2018年07月14日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(95)-本陣落つ-

西暦1184年(寿永三年)2月7日、鎌倉軍は、一の谷の東の生田口(兵庫県神戸市中央区)から源範頼率いる本隊五万騎が、西の塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋)から土肥実平率いる七千騎がそれぞれ攻めかかりました。

また、義経に夢野口(兵庫県神戸市兵庫区夢野町)の抑えを託された安田義定(甲斐源氏)が率いる別働隊七千騎も、夢野口の平家軍に攻めかかっていました。

源氏も平家も入れ替わり、名乗り合い、戦い、傷つき、一進一退の大混戦という状況です。
その状況を一の谷の崖上(鵯越)から伺っていたのが源義経率いる別働隊一千騎でした。

義経は自らの手勢一千騎をできる限り音を立てることなく、鵯越の上に着陣し、一の谷の模様を眺めていたのです。
しかし、動物たちは正直なもので、馬に乗った騎馬武者を見るに、鹿などは次々と鵯越から一の谷に降りて行っていました。

「あれが、鹿の鵯越か」

義経がそういうと、熊王が

「あの動きをよく見ておくことです。ポイントはは重心のかけ方と分散の仕方」

と言上すると、義経は

「相わかった」

と答えると、弁慶を呼んで

「馬を二、三頭、崖下に放て」

と命じました。

弁慶によって放たれた馬三頭のうち、一頭が崖下にたどり着く前に足を折って転がり落ち、うち一頭は問題なく一の谷の地に降り立ちました。もう一頭は、うまく降りながら、平家の陣のとある屋敷の屋根に降りたち、下に降りれなくなって右往左往していました。

これに驚いたのが、言うまでもない平家の陣です。
先ほどの鹿に続いて、今度は馬が降ってきたのですから

「間違いなく、崖上に敵がいる」

と勘づくのは当然でした。しかし平家の兵たちが崖上の敵に備えるのは、掻盾と呼ばれる矢の盾を揃えることでした。この崖上に敵がいるなら、その武器は弓矢であるという考えは、間違いではありません。彼らには、ここから人間が降りてくるとは、到底思えなかったのです。

崖上の義経は放った馬三頭の動きを見

「馬は自分で降りる道、降り方を心得ているようじゃ。これぞ野生のなる技よ」

と言うと

「これより、我が軍はここを降りる!九郎に続け!!」

と檄を飛ばし

「いやああああ!」

と喚声をあげながら馬ごと鵯越を下りて行きました。弁慶ら義経主従もこれに従いますが、幾人かの武士がビビって狼狽していると

「我は相模国三浦郷の住人・佐原十郎なり。我ら三浦の者は鳥一羽追い立てる時もこのようなところを駆け回っておる。ここは三浦の馬場と同じよ!臆することはない、自分の愛馬を信じて、進めやあ!!」

と、さらに檄を飛ばして勢いよく鵯越を駆け下りていくと、先ほどまでビビっていた武士達も

「ええい、ままよ!」

「南無三!」

と口々に叫びながら、一斉に鵯越を降って行きました。


一方の平家の陣は、馬の蹄の音とともに近づいてくる人の喚声に

「おい......何が起きてるんだ?......この喚声はどこから聞こえてくるんだ?」

と周囲を見回して狼狽するばかりでした。
やがて何人かの兵が、上に目をやると

「敵だ!敵が現れたぞー!」

と言いながら、一目散に逃げていきます。
周囲の兵達も崖上に目をやると、そこには義経を筆頭とした騎馬軍団が怒涛の勢いで降りてくる姿がはっきりと見えていました。

平家の陣立ては、東の生田口に平知盛(清盛四男)重衡(清盛五男)。西の塩屋口に平忠度(清盛異母弟)、北の夢野口に平通盛(清盛異母弟・平教盛嫡男)平教経(平教盛次男)が守っており、一の谷本陣の守りは手薄となっていました。

それは一の谷を攻めるならこの三口しかなく、馬での通行が難しい鵯越の崖を降りてくるなど想像もしていなかったからです。

義経軍一千騎のうち、何頭かの馬は駆け下りに失敗し、武将も負傷した者もいましたが、多くは無事に一の谷に突入することができました。主たる将もなく、右往左往する平家軍に対し、義経軍は縦横無尽に一の谷の平家陣を蹂躙し、義経軍の村上基国(信濃源氏)が平家陣の松明を奪って、建物に火をかけました。

一の谷は海に面している関係から風が強く、火は瞬く間に燃え広がって、平家の陣の建物を次々と焼け落として行きます。

兵達は岸につないであった船に我先にと乗り込んで逃げようとしますが、鎧をつけた武者が100人単位で乗れば、さすがの船も重さに耐えきれず、次々と沈んでいきます。沈没を防がんと、平家の武士は自分たちの配下である平家の兵の手足を斬り、船から投げ下ろして、逃げる姿が見受けられました。


同じ頃、生田口の平家の陣には、夢野口(平通盛、平教経、平盛俊)が押されているという報告が届き、知盛は最前線で戦っていた弟・重衡を陣に戻して夢野口方面の救援に回しました。そして総大将である知盛自ら最前線に押し出すことになります。

知盛は平家最強の武将であり智将でありました。一の谷の三方の攻め口には、戦上手の平忠度、平盛俊などを置き、その上に三草山に小松家一族(平資盛ら重盛の子供達)をおいて、源氏を牽制するなど、その軍法に隙はないと言っても過言ではありませんでした。

ゆえに、この時、一の谷の本陣で何が置きているのか、まだわかってはおりませんでした。

「そこに見えるは、前の武蔵守殿とお見受けいたす」

と源氏方の騎馬武者から声をかけられた知盛は

「いかにも前武蔵守・平知盛じゃ」

と答えると

「我は児玉党(武蔵国の武士団)の一員です。あなた様が武蔵国の国司であったご縁でお教えいたします。後ろをご覧なされませ」

と騎馬武者がいうので、知盛は馬を45度右に回し、その上で首を45度右に回して後ろを伺いました。
首だけ90度回すのはあまりにも隙が多すぎて、後ろからバッサリ斬られる可能性もあったからです。

その知盛の目に映った光景に知盛は目を大きく開けて愕然としたのです。
それは、黒煙をあげている一の谷の本陣でした。

「バカな......本陣が落ちたのか......」

そして次の瞬間、源氏方の方から凄まじい喚声が上がりました。
範頼が総攻撃の下知を下したのです。

本陣からの黒煙は生田口の平家の兵達の士気を下げるのに十分でした。

「退くな!退いてはならん!あれは源氏の策略じゃ!本陣は......ミカドは無事じゃ!」

知盛は一瞬ひるみましたが、児玉党の騎馬武者に向かって刀を向けると

「小賢しい真似をしくさって......あんな策略に引っかかる我ではないわ!」

「言うたはずです。前の国司であるあなた様だから申し上げたと」

「言うな!」

知盛は刀を騎馬武者に向けて一合、二合交わすと、隙をついて、騎馬武者の腹に刀を突き刺すと、騎馬武者はそのまま馬上から崩れ落ちました。

「本陣はまだ落ちてはおらん!守れ!守りを崩してはならん!」

士気が下がり気味だった平家の兵達は知盛の檄でかろうじて、士気を取り戻し、必死に守りを固めました。

しかし、知盛は本陣が落ちたことは間違いないと思っていました。
ただ、本陣が落ちたとしても、容易に撤兵すれば軍の損耗は激しくなる上、ミカド(安徳天皇)を失いかねない状況だけは避けなくてはならないと思っていました。

それゆえ、モチベーションの下がった兵の士気を鼓舞し、ここの守りを固めながらジリジリと撤退する消耗戦を行わねばならなかったのです。

(兄上、主上を女院を頼みます.....)

知盛の忍耐が試される戦いが始まろうとしていました。

(つづく)
posted by さんたま at 12:20| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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