2017年09月04日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(70)-義仲受難-

西暦 1183年(寿永二年)10月頭、後白河院の密命を受けて鎌倉の源頼朝を訪ねていた中原康定が、頼朝からの返書を持って京に帰ってきました。

その内容は頼朝の東国支配のあり方そして平氏追放について三か条にまとめられており、「玉葉」(右大臣・九条兼実)によると以下の内容であったと言われています。

(ここから)
1、神社、仏閣を尊ぶこと
日本国は神国です。ですがここ数年の間、平家一門の輩は神社への寄進を行わず、また寺社への寄進を顧みることもありません。日本国を我が物とし、その罪により、平家は去る7月25日京都を出奔する事態となりました。これは神、仏が罰を与えたものであります。

此度の恩賞で頼朝が第一の功臣とのことですが、決して頼朝ごときの力ではありませぬ。ですので、まずは、平家追放の第一は、神社、仏閣に寄進等のお慈悲をお願い申し上げます。


2、宮様、公卿の領地、元のようにお返しなさること
院庁領、天皇領、公卿領の数々は平家一門が横領していました。対象の荘園領主は平家一門の態度に我慢がなりませんでした。平家一門がいなくなった今、早く院宣を持って、暗い世の中の空気を打ち払うべきでしょう。

もし頼朝が荘園領主の領地を奪って横領するようなことがあれば、それは平家と同じになってしまいます。世の人も源氏が平家に取って代わっただけと誤解されましょう。頼朝は御上の沙汰に従いますゆえ、何卒、道理にあったお裁きをお願いいたします。



3、罪人といえども軽く命を奪うことないように
平家の郎党で朝廷に降伏した者たちが、いかに罪があるとはいえども、命は助けるべきだと考えます。それはこの頼朝が勅勘(天皇の命令による勘当)を被る罪を得たといえども、今なお生きており、今、また平家という敵を討つべく努力しております。後々、こういうことは起きうるでしょう。

そのため、降伏してきたものを斬ってはなりません。ただし罪の軽重は吟味し、沙汰を行うべきだと存じます。

(ここまで)

この三か条に法皇をはじめ、院庁の公卿らは皆、喜び。

「さすがは前の右兵衛権佐(うひょえのごんすけ)、木曽の山猿とは大違い」

と持て囃したと言われています。

ちょうど同じ頃、法皇より平氏追討の命を受けて、京都を出発していた源義仲の軍勢は、備中国水島(岡山県倉敷市玉島)あたりで、平知盛(清盛四男)・教盛(清盛の甥)率いる平家軍と合戦となっていました。

平家軍は船を連結させてその上を船板を敷き、海上に確固たる船陣を構築しておりました。

源氏の先発隊は船で平家の船陣に向かって進み、刀を抜いて攻めかかろうとしたところ、平家の船陣から無数の矢の攻撃を受け、先発隊は刀を抜く暇もなく平家の弓矢の前に倒れてしまいました。

平家は源氏の先発隊を破ると、船の連結を外して船を岸に寄せ上陸。船の中に乗せていた多数の軍馬が一斉に開放され、それに乗った平家の騎兵が、陸の源氏軍の本陣に突撃しました。

船戦が主戦になると考えていた源氏軍は、先発隊に多くの兵を割き、陸上の軍兵は決して多くありませんでした。さらに迎撃体制が満足に整わないまま地上戦になったため、軍勢として満足に機能することができず、壊滅状態に追い込まれてしまったのです。

この戦いに義仲は参加しておらず、先発隊だった主だった武将

足利義清(民部丞/下野国足利氏二代目当主・義兼の異母兄/上野国新田義重の娘婿)
足利義長(義清弟)
海野幸広(信濃国海野氏当主・海野幸親の嫡男)
高梨高信(信濃国の武士/清和源氏頼季流井上氏の一族)
仁科盛家(信濃国安曇郡の武士)


ら数多く失ってしまいました。
水島の戦いの敗戦状況を、播磨国あたりで聞いた義仲は、

「いかん、敗戦で兵の士気が落ちている。どこかで体勢を立て直さねば」

と休息の必要性を感じていました。その時、加賀国の武士・倉光成氏が、義仲に思わぬ進言をしてきました。

「恐れながら申し上げます。先の北国の倶利伽羅峠の戦いで兄・次郎が捕らえ、私にお預けくださった瀬尾太郎殿が申すに、備前国の妹尾荘はもともと太郎殿が治めていた場所。昔は平家に仕えていたとはいえ、今は伊予殿(義仲)にお世話になっている身。ぜひともこの地にて体勢を立て直されてはどうかと」

この瀬尾兼康は平家方の中でも武勇高き者として有名でした。それゆえ、義仲は斬首することなく、倉光成澄・成氏兄弟に預けておいたのです。瀬尾の方も助けられた命をどこで捨てようか、死に場所を探すがごとき気持ちで、義仲の軍に加わっていました。

しかし、備前国に地の利のない義仲にとっては、このタイミングでの援助の申し出はまさに渡りに船でした。

「これはありがたい。では三郎(成氏)。お主は瀬尾太郎を案内人として妹尾荘に先行し、我らの出迎えをせよ」

と、三十騎ばかりを与え、倉光成氏と瀬尾兼康を妹尾荘に先行させたのです。

二人が備前国三石(岡山県備前市三石)あたりに差し掛かったところで、日も暮れてきたので宿を取りました。

その宿には兼康が戻ってくると言う話がすでに広まっており、兼康の親しい人たちが酒を持って現れ、祝宴が開かれました。それはとても盛大なもので、成氏とその余騎としてつけられた三十名は酔いつぶれて寝てしまいました。

「おい、大丈夫か?おい!」

と兼康が成氏を揺さぶりますが、全く起きません。

「太郎殿、こっちの人たちもダメです。全く起きません」

酒を持ってきた兼康の親しい人たちが成氏らを起こしに回りますが、誰一人満足に起きませんでした。

「そうか......」

それを聞いた兼康は瞑目して、右手で片手拝みの形を取ると

「三郎殿。この四ヶ月、いろいろ世話になった。だが俺はやはり平家の住人。いかに平家に時の運がなくなりつつあるとはいえ、源氏の世界でのうのうと生きられるほど器用ではないのじゃ。許せ」

とつぶやくと、刀を抜いて、成氏の左胸を貫きました。

「ぐはっ!」

さすがに酔いつぶれた成氏も自分の心臓を貫かれては、嫌でも目覚めるというもの。
その見開いた目が、自分を刺したのが兼康だとわかると二重の驚きの表情に

「成仏いたせ!」

兼康は刀を貫いたまま、右に払って横一文字に斬り払いました。

「やれ!」

兼康は誰ともなく命令すると、酒を持ってきた兼康の親しい人たちが持っていた刀で三十余人それぞれを一人ずつ刺し殺していきました。彼らは兼康の旧臣だったのです。

彼らは成氏らを全員惨殺すると、兼康の元に集まり、全員膝をついて下知を待ちました。

「わしは木曽殿より暇を頂戴してここに戻った。わしの謀事(はかりごと)により、木曽殿(義仲)がこの妹尾荘に向かってくる。備州にて平家に心寄せる者共、このわしに続け。共に木曽殿に大量の矢をお見舞いいたそうぞ!」

兼康は自分の旧臣たちにそう命令すると、全員

「はっ!」

とかしこまって、各地に散りました。

兼康帰還の報は妹尾荘はもとより、備前、備後、備中全域に駆け巡りました。そしてみるみるうちに二千騎の軍勢が兼康の元に集うことになるのです。

その最中、兼康は自分の手勢のみで備前国の国府(役所)を落とし、その代官も殺害しました。

備前国の国主(備前守)が源行家であり、源氏の勢力は完全に排除する必要があったからです。

兼康の狙いは、備州の平家軍を結集し、屋島の平家軍と連携することで、義仲の軍勢を討つことでした。キッカケはやはり水島の戦いによる義仲軍先発隊の敗退でしょう。

義仲軍の本隊は、播磨国と備前国の境である船坂(兵庫県赤穂郡上郡町)という場所で、行家の代官の下人が義仲に面会を求めたことで、兼康の謀反を知ることになります。

驚いた義仲、そして今井兼平は義仲に向き直って

「やっぱりこうなった。だからあの時、殺しておけばよかったのです。下手に情をかけたりするからこんなことに!!」

と義仲に噛み付きました。

「まぁまぁ落ち着け、四郎(兼平)。謀反を起こしたとて、所詮は平家の無骨者一人、大したことではあるまい。お前に三千騎を与える。直ちに備前に向かって瀬尾太郎を討て」

「先の水島の戦いの敗戦で兵の士気は下がってます。果たして私ごときで討てるかどうか」

「嫌味を言うな。軍の士気を上げるためにお前を遣わすのだ。もちろん勝つこと前提でな」

「ご冗談を。とにかく備前に向かいます」

兼平は吐き捨てるように義仲の陣を後にしました。

「やれやれ。ここらで本気で平家に一矢報いないと、また京都の公卿共が騒ぎ出すだろうなぁ」

義仲は遠い目を見ながら、そうつぶやきました。

(つづく)
posted by さんたま at 01:26| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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