2018年08月14日

人吉相良氏の軌跡(3)ー南北朝時代後半ー

人吉相良氏の南北朝時代の後編です。


1、九州探題・今川了俊の赴任
西暦1372年(文中元年/応安五年)、相良氏六代目・相良定頼が死ぬと、その嫡男である前頼(さきより)が家督を相続し、相良氏七代目を継ぎます。

この時期の九州は北部九州(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前)は完全に南朝の支配下になっており、南九州(肥後、薩摩、大隅、日向)は南北朝が入り混じっている情勢になっていました。

そんな中、相良氏はずっと北朝方として主義を貫いていましたが、七代目前頼は「俺はオヤジとは違う」と言わんばかりに、家督相続前から密かに南朝と通じていました。

前頼からすれば

「北部九州は南朝の支配下にあり、足利幕府ば派遣する九州探題は揃いも揃って腰抜けばかり。筑前一つ維持できやしない。そんな北朝についてて、なんかいいことあるのか?」

という感じではないかと思います。

しかし、西暦1370年、すなわちまだ先代・定頼がまだ生きていた頃、情勢が変わってきました。
足利幕府六代目九州探題として今川了俊が赴任してきたのです(五代目九州探題・渋川義行は九州入りすることなく更迭)。
これは筑前守護・少弐冬資が室町幕府将軍・足利義満に望んだことでした。

冬資からすれば、南朝の天下となっている北部九州の南朝の牙城を崩すためには、何としても幕府の意向を受けた九州探題が必要だったのです。


了俊は九州探題に任じられると、まず中国地方に入って大内弘世(周防、長門、石見守護)の協力も得て中国地方の国人勢力と連携する一方、翌年1371年に豊前国(大分県)に入りました。

豊前入りした了俊は、肥前の国人・阿蘇惟村の協力を得て、了俊嫡男の今川貞臣豊後高崎山城に入り込ませます。

さらに了俊弟の今川仲秋を肥前に送って現地の松浦党を味方につけた上で、肥前、豊前、さらに筑前の少弐冬資の勢力を以って、三方から南朝本陣の征西府である太宰府を挟撃にしたのです。

この結果、前頼が家督を相続した西暦1372年には、太宰府から南朝勢力は一掃され、筑前国は北朝・足利幕府方の勢力下に復帰します。

前頼が相良氏の家督相続したのはこの直後のようで、新たに赴任してきた九州探題・今川了俊より北朝味方の軍忠を讃える文書を拝受しています。
これによって前頼は南朝に鞍替えするタイミングを失い、このまま北朝方に留まって、様子をみる方針に切り替えざるを得ませんでした。



2、今川了俊の猛攻
了俊の猛攻は続き、西暦1374年(応安七年/文中三年)には、太宰府を失った南朝の新拠点である筑後高良山城(福岡県久留米市御井町)を陥落。南朝方主力武将である肥後菊池氏を肥後菊池城(隈府城/熊本県菊池市隈府)に引きのかせて、筑後国を勢力下におきました。

さらに翌年、西暦1375年(天授元年/永和元年)、肥後阿蘇家にお家騒動が勃発します。

阿蘇家当主・阿蘇惟村の弟・惟武が、南朝の征西大将軍・懐良親王のお墨付きを以って、阿蘇大宮司職を世襲しました。これについて惟村が自らの家督の正当性を主張し、了俊を頼ったため、了俊の命令で相良前頼と相良一族の相良美作守らは、阿蘇惟武の領地を攻めることになったのです。

これが記録上、前頼の初の軍事行動になったと考えています。

また同年12月、今川了俊自身も肥後に兵を進め、大友親世(豊後守護)、島津氏久(大隅守護)、少弐冬資(筑前守護)の三大名を招集しますが、冬資だけが「やなこった」と参陣を拒むという事態が生じます。

了俊によって南朝勢力は筑前・筑後から追い出され、冬資は筑前守護職としての役割を果たせることになりましたが、今度は了俊の権力が大きくなり、守護権力に制限をかけるようになっていたため、冬資は了俊に非協力的になっていました。

そして今回の参陣の拒否で了俊の冬資への怒りは頂点に達し、島津氏久を遣わして冬資を説得させます。

冬資は氏久の説得を入れ、渋々出陣してきたため、了俊、親世、氏久、冬資は肥後菊池郡水島(熊本県菊池市七城町)で会盟しました。
しかし、その歓迎の宴の最中に、了俊は冬資を殺害してしまいます。

ようやく冬資を説得して参陣させたのに、面目を潰された島津氏久は激怒して大隅に帰国。薩摩守護・島津伊久と共に、あろうことか南朝に味方します。殺害された少弐冬資の跡を継いだ少弐頼澄も当然、南朝へ味方に。

大友親世は了俊に不信感を抱き、やはり豊後に帰国してしまいましたが、こちらは北朝方に止まっています。

この一件は「水島の変」と言われており、せっかく良好な関係を築けていた幕府九州探題と九州の守護大名との間に深い溝を作りました。
この時、相良前頼は出陣していませんが、相良一族の相良長時なる人物が名代として出陣しており、了俊の水島退去の際に殿軍(撤退時の後方を守る役目)を勤めており、今川仲秋(了俊の弟)より感状を頂いているそうです。



3、了俊への疑心と南朝への思い
西暦1376年(天授二年/永和二年)8月、相良前頼は今川了俊の命令で、了俊の末子・今川満範日向都於郡城主・伊東氏祐(日向伊東氏二代当主)と共に、南朝方となった島津家庶流・北郷氏の都於城(宮崎県都城市)を包囲しましたが、数年後に島津氏久・元久父子の援軍が現れて日向国庄内蓑原(宮崎県都城市蓑原町付近)で合戦となり、相良前頼の末弟・小垣頼頼氏が討ち死にしています。

西暦1381年(永徳元年/弘和元年)、今川了俊は南朝方・菊池氏の隈府城を落とし、肥後南朝勢力を後退させると、翌年、薩摩守護職・島津伊久が了俊に降伏し、薩摩・肥後両国に北朝勢力が広がっていきました。

肥後国に北朝の勢力が伸びてくると、もともと家督相続前から心情的には南朝方であった前頼は複雑な心境になってました。

薩摩の島津伊久は北朝方。大隅の島津氏久は表向きは了俊に降伏したものの、依然として今川了俊を敵認定し、裏では了俊を支えている南九州の国人同盟の切り崩しを行っていました。

国人同盟としては、今川方に味方した手前、逆恨みとして島津氏に攻撃されてはたまらないので、一致団結して事にあたり、了俊の保護を願うものでしたが、了俊は隈府から八代に移動していた征西府の攻撃のことしか考えておらず、国人同盟の期待した答えは出ませんでした。

これが相良前頼の後押しになったのかもしれません。

西暦1383年(永徳三年/弘和三年)4月、相良前頼は突如、南朝方に寝返り、征西将軍宮・良成親王より所領を安堵されました。
翌年、了俊は、都於城を攻めている今川満範に援軍を派遣しましたが、前頼は名和氏と共同でこれを阻止。了俊は焦ってさらに渋谷重頼を派遣しますが、これも敗退させています。

(球磨郡で何かが起きてるらしい......)

南九州の国人たちはこれを察し、前頼が南朝方に寝返ったことを確信すると、これまで了俊に従っていた禰寝氏、伊集院氏ら南九州の国人が揃って南朝に帰順し、南九州の南朝勢力は一気に復調しました。

前頼はこれらの功績を南朝・後亀山天皇に認められ、肥前守護並び蔵人頭に任じられています。

しかし、時はすでに遅しで、世の中は南北朝合一の時代に突入しようとしていました。



4、前頼の最期
西暦1392年(明徳三年/元中九年)、足利幕府三代将軍・足利義満によって南北朝合一(明徳の和約)が行われると、征西将軍宮・良成親王(後村上天皇の第七皇子)足利幕府九州探題・今川了俊との間にも和議が成立。前頼も了俊に帰順せざえる得ませんでした。

しかし、南北朝合一がなっても「関係ないね」今川了俊への敵対関係を止めなかったのが島津氏でした。
島津氏の行動原理は北朝、南朝関係なく「了俊憎し」で固まっていたのかもしれません。

西暦1393年(明徳四年)了俊は四男・今川貞兼を南九州に派遣しました。前頼はこれに従軍し、大挙して都城方面を目指して進出しました。

西暦1394年(明徳五年)正月、今川貞兼、相良前頼、日向旧北朝方の国人たちは、島津家庶流・北郷氏の野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)、梶山城(宮崎県北諸県郡三股町長田)を落城させました。

北郷氏の本城である都之城から北郷久秀(北郷氏三代当主)忠通兄弟が援軍として梶山白に駆けつけましたが、久秀と忠通は返り討ちにあってしまいます。これを聞いた島津宗家・島津元久が薩摩から援軍として駆けつけ梶山城を攻撃しました。

元久の軍勢は今川軍は敗退させ、総大将・今川貞兼は飫肥城(宮崎県日南市飫肥)に、前頼は前述の野々美谷城に逃走します。

北郷氏二代当主・北郷義久は嫡男を殺された恨みから即座に軍勢を編成し、野々美谷城を急襲しました。
この頃の飫肥城は土持氏の支配下にあり、土持氏は旧北朝方の国人でしたので、貞兼が追撃を受ける可能性はありませんでしたが、野々美谷城は都於城の支城で北郷氏の勢力圏内であり、敵地のど真ん中と言っても過言ではありませんでした。

その上、野々美谷城は攻城戦で受けた修築もままならず、また前頼は梶山城の戦いで失った兵の補充もできず、とても満足に戦える状態ではありませんでした。ここが死に場所と心得た前頼は、弟である丸目頼書、青井前成、丸野頼成と共に、この野々美谷城合戦で討ち死にしました。

南北朝の混乱期の肥後を戦い抜いた相良氏七代目当主の最期でした。
中央では南北朝和合が成りましたが、相良氏にとってはこれからが苦難の時代の始まりになります。

(つづく)
posted by さんたま at 16:10| Comment(0) | 人吉相良氏の軌跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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