2018年01月14日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(83)-義仲最期の戦い-

西暦1184年(寿永三年)1月20日、鎌倉軍は総大将・源範頼率いる本体三万五千騎が、勢多の唐橋(滋賀県大津市)今井兼平率いる五百騎と戦闘に入り、その間に源義経率いる別働隊二万五千騎が宇治に周り、源義広(志田三郎先生)・根井行親・楯親忠率いる300騎と戦闘に入りました。

しかし、根井行親・楯親忠の二人は義経軍に討ち取られ、源義広は逃走して行方知れずとなっていました。
また、今井兼平の軍勢も範頼の軍勢を押しとどめることはできず、陣を破られて散り散りになっていました。

京都に入った範頼・義経軍は、六条の仙洞御所に幽閉されていた後白河法皇を救出し、院庁を義仲の手から奪い返しました。

この後、範頼は自身の率いていた約三万騎は京都市外に駐屯させたため、義経軍が主体となって御所の警護に当たりました。これは、一度に五万を超える兵が京都市中に入れば、京都の食糧事情を一変させかねない恐れがあったためと言われています。

一方、義仲勢は山科(京都市山科区)から大津(滋賀県大津市)を抜けて瀬田を目指していました。瀬田を越えれば一路北陸への道が開けます。しかし、京都の六条を出てから、休まず駆け続けていたこともあり、粟津で一時の休息をとります。

兵馬を休め、休息をとりながら、この状況の変化について、義仲は考えていました。

義仲は、西暦1180年(治承四年)に信濃で兵を上げ、平家の代官を討ち、越後の国司である城氏も滅ぼして信濃・越後の二国を手中に収めました。

しかし、叔父である源行家源義広を保護したため、鎌倉の頼朝と対立してしまい、嫡男・清水冠者義高を人質に出して和睦をし、西に兵を進め、北陸の平家勢力を駆逐することに専念します。

西暦1183年(寿永二年)5月、平家がその持てる力全てを平維盛に託して戦った倶利伽羅峠の戦いで維盛を駆逐し、信濃、加賀、能登、越前、越中、越後を支配し、その勢いで近江に進軍。7月、比叡山を味方にし、数万騎の戦力で京都に入り、7月、ついに平家を京都から駆逐させました。

ここまでが義仲の最盛期だと思われます。

しかし義仲はその後、自軍の統率に失敗し、兵士の乱暴狼藉を取り締まることができず、京都の治安を著しく悪化させました。たまりかねた法皇は義仲に平家追討の院宣を与え、義仲を西国に追いやると、鎌倉の頼朝と連絡をとるようになります。

西国での義仲の戦績は決して良くはなく、水島の戦いで敗北し、瀬尾兼康の謀反等もあって兵力を著しく減らしてしまいます。そして法皇の暗躍をした義仲は急ぎ京都に戻り、ついには武力で院庁を制圧。後白河院政を停止に追い込みました。

ここを院と朝廷を手中に収めた義仲の絶頂期とする人は多いですが、この時点で義仲はこれまで味方にしていた諸氏の離反を招いており、五、六千騎あった義仲の兵力は千騎足らずまで減っていました。ゆえにこの時を境に勢力は縮小していたと考えます。

(ワシは京都から平家を追い出し、院や朝廷を安定させ、天下の権利を握った。しかし、清盛のように院や朝廷を意のままに操ることはできなかった。その知恵と策略がなかった。しかし、法皇様のなさりように我慢がならず、武力で院を制圧した。あれからだ、味方がどんどん減っていったのは。あれが全ての間違いであったか......)

義仲は自らの不器用さと知恵のなさを悔いるしかなかった。
そんな時に、周辺の茂みがガサガサッと音がしたため、義仲軍はすぐに臨戦体制をとりました。しかし、そこに見えたのは

「そなた......四郎。今井四郎ではないか!」
「殿。ご無事でございましたか」

茂みから見えた顔は、勢多の唐橋を守っていた今井兼平でした。
義仲は嬉しさのあまり駆け寄って、兼平の体をなんどもバンバンと叩きました。

「お主こそ、よく無事だったな」

「申し訳ございませぬ。相手が万を超える大軍ではいかにしても防ぐことができず、唐橋を突破され、残存兵力をまとめて京都に戻ろうとしたところ、ここに休息中の軍勢があると聞き、もし鎌倉勢なら行きがけの駄賃代わりに刺し違えようかと思った次第で」

「そうだったか」

「殿がご無事なら、このまま北陸へ退き、信濃の兵を募って再度京都へ攻め登れます」

「ワシもそう考えた。しかし先ほどから鎧が重くてかならん。どうやら気力も萎えてしまったようだ。苦楽を共にした根井四郎(行親)も楯六郎(親忠)を失ったこともある。」

義仲はそう言いながらため息をつきました。
行親と親忠の討ち死に知った兼平は瞑目しながら

「そうですか......。殿が鎧を重く感じられるのは、たった一人で落ち延びようとなされているからでしょう。これより先は四郎がお側についてございます。まだ矢も幾つかございますので、敵が現れたら四郎が楯となって殿をお守りします。この先は粟津の松原と呼ばれている場所がございます。そこでお覚悟なされませ」

と義仲に自害を諭しました。
しかし

「わし一人おいてそなたまで行くのか。たった今、側にいると申したではないか」

と義仲は一緒に死ぬことを兼平に望みますが、兼平は地に膝を着いて平伏すると

「どれだけ名誉を得たとしても最後の死に様が無様では、後世に汚名を残します。また、天下無双の木曾義仲が名もない雑魚に首を取られては、信濃源氏の名折れにございます。ゆえに、誰の手にもかからないようにこの四郎が敵を防ぎますので、殿は早く松原へ落ち延びを。そしてそこで御最期を」

と平伏して義仲を諭します。

「わかった。敵が来たらそのようにとりはかろう。今はこの再会を喜びたいのじゃ」

と義仲が兼平に立ち上がらせようとした時、
また茂みの中がガサガサという音がしました。
兼平が「まだ味方がいたのか」と思ったところ、そこに現れたのは白旗を掲げた源氏の兵だったのでした。

源氏方馬上の武将が

「そこにいるのは木曾冠者殿とお見受けするが」

と声をかけたのに対し、

「そういうそこもとは?」

と返す義仲。

「甲斐源氏・武田信義が一子・一条次郎(忠頼)」

その名乗りを聞いた瞬間、兼平は馬に跨り、

「殿!ここは私任せて先を急がれよ!」

と声をあげると、兼平に付き従っていた兵が即座に迎撃態勢をとりました。

忠頼は

「やはり木曾殿だったか。者共かかれっ!絶対に逃すな!」

と兵に下知をし、騎馬兵が兼平の手勢に攻めかかっていきました。

「殿を絶対に敵の手にかけるな!」

兼平も刀を抜いて指揮をとりながら自らも馬上で応戦します。
その姿を見ていた義仲は、馬に乗り、松原に向かって駆け始めたところ、なんと馬が沼のぬかるみにはまって身動きが取れなくなりました。

「うわ!これはしまった.....」

義仲は沼から脱出を図ろうと、左右に馬を振り向けますが、馬は完全に沼に足を取られていました。

忠頼は義仲の馬が動けなくなっていることを見て取ると

「騎馬隊は今井四郎の軍勢を左に押せ」

と指示をした後、

「弓隊!我に続け!」

と声をあげて自らの馬に檄を与え、義仲の沼の方に向かわせました。
沼の中でもがく義仲を発見すると

「弓隊、構え!」

と十人の弓使いが弓に矢をつがえて構えさせました。
そして

「木曾殿......お覚悟!」

と声を上げた瞬間、義仲は振り返り、顔を忠頼に向けました。
忠頼はその瞬間を逃しませんでした。

「放て!!」

と号令が下った瞬間、十本の矢が義仲めがけて飛んで行きました。
十本のうち、一本が義仲の背中、一本が右の太もも、そしてもう一本が義仲の眉間に命中します。

義仲はそのまま両手がだらんと下がり、上体のバランスを崩すとそのまま、頭から沼に向けて落馬しました。

その物音を聞いた兼平は振り返り、義仲が討たれたことを見届けると

「もはや是非もなし、源氏の者共よく見よ!これが日本一の武士の自害の様よ!」

と刀を口の中に入れ、そのまま飛び上がって落下、地面に叩きつけられた瞬間、口に入れた刀は兼平の脳天を直撃し、絶命しました。


河内源氏棟梁・源義朝の弟・義賢の子として生まれ、信濃源氏を束ねて挙兵し、越州、加賀、信濃を勢力下に収めて京都を目指し、京都から平家を追い出した麒麟児・源義仲。一条忠頼の郎党により討死。享年三十一。

そして義仲四天王の一人で常に義仲を支えた第一の腹心・今井兼平、自害。享年三十三。

義仲討死の報は翌日21日、範頼、義経、それぞれの陣に伝えられました。
そして同日、義仲四天王の一人で河内国の源行家を攻めていた樋口兼光が、京都の異変を聞いて急ぎ戻ってきたところ、義経軍と戦闘になっています。しかし、この時の兼光の手勢はすでに二十騎足らずであり、もちろん義経軍の敵ではありません、あっさりと捕虜として捕らえられました。

ここに義仲の勢力はほぼ潰えたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 23:40| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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