠清らには想像もつかなかったことだと思います。

この後、伊藤忠清は約2年間山中を彷徨い、京都を脅かす存在となります。
一方で、頼朝は着実に屋島に向けて軍勢を発する準備を進めていました。


(つづく)
posted by さんたま at 13:04| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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