2018年01月03日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(80)-疑惑-

西暦1183年(寿永二年)12月、京都は法住寺合戦で勝利を得た源義仲の支配下に組み込まれ、朝廷を意のままに支配し、ついには鎌倉の源頼朝を朝敵に仕立て上げました。

また、同じ頃、法皇の密使が近江国某所で源義経と出会い、義経が鎌倉に早馬を出したことで、義仲の朝廷への謀反は頼朝の知れるところとなります。

(事態は予想以上に早く動いているな。先発隊の九郎(義経)に与えた兵力はわずか500騎にすぎぬ。これで義仲と戦争はできぬ....早急に手をうたんと)

義経の早馬を受けた頼朝は、京都の事態がもう猶予のない状況になっていることをヒシヒシと感じ、すぐさま事態打開のため、自らの政務所である大倉御所に主だった御家人に招集をかけました。

頼朝に召された御家人は

和田義盛(侍所別当<長官>)
梶原景時(平三/侍所所司<長官補佐>)
上総広常(上総権介/房総平家棟梁)
千葉常胤(広常従兄弟/下総権介)
北条時政(頼朝舅)
北条義時(小四郎/時政嫡男)


たちでした。

頼朝は集まった御家人たちの前に、義経からもたらされた早馬の内容を伝え、鎌倉としてどう動くかを諮りました。

「事は一大事、すぐにも九郎殿に援軍を差し向けるべきかと存じます」

侍所別当の和田義盛がそう意見すると、「和田殿の仰せの通り」と梶原景時も同心しました。

「今現在、京都に派遣できる兵力はいかほどになるか?」

頼朝の問いに景時は

「ざっと、十万は固いかと」

と答えると、

「いやいや、十万もの兵が鎌倉を離れるのは、少々危険ではなかろうか?我ら東国を支配したとはいえ、常陸、上野、下野の安定にはまだまだ時間が必要じゃ。鎌倉の兵が京都に出兵したと聞けば、にわかに反乱が勃発するかもしれん」

と上総広常が反対意見を述べました。

「しかし、木曽殿の横暴をこれ以上見過ごしては、法皇様のご心痛、ただならぬことかと存じまする」

景時が広常に理解を求める意見をさらに述べましたが、広常はそれを意に介さず、頼朝に向き直り

「鎌倉殿に申し上げまする」

と、一礼しました。
これに対し頼朝は

「良い。申せ」

と先を促すと

「先の富士川の合戦の折り、鎌倉殿はこのまま京都に進軍しようとしたのを、それがしと千葉殿でお諌めし、ここ鎌倉を拠点として、東国の足固めを行うのが肝要だと申し上げました」

と述べました。

「いかにも」

頼朝はさらに先を促します。

「そのあとの金砂の戦いにおいて、常陸佐竹氏を下し、鎌倉殿の勢力は、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸にまで及び、今は甲斐源氏の武田殿(信義)と連携して駿河、遠江、甲斐、三河まで支配しておりまする」

「さよう。それゆえ、先般、御上(法皇)より、東国、東海道、東山道の行政執行権を得るまでになった。」

この時の頼朝は、後白河法皇から、関八州、東海道諸国の年貢収入の納付等における行政執行権を与えられていました。これは名実ともに頼朝を東国・東海の支配者として朝廷が認めた証でした。

「さりながら、それは鎌倉殿や我ら東国武士の望む姿であろうか?」

「上総殿、御上に対してなんという......お言葉が過ぎましょうぞ」

景時が広常の無礼を窘めようとしましたが、

「黙らっしゃい!。何が無礼か?。今の鎌倉殿は、御上といえども自由に朝廷の手足にすることはできぬ。ましてや、御上が木曽の山猿に幽閉されているならなおことじゃ」

「上総(広常)、何が言いたいのじゃ」

頼朝が広常に言いたいことをはっきり言うように迫りました。
広常は手を床につき

「恐れながら申し上げます。鎌倉殿は我ら東国武士の主であって、御上(法皇)や主上(天皇)の北面(北面の武士/院の護衛)ではございますまい。つまり我々の活動は誰にも阻むことはできぬのです。にもかかわらず、何故、鎌倉殿は院や朝廷にそこまで気遣われるのか」

「なるほど。上総(広常)は私が御上の命令に従って兵を出すのが不満か」

「いかにも。我らが兵を出す時は、我らの意志で出すべきでござろう。先般、九郎殿につけた500騎のように」

広常の意見はここで終わりましたが、彼の意見に賛同の声も否定の声を上がりませんでした。

頼朝が東国に揺るぎない支配体制を構築したのは事実ですが、それはあくまでも実力行使によるもので、いわば「実行支配(横領)」にすぎませんでした。おまけに頼朝は罪人でしたし。

罪人であった頼朝の地位を解官前の従五位下に復位させ、東国、東海道、東山道の行政執行権を認めたのは、後白河法皇でした。よってこの時点の頼朝の社会的地位の拠り所は間違いなく後白河法皇でした。

ところが、上総広常、千葉常胤ら総州(千葉県)の東国武士たちは、頼朝を盟主と仰ぎ、頼朝を中心とした武家の政府を望んでいたのです。ここに頼朝と東国武士との間に溝ができつつありました。

この日の寄り合いでは、法皇の求めに応じて十万の兵を出兵すべきという和田義盛、梶原景時に対し、京都の都合で出兵するのは止めるべきという上総広常、千葉常胤の意見が対立し、妥協点が得られず、結論が出ませんでした。

頼朝は合議を打ち切り、後日改めて議論することで散会させましたが、その日の夜、密かに梶原景時を御所の自分の書院に呼び寄せました。

「昼間の上総(広常)の意見だが」

頼朝からいきなり話を切り出された時、景時は酒を吹き出しそうになりました。

「平三(景時)はどう思ったか?」

景時は杯を一気に飲み干して、膳に戻すと、一歩下がって平伏しました。

「恐れながら、この鎌倉に武士の手による政府を作りたいという志は、それがしも上総殿と同じでございます。」

「うむ」

「また、上総殿、千葉殿は富士川の合戦を勝利に導かれた立役者であり、ご両人がいるからこそ、鎌倉並びにこの御所が今ここにあります。その恩義は重々承知しているのですが......」

頼朝は座を立って、縁側に向かって歩き、月夜を見上げながら言いました。

「御所や御家人制度もでき、その統率機構である侍所もできた今となっては、すべての御家人は別当と所司によって統率されなくてはならない。」

「御意」

「しかし上総(広常)は、事あるごとに自分は富士川の合戦の勝利の立役者という自負があり、それゆえ、小太郎(義盛)や平三(景時)を新参者と軽んじているところがあるようじゃ」

「さすがに、そのようなことはないかと思いますが」

景時がそう言った時、頼朝が再び座に戻ってきました。
景時は手を床について、頼朝の言葉を命を待ちました。

「平三、上総の真意、見極めてはくれまいか」

「は?」

景時は思わず、顔をあげてしまいました。

「鎌倉に、朝廷とは独立した武士の都を作りたいという気持ちはワシも同じじゃ。じゃがそれには時を待たねばならぬ。現在「侍所」が御家人を統率する機関として機能し始めているが、鎌倉の民の政治を行う機関、また民同士の揉め事を解決する機関などを整備しなくては、新しい都とは言えぬ。」

「御意」

「そのためには今のところ、あくまでも今のところの話じゃ。院や朝廷とはうまくやって行かねばならぬ。合わせるところは合わせ、妥協すべきところは妥協する。そういう駆け引きが必要な時期なのじゃ」

「はっ」

「しかし、上総があくまでも院や朝廷とは決別し、東国は東国のみで運営できれば良いという考えであった場合、これは我らの支配機構の目指すところとは異なってしまう。」

「それをそれがしに判断しろとおっしゃいますので?」

「やれるか?」

景時は顔を下に向け、しばらく考えていましたが

「判断後の処置はいかに?」

と頼朝に問いかけると

「平三に任せる」

と頼朝は即答しました。
これを聞いた平三は

「仰せの義、承知つかまつりました」

と言って、その場に深く平伏しました。

(つづく)
posted by さんたま at 01:42| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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