2018年03月05日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(88)-孟子の教え-

鎌倉軍の源範頼・義経軍が摂津一の谷に向かい、義経軍が三草山での戦いで平資盛ら平家の先発隊を打ち破った頃、京都の後白河院でも少々動きが出てきておりました。

西暦1184年(寿永三年)2月5日、修理大夫・藤原親信は院庁から参内要請を受け、急ぎ院に上がりました。

藤原親信は、藤原北家道隆流の出身で、兄の藤原信隆と同様に後白河法皇の近臣として活動しておりました。西暦1117年(治承元年)に従三位に昇ったものの、平清盛の「治承三年のクーデター」において解官され、翌年、朝政復帰後も再び院近臣となっており、後白河法皇の腹心の一人と言える存在です。

親信は、この時点では正三位 修理大夫 兼 参議となっていました。

院に参内した親信は法皇の御前まで進み、悩ましい法皇の表情に嫌な予感を感じたものの、平静を装って、広間に入ると着座しました。

「お召しにより、参上仕りました」

と深々と頭を下げました。

「修理(親信)。ご苦労。表をあげよ」

と法皇がそれに答え、親信が頭をあげると

「そなたを呼んだは他でもない。頼朝の鎌倉軍が摂津福原に篭っておる平家を追討に向かったことは知っておろうな」

「存じております」

「義仲に京都を追われた平家が、この短期間に摂津国まで勢力を盛り返してきたことは想定外じゃが、此度のこの戦いは、我にとっても、また朝廷にとっても、是が非でも源氏に勝ってもらわねばならぬ。」

「御意」

「もし源氏が負け、平家が再び京都に入って以前のような政治を行えば、我の院政は三度目の停止に追い込まれることは必定。院庁近臣であるそなたらはまた解官の憂き目に会おうぞ」

「恐ろしいことでございます。されど、今の源氏には勢いというものがございます。お上の大御心を痛める必要はございますまい」

「勢いならば義仲にもあった。されどかの者は平家が都落ちした後、その勢力を完全に滅することができなかった。此度の蒲冠者、源九郎は義仲を討った忠臣なれど、平家の本隊と戦うのはこれが初めてであろう。ゆえに余は心配でならぬのじゃ」

「ご懸念はごもっともかと」

「そこでじゃ。戦いは武士にしかできぬことなれど、戦い以外のことで我らが何か源氏の支援を行う手段はないものかと思うての。そなたを召したのじゃ」

親信は「恐れ多いことでござりまする」と再び平伏し

「されど、此度の蒲冠者、源九郎殿の出陣は、御上より平家追討の院宣を賜ってのこと。院宣はすなわち御上のご威光。これに優るものがほかにございましょうか?院宣を持つ者こそ官軍。武士どもはその官軍に身を投じてこそ、自身の栄達が望めるもの」

「さりとて、平家に心寄せる西国の武士にどこまで通じるものか.....」

法皇はすっと立ち上がり、外の景色に思いを馳せているようでした。
その姿を見た親信は

「孟子曰く、『天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず』と申します。天の時は時流を示します。これは今は源氏にありますが、戦いの場所は西国の摂津福原。鎌倉軍の兵は東国武士ですので不案内。よって地の利は平家にあると言えましょう。先ほどの孟子の教えの前段の『天の時は地の利に如かず』とは、勢いがあっても地の利がある方には叶わないということでござりまする」

と述べると、法皇は親信に振り返り

「すると、この戦いは平家に分があると申すか」

と詰問するような目で問いただすと、親信は「そうとも言えませぬ」とやんわりと否定し

「後段の『地の利は人の和に如かず』は、その地の利を覆すのが『人の和』であるという教えにござります。人の和とは文字通り人と人の和合・団結力でござりまする。ですが、一族としての団結力は身内争いのある源氏よりも平家が上でござりましょう」

「ふむ」

法皇は親信に先を促させるように首を突き出すと、元の着座に戻っていきます。
親信は言葉を続けます。

「よって、この戦いを源氏の勝利に導くには、平家一門の人の和を崩すことこそ肝要かと存じまする」

「修理、お主ならなんとする。」

「はい。私ならば、御上の御名を以って、源氏と平家の和睦を取りもちまする。」

この言葉に驚いたのは法皇です。なぜなら、法皇は自分の名前で範頼・義経に平家追討の院宣を出しているからです。自分で命令を下しておきながら自分でそれを和睦するなど、愚かすぎて策と呼べるものではないと法皇は思いました。

「御上の院宣は源氏に迫られて出したもの。御上の御心は三種の神器の返還ただ1つにおありのはず。であれば、先年頓挫した神器返還交渉を再開させることこそ御上のご本心」

「まぁ、間違いではない」
親信の意見を法皇は渋々認めました。

「その交渉再開のため、源氏に一旦矛を収めてくれと命じておるという内容の書状を平家に送るべきかと」

親信の発言の真意を得た法皇は目を丸くして、二の句が告げませんでした。

要するに親信は、法皇が平家と三種の神器返還交渉を再開させる考えになったため、源氏に停戦を命じたと平家に書状を送ることで、平家をペテンにかけ、彼らの臨戦態勢を弛ませようという考えだったのです。さすがの法皇もこれには驚きを隠せませんでした。

「修理.....お主は怖い男よのう......」

「地の利は人の和にしかず。すなわち、物事の最終的な帰結は人の和を崩すこと.....」

親信はそう言うと、深く平伏し

「御上、ご裁断を」

と言上つかまつりました。
法皇はしばし無言で考えましたが

「あいわかった。直ちに宗盛に書状をしたためる」

と言う座より立ち上がり、

「修理。ご苦労であった」

とだけ言って、広間を出て行きました。
法皇の退出とともに親信は頭を上げましたが、そこには決して笑顔はありませんでした。

翌2月6日早朝、藤原親信は、法皇の書状を持って平家本陣のある摂津福原に向かいました。
後白河法皇、一か八かの捨て身の賭けでした。

(つづく)
posted by さんたま at 00:43| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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