2018年10月27日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(101)-一条忠頼の死-

西暦1183年6月16日夜、侍所別当(長官)である和田義盛によって、主だった御家人が鎌倉大倉御所の西(侍所)に集められました。

集められたのは、

和田義盛(侍所別当)
工藤祐経(頼朝側近筆頭/伊豆国伊東荘領主/伊東氏の祖)
小山田有重(秩父一族/武蔵国小山田荘領主/小山田氏の祖)
稲毛重成(有重嫡男/武蔵国稲毛荘領主)
榛名重朝(有重次男/相模国榛谷御厨領主)
天野遠景(伊豆国田方郡天野の住人)
結城朝光(下野国小山政光四男/常陸国結城郡領主/結城氏の祖)

そして一条忠頼(甲斐源氏・武田信義嫡男)。
侍所の上座には頼朝が座しておりました。

「一条次郎殿、前へ」

義盛がそう声をあげると、忠頼は「はっ」と声を上げて一礼して立ち上がり、頼朝の御前に進んで着座、そこでまた一礼しました。

「次郎殿、そなたが鎌倉に戻られてからロクに話もできず、今日まで至ったのは申し訳ない。そなたは木曽義仲を討ちし功績を上げた者、きちんとその功績を皆に披露せねばならぬと思うておった。今日の日を嬉しく思う」

頼朝が忠頼を労うと忠頼は

「ありがたき幸せに存じまする。私は父・信義の名代として鎌倉殿に従い、鎌倉殿の為に働いておりまする。我が功績は鎌倉殿の功績。それ以上でも以下でもございませぬ」

と言葉を返しました。

「さすがは甲斐源氏棟梁・武田殿のご嫡男よ。あっぱれなお言葉じゃ。他の御家人も次郎殿を見本とせねばならん」

義盛もその堂々とした物言いに感じ入り、他も深く頷いてところ

「小四郎殿、無礼であろう」

と忠頼が窘めるような声を出したので、一同が一瞬静まりました。
忠頼は頼朝に向いていた顔を義盛に向けると

「そなたは侍所別当であり、鎌倉殿に仕える御家人を統括する責任者じゃ。それは否定せぬ。しかし私は違う。そなたの申す通り、私は甲斐源氏棟梁・武田信義の子。鎌倉殿と遠祖を同じくする源氏の一門ぞ。一門は一門としての働き方を申したまで。御家人の皆々がこの忠頼を見本にされてはたまらぬわ」

と言葉を続けると、義盛も

「......はっ、これはとんだご無礼を申しました。何卒お許しを」

と渋々詫びました。
頼朝は場の空気が白けてしまったのを取り繕うかのように

「次郎殿、今日はそなたの戦功を祝う宴じゃ、そう無粋なことを言うではない。」

「申し訳ござりませぬ。しかしながら、鎌倉殿の一門と御家人を同列に扱う小四郎殿の物言いが少々勘に触りました故」

この発言に頼朝は「はっはっは」と乾いた笑い声をあげて忠頼を宥めた。

「次郎殿、そなたは先ほど、父の名代として我に仕えていると申したな」

「はい」

「自分の手柄は我の手柄と申したな」

「申しました」

「その気持ち、心構えは御家人たちも同じじゃ。確かに我が源氏一門は御家人にとっていわゆる主筋になるが、我は殊更血族を重んじるつもりはない。我に従い、我の命で動くもの皆、御家人じゃ」

「さりとて、我は鎌倉殿と一門である甲斐源氏の名に誇りを持っておりまする。一門でもない御家人にそれを軽く扱われるのは納得しがたいものがありまする」

頼朝は忠頼の心が痛いほどよくわかっていました。

自分が流人として伊豆蛭ヶ小島に流され、山木館襲撃で挙兵するまで生きてこられたのは「河内源氏の嫡流」というプライドがあったからです。それがなければ遥か以前に自害していたかもしれません。

そして今、自分の前に「甲斐源氏の嫡男」という血統を誇りに生きている者がいました。

しかし、今の頼朝は鎌倉に己を頂点とした武士の政府を作ることを目的にしていました。

よって、忠頼の心は分かるものの、それを認めてしまっては、己の存在を否定することに繋がりかねませんでした。

座は鎮まり返り、誰も言葉を発しないまま、しばしの時が過ぎました。
頼朝は意を決して、忠頼にこう問いかけました

「では、次郎殿や武田殿、安田殿など甲斐源氏の皆々に対し、我が御家人に加われと命じたら如何される」

「その際は一度甲斐に戻らせて頂き、棟梁である父の判断に委ねまする」

「......さようか」

頼朝の目には悲しい光が宿っていました。
そして、横にいた義盛に目を泳がせ、軽く頷くと義盛も目は伏せました。

「いささか話し過ぎたようじゃな。少々喉が乾いた。これ、誰か、酒を持て」

頼朝がそう言うと、末席にいた工藤祐経が一礼して奥に引き込みました。

「私も少々言葉が過ぎました。鎌倉殿に対しご無礼申し上げました」

忠頼が一礼すると

「いやいや、忌憚ない意見が聞けた。礼を言うのはこちらの方じゃ」

と忠頼を労いました。

奥へ引っ込んだ工藤祐経は酒の入ったお銚子を抱えて、脇より侍所に入り、ゆっくり頼朝に歩みを進めてきました。
その姿を見た義盛は

(おいおい.....)

と思いました。
祐経の顔色は血の気が引いており、しかも手や足が微妙に震えていたのです。

この時、義盛の手筈では、忠頼を打ち取るのは祐経の役割になっていました。

祐経は武勇名高い忠頼を相手に首尾よく討ち取ることができるかどうか不安のあまり、それが顔、手、足に表れてしまったのです。

(あれではまずい.....)

そう思った義盛は、この場の最長老である小山田有重に目線を送りました。
確かに一条忠頼の討手は工藤祐経に命じておりました。

しかし、この暗殺に失敗は許されないため、義盛は万が一のために「第二の備え」をしていたのです。

有重は義盛の視線を受け、すぐに義盛の言いたいこと悟ると、帯にさしていた扇子を広げ、祐経と共に末席に控えていた天野遠景に合図を送りました。そして

「一掾i祐経)殿、待たれよ」

と声をかけて祐経の歩みを止めました。
突然、声をかけられ「ビクッ」とした祐経でしたが

「このような場でその方のような若輩者が鎌倉殿に酒を注ぐなど100年早い。こういう役目はこの年寄りに譲るものじゃ。ほれ、その膳を渡せ」

と言われたので

「ええ.....?」

とさらに困惑した表情を浮かべました。

「いいから、よこすのじゃ」

と膳を奪い取ると

「三郎(稲毛重成)、四郎(榛名重朝)そなたたちはこれを持って一条殿に酒を」

と自分の子供達を呼び、お銚子を渡しました。
二人は父から突然声をかけられ、戸惑いながらもお銚子を受け取って、一条殿に向かい、いざお銚子で酒を注ごうとすると

「こらこら、お前ら、宴の礼儀も知らんのか。」

とまたも父から止められました。

「古来より宴の際は、袴の括り紐はひざ下で留める『上括り』にするのじゃ。一条殿に無礼ではないか」

「は......はぁ」

父親に突然呼びつけられ、手伝わされ、その上、礼儀知らずとか言われて踏んだり蹴ったりの二人でしたが、父の言われるままにお銚子を置いて、袴の括り紐を結び直そうとしました。

「一条殿。礼儀を知らん、田舎者で誠に申し訳ない」

と有重が忠頼に詫びると、有重はもう1つのお銚子を持って、頼朝の元に進みました。

忠頼は重成と重朝は袴の紐を結び直しているのを、苦笑しながらずっと見ていました。
その間、彼の左横に天野遠景が動いているのも気づかずに。

「御免」

忠頼の左の耳元に遠景の放った一言が、彼の生前で聞いた最期の言葉になりました。

次の瞬間、彼の脇に太刀がズブリの差し込まれました。
痛みで忠頼が気づいた時、遠景の太刀はすでに心の臓に達していました。

「鎌倉.....殿.....」

忠頼はそう声を出すのが精一杯でした。

遠景に差し込まれた太刀はそのまま前に斬り出されたため、忠頼の肺は完全に切断され、以後、口をパクパクさせて声ひとつ出せなくなったからです。忠頼の体の前には大量の鮮血が吹き出ていました。

頼朝は何も言わず、無言で立ち上がり、従者が後ろの襖を開けると、そのまま襖の向こう側に消えて行きました。
次の瞬間、忠頼の体は前のめりに倒れ伏し、そして二度と動くことはありませんでした。

この時、侍所の庭先には、忠頼の家臣らが控えておりましたが、忠頼の体が伏して動かなくなったのを見るに、主人の元に駆け寄ろうと広間に上がりましたが、小山田有重に「無礼者!ここは侍所!御家人の資格なき者が上がって良い場所ではない!控えろ!」と一喝され、稲毛重成、榛名重朝、天野遠景の両名によって殺害されました。

こうして甲斐源氏棟梁・武田信義の嫡男・一条忠頼の命は絶たれたのです。

頼朝は、鎌倉政権は自身の一族を主筋として別格にすることで、その統治の主体を担おうとしていました。

かつては河内源氏(源頼朝)、信濃源氏(木曽義仲)、甲斐源氏(武田信義)と割拠していた源氏の勢力は、義仲の死で信濃源氏が衰退したため、頼朝を脅かす源氏勢力は「甲斐源氏」しかありませんでした。

一条忠頼の殺害は、その甲斐源氏を一御家人に落としめ、自らの鎌倉政権の下に組み込むための序章であったのです。

(つづく)
posted by さんたま at 17:07| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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