2018年08月05日

人吉相良氏の軌跡(2)ー南北朝時代前半ー

人吉藩を立藩した相良氏コラム第2回は、鎌倉幕府後末期から入ります。


1、鎌倉幕府から建武の新政へ
西暦1287年(弘安十年)元寇で活躍した相良氏三代目当主・相良頼俊は、家督を長子・長氏に譲りました。
この後の頼俊の動向は没年も含め諸説ありますが、実はよくわかっていません。

相良氏四代目当主・相良長氏は、西暦1311年(延慶四年)2月25日付で、長文の置文を作成しており、これが現在の「大日本史料」に残っております。これが相良家の家法と言われており、おそらくのちに出てくる「相良氏法度」のモデルになったのではないかと私は考えています。

西暦1333年(元弘元年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して反乱を起こし、隠岐に流罪となるものの島を脱出して再び反乱を起こしました。いわゆる「元弘の乱」です。

相良氏も後醍醐天皇を支持し、当時鎌倉に詰めていた相良氏五代目当主・頼広は、新田義貞の鎌倉攻めの挙兵に参加していました。

その後、土佐に流されていた後醍醐天皇の第二皇子・尊良親王が土佐を脱出して九州・大宰府に入り、九州の武士団を統括する旨が宣言されたので、頼広はこれを受けて九州に戻ることになります。

西暦1336年(建武三年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、鎌倉を占拠して政権化すると、頼広は、兵を率いて、尊氏の領地である国富荘(現在の宮崎県宮崎市、西都市、新富町一帯)に進出し、足利家一門の細川義門(小四郎/綾城主・綾氏の祖)を攻めました。

頼広はさらに尊氏正室・赤橋登子の領地である穆佐院(宮崎市高岡町)に転じて、地頭・土持宣栄とも戦っています。


2、南北朝時代へ
西暦1336年(延元元年/建武3年)、足利尊氏によって光明天皇が即位され、北朝が成立し、後醍醐天皇が吉野に南朝を開き、南北朝時代に突入します。この時、相良氏一族の間でも北朝方(尊氏)、南朝方(後醍醐)にそれぞれ別れていました。

五代目当主・頼広は南朝方でしたが、頼広の父で四代目当主・長氏と頼広の子・定頼は、少弐貞経・頼尚父子(筑前・筑後・豊前の守護)に従属しており、北朝方の態度を取っていました。

当時の相良家中では当主である頼広より、隠居である四代目・長氏の影響力が強かったため、南北朝時代に入ると頼広の記録が途絶え、嫡子・定頼が前面に出てきていたりすることから、もしかすると頼広は四代目・長氏から廃嫡され、四代目・長氏から六代目・定頼へのイレギュラーな家督相続があった可能性は否定できません。

いずれにせよ、この頃より、相良氏六代目当主・定頼の時代になっています。

しかし、この頃、相良氏の祖・相良頼景(相良氏初代・長頼の父)から続く、上球磨郡を領していた多良木氏(通称:上相良氏)の当主・多良木経頼が、南朝方として蜂起すると、経頼は八代を領していた南朝方の伯耆名和氏と連携したため、定頼は人吉の北方に兵を進めることが困難になっていました。

結果、足利尊氏が豊島河原の戦い(大阪府箕面付近)新田義貞、北畠顕家の軍勢に敗れて九州に逃れてきた際、定頼は軍勢を出して助力することができなかったのです。

これ以後、定頼は自身は球磨郡を動けず、家臣を派遣して北朝方の軍勢に従軍させるのが精一杯でした。

一方、この頃、少弐氏当主・少弐頼尚は、九州南朝方のボスである菊池武重との決戦を控えており、菊池氏の領地の背後に位置する肥後国南西部の球磨地方の動静が気がかりでした。

前述の通り、八代の名和氏、上球磨の多良木氏は南朝勢力ですが、その南の下球磨には北朝方の相良定頼がおります。
名和・多良木両氏が自分の領地を空けて武重の援軍に加われば、間違いなく南から定頼の襲撃を受けるため、彼らは身動きが取れなかったのです。

また、頼尚にとって、定頼が南朝に鞍替えされると、球磨郡全体が新たな南朝勢力となるため、肥後国内の北朝方の苦戦は必至でした。

そこで頼尚は、思わぬ行動に出ました。
かつて相良氏初代・長頼の時代に、お家騒動を起こした責任を取らされて鎌倉幕府に取り上げられていた人吉荘の北部の領地を「北朝お味方の恩賞」として、先代・相良長氏に返還したのです。

長氏はこの領地を相良氏六代目当主・定頼に譲ったため、人吉荘を含めた下球磨地方は実に95年ぶりに完全に相良氏当主の支配下におかれました。


3、九州、南朝の支配下へ
西暦1341年(暦応四年/興国二年)、南朝・後醍醐天皇の皇子・懷良親王が薩摩国に上陸すると、肥後国の南朝方に勢いが生じ、北朝方が苦境に陥っていきます。

定頼は常に少弐頼尚に従って北朝方として転戦し、この頃、八代郡七カ村を所領として賜っています。

しかし、この南北朝の争いに、新たにややこしい事態が加わります。
室町幕府内における将軍・足利尊氏とその弟・足利直義の壮大な兄弟ゲンカ、いわゆる「観応の擾乱」です。

足利直義の養子である足利直冬は長門探題を務めており、養父の挙兵を知るや、九州肥後に移動して、少弐頼尚の支持を取り付けます。

また同じ頃、上相良氏・多良木経頼が再び挙兵して、直冬方と合流するという事態が発生しました。定頼はすぐに軍勢を率いて、経頼を討とうしますが、頼みの綱の少弐頼尚が直冬方になってしまったため、援軍の支援がなく、結果、定頼は敗退してしまいます。

定頼と経頼の争いは、球磨地方だけの争乱ではなく、周辺諸国や豪族をも巻き込んだ広がりを見せていました。

尊氏方の薩摩国守護・島津貞久は、直義方の日向国守護・畠山直顕大隅国真幸院(宮崎県えびの市)をめぐって争っており、九州探題・一色範氏家臣・一色範親に命じて、定頼に出兵を要請し、定頼は真幸院に攻め込みます。

しかし畠山直顕は上相良氏・多良木経頼と連携して、葦北郡の南朝方を蜂起させただけでなく、肥後北部の南朝方・菊池武光の援軍を得て、定頼・範親の軍勢を撃退することに成功。さらに直顕の大隅国への侵入を許してしまうことになります。

九州の豪族たちをまとめることもできず、南朝の勢いを防ぐこともできない九州探題・一色範氏は、探題職を嫡男・直氏に譲り、北朝尊氏方の権力基盤の強化を試みましたが、南朝の優勢は続き、西暦1354年(正平九年/文和三年)、南朝・懐良親王菊池武光、少弐頼尚と協力して、豊後国に攻め込み、北朝・尊氏方である大友氏を降伏させました。これにより、北部九州はほぼ南朝方に制圧されてしまいます。

北朝・尊氏方の九州探題二代目・一色直氏は、周囲はすべて敵で囲まれ、自分の勢力を維持できず、ついに長門国に逃亡します。これが足利尊氏の逆鱗に触れ、2年後の西暦1356年(正平十一年/延元元年)、再び九州に入って筑前国麻生山で菊池武光と戦いますが、武光に一蹴されてしまい、今度は京都に逃亡してしまいました。

一色直氏が完全に九州から撤退すると、今度は少弐頼尚が再び北朝・尊氏方に鞍替えしました。どうも頼尚は一色範氏・直氏父子が気に入らないから敵対していただけで、敵がいなくなれば元の鞘(北朝尊氏方)に戻るつもりだったようですね。

まぁ、身勝手といえば身勝手ですが。

一色範氏・直氏が京都に撤退した後、北部九州は南朝の手に落ちましたが、南部九州は一色範氏家臣・一色範親が健在で、島津・相良の両氏が北朝・尊氏方として畠山直顕と戦い続けていました。

しかし、幕府もさすがに「これではマズイ」と思ったのか。定頼に「元弘の乱の時の鎌倉攻めで命を落とした永留頼常の恩賞」というこじつけで日向国庄内北郷の地を与えて、北朝方への引き留めを必死に行っています。

どう考えても南朝優勢の中、守護職を拝命している島津氏はともかく、相良氏まで南朝に味方されては、島津の命運は風前の灯火ですからね。ここは何としても北朝の味方にいてもらわねば困ったのだと思います。


西暦1361年(正平十六年/康安元年)10月、室町幕府九州探題四代目(三代目細川繁氏は任地につくことなく死去)・斯波氏経が赴任しましたが、翌西暦1362年(正平十七年/貞治元年)10月、長者原合戦(福岡県糟屋郡粕屋町戸原)で南朝方の菊池武光に敗北し、周防国に撤退。北部九州は再び南朝の天下となってしまいます。

そんな中、西暦1372年(文中元年/応安五年)8月、相良氏六代目・相良定頼が死去。

イレギュラーな家督相続の後、南北朝争乱、観応の擾乱などに振り回されつつも、下球磨を完全に回復し、さらに八代、日向国まで領地を伸ばした輝かしい実績を残した相良氏当主の死でした。

(つづく)
posted by さんたま at 11:04| Comment(0) | 人吉相良氏の軌跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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