2018年03月20日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(89)-休戦の申し入れ-

西暦1184年(寿永三年)2月4日に京都を出発した鎌倉軍(源範頼、源義経)は、平家の拠点・福原に向けて進軍を開始しました。翌5日には、摂津国と山城国の境にある三草山(大阪府豊能郡能勢町長谷)で、丹波路を進軍中の義経軍と平家小松家軍(平資盛、有盛、師盛、忠房)が合戦となり、義経軍が小松軍を討ち払っております。

範頼との軍議で矢合わせ(開戦)は2月7日と確定していたため、義経軍はそれまでに塩屋口(兵庫県神戸市須磨区)に着陣しなくてはなりません。したがってさらに進軍を続けますが、ここでまた物見により新たな知らせが飛び込んできました。

摂津国夢野(兵庫県神戸市兵庫区夢野町)あたりに約1万騎の平家の大軍が展開していたのです。義経軍はまたも進軍を妨げられ、善後策を協議することになりました。

「1万以上の大軍となれば、平家方でも相当の武名高い武将が大将と見るべきでしょう」

土肥実平は長年の戦いの勘で義経に助言しましたが、安田義定

「待たれよ。相手が1万となると、三草山とはわけが違う。こっちもそれ相応に兵力の損耗も計算せなばならない。しかしこれ以上時を奪われると、7日の矢合わせに間に合わなくなる。そうなると、九郎殿の面目が立たなくなってしまう」

「しかし、このまま捨て置いて我らが進軍すれば、敵に後ろを取られる可能性があります」

「ううむ。前門の虎、後門の狼というわけか......」

実平の反論に義定は言葉を継ぐことができませんでした。
しかし、義経は

「夢野口の軍勢もこちらにはまだ気づいていまい。だから不必要にこちらから攻撃する必要はないと思うがいかが?。ただ、土肥殿が仰る通り、後ろから攻撃されるのは困りまするな。」

「総大将は九郎殿じゃ。御裁断を」

義経はしばし考え込むと

「兵を二手にわけ、七千騎を安田殿にお預けいたす故、ここに駐屯してもらえないだろうか。我らは残りの七千騎を率いて塩屋口を目指して進軍する」

と義定に下知し、それを受けた義定は一礼して

「はっ。承知仕りました。必ずや夢野口の敵を叩いて見せましょうぞ」

と頭を下げ、命令を承服しました。
しかし、義経は

「いや、7日の矢合わせまでは決して動いてはなりませぬ。夢野口には物見を出して平家軍の動きを注視し、我らが後ろから矢を射かけられぬことのないよう、守っていただきたい」

と念を押すと、義定はニヤリと笑って

「心得ました」

ともう一度、頭を下げました。

こうして、鎌倉軍別働隊の義経軍は2つに別れ、安田義定(甲斐源氏/遠江守)が七千騎を率いてここの守りを固め、義経軍本隊の七千騎の後詰となりました。義経軍の後ろの備えを任された義定は、俄然、気合が入っていました。


同じ頃、摂津国福原に平知盛(清盛四男)平重衡(清盛五男)の姿がありました。二人は兄であり、平家一門の棟梁である平宗盛の呼び出しを受け、防備を固めている一の谷から鎧武者の姿で福原に駆けつけていました。

知盛は

(この忙しい時にいったい何事だろうか.....)

と訝しんでおりましたが、兄であり、また平家一門の棟梁である宗盛の要請とあっては断ることも無視することもできず、渋々福原にやってきたようでした。

二人は宗盛の従者によって広間に通されました。そして程なく宗盛が姿を表すと、二人は平伏してこれを迎えました。宗盛は二人の姿が大鎧をまとっていたことに一瞬戸惑いましたが、

「知盛、重衡よく参った。突然呼び出してすまぬ」

と言いながら上座に着座しました。
知盛、重衡の両名は頭をあげながら

「兄上におかれましては、ご機嫌麗しく」

「おう。麗しいとも」

と満面の笑みで返してきたので、知盛は嫌な予感しかしませんでした。

「お主らを呼んだのは他でもない。今朝、御上から書状が届いた」

「法皇様から?」

真っ先に声をあげたのは知盛でした。

「そうじゃ」

「して、その内容は」

と重衡が問いかけると

「まぁ、ありていに言えば、休戦の申し出じゃ」

「はぁあ?」

これには知盛、重衡が同じように声をあげました。
知盛、重衡は源氏がいつ攻めてきてもよいように、一の谷の備えを厳重かつ完全にするために日夜努力してきました。にもかかわらず、ここにきて休戦という言葉が出ては、二人から呆れる声が出るのは当然というものです。

驚き呆れる二人を横目に宗盛は言葉を続けます。

「まぁ、聞け。御上が仰るには、我らが三種の神器を返さぬため、筋目を主張する源氏を抑えることができず、追討の院宣を出さざる得なかった。しかし、平氏と源氏の違いはあれど、共にに院と朝廷の臣下には変わりはない。臣下同士が戦えば、どちらかが負ける。それ故、御上は御心を痛めておられるのじゃ」

「それで?」

知盛は「はぁ〜」とため息をつきながら、先を促しました。

「御上は源氏に停戦を呼びかけたため、平家も神妙にするようにと、戦いを止め、双方和睦の道を探り、より良き世を作るために院および朝廷に力を貸せと......」

「白々しいことを.....」

宗盛の言葉を知盛が遮りました。これにはさすがの宗盛も怒り出し

「控えよ知盛!御上に対し白々しいとは無礼ではないか!」

「無礼で結構!」

知盛は宗盛を恫喝しながら立ち上がり、宗盛を見下すと

「兄上はお忘れか?我らが義仲によって都を追われる際、我らは法皇様をお守りしようと御所に向かったが、法皇様は比叡山に逃亡しておられた。さらに義仲と行家に平家追討の院宣をもたせて我らを攻撃した。幸い、水島、室山いずれの戦いも我らが勝利することができたが、その後ろで糸を操っていたは全部法皇様ぞ!」

「う......」

知盛が言ったことは全て事実でした。
平家が都落ちせざるえなかったのは、比叡山延暦寺の裏切りであり、その延暦寺に逃亡したのも法皇でした。
そのため、宗盛は知盛に対し、反論することができませんでした。

「そのような利害でフラフラするような方の書状をありがたがる兄上も兄上!大概なされませ!」

とさらに一歩ドン!と踏み込んで毒づいた知盛でしたが

「知盛の兄上、お待ちくだされ」

珍しく重衡が激昂する知盛の抑えに入りました。

「宗盛の兄上、その御上の書状はどこからもたらされたものなのですか?」

重衡の問いに宗盛は

「従三位・藤原修理殿からじゃ」

と答えると

「まさしく院近臣からの書状。となると知盛の兄上、これは本物の御上の書状と考えねばなりませぬ」

「だからなんだと言うのだ!」

知盛の怒りの矛先は重衡に向きを変えました。

「ですから!これに背けば、我らは名実ともに朝敵でござる!」

重衡は知盛の怒りを抑え込むかのように声を荒らげました。
「朝敵」という言葉にさすがの知盛も目を見開いて唾を飲み込みました。

平家はこれまで源氏が受けた院宣によって追討を受けてきました。その院宣が確たるものかどうかはわかりませぬ。しかし、今回は、院近臣によって届けられた御上の意思であり、これは、平家や源氏に対し、休戦を願う院や朝廷に弓引く覚悟があるのかどうか、それを問われているのだと重衡は受け取ったのです。

「知盛」

宗盛が知盛を宥めるように声をかけます。
知盛も宗盛の言いたいことがわからぬ無粋者ではないゆえ

「埒もないことを......我らの敵は源氏にござる。院や朝廷に弓を引いて朝敵になるなど毛頭ございませぬ」

と言って、その場に座りました。
宗盛はホッとため息をついたところを

「宗盛の兄上はいかがお考えで?」

と重衡が重ねて問いました。

「いかがも何も、御上の思し召しには従う所存じゃ」

「されど、同じ書状が源氏の下に届いているかどうかはわかりませぬ。源氏がその意思を受けるかどうかはわかりませぬ」

「その時は源氏が朝敵になるだけじゃ」

「そして我らはこの福原の海の藻屑となるかもしれませぬな」

知盛が先ほどの激昂とはうって変わって、落ち着いた調子で呟きました。

「では、そなたはどうしろと言いたいのだ」

今度は宗盛が知盛に食ってかかると

「兄上の意思は一門の棟梁の意思。法皇様の思し召しに従いたいと仰るなら従いましょう。しかし、万が一を考え、一の谷の臨戦態勢は解きませぬ」

知盛はそう言うと手を床に着け、深々と頭を下げ

「何卒、ご承知おきくださいます様、伏してお願い申し上げます」

「.......やむえまい。戦に関してはそなたが責任者じゃ」

言い返したい気持ちは山ほどあれど、知盛の気持ちが変わらないことを知っていた宗盛は、知盛に一歩譲歩する形となりました。

「ゆえに、兄上に申し上げる。帝、女院はいつでも御座船に移せられる様に、用意を怠りなき様」

「心得た」

「では、我らはこれにて」

というと、知盛と重衡は再び平伏して、宗盛の陣所を後にしました。
後白河法皇の休戦の打診が、この戦のあり方を大きく変えようとしておりました。
一の谷の戦いは容赦なく近づいていたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 10:42| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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