2018年02月02日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(86)-小松家の呪縛-

西暦1184年(寿永三年)2月5日未明。丹波と播磨の国境にある三草山(大阪府豊能郡能勢町)の東に陣を張っていた源義経軍は、三草山の西に駐屯していた平家の別働隊・平資盛軍を夜討ちすべく、行動を開始しました。

しかし、この日は月明かりもなく、山中では夜目も聞きません。また気配を決して平家の陣に接近し、奇襲するのは相当難しく、進軍も思うようには進みませんでした。

義経は進軍を一旦止め、兵を一時休ませると、土肥実平、安田義定、中原親能らを呼び寄せ、再び善後策を協議します。

「正直、この進軍速度では夜明けまでに平家の陣まで行き着くかどうか微妙です」

義定が正直な意見を言いました。

「実際、今、我らが進んでいる方向さえあっているかどうか」

実平がため息混じりに言いましたが

「いや、方角はあっておる。それは私が天文を観じておるのだから間違いない」

親能が自信たっぷりに反論しました。

中原親能は、元は源雅頼の家人で、後白河院に使える文官でした。

しかし、母親が波多野氏で河内源氏(源頼義を祖とし、頼朝にまで連なる一族)に縁があったため、検非違使である平時忠(当時)の追求を受けることになり、その前に京都を出奔。鎌倉に下向して頼朝に仕えました。頼朝の命令で義経の上洛に同行。以前の京都の人脈を使い、朝廷や院、公家などとの調整役を担っていました。

「これは失礼いたしました。しかし、この暗さではなんとも心許ない。かといって、松明を灯すわけにはいきますまい。敵に見つけてくれと言っているようなものだ」

実平が親能に非礼を詫びつつも、現実的な部分で反論すると

「それだ」

と義経が初めて反応を見せました。

「九郎殿?」

「土肥殿。その案で行こう」

「え?......ここで、松明を灯すのですか?」

「このあたりは平家の荘園と聞く。であれば、山並みに連なるの家屋敷はほぼ平家の民のものと考えていいだろう。これを全て焼きはらうことで松明の代わりは果たせる。」

「なんと......」

さすがの実平もこれには驚きの声をあげました。

「火が燃え広がれば、平家の軍兵の士気を削ぐことにも連なろう。また火の勢いを借りて、我らの軍勢を二倍にも三倍にも見せつけられる.....」

「しかし、民を戦いに巻き込むのは......」

親能が義経の作戦に気乗りしない感じを醸し出すと

「では、焼きはらうのは家や屋敷のみ。そこに住まう民には一切手出ししてはならぬと言うことにしてはいかがでしょうか?」

という義経の反論に、親能は言葉が詰まりましたが、次の間に義定が「あっはっは!」と高らかに笑いをあげると

「これは通常の夜討ちとは全く逆の作戦じゃ。だが、これなら堂々と敵に近づけるわ。」

義定が手を叩いて義経の案を褒め称えました。

「ただ、この作戦は迅速が命ですぞ」

「承知」

九郎もニヤリと笑って義定の苦言を受け止めました。

「こうなると....」
「止む得ませんな....」

実平と親能は観念しましたとばかりに義経に一礼しました。

「では、方々、抜かりなく」
「ははっ!」

義経軍は兵に命じて、ありったけの火矢を三草山の麓や山並みの家や屋敷に放って行きました。軍勢が進むに連れ、少しずつ火が増えて行き、緩やかにあたりが見えるようになっていきました。

それと比例する形で義経軍は全速力で進軍を始めました。家や屋敷を焼いた火は山並みにも燃え移り、あたりの暗さは瞬く間に薄明るくなっていきます。

義経は、民の中にも平家に繋がりのある者もいるだろうと予測し、その者が平家の陣に駆け込むことを期待していました。民が平家陣に助けを求めて駆け込めば、混乱は必死だと考えたのです。そして平家の将たちが気づいた頃には、義経軍の仕掛けた「火計」巨大な火の勢いになっている必要があると考えてました。

ゆえに義経軍の進軍速度は以前の二倍近くの速さになっていったのです。

一方、三草山の西に駐屯していた平家軍は、完全に油断していました。
ここに駐屯していたのは、平資盛を総大将に、有盛、師盛、忠房の四将で、彼らは亡き重盛(小松家)の兄弟でした。

2月4日は亡き平清盛の命日であり、一周忌の法要の日でした。それゆえ「源氏も今日は攻めては来ない。戦いになるなら明日5日だろう」という想定だったのです。

その想定は間違いではありませんでした。しかし翌日の未明に「夜襲をかけてくる」という想定は、全くなかったのです。

山々に火が上がり始めると、平家軍もにわかに騒がしくなりました。それは、家や屋敷を失った民が次々と平家軍の陣に逃げ込んできたことで、ピークに達していきました。

最初は兵どもの諍いかと思っていた騒がしさがどんどん大きくなると、総大将である資盛も異常に気づき寝所から飛び出す事態に

「一体、何事なのだ!」

と言いながら陣から出ると、目の前に起きている状況に言葉が出ませんでした。
山々には火が立ち登り、兵たちが統率が取れず思い思いに逃げまどい始め、民たちが「助けてくれ」「家が焼かれた」と兵士たちに懇願しています。

「逃げるなー!これはただの火計じゃ!うろたえてはならぬ!守りを固めよー!」

資盛は総大将として兵たちに下知を与えますが、パニック状態の中、うまく伝わるものでもありません。
そんな中

「兄上!」

と資盛を呼ぶ声がしたので、振り返ると、そこには弟・師盛が駆け寄って来ていました。

「おお、師盛。有盛や忠房はどこぞ?」

と兄弟の安否を確認しようとしますが、師盛は

「そんなことはどうでも良いのです!。兄者、源氏の軍勢がこちらに向かって来ています」

「なんだと......」

「おそらく、山間の民の家、屋敷を焼き、火計を仕掛けたのも源氏の仕業かと.....」

師盛が悔しながら、そう言い、膝をがっくりと落としました。

「しまった......この私が兄上と同じような失態を.....」

資盛の兄・平維盛は、西暦1180年(治承四年)10月、大軍を率いて駿河まで進軍し、源頼朝・武田信義連合軍と対峙したにもかかわらず、偵察兵の水音と水鳥の音を源氏の攻撃と勘違いして、戦らしい戦をすることもなく、撤退を余儀なくされました。

今の資盛は、源氏が仕掛けた火攻めとも言える策略にはまり、民が陣中に入って来たために、軍の体制を崩され、そして今、まさにこの機に乗じて源氏の攻撃を受けようとしていたのです。

まさに「悪夢再び」です。

「これが、平家嫡流たる小松家の呪縛なのか......」

自らが置かれた状況を飲み込めない資盛でしたが、師盛が資盛の両肩をがっしりつかみ、

「兄者!しっかりなされよ!ご指示を!このままでは全滅だ」

と資盛を力の限り揺らし、指示を求めました。
資盛は、ハッと我に帰り、苦悶の表情を浮かべ、激しく歯切りしながらも、

「撤退じゃ......各々軍勢をまとめ、撤退させろー!」

と師盛に指示すると、師盛は膝まづいて一礼し、それを各将に伝えるべく、駆けて行きました。

数刻後、義経軍が全軍をまとめて平家の陣に乗り込んだ時、平家の大半の兵はすでに陣から撤退し、わずかに殿軍(後備え)が数百騎残っているのみでした。

2月5日の夜明けには、義経軍は勝ち鬨をあげ、一の谷の合戦の前哨戦に見事勝利したのです。

(つづく)
posted by さんたま at 20:18| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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