2017年09月10日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(71)-瀬尾兼康の大博打-

西暦1183年(寿永二年)10月10日未明、源義仲の配下・倉光成氏は、成氏の部下で元平家の剛将・瀬尾兼康の裏切りにあい、備中国三石(岡山県備前市三石)の宿で三十人の郎党と共に惨殺されました。

兼康は、自分の元領地だった妹尾荘の旧臣たちを使者に立て、備前、備中、備後各国に檄を飛ばし、平家に心寄せる者たちに決起を促しました。その結果、約二千人の軍勢が兼康の元に集まりました。

兼康は、備前国御野郡津島の福隆寺縄手(岡山県岡山市北区津島本町の妙善寺あたり)に立て籠って砦を築き、ここを訪れるであろう義仲に対し、迎撃体制を整えます。

一方の義仲は、兼康の裏切りを知ると、腹心である今井兼平に三千騎を与え、急ぎ備前国に向かわせました。

しかし、福隆寺縄手は非常に道が狭く、大軍の行動がしにくい土地でありました。やっとの思いで到着した今井兼平は、矢倉の上に立つ兼康を発見しました。

「おのれ瀬尾太郎!(兼康)。倉光三郎(成氏)および木曽殿がつけた郎党三十名もろとも殺害におよびしはなんの考えがあったのことじゃ!。その上、国府を襲い、備前国を横領するとは気でも狂ったか!」

兼平はそう兼康を大声で罵りました。
それに対し、兼康は「かっかっか!」と笑い

「我はもともと平家の家人!。倶利伽羅峠の戦いで木曽殿に捕縛され、降伏し、今日まで生きながらえて参った。だが、いかに平家の命運が衰えつつあるとはいえ、おとなしく源氏の世を受け入れられるわけがないわ!」

「しからば、そなたはずっとこの機会を待っておったと?」

「その通り。たまたまワシの領地(妹尾荘)近くまで木曽殿の軍勢がきたから、かねてよりの計画を実行したまで」

「この恩知らずが!」

「無礼者!この瀬尾太郎。一度受けた恩義を忘れるほど落ちぶれてはおらぬわ。これまでの御恩、これにてお返しいたす!」

兼康がそう言うと、刀を高らかに上に上げました。すると矢倉に潜んでいた何百という弓兵は建物の上に現れました。これを見た兼康は本能的に「いかん!」と思い、伏せの合図をしますが

「放てぇい!」

と言う号令と共に、数百の矢が一度に兼平の軍勢を襲ったのです。
狭いの道幅で前後にしか行動ができず、そして左右には深い堀が掘られていたため、兼平の軍勢は左右の堀に自ら身を入れて弓矢をよけ、また矢を射られて倒れた馬などを盾にしてその場をしのぐしかありませんでした。

しかもその弓矢の雨はなかなか途絶えませんでした。

「止むをえん。左右の堀の兵に最前まで進ませて、砦に近づき、下から矢を放って、弓兵を一掃させろ」

兼平は自分の部下にそう伝え、左右の堀に避難した隊に命令を下しました。
この作戦は徐々に効果を発し、少しずつ矢倉の上の兵が減っていきました。
やがて日没となると

「頃は良し......全軍かかれっ!」

と兼平は全軍総攻撃を命令を下します。

兼康の軍勢は二千騎という大軍でしたが、兼平の軍勢と決定的に違う部分がありました。
その違いは「統率」です。

兼康の軍勢は、兼康の号令を受け、単に「平家に心寄せるもの」たちであり、源氏に一矢報いたい武士たちです。兼康がキッカケとはなりましたが、兼康を総大将と認めているわけではありません。ぶっちゃけ、兼康の命令通りに動いていたのは、旧領である妹尾荘の武士たちのみでした。

ですので、二千騎とはいえ、言ってしまえば「ただの烏合の衆」
そんな軍勢が、統率の取れた兼平の軍勢に叶うはずもなく、また数の上からも兼平の軍勢の方が上のため、福隆寺縄手の砦は総攻撃が始まると、瞬く間に落ちてしまいます。

兼康自体は砦が落ちる前に自軍をまとめて密かに脱出し、板倉川(足守川?)の河原で陣を張って、兼平との最終決戦に備えました。しかし、兼平の追撃を受け、兼康はさらに西へ撤退しようとします。この時、兼康の郎党はたったの三騎になっていました。さらにそれを追う兼平ですが

「今井殿!」

と声をかけられたので兼平が振り向くと、そこにいたのは、備中国三石で兼康に殺された倉光成氏の兄・倉光成澄でした。

「奴には弟を殺された恨みがあります。ワシはそれが悔しい。是非とも再び生け捕りにし、武士の恥辱を散々に味合わせたいと思ってます。」

兼平は成澄の思いは尤もだと思い

「この場は次郎殿(成澄)にお任せいたす」

と道を開けました。
成澄は

「かたじけない」

と一礼すると、馬を駆って兼康を追撃しました。
成澄は板倉川を西に渡ろうとする兼康を発見すると

「瀬尾太郎!お主はそれでも武士か?敵に背を向けて恥ずかしくないのか?貴様に武士の心意気があるなら、見事引き返してみよ!」

と大声で怒鳴りつけました。
渡河中の兼康はその声に止まり、ゆっくり振り向きました

「次郎殿か......」

兼康は追っての武者が成澄であることを確認すると、止まったまま馬ごと振り返りました。

「このような対面はしたくはなかった!貴様の武勇を見込んでいればこそ、弟に貴様を預けたのだ!それを.....」

兼康は何も答えませんでした。答えたところでなんの言い訳にもならないことを彼自身が知っていたからでした。

単に平家に鞍替えするだけなら、暇を取って自分の旧領に戻ればいいだけのこと。そうすれば成氏も義仲がつけた三十騎も死なずに済んだのです。でも兼康はそうせず、自分が源氏を裏切って平家武士として挙兵するためのデモンストレーションとして世話になっていた成氏を殺害しました。

到底許されることではありませんでした。
しかし、何も言わない兼康に成澄はイライラが高まっていました。
そしてとうとう

「言うべきことは何もないというのか。では、そなたの身柄、もらいうける。そこで待っておれ!」

と言って一人馬を走らせ、川中の兼康のところまで進みました。
兼康も馬を成澄に合わせて並ぶと、兼康の方からいきなりガッシと成澄の両肩を掴んで、取っ組み合いになり両者共馬から川に落ちました。

両者は上になり下になり、また上になりを繰り返していました。

「次郎殿、許してくれとは言わん。だが黙ってそなたに討たれるほどお人好しでもない」
「黙れ、貴様はここでワシに討たれるのじゃ。それが貴様の運命ぞ」

押さえ込み、はね退け、また抑え込み。この繰り返しは最終的に体力の潰えた方が負けに成ります。
そうこうしているうちに両者は偶然にも川の大きな深淵にはまってしまいました。

「な、なにー!?」

ここで驚いたのが成澄でした。なぜなら、彼はカナヅチ(泳げない)だったからです。
深淵に落ち込んだ関係で取っ組み合いが離れ、目を大きく見開いた成澄は呼吸をしようとなんとか水面に浮上しようと、もがきました。

(ここまでだな)

兼康は後ろから回り込んで成澄の体を左手で抑えると、右手で刀を抜いて、成澄の首にグサッと深々に差し込みました。

痛みと息苦しさに成澄は暴れ、兼康の体に拳と膝蹴りを食らわし、兼康も体勢を崩して成澄の体を離してしまいました。急速に水面に浮かび上がる成澄。口をパクパクさせてなんとか呼吸をしようとしますが、首からドクドクと流れている赤い鮮血と、水面に出たのに自分の息苦しさが変わらないことで、初めて首に斬撃を受けたことに気づきます。

そして次の瞬間、成澄の目の前に兼康が浮き上がって現れ

「成仏されよ......」

と刀で成澄の首を横一文字に払ったのです。
再び鮮血が噴出し、成澄は白目向いて、そのままガクンと落ちました。
兼康は沈もうとする成澄の体を抱えると、そのまま首を刎ねたのでした。

兼康は討ち取った成澄の馬を奪い、板倉川を渡河しきって、なおも西に向かって進みました。その途中、自分の息子である瀬尾宗康と落ち合いましたが、宗康は相当の肥満で走ることも叶わない巨体だったので、兼康はこれを見捨てて追い越し、先を急ぎました。しかし

「このまま逃げ延びて平家の陣に迎え入れてもらったとしても、六十を超えた老将が息子の命を見捨てて逃げ延びたと陰口を叩かれるのは恥ずかしい」

という思いから、馬を返して宗康の元に戻りました。
戻った頃、宗康は足が相当に腫れ上がって歩ける状態でもなくなり、横たわっていました。

兼康は馬から降りて、宗康のそばによると

「もったいないことでございます。私は足手まといに成りたくはありません。ここで自害するので、父上は逃げ延びて再起を図ってください」

と泣きながら言いました。
兼康は

「ワシは敵とはいえ、今日まで私を生かしてくれた恩人をこの手で殺し、その恩人の兄弟もさっき討ち取ってしまった。この上、息子のお前までワシのために死なせては、ワシの業が深すぎる。せめてお前だけはワシと生死を共にしてくれ」

と言って宗康を勇気づけました。
しかし、次の瞬間、近くで喚声が聞こえました。
兼康の郎党が駆け寄り

「今井四郎の追っ手でございます」

と述べると。

「もうやってきたか.....早いな」

と独り言を言い、宗康にニッコリ笑うと、喚声の聞こえる方向へ郎党を率いて向かいました。

今井兼平の手勢はざっと四十騎。こっちは兼康の郎党三人と宗康の郎党十人。数の上では勝敗は火を見るより明らかです。
兼康はあたりを見回すと、崖と崖がS字に重なりあっている狭い路地を発見しました。

「あの崖下に敵を誘導する。まず五人が先に崖下に移動し、下三人、上二人で弓隊を作れ。残りのものは弓矢で敵を攻撃しながら、崖下へ敵を誘導するのだ!」

と命令を下すと、全員、兼康の指示通りに行動しました。
まず宗康の手勢五人を先に崖下に送り、兼康の郎党三人と宗康の郎党五人で兼平の軍勢に矢を射かけながら、適度な距離を保ち、ジリジリと崖下に引いていきます。

兼平の軍勢も、接近戦で挑むのは敵の矢の標的になるため、兼平の軍勢も弓矢での応戦になっていました。
これで、両者の間には適当な距離を保つことに成功したわけです。

兼康ら八人は相当の矢傷を負いながらも、兼平の軍勢をうまく引きつけることに成功しました。
兼康は頃合いを見計らって

「いまだ!崖下に撤退しろ!」

と八人に退けの合図をしました。八人は一目散にS字の崖下に逃げ込みます。それを追う兼平ですが、すでにS字には5人の弓兵が矢を構えておりました。

「放てー!」

兼康の下知で弓が放たれ、攻め込んできた兼平の武士たちはその矢をまともに受けてしまいます。

「かかれー!」

今度は兼康ら八人が刀を抜いて、S字に入り込んできた武士たちと斬り結びました。、そしてまた撤退して、矢を射かけるということを繰り返していました。

しかし、多勢に無勢、兼康側も疲労が重なり、一人、また一人と倒れていきます。
状況を見定めた兼康は、崖下の守備の指揮を自分の郎党に任せると、宗康の元に戻りました。

「父上、戦況は?」

宗康は体を起こして兼康に訪ねました。

「いいところまでいってたんじゃがな。もはや、これまでのようじゃ」

「そうですか......」

「小太郎(宗康)、お主はワシの馬に乗って落ち延びよ。この先の水島までいけば平家の皆様がいらっしゃる。そこに合流し、平家の武人としての瀬尾家の姿を見せてくれ」

「申し訳ありません。私はこのような体にて戦働きもできない無能な親不孝者でございます。生き残ったところで、父上のような戦働きなどできるはずもございませぬ。むしろ父上が生き残ることこそ、平家のため。私はここで死にます。どうぞ御身をお大事に」

「六十をすぎたワシが生き残って、三十そこそこのお前を敵に殺されるとか、ありえん」

「では、父上の手で私を殺めてくださいませ」

「何?」

「敵兵の手にかかって死ぬるくらいなら、父上の手にかかって死にとうございます。どうせ私はここから動けません。敵兵の手にかかるのは時間の問題です。瀬尾家の名誉を、そして私のことを思ってくださるのなら、さあ、父上、私の首を刎ねてくださいませ。」

確かに宗康のいうことは理がありました。このまま兼康だけが馬に乗って平家の陣に落ち延びれば、宗康は敵兵の手にかかって死に、また兼康は子供を見殺しにした武士として汚名を終生背負わねばなりません。

ですが、ここで息子を手にかけて、また兼康も勇猛果敢に戦って散れば、瀬尾家の名は何人にも辱められることはないでしょう。

「父上、さ、はよう」

宗康は体を起こして胡座に座ると目をつぶりました。
宗康も覚悟を決め、ゆっくり刀を抜きました。

「父上の御武運をお祈りいたします。」

それだけ言うと、宗康は前かがみになりました。
兼康はその突き出た宗康の首を一刀の元に斬り落としました。

もう兼康には失うものは何もありませんでした。
もはや平家のことなどどうでもよくなっていました。

兼康は宗康の首を埋めると、刀を抜き、また戦場に戻って行きました。
そして敵を五、六人討ち果たすと、疲労で膝をつき、その瞬間に三本の矢に射抜かれ、その隙に首を刎ねられてしまいました。

こうして瀬尾兼康の一世一代の大博打は全て終わりました。

義仲は備中国鷺が森(現在地不明)で、兼康とその主従三人の首を検分しました。
その際

「まさしく、剛の者と呼ぶにふさわしい。一騎当千とは彼らのような者を言うのだろう。惜しい武将を失った者だ」

と嘆き

「四郎(兼平)、役目大儀であった」

とその労をねぎらいました。

兼平が瀬尾兼康の謀反を鎮圧したことは、水島の敗戦で落ちていた義仲軍の士気を、大いに高める結果になりました。
義仲は軍勢を整え、平家の本拠である屋島を目指して行動することになるのですが、ここで思わぬ事態が勃発する事になるのです。

(つづく)
posted by さんたま at 18:42| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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