2018年01月23日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(84)-後白河院政・三度目の復活-

西暦1184年(寿永三年)1月20日、朝廷・院を制圧し、京都を実効支配していた源義仲は、鎌倉より派遣された源範頼・義経軍約五万五千兵と宇治川付近で戦闘になり、大敗しました。

義仲自身は京都を脱出し、北陸に向かう途中、近江国粟津(滋賀県大津市)で腹心の今井兼平と合流しましたが、甲斐源氏・一条忠頼の手の者に見つかり、あえなく討ち死となりました。

今井兼平は義仲の死を見届けると自害して果て、そしてその翌日、河内国に別部隊を率いていた樋口兼光が京都に戻ってきて、京都市内で戦闘になり、捕縛されています。
これにて義仲の勢力は京都から完全に一掃されました。

義仲に幽閉されて院政を停止されていた後白河法皇は、範頼・義経軍によって救出され、義仲が討たれたことを知るや、即座に院政の復活を宣言し、21日には公卿義定(会議)を開催しています。

この義定での議題は大きく3つあったようで

1、平氏の手にある三種の神器は今後どうするのか、
また、追討を送るだけでなく公家の者を副使としてつけるべきか

2、今回の頼朝の行賞をどう考えるのか

3、頼朝の上洛を求めるのかどうか


まず三種の神器の件については「宝剣・神鏡の安全を考えると武力追討はせず、使者を送って説き伏せる方策が良い」という意見がありましたが、後白河院の近臣である藤原親信(参議)、そして義仲のクーデターによって解官された元・院近臣である藤原朝方平親宗(平時忠の異母弟)らが強い平家討伐を主張し、これを「法皇の本心」と会議で述べたため、対平家への本格的な武力討伐に向けて舵が切られ始めました。

これについて、右大臣・九条兼実は「玉葉」で

「小者が法皇様に近づき、ロクでもなことを吹き込むから国家が乱れる。本当に国を思って言ってるのか、あいつらは」

と散々にこき下ろしています。

しかし、この時期の平家は西国で兵の募集に成功し、また水島の戦いで義仲を、室山の戦いで源行家を敗ったことから、士気も勢いも盛んで、その勢力は京都近くの播磨国(兵庫県)にまで迫っていました。

院や朝廷は、このまま平家が京都に乗り込まれることは何としても避けねばならない上、平家が京都に入れば再び院政が停止されるのは間違いなく「武力征伐あるべし」という意見は、決して間違ったものではないと考えられます。

また、法皇は義仲の意向によって後鳥羽天皇の摂政に就任していた松殿師家(元関白・松殿基房の嫡男)を22日に解任し、同日付けで近衛家当主・近衛基通が摂政に復帰。同時に藤氏長者の宣下を受けています。

これ以降、松殿師家が歴史の表舞台に出てくることはありません。

また松殿家もこれ以後、五摂家に準じる家格でありながら、歴史の表舞台に登場することはありませんでした。
なんとも悲しい話です。

同月26日、源義仲、今井兼平、根井行親、楯親忠の首と、捕らえられた樋口兼光の身柄が鎌倉軍の源義経から京都の検非違使(京都県警本部長)である藤原光雅に引き渡され、七条河原に晒されました。

同月27日、源範頼、源義経、安田義定(甲斐源氏)、一条忠頼等の飛脚が鎌倉に届きました。その内容は義仲との戦いの内容を報告する書状でした。京都を発した日数から逆算すると、この時代の飛脚は京都から鎌倉まで約六日かかってたわけですね。

頼朝は大倉御所の書院でその書状に目を通すと

「範頼と義経は見事、役目を果たしたようじゃ」

と言いながら書状を側近の安達盛長に手渡しました。

「それは祝着。では、木曽殿は」

言いながら書状に目を通そうとする盛長ですが

「うむ。近江国粟津の松原の近くで討ち死にとある」

と答え、頼朝は別の書状を開きました。

「一時は院も朝廷も支配した御方が、なんとも寂しい死に方でございますな」

「支配した者だからかもしれん」

「は?」

「わしは思うのじゃ。この世には侵して良い領域と侵してならぬ領域がある。その侵してはならぬ領域に踏み込んだ時、天はその者を罰するのじゃと。朝廷を手中に収めるのはともかく、院を武力で制圧することなど狂気の沙汰よ。かの相国入道(清盛)と同じではないか。それゆえ、平家は京都を追われた。」

と言いながら、頼朝はまた別の書状を開きました。

「では、殿は木曽殿の死は天罰とお考えで」

「木曾冠者が京都から平家を追い払った時は数万騎の味方がいた。それはその時の情勢が木曾冠者を求めたからじゃ。しかし、届いた飛脚の書状を見る限り、此度の戦で木曾勢力は千にも満たない勢力だったという。多少誇張はあるとしても万ではなかったろう。それは与力をしていた武士どもが木曾冠者を見限ったからじゃ。これぞ天の配剤ではなかろうか」

「なるほど」
盛長は頼朝の分析にうなづきながら、頼朝が読み終えた書状を片付けていました

「それにしても.....どいつもこいつも端的な報告しかよこして来ぬ。わしが知りたいのは勝ち負けの結果だけではないのだ」

頼朝は最後の書状を呆れたように放り投げると、深いため息をつきました。

「御免」

その時、侍所別当(長官)・和田義盛が御所に入ってきて、一通の書状を頼朝に差し出しました。

「先ほど新たな飛脚が到着しました。梶原平三(景時)の書状にござります」

侍所所司・梶原景時はこの時、範頼軍の軍監として従軍しておりました。なお、嫡男・景季は義経軍に加わり、御所の法皇をお助けするのに功をあげております。

「何、平三の?」

頼朝は義盛に手を向けると、義盛は膝まづいて、書状を頼朝に掲げました。

そこで頼朝は、目を見張らんばかりの文章を目にしたのでした。

範頼、義経、忠頼の書状は、端的に戦の勝ち負けや自分がどれだけの功績があったのかなど、手柄の自己自慢に近いものがありました。

しかし、この時の景時の書状は、戦前の軍議の内容、本体、別働隊の兵力とそれぞれの主な武将の配置、そしてそれぞれの軍功などが非常に細やかに記されており、義仲最期の状況や、一条忠頼の郎党が義仲を仕留めたなどが克明に記されていたのです。

「これは......」

そう言ったまま頼朝は二の句が告げませんでした。
それぐらい見事な詳細な報告書だったのです。

「殿、いかがされました」

義盛が頼朝の様子を訝しむと、頼朝はニヤリと笑い

「小太郎(義盛)。あの者を侍所の所司にしたのは間違いではなかったな。」

と言って書状を義盛に返し、座所に戻って行きました。

「これほど細やかな書状をわしは見たことがない。ようやくわしの知りたい内容の報告書が届いたぞ。それにしても我が一族の報告能力の乏しさときたら、なんとも悲しいことじゃ」

と、また深いため息をつきました。

それから数日後の、西暦1184年(寿永四年)1月29日、後白河法皇は鎌倉殿名代である範頼、義経両名に平家追討の院宣を下します。ついに鎌倉軍が西国に向けて動き出すことになるのです。

(つづく)
posted by さんたま at 17:06| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: