2017年09月25日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(72)-法皇と兼実-

源義仲瀬尾兼康の反乱を沈めている頃、京都では後白河法皇が暗躍しまくっていました。

法皇は、去る10月1日頃に中原康定が持ち帰った源頼朝の書状を読み、神仏への敬意、朝廷への敬意等、物事の筋目の立て方にいたく感心しておりました。

法皇は頼朝の上洛を願いましたが、同月9日にその件について頼朝から「今は上洛できない」という書状が届きます。ただ理由が明確に書かれており、

1つ目は今、上洛すれば常陸国(茨城県)の佐竹隆義・秀義らが鎌倉を伺う姿勢を崩していないこと、
2つ目は手勢を引き連れて京都に入れば、京都の食糧事情が一気に逼迫させることになり、それは頼朝の望むところではない
と書かれていました。

これにも法皇は非常に気をよくしましたが、頼朝は結果的に法皇の上洛要請を巧みにかわしており、ある種のしたたかさも感じていました。

頼朝を上洛させ、義仲を牽制する勢力にし、武士の台頭を抑えたい法皇の企みは無に帰しました。しかし、ここで黙って引き下がる法皇ではありません。事態の打開を図るため、ある日、法皇は右大臣・九条兼実を院庁に呼び出しました。

これは法皇にしては非常に珍しいことでした。

兼実は自らのスタンスを明確にせず、朝廷や院はもちろん平氏や源氏などの武士勢力にも特に肩入れすることなく、中立の立場を貫いていました。それは院政を確たるものにしたい法皇からすれば、建前論者としか映らず、なかなか信用ならない存在だったのです。

しかし、兼実はあらゆる有職故実に精通しており、当代きっての知恵者であることは法皇も認めざる得ませんでした。

院よりお召しの使者がきた時、兼実は「何用だろうか」と訝しみましたが、断る理由もありませんし、また断ったら余計な憶測を呼ぶだけであることも承知していました。ゆえに着替えをして院に参上しました。

「御上におかせられましては、ご機嫌麗しゅう」

兼実は法皇の前まで進み、かしこまりました。

「右府(右大臣)。久しいな。変わりはないか?」

法皇は顔色一つ変えず、言いました。

「世情の喧騒、さぞ御上の大御心を悩ましているものと推察し、謹んでお見舞い申し上げまする」

兼実は再び畏まって平伏し、そのまま

「わざわざのお召し、何事やあらんと思い馳せ参じましたが、御用を承りとう存じ奉りまする」

と言葉を続けて、顔をあげました。
それを見た法皇はニヤリと笑い

「政のことならそちなど呼ばぬ。」

「これはまた......」

(言いにくいことを)と兼実も思い、苦笑せざる得ませんでした。

「鎌倉のことじゃ」

「史大夫(小槻隆職)より話は聞いておりまする。物事の筋目をわきまえた礼節を重んじる者として、御上の覚えもめでたきこととか」

「上洛はできぬと言うてきた」

「はて、それは何故にでござりまするのか」

「頼朝の留守に鎌倉を奪おうと画策しているものがおるらしい」

「なるほど。東国も一枚岩ではないのですな」

「頼朝の心配はもっともじゃ。ワシが同じ立場であればそう返すであろう。それは理解できる。だがそれでは困るのじゃ」

「はて、どうお困りになられるまするのか?」

「伊予守(義仲)じゃ。先日の皇位継承問題(後鳥羽天皇即位)の時に思ったのじゃ。このままあやつのやりたいようにやらせては、朝廷も院もいずれ滅んでしまう」

法皇の言っている皇位継承問題とは、平氏が三種の神器と共に安徳天皇を連れ去ったため、天皇が空席となり、安徳天皇も神器も戻る見込みが絶たれたため、朝廷は新たな天皇を擁立する必要に迫られた問題です。

法皇は高倉天皇の皇子で、安徳天皇の異母弟に当たる尊成親王を、後白河院の院宣を以って践祚させるつもりでしたが、ここで義仲が自身の主上として北陸宮(以仁王の皇子)を即位させろと後白河に迫ったのでした。

結果として、御籤のイカサマの上で後鳥羽天皇が即位することになったのですが、この件について、兼実は自分の日記「玉葉」で大いに批判していました。

しかし、兼実は、自身の性格なのか信条なのかはわかりませんが、表立って院や朝廷、源平の武士のやることの批判を口にすることはなかったのです。

「御上は、義仲の牽制のために鎌倉の頼朝を味方につけたいとお考えでいらっしゃいますか」

兼実は法皇の言わんとしていることを推測で当てました。

「さすが右府。その通りじゃ」

法皇は兼実をギロリと睨みながら言いました。
法皇は、兼実のこういう先を読んで機先を制するところを嫌らしく思っていました。要するに「心の奥底まで見透かされているのではないか」という恐れの表れですね。

兼実は「恐れながら」と畏ながら

「義仲と頼朝は従兄弟同士。とはいえ、義仲の父・義賢は頼朝の兄である悪源太義平に殺されておりますので、義仲としては、心穏やかならなぬものがあるでしょう。また頼朝にとっても義仲の存在は自分に変わって平家を討たれかねないため、快く思ってはおりますまい」

「そう、そして今、義仲は平家追討の院宣を受け、播磨に遠征している。状況としては絶好のタイミング。じゃが、頼朝が上洛を拒んでいる以上、打つ手がないのじゃ」

法皇は手に持っていた扇子を床に叩きつけましたが、兼実は微動だにしませんでした。

(この御方にしては珍しく、焦っておられるな......)

兼実はここでどう立ち振る舞うのがベストなのか、法皇の言動からそれを読み取ろうとしていました。

兼実は自身が源平どちらにも与するつもりはありませんでした。それは、己の信念として「政を淳素に反す(政治を古来よりの本来あるべき姿に戻す)」ことを誓っていたことと無関係ではありませんでした。

今の政治は院が力をもち、朝廷はその下に置かれ、天皇であっても皇太子のような扱いにされている現状は、決して「あるべき姿」ではなかったのです。

兼実が考える本来あるべき姿、それは朝廷に政治権力を集約させること。そのために院の弱体化は避けて通れませんでした。

しかし、このまま義仲の暴走を容認することは、院でも朝廷でもなく、義仲が主体となって朝廷を牛耳るということにになり、それも兼実の望むところではありません。

(しかたない。ここは頼朝を担ぎ出す策を与えるか)

兼実は「恐れながら」と畏み

「頼朝の官位をお戻しなされませ」

と言いました。

頼朝は、かつて西暦1160年(平治元年)の「平治の乱」で父・義朝が賊軍となり、父と兄の悪源太義平は殺され、頼朝自身も平家に捕縛されて、伊豆に流されました。その時頼朝がついていた官位「従五位下 右兵衛権佐」は、流罪とともに解任され、以後の頼朝は現在に至るまで、無位無官の謀反人だったのです。

「なんだと?」

法皇はゆっくりと兼実に尋ねました。

「鎌倉の頼朝は今でこそ鎌倉を中心に関八州の多くを支配下に起き、甲斐の武田信義と連携することで東海道一帯までその力を広げておりますが、未だに謀反人として流罪の身でございます。」

「平治の戦の話だな」

法皇は遠い目をして宙を仰ぎました。

「御意。御上が頼朝を上洛させ、義仲を牽制させようとするならば、まずは官位を復位させて朝敵から外してからでないと、無位無官のままで上洛させてもなんの意味もありません」

「しかし復位を認めるということは、院が頼朝の東国の実行支配を認めることになりはしないか?」

「それはそれでよろしいではありませぬか。むしろ復位させることで、朝敵の汚名が外れるわけですから、頼朝の東国武士への権威付けにも効果的だと存じます。院としては頼朝の復位を認めるとしても、その支配体制に口を出すつもりはないという立場さえ明確にしておけば問題はないかと」

「なるほど.....」

これらの問答をした後自邸に戻った兼実に、院から一通の書状が届きました。
それは、院が除目(人事異動などの発表)を発し、10月9日付を以って、源頼朝を従五位下に復位させることに決定したことを伝える内容でした。

その上において後白河法皇は新たな手を頼朝にうつのでした。


(つづく)
posted by さんたま at 00:33| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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