2018年05月15日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(91)-鵯越-

西暦1184年(寿永三年)2月6日、鎌倉軍別働隊を率いていた総大将・源義経は、七千騎を土居実平に預けて塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋町)に向けさせ、自分の郎党(家来)と一千騎と共に一の谷の崖の上に残りました。そこで自分の郎党の一人、武蔵坊弁慶なるものに、付近の地理に明るい者を捜させたのです。

この武蔵坊弁慶という男、源義経の忠臣として有名な存在ではありますが、出生、育ちなど同時に非常に謎が多い人物でもあります。

ただ、鎌倉幕府の公式歴史書である「吾妻鏡」や軍記物語「平家物語」にその名前が出てくることから、実在であることは間違いないようですが、現在に伝わっている弁慶の活躍は、南北朝時代に成立した軍記物語である「義経記」を元にされていることが多く、検証と考察が必要なことが多いようです。

話を一の谷に戻します。

義経が一時(約2時間)ほど待つと、弁慶が一人の老人を連れて戻ってきました。

「ただ今、戻りましてござりまする」
「弁慶。ご苦労」

義経がそう言うと、弁慶は膝まづき

「この者、この土地の漁師にございます。このあたりの地形、天候等に詳しいゆえ、連れてまいりました」

と答えると、振り返って漁師に向かい

「我が主、源九郎殿でござる」

漁師と言われた老人は地面に座り、頭を下げ、弁慶に続いてこう言いました。

「ワシは鷲尾庄司と申すもの。この法師殿はあなた様を源九郎と仰せられたが、あいにくワシには何者かは存ぜぬ。ゆえにご無礼はご容赦くだされ」

義経は

「面倒をかけてすまぬ」

と礼を申すと、庄司は

「して、何かワシにお聞きになりたいことがあるとか」

と義経に尋ねました。義経は満足そうに頷き

「いかにも、実は、ここから下の一の谷に馬で降りようと考えているのだが、何か方策はないものだろうか」

と尋ねました。
すると庄司は「カッカッカ!」と笑って

「何の用か思えば、そのような」

と呆れたような不敵な笑みを浮かべたので

「鷲尾庄司、無礼であろう」

と弁慶が割って入りましたが、すると庄司は弁慶に噛み付いて

「ここから一の谷に降りたいとか申すからじゃ。戦が始まる前に死にたい武士がおれば、笑いたくもなるわ」

と吐き捨てるように言いました。

「ほう。なぜ、そのように申すのか」

義経が庄司に尋ねると

「この崖は鵯越と申しての。こっからは見えんがの、この崖にはくぼみや岩がゴロゴロしておる。その大きさはまちまちじゃが、大きいものは10メートルを超えるものもある。ましてやここは霧が頻繁に出るでな、先が見えにくい」

「ふむ」

「先が見えない状態で馬で降りれば、くぼみに嵌るか岩に激突するのが関の山。一度態勢を崩せば、あとは転がり落ち、首でも折って死ぬるだけでじゃ」

「やはりそうか......」

予想はしていましたが、義経は庄司の言うことはもっともと思いました。
ですが、義経は未だ自分の考えを改める気はありませんでした。

「鹿ならともかく、馬ではさすがに無理。いたずらに死人を増やすだけよ」

その庄司の一言に、義経は

「鹿?この辺りの鹿がここを通るのか?」

と庄司に尋ねました。

「うむ。鹿は通る。播磨の鹿は暖かくなると草深い丹波路を超え、寒くなると雪の浅い印南野(兵庫県稲美町)の方に抜けていく。鹿は馬より跳素早く、態勢を崩しても整えるのが早い。」

それを聞いた義経はニヤリと笑いました。

「殿?」

弁慶が尋ねました。

「弁慶。鹿が通れるのなら、馬が通れない訳もあるまい。さしずめ、ここは少々荒い馬場と思えば良いようじゃ」

と答えた義経の言葉に、庄司は慌てて

「ちょっと待たれよ。ワシは馬では無理と申したのじゃぞ」

と異議を申しました。しかし義経は

「言うたであろう。鹿が通れて馬が通れないわけがない」

と庄司に答えました。庄司も負けじと

「確かに理屈はわかる。じゃが、そなたらの馬は人が乗っておる。普通の馬ではない。バランスを崩せば重さで地獄に真っ逆さまじゃ」

と押しとどめようとしますが、義経の目に迷いはもうありませんでした。

「そなたの話で決心がついた。我らはここを降りる!鷲尾庄司と申したな。そなたに案内を頼む」

と義経が庄司に案内を依頼しました。
庄司は義経の目や顔に一切の迷いがないのを確認すると、深いため息をつきました。

「もはや止めても無駄なようじゃの。御大将の仰せじゃが、あいにくワシはもう老体。とても案内は務まらぬ」

庄司はそう言い、義経の依頼を断りました。
義経も老体に無理はさせられないと思ったのか気の毒な表情を浮かべていました。
そうすると

「じゃが、ワシの息子、熊王を代わりに遣わす。最近はあいつの方が漁師としては有能じゃ、何かと御大将の役にも立つじゃろうて」

と苦笑いをしながら答えました。

義経は弁慶に武久を送るように命じると、彼の息子、熊王を連れて戻ってきました。
熊王は漁師としてはすでに立派な体躯を備えた若者であり、義経は非常に頼もしく思いました。

「熊王と申しまする。父の命により、鵯越の案内いたしまする」

こうして、義経は一の谷の崖(通称:鵯越)を馬で奇襲する作戦を実行に移すのです。

(つづく)
posted by さんたま at 15:50| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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