2018年08月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(96)-重衡捕縛-

西暦1184年(寿永三年)2月7日、摂津国一の谷(兵庫県神戸市)で鎌倉軍と平家軍が激突しました。世に言う「一の谷の合戦」です。

当日未明に塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋)で起きた熊谷直実、直家父子、平山季重らの先陣に始まり、夜明けとともに生田口(兵庫県神戸市中央区)源範頼率いる鎌倉軍本隊五万騎が押し寄せ、本格的な戦闘が開始。

その勝敗をわけたのは、平家の本陣・一の谷の崖上(鵯越)から駆け下りて、奇襲攻撃を行った鎌倉軍別働隊・源義経の一千騎でした。
奇襲攻撃で一の谷に降り立った義経軍の放った火は、平家の本陣も燃やし、上がった炎と黒煙は、生田口の平家勢に動揺をもたらしました。

生田口の総大将である平知盛は自軍の動揺を抑えつつ、生田口の軍勢を一の谷に向けてジリジリと撤退させようとしますが、本陣の黒煙による平家軍の士気の減退は避けがたく、また本陣が落ちたことを知った鎌倉軍の勢い凄まじく、非常に苦しい撤退消耗戦を強いられました。

また同じ頃、塩屋口の城戸が破られ、土肥実平率いる鎌倉軍別働隊七千騎が一の谷に押し寄せました。
これより、戦況は鎌倉軍有利となり、平家軍は総崩れとなります。

平家は多数の船を要しており、万が一の逃走経路は海上と決まっておりました。
しかし、源氏には船がなかったため、追跡は砂浜もしくは海岸の浅瀬までが限界でした。

ですが、この戦いでの平家一門は多数討たれ、その被害は甚大なものがありました。
戦死した平家一門は次の通りです。


・平経正(清盛異母弟・平経盛の嫡男/左馬権頭/敦盛の兄)
武蔵国入間郡の住人・河越重房によって討たれる。

・平敦盛(清盛異母弟・平経盛の三男/能「敦盛」のモデル)
武蔵国熊谷郷の住人・熊谷直実によって討たれる。


・平通盛(清盛異母弟・平教盛の嫡男/中宮亮/夢野口守将)
夢野口を離れ、湊川付近で、近江国の住人・佐々木俊綱に討たれる。

・平業盛(清盛異母弟・平教盛の三男/五位蔵人/夢野口守将)
常陸国の住人・土屋重行に討たれる。

・平忠度(清盛異母弟/薩摩守)
武蔵七党の猪俣党の一人、岡部忠澄とその子によって討たれる。

・平経俊(清盛異母弟・平経盛の四男/若狭守/敦盛の兄)
・平清房(清盛八男/淡路守/生田口守将)
・平清貞(清盛養子/尾張守/生田口守将)

全員、生田口の城戸合戦で討ち死。

・平知章(平知盛嫡男/武蔵守)
武蔵七党の児玉党の一人が知盛を襲ったのを助け、これを討ち取った後、児玉党の武士たちに包囲されて討たれる。

・平師盛(小松家・平重盛の五男/備中守/三草山の合戦後一の谷に逃げてきていた)
知盛家臣・清衛門公長という男を助けるため、船に乗せたところ、鎧の重みで船が転覆し、武蔵国男衾郡畠山郷の住人・畠山重忠の手の者によって討たれる。

・平盛俊(越中前司/清盛政所別当/夢野口守将)
武蔵七党の猪俣党当主・猪俣範綱によって騙し討ちにされる。



この戦いで失った平家一門の有力武将は十名以上にも及びました。
また上記通盛の弟・平教盛(能登守)は、逃走中に通盛と離れ離れになり、生死不明となっています。

また、生田口の総大将だった知盛は、嫡男だった知章に命を救われ、逆に知章が代わりに討ち死にするという「子が親を助ける」という、なんとも悔恨の残る事態になっていました。

辛くも一命を取り留めた知盛は船に助けられた後、棟梁・平宗盛の御前に罷り出て

「嫡男・知章には先立たれ、心細くなっております。なんの因果で、子が親を助け、親がその子が討たれるのを見なければならないのか。親が子を助けず、このように生き恥を晒しているならば、他人ならば大いに罵ることでございましょう。しかし我が身の事であれば、よくよく命が惜しいものであると思い知った次第でございまする。お恥ずかしい限り」

と言って泣き伏したと言われます。それを受けた宗盛は

「知章がその方の命を助けたことは一門にとっては尊いことじゃ。腕も立ち、豪胆な若武者だった。我が倅・清宗と同じ年齢だったの.....」

と涙したと言われます。


さて、この戦いにおいて、特筆すべきことをこれから書かねばなりません。
それは、上記の死亡リストに入っていない、平家の有力武将・平重衡(清盛五男/左近衛権中将)の行方です。

平重衡は兄・知盛とともに生田口の大将として源範頼軍と戦っていましたが、知盛の命令で、一の谷の北方・夢野口(平通盛、教経、盛俊が大将)の加勢に向かいました。しかし、衆寡敵せず、夢野口は落ち、重衡は重臣・後藤盛長と共にたった二騎で西へ逃走しました。

大将軍の鎧は他の武将と違い、非常にきらびやかで派手目立つため、落ちていく重衡主従二騎は、範頼軍の梶原景季(梶原景時嫡男/源太)庄家長(武蔵国児玉党)が目をつけられ、猛追撃を受けます。

通盛が討たれた湊川を超え、刈藻川(兵庫県神戸市長田区付近)を渡り、須磨方面に向けて必死に猛スピードで逃げていく重衡主従。命がけの逃避行のため、景季や家長がどれだけ馬に鞭打っても、追いつくことができません。

「ええい!これでは埒が開かん!」

景季は追撃を諦め、弓に矢をつがえ、思い切り引っ張って、上の空に向けると

「南無八幡大菩薩......」

と唱えて、思い切りを矢を放しました。
矢は大きく弧を描いて飛び立ち、重衡には当たらなかったものの、重衡の馬に命中し、馬は足を詰めらせ、重衡は地面に叩きつけられました。

「おのれ......」

幸い重衡は落下時の打ち身以外は無傷で、立ち上がって振り返り、追っ手の方角を見、敵の姿を認めると

「盛長、敵は二騎じゃ。ここで見事立ち合って我らの未来の血路を開こうぞ」

と言って振り返ると、盛長は重衡の目線を逸らし、

「御免!」

と言って頭を垂れると、馬に鞭を入れ、一目散に駆けて行ってしまいました。

「盛長?。おい盛長、なぜ逃げる?お主、俺を捨てて一人だけ逃げるというのか?」

盛長はその言葉を背後で受けながら振り返らず、平家の武将の印である赤印を投げ捨て、一路、西へ西へ駆けて行きました。

後藤盛長は、重衡の乳母の子供で、幼い頃より重衡に仕えていた腹心中の腹心でした。

その腹心に裏切られた重衡は茫然自失となり、平家も遠く逃げてしまっていれば、観念するより他はありません。背後から景季、家長の馬の蹄の音が近づいてきていました。

重衡は兜を捨て、鎧を解き、その場に座って胡座をかき、いざ、自害せんと欲しました。
しかし

「あいや、待たれよ!しばらく!しばらく!」

という家長の声が聞こえ、脇差を抜こうとする手を止めました。
家長は馬から降り、重衡に駆け寄って

「大将軍ともあろう方が、このようなところで自害されるとは、なんと分別のないことをなされるか!」

と重衡に言いました。
家長に続いて、景季も後から重衡に近づき、重衡に膝を付くと

「それがし、相模国鎌倉郡梶原郷の住人・梶原源太と申しまする。将軍の御名をお聞かせ賜りたい」

と頭を下げると、重衡は脇差を家長に預け

「三位中将・平重衡」

とだけ名乗りました。
これには景季も家長も驚き、家長に至っては重衡より預けられた脇差をその馬に放り出して、平伏しました。

すでに平家の人間は、朝廷によって全員解官されているため、左近衛権中将の官位は無効となっておりますが、正三位といえば、上級貴族であり、これまで源氏が討ち取り、捕縛した平家の人間の中で、間違いなく最高位の公卿でした。

「三位殿、我らと共にご同行願い奉りまする」

景季をそう言うと、重衡を盛長の馬に乗せ、盛長は矢を受けて弱った重衡の馬を引き、本陣へ帰投しました。
こうして、清盛五男にして、正三位左近衛権中将・平重衡は鎌倉軍の捕虜となったのです。


これにて「一の谷の合戦」は鎌倉軍の大勝利で終了しました。

右大臣・九条兼実の日記「玉葉」によると、この戦いの翌日の2月8日に、藤原範季(従二位式部権大夫)の元に梶原景時より飛脚が送られており、そこには合戦の模様が克明に記されていました。

それによると、この戦いは2月7日の辰の刻(午前7時から午前9時)から巳の刻(午前9時から午前11時)までの一時ほどの間、と記載されており、およそ2時間程度の戦いだったようです。

また同じ日の「玉葉」に

「劔璽・内侍所の安否、同じく以て未だ聞かず」

とあり、この時点で鎌倉軍は「三種の神器」の奪回に失敗していることを報告しています。

つまり、平家が京都を奪還せんと一の谷・福原まで攻め寄せており、それを撃退したことは鎌倉軍の大手柄でした。

しかし、朝廷としてはそれ以上に「三種の神器」の奪還が至上命題でした。なぜなら、神器が朝廷に存在することこそが、後鳥羽天皇の即位の正当性を公家社会に示すものだったからです。

これを聞いた後白河法皇の苦虫を噛み潰した顔が思い浮かぶようです。


そして、2月9日、鎌倉軍は京都に凱旋しました。そこには囚われの身となった平重衡の姿もありました。
京都に着いた後の重衡の身柄は、土肥実平(鎌倉軍別働隊・義経名代)の屋敷に閉じ込められました。

一方、一の谷を追われた平家は、海流に従って紀伊方面へいく船、瀬戸内海を西へいく船、それぞれが行先の決まらない当てのない船路が始まっていました。

京都を追われた後、西国を基盤に再び十万余騎を従えて、京都を奪還せんと望んだこともたった一日の合戦で、多くの身内を失い、一の谷・福原を失い、また行先も決まらない不安な中では、眠ろうと思っても眠れないことだったと思われます。

なお、一の谷の合戦の前、一の谷北方の夢野口の大将を仰せつけられた平通盛の正室・小宰相(第87回「平教経の出撃」参照)は、通盛が討たれたことを知った日からおよそ七日後、平家の船団が屋島に到着する寸前に、お腹の子供と一緒に瀬戸内の海へ入水自殺されました。

平家物語は

「昔から夫が死んだ後、残された妻が出家することは多いが、身投げしてまでとは滅多にない。武士の世界は忠臣は二君に仕えずというが、女の世界でも貞女は二夫にまみえずというのだろうか」

という言葉で結んでいます。

(つづく)
posted by さんたま at 16:33| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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