2017年12月31日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(79)-義仲の朝廷工作-

西暦1183年(寿永二年)11月28日、後白河法皇を五条内裏に押し込めて幽閉し、関白・松殿師家を傀儡として朝廷を牛耳った源義仲は、前関白・近衛基通の旧領を自分のものとし、さらに院近臣を中心として49人の公卿を解官(クビ)しました。

解官された中には、法住寺西門で義仲と戦って撤退した平知康(検非違使・左衛門尉)の名前もありました。

これによって後白河院はまたしても手足をもがれ、院政停止に追い込まれたのです。
しかし、したたかな法皇はこんなことでへこたれたりする人ではありませんでした。このドサクサに紛れて、大江公朝(宮内判官)藤原時成(左衛門尉)に密命を与え、近江付近に止まっている義経へ「義仲反逆を伝える使者」として遣わしていたのです。

同年12月1日、源義経は伊勢国(三重)で二人に面会し、急ぎ鎌倉へ飛脚を飛ばしています。その飛脚によって義仲の反逆は鎌倉に知れるところとなります。

また同日、義仲は「左馬頭 兼 院御厩別当」に就任します。
「左馬頭」は京都の兵馬の管理責任者で、「院御厩別当」は院の兵馬管理責任者なので、義仲は京都並びに院の兵馬権を手に入れたことになります。

京都の兵馬権を手に入れた義仲が次にやるべきことは、近江近辺まで迫っている鎌倉軍(義経)への備えを固めることでした。

ここで義仲は、とんでもない考えを思いつきます。
それは「平家との和睦」でした。

この当時、義仲も法皇も鎌倉軍の兵力は正確にはつかめていませんでした。九条兼実の日記「玉葉」には鎌倉軍は約二万の兵という記載がありますが、実際は500騎程度の偵察隊にすぎませんでした。ですが、義仲はそれを知りません。

兵力がわからない相手に戦いを仕掛ける際にもっとも気をつけなくてはならないのは、後方からの襲撃です。

鎌倉軍は義仲の支配する京都の東側にあり、そして京都の西の播磨国には勢力を盛り返した平家の軍勢が迫っていました。つまり義仲としては、鎌倉軍の戦っている最中に、後ろから平家に攻撃することだけは避けたかったのです。

12月2日、義仲は早速、平家に和睦の打診を行います。残念ながら、この和睦の申し入れは不調に終わります。
その原因は、去る11月29日に、後白河法皇の院宣を以て出兵した源行家の軍勢500騎が、播磨国室山(兵庫県たつの市)平知盛・重衡軍と合戦となり、行家が大敗を喫したからです。


「京都まであと一歩のところまできている我らが。義仲と和睦したところで平家になんのメリットがあるのか。そもそも我らを京都から追い出したのは義仲本人ではないか。よくそんなことが言えたものよ」


平家の心情としてはこんなところでしょう。
同年12月5日、平家から和睦拒否の連絡を受けた義仲は、その原因が行家の戦いにあることを知ると

「あのクソ叔父御め!ホントに余計なことばかりをしくさって!!」

と大激怒していたのだと思います。

しかし、平家との和睦が不調に終わると、義仲は気持ちを切り替え、自ら西国への出兵の意思を固めます。しかし、自分のいない間にまた法皇が勝手に動かれてはたまらないので、法皇を北国にお連れして北陸で勢力を回復させ、再度京都に攻め入って平家もろとも討ち滅ぼす計画を立てていました。

この計画の顛末の記録は見当たらないのですが、「玉葉」によれば義仲が西国へ出陣する際は、法皇も従陣する方向で調整が付けられたようではあります。

そして12月10日、義仲は法皇に「頼朝追討」の院庁下文(院の公式の命令書)の発給を求め、自らの「官軍」化に成功します。この頃、延暦寺、園城寺らのいわゆる「法皇派仏教武闘派勢力」が密かに義仲に対し、反旗を翻ししていたことと無関係ではないでしょう。「玉葉」によると12月12日には延暦寺の僧兵たちが京都市中に攻め入る行動とっていたようです。

自らを官軍化した義仲は、さらに対頼朝に対する朝廷工作を進めていました。
同月15日、法皇は奥州藤原氏の棟梁・藤原秀衡に対し、陸奥・出羽兵のを兵を率いて、鎌倉を攻めろという院長下文を下します。要するに、秀衡に対し、鎌倉の頼朝の背後を牽制しろという命令書ですね。

しかし、秀衡は義仲より一枚も二枚も上手でした。京都の情勢を確実に掴んでいた秀衡は、この院庁下文が義仲の求めによって法皇が出したことをわかっていました。それゆえ、源氏・平家どちらにも加担することなく中立を崩すことはありませんでした。

また同日(15日)、義仲は法皇より「征東大将軍」という東国征伐の最高司令官としての地位を手に入れます。
これをもって、義仲の朝廷工作を終わります。

法皇を幽閉して院政を停止に追い込み、自らを官軍化し、さらに頼朝追討の院宣を得て、さらに東国の武士をしたがえる大義名分まで得ました。やれることはすべてやっていたと言えるでしょう。

ところが、武力をもって強制的に院政停止に追い込み、朝廷を我が物にする義仲の振る舞いは、これまで義仲に協力してきた諸将の心を離してしまう皮肉な結果になってしまいました。

また、同じ頃、鎌倉でも頼朝の支配を揺るがす、不穏な動きが生じていたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 23:50| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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