2018年09月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(100)-和田義盛の謀略-

西暦1184年(元暦元年)4月21日、信濃源氏・源義仲の遺児・清水冠者源義高は、御所を脱走し、鎌倉殿・源頼朝の命により、同月26日御家人・堀親家が郎党、藤内光澄に討たれました。

このことは直ちに御家人に知らされました。
その結果、信濃国、甲斐国(現在の長野県、山梨県)に潜んでいた信濃源氏の残党がにわかに頼朝に謀反を起こす動きが出ています。

これに対処するため、同年5月1日、頼朝は足利義兼小笠原長清に甲斐国に出陣を命じ、小山政光、宇都宮朝綱、比企能員、河越重頼、豊島清重、足立遠元、吾妻助亮、小林重弘らを信濃国に向かわました。

同時に、相模(神奈川)、伊豆(静岡)、駿河(静岡)、安房(千葉)、上総(千葉)らの御家人に、叛乱の兆しを抑えさせるように侍所別当・和田義盛に命じています。


ここで名前が出てきた人間の多くは、この後の日本の歴史に大きく関わっています。


足利義兼は、河内源氏の棟梁・源義家(八幡太郎)の孫・源義康を祖とし、下野国足利荘(栃木県足利市)を本領とする源氏の一族です。
義兼は初代義康の子で足利氏2代目の棟梁であり、彼の7代後の子孫が足利幕府を開く足利尊氏になります。

小笠原長清は、源義家の弟・源義光(新羅三郎)の四男・加賀美遠光の次男で、甲斐国巨摩郡小笠原郷(現・山梨県北杜市明野町小笠原)を本領とする源氏の一族です。後に信濃守護に任ぜられたことにより、小笠原一族は戦国時代まで信濃国に深く関わることになります。

小山政光は、鎮守府将軍・藤原秀郷の子孫である太田行政の子で、下野国小山荘に土着して小山氏を名乗った小山氏の初代です。
下野国最大の武士団を持っており、妻が頼朝の乳母(寒河尼)であったことが縁で、頼朝に味方しました。
彼の嫡男・小山朝政は、源平争乱で戦功をあげて鎌倉幕府成立後は幕府宿老として重きをなします。

比企能員は、源頼朝の乳母である比企尼の甥で、この当時は頼朝の嫡男・頼家の乳母父となっていました。
後に娘を頼家の側室として差し出し、鎌倉幕府において有力御家人となりますが、その権勢を恐れた北条時政に滅ぼされます。

河越重頼は、秩父氏の一族で武蔵国最大の武士団を保持していた御家人です。
後に頼朝と義経の兄弟喧嘩の犠牲者の一人になってしまいます。

豊島清重も秩父氏の一族で、先祖は源義家、源義朝に仕えていた源氏累代の武将です。
石橋山の合戦で秩父一族はほぼ平氏方についたものの、父・清元と清重はこれに加わらず、逆に同合戦で敗れた頼朝が安房で再起を図った際に、秩父一族としては初めて頼朝に味方しました。

清重は奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の後に、奥州総奉行の職を頼朝より任じられ、後の戦国時代の葛西氏の祖となっています。

1つの史実に人が介在し、その人に紐付いて新しい歴史が紡がれる。
だからこそ歴史はドラマだと言えるのですが。


また、この頃、頼朝の長年の宿敵の一人である、源義広(志田三郎先生)がついにその命を散らしています。


同年5月4日、伊勢国羽取山(服部山)に潜伏していた源義広は、伊勢平氏の動向を調査していた波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊、大内惟義の家人らに見つかり、そのまま合戦となりました。合戦は丸一日かかり、ついに義広は捕縛されてその場で首を討たれました。

義広は源為義(頼朝の祖父)の三男で、頼朝にとっては叔父に当たります。

頼朝挙兵後、頼朝の勢力に合流することなく、逆に頼朝相手に叛乱を起こすこと数知れず、ついには義仲に味方し、義仲と頼朝の対立の原因にもなりました。

義弘は、源範頼・義経連合軍と義仲の京都での合戦にも義仲に従軍しており、そのまま敗れて行方知れずとなっていましたが、伊勢国に潜伏していたようです。

5月21日、頼朝は後白河法皇の近臣である高階泰経に書状を送っています。
その内容は、平家一門に連なって一斉解官となった平頼盛(清盛異母弟)を元の官位に戻すこと。

そして、源氏一族の者の中から、源範頼(頼朝異母弟/蒲冠者)、源広綱(源頼政の末子)、平賀義信(平治の乱後、頼朝と共に東国へ逃れた源氏の一人/大内惟義の父)の3名を国司(地方支配の責任者)に任官させて欲しいという内容でした。

この内容は受け入れられ、頼盛は6月5日付けで権大納言に還任されてますし、源範頼は「従五位下 三河守」、源広綱は「従五位下 駿河守」、平賀義信は「従五位下 武蔵守」に補任されています。

鎌倉の御家人が、頼朝の意向によって国司に補任されたのはこれが初めてのことでした。

6月1日、頼朝は頼盛を御所に招いて、宴を開いています。
おそらく上記のの権大納言還任の内示があり、京都に戻ることが確定したための別れの宴だと思われます。

この宴に参加したのは

一条能保(頼朝の義弟/妻・坊門姫は頼朝の妹/右馬頭)

平 時家(従四位下 右近衛権少将 / 故・上総広常の婿)


小山朝政(下野国小山荘の領主/妻は源頼朝の乳母である寒河尼)

三浦義澄(相模国三浦荘の領主)

結城朝光(小山朝政の弟/下総結城氏の祖)

下河辺行平(小山氏庶流)

畠山重忠(秩父一族/武蔵国男衾郡畠山郷の領主)

橘 公長(元平家の家人/右馬允)

足立遠元(武蔵国足立郡の領主)

八田知家(下野国茂木郡の領主)

後藤基清(一条能保の家人)


以上11名。

「吾妻鏡」によれば、これら「京都に馴染みのある者」という趣向で集められたようです。

この宴で頼朝は餞別として金で作られた剣一太刀、砂金一袋、鞍馬十疋を頼盛に与えています。
これは旧恩に報いるだけでなく、権大納言に戻る頼盛に朝廷工作を依頼していたのではないかと思えてなりません。

源義仲の遺児を討ち、平家一門に連なる頼盛を自陣に引き込んだ頼朝は、これより少しずつ源氏の一元化を考えていきます。

義仲存命中は、源頼朝、武田信義、源義仲という3人の棟梁がそれぞれ勢力を張っていました。


頼朝は相模を本拠としながら、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県)、そして朝廷より東海道全般の行政執行権を委嘱されていました。

信義は甲斐(山梨県)を本拠としながら、頼朝より駿河(静岡県東部)守護を任され、一族の安田義定が遠江(静岡県西部)を治め、3国に影響力を持っていました。

義仲は信濃(長野県)を本拠としながら、北陸道と越後(新潟県)を実効支配していました。

しかし、義仲はすでに滅び、源氏は頼朝と信義の2つの勢力のみとなりました。
三者の均等バランスは崩れ、頼朝は河内源氏の嫡流を誇り、信義は頼朝に助力するも一定の距離を保っていました。

そんな中、一の谷の合戦を終えて帰還し東国武将の中に一条忠頼という武将がいました。

一条忠頼は、甲斐源氏棟梁・武田信義の嫡男であり、甲斐国山梨郡一条郷(現:山梨県甲府市)を本領として一条氏を名乗っていました。

そして、忠頼は源範頼・源義経と共に京都に上って宇治川の合戦に参戦し、続く、粟津の戦いで源義仲、今井兼平を討ちとる功績をあげていました。鎌倉に帰着した忠頼はそのことを誇りとして、事あるごとに他の御家人に語って聞かせていました。

そしてその話は、侍所別当(長官)である和田義盛の耳にも入っていました。
義盛は

「武士が自分の手柄を誇らしげに語ることは別に悪いことではない」

と聞き流していましたが、時が経つに連れ、妙な噂が鎌倉に広がり始めました。

それは

「一条殿は、父の武田信義と相計らい、甲斐源氏の一族引き連れてこの鎌倉を狙っている」

というものでした。

忠頼個人の武勇の話であれば捨て置きますが、事が鎌倉の話になってくると、義盛も聞き流すことはできなくなり、ついに頼朝に言上せざるえなくなりました。

大倉御所主殿を訪れた義盛でしたが、そこには頼朝と中原親能、そしてその弟・中原広元の三人が頼朝を中心に議論を行っていました。

それを見た義盛は出直そうと思って退出しようとすると

「小太郎、なんぞ用か?」

と頼朝は呼び止めました。

「御談合の様子でしたので、また機会を改めまする」

と義盛は言葉を置いて、退出しようとしましたが

「良い。入れ」

と促されてしまったので、「はっ」と答えて主殿に入りました。
親能と広元は「では、我々は」と言って義盛と入れ違いに退出し、頼朝も頷きました。

「何の御談合でしたか」

着座するなり義盛は頼朝に尋ねると

「うむ。親能殿より新たな役所の提案があってな」

「役所?」

「院より東海道の行政執行を任されることになり、土地、田畑等の管理も行わねばならぬ。それにはこれまでの荘園管理の文書等を管理し、必要に応じて閲覧できる機関がいる。また平家の勢力減退により土地の所有権争いが増加しておる、それに対応する機関がいるという話であった」

「なるほど。言われてみれば道理。さすがは朝廷の文官、我ら武士が気づかないところに手が届きますな」

「して、小太郎。わしに用とは何か」

頼朝がそれまでの話を打ち切って義盛に来訪の目的を尋ねると

「鎌倉殿にお尋ね申し上げまする。一条次郎殿のこと、何かお聞き及びでしょうか」

と義盛は直球で質問をぶつけました。

「一条次郎のこと? ああ、義仲殿を討った話のことか」

と頼朝が笑みを浮かべながら答えると

「そのことではござりませぬ」

と義盛が笑み一つ浮かべずピシャリとたしなめるので、頼朝も笑みを消し

「申せ」

と小太郎に先を促しました。

「義仲殿を打たれた一条次郎殿の人気、御家人の中には非常に高く、その人望日々増えておりまする。しかるにここ最近、一条次郎殿、父・武田太郎信義殿と相語らい、この鎌倉を奪取するお考えありとの風聞、聞こえましてござりまする」

「はははは!」

頼朝は再び笑みを浮かべ、義盛の報告を遮りました。

「一条次郎がこの鎌倉を簒奪?小太郎、そなた正気で申しているのか?」

「もちろん、噂にて本気とは思えませぬ」

義盛は真顔で答えました。

「しかし、嘘ではないとは言いきれませぬ」

頼朝の顔から再び笑みが消えました。

「去る3月の頃、甲斐源氏の板垣三郎殿から土肥次郎の指揮下では働けぬという訴えがございました。鎌倉殿はこれを却下されましたが、土肥次郎は鎌倉殿が自身の名代として送り出した鎌倉殿の忠臣にござりまする。それをないがしろにすることは、鎌倉殿をないがしろにすることでござる。我らと鎌倉殿は同格という考え方、あれこそが甲斐源氏の皆さまの心底にある態度ではござりますまいか。」

「......」

頼朝は黙って義盛の申し状を聞いておりました。

「御家人はすべからく鎌倉殿を君主と仰ぎ、侍所によって統率されなくてはなりませぬ。富士川(の戦い)の頃ならいざ知らず、今の鎌倉殿は正四位下の位階を持ち、東海道の行政執行権を院よりお任せ頂いておりまする。無位無官の武田殿とは違いまする」

義盛がそこまで申し上げた時、

「来るべきものが来てしまったのかもしれぬ.....」

と頼朝が口を開きました。

「武田殿は甲斐を本領とし、駿河守護。一族の安田義定殿は遠江守護。同じ源氏とはいえ我が鎌倉とは別系統の勢力じゃ。したがって、その三国のことはわしは預かり知らぬつもりじゃった。じゃが、わしの指揮下にいる以上は、甲斐源氏であれなんであれ、鎌倉の御家人として従ってもらわねばならぬ」

「御意」

「それゆえに、鎌倉の秩序乱さんとする者は例え源氏の一族でも容赦はならぬ。そういうことだな。小太郎」

「仰せの通り」

義盛が我が意を得たりと深々と一礼すると

「では小太郎。一条次郎を侍所に呼び出せ。ただし、表向きの理由は義仲追討の任果たせしことによる褒美とせよ」

「はっ」

頼朝は義盛の側に近づき、耳元で囁きました

「その上で、綿密なる計画を練るのじゃ。このこと、絶対に失敗は許されぬ。」

「承知仕りました」

義盛は諸々承知して一礼し、主殿を退出しました。

頼朝は一人主殿に残り、思いを馳せていました。

「これで武田殿がどう出るか......」

(つづく)
posted by さんたま at 17:10| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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