2017年08月20日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(69)-法皇、動く-

西暦1183年(寿永二年)8月20日、故・高倉天皇(安徳天皇の父帝)の第四皇子・尊成親王は、後白河法皇の院宣を拠り所として、践祚(皇位を継承すること)・即位(天皇になること)して、後鳥羽天皇となられました。

ここに、安徳天皇の平家都落ち同行に伴う、天皇空席の異常事態は正常化され、院庁・朝廷は一応の安定を見ました。

しかし、後鳥羽天皇の践祚・即位は、義仲の評価を著しく貶めることになりました。

前回書いたように、義仲は源氏挙兵の立役者である以仁王の遺児・北陸宮を皇位につけるため、院庁の公卿などに働きかけ、しまいには(本意ではないとは思いますが)法皇を恫喝する真似まで行いました。

義仲は平家を京都から追放した立役者であるため、院庁もその意向は尊重してきました。

義仲に本来は従四位の者が任じられる「伊予守」に任官させたり、平家没官領140箇所を与えられるなど、至れり付くせりです(ちなみに、行家に宛行われた平家没官領は90箇所です)。

しかし「皇位への口出し」は天皇家の人間及び外戚のみが口を出せる問題であり、公卿どころか殿上人ですらない、一介の武将が口を出せる問題ではありませんでした。

ましてや、れっきとした高倉天皇の子(皇子)が存在しているにもかかわらず、天皇に即位すらしていない以仁王の子を皇位に就けるなど、どんな道理(屁理屈?)を用いても、即位の正当性が成り立つとは思えなかったのです。

義仲からすれば、北陸宮を皇位に就けることで、その後ろ盾となって、院庁から政治の実権を奪い取ろうとしたのかもしれません。しかし、皇位というのは、そんなに甘いものではありませんでした。

義仲は北陸宮の皇位継承をゴリ押ししてしまったことで、

「木曾の冠者(義仲)は、礼儀作法も知らぬ野蛮人よ。所詮は信濃の山猿よ」

と嘲りを受けることになってしまったのです。
さらに義仲にとって悪いことが重なります。

もともと、義仲をはじめ源氏の軍勢は統率が取れておらず、各隊の連携も取れていないため、京都の治安維持は決して良い状況ではなかったのですが、9月に入ってますます悪化し始めました。

それは、義仲入京の2年前、すなわち西暦1181年(養和元年)に発生した飢饉(養和の大飢饉)の影響によるものでした。

養和の大飢饉は、源平合戦を一時的に休戦に追い込むほどの全国的な大飢饉であり、そこからの持ち直しはまだ完全ではなかったのです。

その上、日本列島は西日本を平家が。東海道・関東を源頼朝が実効支配しており、朝廷の政治が行き渡っていないために、それらの国司(国の管理者)からの朝廷への年貢(税金)がまともに収められておらず、朝廷の収入源は義仲が実効支配している北陸地域と、奥州藤原氏が実効支配している奥州のみでした。

そんな事情もあり、8月、9月という収穫期であるにもかかわらず、朝廷の収入は激減し、その上、義仲軍の大軍が長期間京都に駐屯したため、京都市中の食糧不足という新たな問題を引き起こし、強盗、窃盗などが日常茶飯事に起きるようになってしまったのです。

平家一門が健在の頃は、京都市中の警備はほぼ完璧だったため、義仲は京都市民から平家と比べられ、それは少しずつ失望へと移っていました。

そのせいか、この頃の京都市中では「鎌倉の源頼朝が8月27日出立し、京都へ向かったらしい」という噂が巡っていました。京都市民は、望みを義仲ではなく、鎌倉の頼朝に託し始めたのです。

これがあながち根拠のない噂話でもないものだったらしく、当時の右大臣・九条兼実の日記「玉葉」の9月4日の項には、源雅頼(正二位/前中納言)が兼実を訪れて

「頼朝は必ず上洛します。彼のブレーンにいる中原親能は元々私の家の者(家人)。彼は一昨日飛脚を送ってきて、10日あまりの後、必ず上洛すると言っています。頼朝の上洛の前にまず親能が使者として法皇に申し上げることがあるとのこと。」

と語ったと記録に残っていることから、この頃には人々の頼朝への関心が以前よりも増していたと思われます。

また、この頃の京都市中には平家の動向も噂話として上っていました。

噂によれば、平家は、鎮西(九州)、周防・長門(山口)、安芸(広島)、淡路などの平家方勢力を結集させつつあり、安徳天皇は周防国の洋上(瀬戸内海か?)の船を皇居とされているとのこと。

そしてこの噂は「平家が再び京都に攻めのぼってくるのではないか」という京都市民の不安を煽っていました。

京都市中の治安維持はままならぬ、また平家の再攻撃が噂として出回る、これらが後白河法皇をイライラさせ、ついに9月21日、法皇は義仲を院庁に呼び出します。

「お前はいったい何をやっているのか?市中は未だ沈静化せず、また平家の影に怯える公卿どもが右往左往。ところによっては頼朝が西上する話まで飛び交っている。この状況をどう考えているのだ?」

義仲には返す言葉がありませんでした。

前にも書いたように、義仲に味方した源氏の諸将は、あくまで「味方」であって「配下」ではありません。ゆえに義仲に協力するもしないも諸将の自由ですが、この構造を院庁や法皇が知らないのは無理もないです。彼らは所詮、権威の上の為政者ですからね。

「市中の治安維持はお前の責任だ。お前は少なくとも京都市民の信頼を回復しなければならない義務がある。そのために何をする?」

法皇の問いに義仲は

「私に平家追討の命を下されたい。忍び寄る平家の影を追い払い、京都市民に安穏をもたらして見せまする」

と答えました。この答えに法皇は「あい、わかった」と答え、御剣を御手にとって「これを遣わす」と御剣を義仲に与えました。義仲は畏まってそれを受け取り、院を退出しました。

この後、数日の間のうちに義仲は軍勢を率いて京都を出発し、西に向かいました。但し、法皇が余計なことをしないように、自分の腹心である樋口兼光を京都の治安維持の名目で残しております。

これを見逃さぬ法皇ではありませんでした。

法皇は、朝廷で左史生(朝廷内の公文書の作成を行う「史」の役人)の役職にあった中原康定を密かに院庁に呼び寄せ、

「先の宣旨(源氏の勲功を定めた公卿議定)よって、頼朝には官位と褒賞が出ておる。その受領と御礼の名目で鎌倉へ行き、頼朝に会ってこい。その上であの者がどのような考えで東国を横領しているのかを聞き、とにかく上洛を促すのだ。」

と密命を与えました。

法皇はお目付役として残された樋口兼光の注意をそらすため、あえて官位を持つ人間を使わず、一般役人の中原康定を使者にしたのだと考えられています。

義仲に平家追討を命じて、そのスキに鎌倉の頼朝に使者を送る。さすがは権謀術数の達人(タヌキ)です。
そして10月頭、中原康定は、頼朝より三か条からなる上申書をを持って戻ってきました。

運命はじわじわと義仲に不利な方向に進みつつありました。

(つづく)
posted by さんたま at 12:00| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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