2018年09月02日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(97)-取引-

西暦1184年(寿永四年)2月7日、摂津国一の谷(摂津国福原)にて、鎌倉軍(総大将・源範頼)平家軍(総大将・平宗盛)との間で起きた「一の谷の合戦」は、鎌倉軍の大勝利となり、平家軍は有力武将の多くを失いました。

敗走した平家は海路を取ったため、船を持たない鎌倉軍は平家を追撃することはできず、この戦いの本当の目的である「三種の神器の奪還」は成し遂げられませんでした。平家は瀬戸内海を彷徨い、屋島(香川県高松市)に落ち着きました。

2月9日、鎌倉軍別働隊大将・源義経は、本隊に先駆けて京都に帰還しました。その際、一の谷の合戦で捕縛した平重衡(正三位/左近衛権中将)を連行していたと言われます。

一方で、この戦いの勝利に困ったのが後白河法皇です。

まず、都落ちした平家が勢力を盛り返し、摂津国福原(兵庫県神戸市中央区あたり)まで迫ってきており、京都が脅かされていた現状を鎌倉軍が打破した影響は大きく、京都の安全は保たれました。

しかし、戦いの本当の目的である「三種の神器の奪還」はできておらず、未だ後鳥羽天皇の即位の正当性は不安定なままでした。
後鳥羽天皇の即位は、後白河法皇の院宣によって保たれており、三種の神器の奪還ができていない状況は、法皇の権威の低下に繋がっていたのです。

(なんとかして一刻も早く三種の神器を奪還せねば.....)

そういう法皇の焦りが、ある考えにつながりました。

(そうだ。義経が捕縛した重衡を立てて平家と交渉してみよう)

2月14日、院庁は重衡を八条堀川の御堂に移すように土肥実平に命じ、実平にその御堂の警護を命じました。
そしてその後、法皇の命を受けた藤原定長(蔵人・右衛門権佐/院伝奏)が御堂の重衡を訪ねました。

「これは蔵人殿。お懐かしい限りじゃ」

定長の顔を見るや重衡はまるで昔の旧友を見るように笑みを浮かべました。

「重衡殿もお変わりものう」

定長はそう述べると

「世辞はいらぬ。わしはこのように囚われの身。変わり果てた末じゃ」

重衡は笑って返しました。
それを黙って受け流した定長は

「今日は、御上(法皇)の使者として参りました」

と述べると、重衡は威儀をただして

「承る」

一礼しました。

「御上はあなた様を屋島にお送りするお考えでございまする」

「なんと」

「されど、それには条件がござりまする」

重衡は軽く頷き、定長に先を促せました。

「屋島にいる平家一門に、三種の神器を都に返還するように申しつたえて頂きたい」

重衡は目を丸くして、次に「あっはっは」と大声で笑いました。

「御上のご意向であらっしゃいますぞ」

定長が重衡の振る舞いを嗜めると

「これはご無礼」

と重衡も一礼して非礼を詫びました。

「されど、これを笑わずにおられましょうや。この重衡の身と引き換えに神器をお返しあれとは......。この重衡の身はもちろん、平家の郎党千人、いや万人の命がかかっていたとしても、兄(宗盛)は神器を渡しますまい。」

「重衡殿は都には新しい主上(後鳥羽天皇)がおわすことはご存知でいらっしゃいますか?」

「存じておりまする。しかし神器は我ら平家の手にござる。神器がこの手にある以上、この世の主上は我が主上(安徳天皇)にござりまする。都の主上は偽の主上にすぎませぬ」

「されど、あなた様方平家は院庁より追討を受ける身、すなわち朝敵にござりまする。朝敵が擁する主上になんの正当性がございましょうや」

「では神器なき即位した主上になんの正当性があるのでしょうか」

定長、重衡、双方ともに申す意見は互いに正しい。それゆえに妥協点が見出せない状況でした。
二人の間はしばしの沈黙が保たれ、御堂の外の鳥の鳴き声だけがかすかに響き渡っていました。

「とは申せ......」

その沈黙を破ったのは重衡の方でした。

「我が個人の思惑ならびに推測を以って、御上の意向を拒否することもまた非礼の極みで畏れ多いこと。結果は見えておりますが、我が家人に申し付け、御上の院宣、屋島にお送りしてみましょう」

「ありがたい.....」

重衡の提案に定長は深々と頭を下げました。

「ただし重ねて申し上げますが、結果は期待しないで頂きたい」

「承知つかまつった。院宣をお送り頂けるだけでも助かる」

「ご使者、ご苦労でござった」

重衡はそう言って、定長に深々と頭を下げました。

こうして、後白河法皇の神器返還の院宣は、重衡の家人・平三左衛門に託され、重衡の手紙とともに屋島に送られました。
その院宣の内容は下記のようなものでした。


(ここから)
安徳天皇が御所を出られ、諸国を彷徨われるとともに、三種の神器も京都から離れて数年が経過した。
これ、朝廷の嘆きであり、朝廷の安定を基礎とする我が国の終わりの始まりである。

現在、都に囚われし平重衡卿は東大寺を消失させた反逆の臣である。
これについては鎌倉の源頼朝が望む死罪を以って処するところである。

籠の鳥が雲を恋する思いははるか千里の南海に漂い、帰る雁が友を失う心は、いずれそなたらのいる屋島に届くだろう。

そのようなことをしたくはないゆえ、三種の神器を返還するならば、重衡卿を寛大に赦免するつもりである。
(ここまで)


この院宣は、寿永三年2月14日付けで発行されており、発行者は大膳大夫大江業忠となっており、宛先は平大納言(平時忠)になっていました。そしてこれが屋島に届いたのは2月28日。
またこの院宣には別して二位の尼御前(清盛正室/宗盛、知盛、重衡の母)への手紙が入っておりました。
そこには

「今一度、重衡にご覧になろうとお思いならば、三種の神器のことを大臣殿(宗盛)によくよく申し上げてくださいませ。でなければこの世でお目に書かれるとは思えません」

と書かれていました。
ただ、これは重衡が本当に書いたものか、正直わかりません。


この院宣を受理した時忠は、直ちに棟梁・宗盛に言上し、平家一門内での会議が開かれました。
その席上で二位の尼御前(清盛正室/宗盛、知盛、重衡の母)は宗盛に対し

「重衡がどんな思いでこれを届けてきたのか、心の内を察して余りあるもの。どうか、私に免じて、三種の神器を都にお返ししてもらいたい」

と懇願しました。
しかし、宗盛は

「私も弟の命をなんとか助けたいとは思いますが、ここで神器を返せば世間は平家を物笑いの種にいたしましょう。また今我らとともにおわします主上(安徳亭)の正当性は神器によって保たれております。ためらいもなく神器を返すことはできません。母上が子の命を案じられるのはわかりますが、重衡の命一つと平家一門の命運を秤にはかけられますまい」

と異議を唱えました。
これを受けた怒りの形相を浮かべ二位の尼御前は

「そなたが神器を返さないならば、重衡の命はあるまい。であれば、母の自分も同じ道に行くまでじゃ。もうこんな思いはごめんじゃ。さっさと私を殺してたもれ」

と大声で喚かれました。

「知盛はいかに思う」

「畏れながら、三種の神器を都にお返し申し上げたとしても重衡をお返しくださる可能性はほとんどないものと推察いたしまする。ゆえに、遠慮なく、我ら平家一門の決意を御返書に記されるべきかと存じまする」

「やはりそうするしかないか」

そう言うと、宗盛は院宣に対する返書を以下のように書き記されました。


(ここから)

今月14日の院宣、我ら一門、28日に拝受いたしました。
その内容と条件について考えましたところ、我らは先の一の谷の戦いで平通盛以下、当家の数人が鎌倉軍の手によって殺されてしまっております。それを踏まえるに重衡一人の寛大な処置のご処分を喜ぶことはできませぬ。

我が主上(安徳天皇)は故高倉院の皇位を継承して四年もの間、鎌倉の源頼朝、北陸の源義仲が都を脅かし、また朝廷内の外戚近臣の不満もあり、しばらく九州に行幸なさいました。
行幸先から都にお帰りになられないこの状況において、三種の神器をどうして陛下の御身から離せるでしょうか。

古来より、臣下は君主を以って心とし、君主は臣下を以って体とします。
君主の安寧が臣下の安寧であり、臣下が安寧であると国家も安寧であります。

君主が上の立場で不満を持つと、臣下は下の立場で楽しむことはできません。
心の中に悲し味みがあると、体の外に喜びは溢れません。

我が平家の先祖・平貞盛(伊勢平氏の祖)が平将門を追討して以来、関東8カ国を平定し、度々朝廷の逆臣を討伐し、現在に至るまで、平家は朝廷の聖運をお守りしてきました。我が父・平清盛は保元平治の合戦の際、勅命を重んじ、ひたすら君主のために働きました。

鎌倉の源頼朝は、平治の戦いの際、左馬頭義朝(頼朝の父)の謀反によって死刑にされるところ、我が父の並外れた慈悲によって朝廷に寛大な処分を申されました。ところが今は昔の大恩を忘れ、流人の身で実力行使の乱を起こしており、愚挙の数々はあまたあります。いずれ神の天罰により滅亡の未来が待っていることでしょう。

太陽と月は1つの物のために、明るさを提供せず、名君は一人のためにその法を曲げません。
1つの悪によって他方の善を捨てず、小さな欠点によって累代の功績を包み隠してはなりません。

御上が当家に累代の奉公、亡き父による忠節をお忘れでなければ、御上は四国への御幸をなさるべきでしょう。
その時に臣らは院宣を頂戴し、再び都に帰り、これまでの敗北の恥をすすぐことでしょう。

もしそうでなければ、我らは、鬼界、高麗(朝鮮)、天竺(インド)、震旦(中国)に渡るでしょう。
神武天皇以来、81代の御世にて、我が国の神代の霊宝は異国の宝となってしまうのでしょうか。

これらの趣旨を、しかるべき方法で密かに奏上されんことを願います。

寿永三年2月28日、従一位平朝臣宗盛が請文

(ここまで)


上記を簡単に要約すれば、

・重衡一人の命が安堵されたところで喜ぶことはできない。
・平家のこれまでの累代の奉公や忠節を思えば、法皇が四国にこられるべき
・そうでなければ、我らは神器を持って外国に行く


という内容です。

すでに日宋貿易で巨万の富を築いた平家だからこそ「外国に行く」という選択肢は、ハッタリではなく、現実味を帯びていると考えてよいかと思います。

また宗盛の返書は単なる重衡と神器の交換条件に止まらず、伊勢平氏累代の朝廷への忠節と、源氏の反乱勢力に対する批判を織り交ぜ、朝廷のために尽くしてきたのは源氏と平家どっちなのかを畏れ多くも法皇に説いている内容になっています。

要するに法皇の心が鎌倉の源氏に傾いていることを言下に非難しているわけです。
ぶっちゃけなかなかの名文ではないかと思っております。

(つづく)
posted by さんたま at 15:34| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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