2017年11月07日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(76)-法住寺合戦・開戦-

西暦1183年(寿永二年)11月17日、院庁である法住寺を要塞化し、美濃源氏・土岐氏摂津源氏・多田氏を味方につけ、自勢力を作り上げた策謀家・後白河法皇は、ついに源義仲に最後通牒を突きつけました。

「平家討伐のため西国に向かえとこれまでなんども言ってきた。しかしながら、お前は我の許しもなしに勝手に京都に帰ってきて、その後、京都に留まり、西国に向かおうともしない。頼朝代官(義経)を討つために何度も院宣を求めていたが、そんなに戦いたければお前の力だけでやれ。

しかし、それは院を軽視している証拠であり、我(法皇)に対する敵対行為とみなす他はない。お前の真意はどこにある?もし我に逆らう気持ちがないのなら、早く西国に赴いて平家を討て。」


これを聞いた義仲は

(平家追討から勝手に帰ってきたのはその通りだが、その原因を作ったのは鎌倉と勝手に通じた御上(法皇)ではないか.....)

と歯ぎしりせんばかりに悔しがりました。
しかし、法皇に歯向かう気持ちは義仲にはなかったため、以下のように返書を認めました。

「御上に謀反の気持ちなど毛頭ございませぬ。だからこそ私は京都、そして院・朝廷のため、度々申し上げてきました。今、改めて御上より我が真意をお尋ねになられたこと、生涯の喜びでございます。

西国への下向、速やかに行いたいところではありますが、間も無く鎌倉殿代官の数万の軍勢が京都に入ります。その軍勢が京都に入れば京都を守護するのが私の役目ですので、戦わざるえません。しかし、鎌倉殿の軍勢が京都に入らなければ速やかに西国へ向かいます」

これを受けて法皇は

(もはや、鎌倉軍と義仲軍の激突は避けられんな.....)

と悟りました。

しかし、義経軍は五、六百騎。義仲軍の勢力は水島の戦いや、源行家が平家追討の出兵を行ったりしたものの、六、七千騎はありました。まともに激突すれば10倍以上の兵力に開きのある戦いになりかねません。

もし、ここで義経軍が敗退するようなことになれば、頼朝は今後京都に興味を持たず、奥州藤原氏のように東国に自己の勢力を繁栄させ、朝廷の統制の及ばぬ独自政権を作り上げてしまうかもしれませんでした。

そうなった場合、京都と北陸は完全に義仲のもの勢力に入ってしまいます。それは法皇が絶対許せないことでした。

そのため、何としても義経軍をここで滅ぼすわけにはいきませんでした。

また、今の院庁(法住寺)には美濃・摂津源氏の兵力、公卿、園城寺、延暦寺の親法皇勢力の大衆などが集まり、総勢二万弱の兵力が揃いつつありました。

(こっちから仕掛ければ、義仲を排除できるかもしれん......)

と法皇が考えるのも無理ないことでした。

11月17日、18日の両日に渡り、法皇は八条院(ワ子内親王/鳥羽法皇の孫/以仁王の猶母)、上西門院(統子内親王/後白河法皇の准母)、亮子内親王(後白河法皇の皇女/後鳥羽天皇の准母)を院庁から退出させました。

それとは入れ替わりに後鳥羽天皇、守覚法親王(後白河法皇の皇子/真言宗仁和寺第6世門跡)、円恵法親王(後白河法皇の皇子/園城寺長吏)、明雲(天台座主)が院庁に入っています。

「何?ミカドと守覚様、円恵様、明雲が法住寺に入っただと?」

義仲がこれを密偵から聞いたのは11月18日の夜でした。
義仲は、法住寺が武装化を始めた11月10日あたりから絶えず見張りをつけていたのです。

「また数日前から土岐伯耆守(光長)殿、多田蔵人(行綱)殿らの軍勢の姿が見えませぬ」

「あやつらも御上に取り込まれたか.......」

義仲の軍勢は自分の直参である信濃源氏に加え、美濃源氏(土岐氏)、近江源氏(山本氏)、摂津源氏(多田氏)、甲斐源氏(安田氏)などから構成される混成部隊でした。

彼らは京都から平氏を追放し、政治のやり方を院・朝廷のあるべき姿にすることを目的としていました。

しかし、義仲が西国遠征から京都に帰還して以降、義仲は頼朝に対する敵対心を募らせ、それに諸将の心は義仲から離れはじめ、行家が単独で平家追討を受けて出陣するのをキッカケに、諸将が思い思いの独自の動きをしていました。

義仲にとって、頼朝はどうしても下さなくてならない敵でした。
義仲は頼朝と戦争になりそうになったことがあり、一刻も早く京都への上洛を望んだ義仲は、自分の息子である清水冠者(義高)を人質に出してまで和議を結び、後顧の憂いを絶ったという苦い思い出があります。

清水冠者を自分の元に戻すためにも、頼朝の軍勢を京都に入れることは、義仲にとって承服できないことでした。

(もはや、これまで。この一戦にすべてをかける!.....)

「樋口次郎(兼光)、今井四郎(兼平)を呼べ」

義仲は意を決して、自分の腹心である樋口兼光今井兼平に使いを出し、自分の屋敷に呼びあつめました。

西暦1183年(寿永二年)11月19日朝。源義仲は自軍を七つの部隊にわけ、一隊を別働隊として二千騎を樋口兼光に預け、新熊野方面(現在、新熊野神社がある京都市東山区今熊野椥ノ森町)に向かわせました。

残り六隊についてはそれぞれの大将に兵を率いさせて、七条河原(鴨川河原の七条大橋付近)に集合させます。

そして、部隊をまとめた義仲は一軍から六軍までの軍勢を率いて、法住寺の西門にめがけて軍勢を突っ込ませました。

世に言う法住寺合戦の始まりであり、義仲の最初で最後のクーデターでした。

(つづく)
posted by さんたま at 01:51| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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