2018年02月19日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(87)-平教経の出撃-

西暦1184年(寿永三年)2月5日、鎌倉軍の源義経軍は、別働隊二万五千騎を率いて、丹波路(京都から大阪市北部を通り、兵庫県に抜ける道)を進み、一路福原を目指していたところ、途中の三草山(大阪府豊能郡能勢町)で義経を迎撃しようと陣を張っていた平家の小松家一門(資盛、師盛、有盛、忠房)と戦闘になり、火攻めで見事勝利を収めました。

敗北した資盛、有盛、忠房は屋島に逃亡しましたが、師盛のみが福原の平家本陣に戻り、三草山の先陣が破られたことを平家棟梁である宗盛に報告すると「そうか」と一言だけ答えました。

(源九郎.......ついにきおったか)

三草山の迎撃部隊が壊滅したとなると、必然的に福原の西方の塩谷口、北方の夢野口の援軍がなくなり、福原の守りが弱くなってしまいます。しかし、平家軍の主力部隊である知盛、重衡は鎌倉軍本体が向かってくるであろう生田方面に出兵していました。

(やむをえぬ)

「誰かある!能登殿の陣屋に使者を遣わす。誰かある!」

宗盛はそう言いながら、書院に入って行きました。

「能登」というのは、平清盛の異母弟・平教盛(従二位 権中納言)の次男である平教経のことです。
教経は武勇猛々しい武将で、合戦で一度も遅れをとったことのない剛の者と言われています。

教経は、この前年の西暦1183年(寿永二年)に備中国水島(岡山県倉敷市玉島)で起きた源義仲の軍勢と戦い(水島の戦い)で、義仲軍の足利義清海野幸広を討ち取り、平家の勢力回復に大きく貢献しています。また、西国での平家の武士たちの離反に対しても悉く討ち取るなど目覚ましい軍功をあげていました。

知盛、重衡が武将として戦の指揮能力に優れているのに対し、教経は一人の武士としての活躍に優れていました。

宗盛の要請に対し、本陣の宗盛の書院に赴いた教経でしたが、宗盛に会うまでは「何事だろう」と訝しんでいました。

「お召しにより、罷り越してござりまする」

教経は書院の外でひざまづき、頭を低くして参上の趣旨を伝えると、木戸が開き

「入られよ」

と促されたので、「御免」と言って、書院の中に入りました。

「戦支度ゆえ、このような格好での参上、何卒お許しを」

書院に入った教経は、また宗盛に頭を垂れると、宗盛は

「能登殿、役目大義」

とその労をねぎらうと

「鎌倉の別働隊が小松家の陣を破ったらしい」

と早速、三草山の戦いのことを告げました。
教経は狼狽し

「なんと......して、小松中将殿(資盛)らはいかがなされました?」

と問いかけるが、

「行方がわからぬ。福原に戻ってきたのは備中(師盛)だけじゃ」

と目線をそらして吐き捨てるように言い放ちました。

「ご無事であればよろしいが、案じられますな」

教経も神妙な面持ちになりましたが、宗盛はすぐに目線を教経に戻すと

「それはともかくとして、三草山が破られたとなると、山側の夢野口、さらには西側の塩谷口の備えが危ない。特に山側の備えは敵の来襲を知る上でも重要である」

「仰せごもっとも」

「その夢野口の守備をそなたにお任せしたい。行ってもらえないだろうか?」

宗盛の要請に教経の回答はすぐには出てきませんでした。
一瞬、間があった後、教経は

「恐れながら、内府殿にお聞きしとうございまする。なぜ私を遣わされるのですか?」

と伺いを立てられました。
宗盛は「何を言わんや」という表情で

「鎌倉の別働隊の大将は源九郎という頼朝の弟だそうじゃ。その若武者が小松家の四将を蹴散らしたほどの強者ぞ。知盛や重衡以外でこの任に耐えられるのは、平家家中ではもはやそなたしかおらんではないか」

宗盛がそう言うと教経は「あっはっはっは!」と声を立てて笑い

「さすがは平家一門の棟梁。荒くれ者には荒くれ者をということでござりますか」

と自嘲気味に言いました。宗盛は座を立って教経のそばまで向かうと

「鎌倉の別働隊が北方から来るか、西方から来るか、今はまだ読めぬ。だがそなたが行ってくれれば、ここにおわす帝(安徳天皇)も心静まるに相違ない。そなたとしては面白くないかもしれぬが、貧乏くじを引いたと思うてくれるな」

と教経を諭すように、言い聞かせるように言うと

「何を仰せになられまするか!そもそも戦いというのは、他人事では命賭けられませぬ。常に我が事、自分事と思うて戦いに望むからこそ、思う存分戦えるもの。あっちの方が手柄があげられそうだとか、こっちの方が敵が弱そうだとか言ってチョロチョロ動いていたら、勝てるものも勝てませぬ」

と気色ばんだので、宗盛はその気迫に圧倒され
「う......うむ」
と後込みました。

「この能登、平家一門の棟梁である内府殿がお望みであるなら、どこにでも行き、思う存分自分の戦いと思うて、戦ってきましょう。帝や女院様におかれましても心安んじられますよう、内府殿よりお伝えくだされ」

「ありがたい......ありがたく思うぞ。能登殿」

宗盛は教経に頭を下げると「もったいなや」と教経も頭を下げました。

「そうなると、我らが陣を固めるのはどなたになりますかな?」

「夢野口の守りとしては先鋒に越中前司盛俊。中軍はそなたと越前殿(教経の兄・平通盛)。そなたらには総勢一万騎をつける」

と言いながら、出陣要請の命令書を教経に渡しました。

「しからば、兄弟で武功は思いのままでござるな。恩賞はお覚悟なさりませ」

と言い、笑いながら教経は宗盛の書院を去って行きました。


教経は宗盛の命令書を盛俊、通盛の両名に伝え、自分の陣屋で支度を整えるように伝えました。やがて盛俊や通盛の郎党や兵が続々と集まり始めます。教経も自分の身支度を整え、自分の兵揃えを監督していました。

出陣の時刻となり、盛俊は整列して教経の下知を待っているのに対し、通盛の姿が陣屋から出てきませんでした。

「何をしているのだ、兄上は」

教経が怒って陣屋の奥の通盛の部屋に踏み込もうとすると、なんとそこには通盛の正室・小宰相の方がいたのです。さすがの教経も慌てて、板壁に隠れて狼狽しました。

通盛と小宰相は手を握り合って、

「今回の出陣で多分、私は生きては帰れないだろう。もし私が死んだら、そなたはどうする?」

と通盛の小宰相を労わる声が嫌が上にも教経に聞こえてきました。

「殿方はいつもそのようにおっしゃいます。都落ちの時はもうこれまでかと思っておりましたが、今や京都はもうすぐの位置。亡き相国様のお導きでございましょう。そのような時に不吉なことを」

と小宰相は取り合いません。さらに小宰相は

「それに、私にはもう1つの命を授かっておりますれば、この子を残して死ぬるなど許されませぬ」

と、自身が身籠っていることを通盛に伝えました。
その言葉に驚く通盛。そして板壁の向こうの教経。

「なんと......齢三十にして子を授かるか。産月はいつだろうか。船の上でのお産は大丈夫だろうか」

とあれこれ考えている通盛。そしてそれを見ながら微笑をたたえている小宰相。
板壁の教経は完全に居場所がありませんでした。

(この忙しい時に何をやっておるのだっ!!......しかし、もう出陣の時間は過ぎておるのだ。これ以上待ってはおれぬ)

教経は意を決して

「兄者!!!」

と大声をあげながら板壁の向こうからのっそりと出てきました。

「きゃあああああ!」
驚いた小宰相とそれを庇う通盛でしたが

「なんだ、能登ではないか。脅かすな!」

「時間になっても現れないから様子を見てくれば、北の方(小宰相)様とイチャイチャ......あー!もー!見ておられませぬわ!!」

「お前、見て、いたのか」

通盛は恐る恐る尋ねましたが、教経はそれには答えず、ズカズカと通盛に近づき、ドカッと座ると

「よろしいか!兄上。」

と、ものすごい剣幕で兄弟顔を合わせました

「今から兄上や盛俊とともに参る夢野口は、非常に強力な敵の軍勢が迫っているとのことで、恐れ多くも内府様直々にこの能登が大将を仰せつかったのですぞ。平家一門において比類なき武者の私が行くということが、どのようなことかお分かりか?。そのような厳しい戦場において、北の方様といつまでも名残を惜しまれているようでは、戦いの役には立ちませぬな!」

一方的にまくしたてられ、さすがの通盛も怒りが湧いてきたのか

「なんだと......それが兄に対する言葉か!」

「私の言葉を否定されるなら、態度で示していただきたいものですな!軍勢の士気にも関わってきますので」

負けじと教経も言い返します。
二の句が告げなくなったのは通盛の方でした。この場合、教経の方が正論だったからです。

「小宰相......船へ帰れ」

通盛はそう言うのが精一杯でした。
小宰相も状況を察してにっこり笑うと

「御武運を」

とだけ言って、供の者と共に陣屋を後にしました。
それを見ていた教経は

「良いのですか?兄上」

とたたみかけると

「よくもまぁ、ぬけぬけと」

と苦笑しながら通盛が言い

「しかし、私にあれだけの口を効いたんだ。落とし前はつけてもらうぞ、能登」

と睨みつけると、教経はにっこり笑って

「喜んで」

と言いながら頭を垂れました。

こうして、平通盛、教経、盛俊の三人は、福原の北方の夢野口を一万騎で守ることになりました。
しかし、この頃、同時進行で後白河法皇がまたしても陰謀を仕掛けようとしていたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 00:13| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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