2018年01月29日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(85)-三草山の決断-

西暦1184年(寿永三年)1月29日、後白河法皇は、源範頼、源義経に三種の神器奪還を目的とした平氏追討の院宣を与えました。

三種の神器は、天皇の即位の正当性を示すもので、これらは平家一門が京都より西国に脱出した際、平家に強奪されたものでした。平家とすれば、神器が平家一門の手にある限り、彼らが擁する安徳天皇が唯一の天皇になり、後白河法皇の院宣の効力によって即位した後鳥羽天皇はニセモノという道理になります。

よって、法皇とすれば、平家の滅亡より三種の神器の奪還の方が大事なのです。

そしてこの段階の平家は、源義仲によって京都を追われた後、西国で勢力を盛り返し、数万騎を率いて摂津国まで押し寄せており、彼らの計画ではその年の2月には京都に再度攻め入る予定でした。

おそらく後白河院はその情報を何らかのルートでそれを知り、範頼、義経に平家追討の院宣を与え、平家を京都に一歩も入れない体制を作り上げたのだと考えられます。

そして範頼・義経らが京都を出発した後の同年2月2日、捕虜で唯一の義仲軍の将であった樋口兼光が斬首されました。

兼光を捕縛したのは児玉党という武蔵国の武士集団で、兼光とは縁がありました。なので児玉党は自らの勲功と引き換えに兼光の助命を申し出ましたが、義経が「その罪は決して軽いものではない」と裁断し、斬首となったようです。

2月4日 平家一門は摂津国福原に入り、亡き清盛の法要を行います。一方、範頼、義経は軍議を開き、開戦を2月7日に定めます。

この時の源氏・平家それぞれの主な勢力は以下の通りです。

【源氏本体:範頼軍】
源範頼(頼朝異母弟/蒲冠者)
小山朝政(下野国小山庄領主/藤原秀郷流)   
武田有義(甲斐源氏棟梁・武田信義の三男)
板垣兼信 (甲斐源氏棟梁・武田信義の二男)
下河辺行平(小山氏庶流)
長沼宗政(小山朝政弟)
千葉常胤 (房総平氏棟梁)
畠山重忠(武蔵国畠山郷領主/坂東平氏秩父氏庶流)      
稲毛重成(武蔵国稲毛荘領主)
榛名重朝(重成弟/秩父氏庶流)
森 行重 (重成弟/秩父氏庶流)
梶原景時(侍所所司/坂東八平氏梶原流)
梶原景季(景時嫡男)
梶原景高(景時次男)
相馬師常(千葉常胤次男/相馬氏初代)
国分胤道(千葉常胤五男/下総国分氏初代)
東 胤頼(千葉常胤六男/東氏初代)       
曽我祐信(相模国曾我荘領主)
庄 家長(武蔵国児玉党本宗家五代目)     



【源氏別働隊:義経軍】
源義経(頼朝異母弟/九郎)
安田義定(甲斐源氏/従五位下遠江守)
平賀惟義(河内源氏義光流)
山名義範 (河内源氏新田庶流/山名氏初代)
中原親能(元・源雅頼の家人、頼朝代官)
大河戸広行(大田氏庶流、三浦氏の親戚)
土肥実平(相模国足下郡土肥郷領主/坂東平氏中村氏庶流)    
三浦義連(相模国三浦郡領主/坂東平氏三浦氏庶流)
糟屋有季 (相模国大住郡糟屋荘領主)
平山季重(武蔵国多西郡舟木田荘平山郷)
熊谷直実(武蔵国熊谷郷領主)
熊谷直家(直実嫡男)
田代信綱(頼朝代官)



【平家勢力】
平宗盛(平家棟梁/清盛三男/従一位/内大臣)

平教盛(清盛異母弟/従二位/権大納言)
平忠度(清盛異母弟/正四位下/薩摩守)

平知盛(清盛四男/従二位/権中納言)
平重衡(清盛五男/従三位/左近衛権中将)
平清房(清盛八男/淡路守)
平清貞(清盛養子)

平資盛(小松家/重盛二男/従三位/右近衛権中将)
平有盛(小松家/重盛四男/従四位下/右近衛権少将)
平師盛(小松家/重盛五男/従五位下/備中守)
平忠房(小松家/重盛六男/従五位下/丹後守)

平通盛(教盛嫡男/従三位)
平教経(教盛二男/正五位下/能登守)
平業盛(教盛三男/従五位下/蔵人)

平経正(経盛嫡男/正四位下/但馬守)
平経俊(経盛四男/従五位下/若狭守)
平敦盛(経盛六男/従五位下)

平知章(知盛嫡男/従五位上/武蔵守)

平盛俊(平家家令・平盛国の嫡男/越中守)


まさに源平の総力戦ですね。
範頼・義経の両名が兵を率いて、摂津に向かっている時、平家側では対源氏への備えとして、福原の東である生田(兵庫県神戸市中央区下山手通)と西の塩屋(兵庫県神戸市垂水区塩屋町)、北の夢野(兵庫県神戸市兵庫区夢野町)に砦を築いていました。

また、この時の平家の諜報網はかなり優秀で、別働隊の義経が丹波路を通って東の生田側に出るであろうことは読まれており、すでに三草山(大阪府豊能郡能勢町)に、平資盛・平有盛・平忠房・平師盛を大将とした軍勢が三千騎展開していました。

4日京都を進発した義経軍はその日の夕刻までに三草山の東に到着して陣を張った義経は物見(密偵)を放って、周囲の状況を調べさせたのですが、義経の陣から三草山の平家軍との間にはわずか12km程度しかなかったのです。

これを知った義経は直ちに土肥実平を呼び寄せ

「ここから三里ほど西方の三草山の麓に平家軍が展開しているらしい。その数、およそ数千騎。この距離なら夜討ちを仕掛けられる。今夜夜討ちをかけてこれを一掃すべきか、それとも夜明けとともに不意を打つかどうしたものかだろうか」

と問いました。

「はてさて、判断の難しいところでございますな」

と実平も唸っていたところ

「恐れながら」

と義経の側に控えていた田代信綱が膝まづきながら進言しようとしました。
田代信綱とは、頼朝の挙兵当時から付き従っている古参の武士で、伊豆の前の国司・藤原為綱と伊豆国最大の武士・工藤茂光(石橋山の戦いで討ち死)の娘との間にできた子供でした。

「田代冠者殿、何か」

義経が先を促すと

「ここで時間をかければ、平家の軍勢ますます集まる可能性もあります。また、ここ三草山の周辺は平家の荘園が多く、すでに地の利は敵方にございます。しかし、敵が数千騎であれば、我らは数万騎。数の上で我らが有利。五分五分のこの状況を覆すのは夜討ち以外にはないと考えまする」

と進言されたので、

「さすがは田代冠者。あっぱれな御決意じゃ。」

と実平も賛同の意を表しました。

「しからば土肥殿」

義経は再度、実平に考えを伺うと

「このような血気に水を指すわけにも参りますまい。早速夜討ちと参りましょう」

と笑いながら陣を出て行きました。

一の谷の戦いの前哨戦とも言える「三草山の戦い」が始まろうとしていました。

(つづく)
posted by さんたま at 13:25| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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