2017年11月04日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(75)-法皇の反撃-

西暦1183年(寿永二年)閏10月、法皇の院宣を受けて西国の平家追討に赴いていた源義仲は、京都留守居役の樋口兼光の要請により、急ぎ京都に戻りました。

義仲はそこで後白河法皇が鎌倉の源頼朝と連絡を通じ、上洛を促した結果、頼朝の弟・源義経(九郎)が数万の大軍(伝聞)を率いて上洛することを知ります。

義仲は、頼朝の軍勢を無用の混乱を引き起こすものと決めつけ、法皇に頼朝追討の院宣を賜ろうとしますが、頼朝に上洛を促したのは法皇であるので、法皇はそれを承諾しませんでした。

義仲は自軍を動かさず、義経の軍勢の行く手を阻むため、閏10月26日、興福寺の大衆(僧兵)を動かそうとしますが、それも失敗してしまいます。

この頃の義仲にとって頼朝はもう「自分の権力を阻害しようとする邪魔者」として存在し、それを止めるためならあらゆる手段を選ばない思考になっており、それは他の義仲軍の諸将の間に隙間風を吹かせるのに十分でした。

「頼朝に義仲の勢力を対峙させ、義仲の権勢を抑え込むこと」

それは後白河法皇の狙い通りでしたが、それに伴って義仲軍の中に不協和音が起きたことは、思わぬ副産物でした。そしてそれを利用しない法皇でもありません。

右大臣・九条兼実の日記「玉葉」の閏10月27日の項には、源義兼の話として

「行家は院より平家追討の任を受け、来月1日に出発すること、義仲と行家の間には大きな亀裂が生じていること」

が記録されています。
(ただし、出陣の日取りが悪いために実際は8日に延引)

11月4日、義経の軍勢は不破の関(岐阜県不破郡関ケ原町)に到着。翌5日、行家の平家追討の出陣が8日になることが決定しますが、義仲は義経と戦うために京を動かない方針のようです。

京都周辺がにわかに不穏に包まれつつある頃、鎌倉には珍しい客人がきていました。平頼盛(前権大納言/清盛弟)です。

頼盛は、平家都落ちの際に、平家一門棟梁・宗盛の要請で京都山科(京都と大津の県境)方面の出兵を命じられたものの、平家一門が揃って勝手に都落ちしてしまったため、戦いの最前線に一人取り残されてしまいました。

この時、進退きわまった頼盛は後白河法皇に保護を求め、法皇は八条院(ワ子内親王/鳥羽法皇の孫)に手を回して頼盛を保護させました。

同年7月28日の公卿議定で、頼盛の処遇が議題に上がりましたが、平家都落ちに同調しなかったことから公卿に頼盛を罰する声は少なかったものの、義仲軍の手前、官位剥奪(解官)という軽い処分で済んでいました。

以後、頼盛は八条院の保護を受けながら京都で隠棲していましたが、いつの頃からか、頼朝と連絡をとっていたようです。それは、平治の乱の際、頼朝の命を救ったのが頼盛の母である池禅尼である縁であること。加えて、法皇の意向があったもの考えられます。

法皇の「寿永二年十月宣旨」(頼朝の東国行政権を認める内容)によって、法皇と義仲が不穏になると、閏10月20日、頼盛は京都八条院から突如姿を消しました。「玉葉」によれば、同年11月6日、頼盛は鎌倉に到着したとあります。

頼朝は相模国府(神奈川県庁)にて頼盛を迎え入れ、相模国の代官(神奈川県副知事)に頼盛の世話を命じました。これは父の恨みである平家一門に対する扱いとしては破格の扱いになります。それだけ頼朝が池禅尼に感謝している表れとも言えますが、頼盛が八条院の縁者であることも無関係ではなかったと思われます。

八条院と源氏の関係は、源氏の決起を促した以仁王(最勝親王)が八条院の猶子であり、以仁王の令旨を持ち回った源行家は八条院の蔵人であったことから、この源平争乱においては非常に強いものがあったのです。

また、すでに法皇の「寿永二年十月宣旨」によって東国及び東海地方においての行政権は頼朝にあり、正式に朝廷に認められた今、頼朝にとって重要なことは院や朝廷とより良い関係性を築くことでした。

すでに頼朝の元には中原親能(元後白河院の役人)というブレーンがいましたが、親能は位階は「正五位下」で公卿にも至っていない中級貴族のため、院や朝廷の中枢に深く入り込める人材が不足していたのです。

そのため、頼盛は清盛の異母弟で、位階も「正二位・前権大納言」であり、その上、八条院の縁者であることは、頼朝にとってこの上ない吉兆でした。


話を京都に戻します。


源義経の軍勢が不破の関に到着したことを聞いた後白河法皇は、いよいよ義仲排除の動きを本格化させます。

同年11月7日、後白河法皇は、源行家以下、源氏の諸将に院庁(法住寺)の警護を命じました。この時の命令は義仲一人がハブられてました。

義仲は、自分の知らないところで法皇の名前で命令が下され始めたことに、不穏なものを感じざるえませんでした。

ところが、ここで法皇の誤算が生じます。

この日、義経の軍勢は近江国(滋賀県)に入国しますが、その軍勢はわずか五百から六百騎たらずであることが判明します。それまで義経の軍勢は数万という伝聞が届いていましたが、わずが五、六百騎では戦いになりません。

そもそも頼朝が自身ではなく、名代として弟・義経を遣わしたのは、先の宣旨(頼朝の東国行政権の承認)に従って、東国の年貢を京都に収めるためで、戦をするつもりはなかったと思われます。供物の護衛なら五、六百騎で十分でしょうから。

翌11月8日、源行家は予定通り、法皇の命令を受けて二百七十騎を率いて平家追討に向かいました。

ここから法皇と義仲の間は確実に不穏な空気が漂いはじめ、それは京都市民の間にも様々な「噂」となって広がって行きました。

同年11月16日、法皇は近江に止まったままの義経入京の件を会議で図り、義仲に使いを出して「義経の軍兵が小勢なら入京を認める」ことを了承させました。

翌11月17日、京都市中には

「いよいよ義仲が法皇様を討つらしいぞ」
「いやいや、法皇様が義仲を誅伐されるのだ」


と双方をけしかける噂が流れていることが「玉葉」で確認できます。

その原因は行家が出陣した8日以降、法皇が園城寺や延暦寺の大衆(僧兵)らを動員して、院庁(法住寺)に堀や柵を作って、武装化を進めたことにあります。

法皇の本陣とも言える院庁が武装化すれば、そりゃ京都市中の人たちは「いよいよ戦争か?」と噂してもおかしくはありません。

また、法皇のお得意の「策謀」により、義仲軍を構成していた美濃源氏(土岐氏)や摂津源氏(多田氏)などが院に味方することが確定すると、法皇は

「頃はよし.....」

と決心し、義仲に対して、ついに最後のトリガーを引くことを決意したのです。

(つづく)
posted by さんたま at 15:52| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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