2017年08月18日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(68)-後鳥羽天皇の誕生-

西暦1183年(寿永二年)8月10日夜、西国に逃亡した平家で唯一の公卿である平時忠(正二位/権大納言)から、京都の院庁(法住寺)に書状が届けられました。

これは、もともと院が時忠宛に「三種の神器を返せ!」と打診していた返書でした。時忠の書状には平家が現在、備前の小島(岡山県の瀬戸内海の小島)に船百艘程度でいること、宗盛が三種の神器を返す意思があることなどを伝えていました。

しかし、時の右大臣・九条兼実は「今更、何をいうか」と一笑に付しています。

前回にも書きましたが、三種の神器のない状態での天皇の擁立については、兼実が後白河法皇「天皇不在が長い間続くのはよくありません」と言上したことで、法皇は、京都に残っている故・高倉天皇の二人の皇子、惟明親王と尊成親王のいずれかを天皇として擁立することを真剣に考え始めていました。

そう、もはや神器のあるなしは問題ではなくなっていたのです。

しかし、その4日後の8月14日、源義仲がとんでもないことを言い出し始めました。

全国各地の源氏の挙兵を促した以仁王の皇子が北陸におり、自分の挙兵が成功したのはこの皇子のおかげですから、次の天皇にはこの方を擁立してもらいたいと言い出したのです。

昇殿も許されず、公卿でもない従五位下の身分の武士が皇位継承に口を出すなど、当時の一般常識ではありえないことです。

さらに義仲は「このことには法皇様といえども異議は仰せになられるませぬように」という苦言まで呈していました。

とんでもない勘違い野郎です(笑)。

とはいえ、現時点において院庁を守っているのは圧倒的軍事力を持っている源氏の諸将であることは間違いなく、ここで義仲を怒らせるのは得策ではないと考えた院は義仲の言をのらりくらりと交わし、8月16日には、義仲を伊予守、行家を備前守に任じています。

これは前回、行家が「恩賞に差がありすぎる」と不満を漏らしてブチ切れたのを、院が気にして源氏の中で不協和音が生じるのを抑えたいという思いがあったものと思われます。

実際、備後国に比べると備前国は農業と産鉄と漁業が見込める豊かな土地でした。
また義仲が任じられた伊予国は河内源氏の初代棟梁・源頼義「前九年の役」(奥州安倍氏討伐)の功績で任じられた由緒ある国であり、源氏の勲功第一の意味もあったのではないでしょうか(表向きは頼朝としてますけど)。

また、同じ日、義仲に味方した以下の武将の任官も発表されています。

安田義定(甲斐源氏庶流):従五位下 遠江守
源 光長(美濃源氏棟梁):従五位下 伯耆守
村上信国(河内源氏庶流):従五位下 右馬助
葦敷重隆(清和源氏庶流):従五位下 佐渡守
山本義経(近江源氏):従五位下 伊賀守


記録上、私がわかっているのは上記のみです(他にもいるようですが)。

そして同じ日に、平家一門で唯一の公卿であった平時忠もとうとう解官(クビ)になります。神器返還のために時忠を解官しなかったのであれば、これを以って、法皇の中でも「もう平家はどうでもいい」という意思が固まったのだと自分は考えています。

この頃の平家一門は京都を脱出した後、旧福原京で一旦落ち着きましたが、程なくそこを出発していました。
先ほどの時忠の書状あるように、備後の小島を経た先に彼らが目指していたのは、九州の大宰府でした。

それは、太宰府が平家の西国拠点の要とも言える場所だったからです。

平家一門の巨大な財力の源泉は、先代の平家一門棟梁・平清盛の父・平忠盛の時代に始まっています。
忠盛は、肥前国神埼荘(佐賀県神埼市)の管理者になった頃から、この貿易のメリットに目をつけ、次の棟梁・清盛は九州地区の実質的実務統括者である「大宰大弐」に任じられると、博多を商業港に発展させて日宋貿易をさらに活性化させていました。

この時、太宰府を統括していたのは原田種直という武将で、清盛の嫡男だった平重盛の養女を妻にしておりました。

この種直は、西暦1181年(治承五年)2月に勃発した反平家活動「鎮西反乱」でも、平家方の武将として京都から派遣された平貞能と一緒に鎮圧に当たっています。

8月17日、平家一門は大宰府に到着し、原田種直や菊池隆直、また肥前に勢力を張っていた松浦党の力を借り、安徳天皇のために里内裏(仮皇居)を作っているという記録が「玉葉」(九条兼実の日記)に残っています。


一方、京都では、義仲が新帝(新しい天皇)擁立の件で、まだグダグダ言っており、院庁のいろんな人間に働きかけていました。

院庁としては、義仲の言うことを最初から聞く気はないですが、義仲を怒らせて源氏の兵が自分たちに向かわれてはたまったものではないので、なんとか義仲にこのことを忘れさせようとしていました。

そこで、御卜(占い)にて、神の声を聞き、その声を以って、義仲を納得させようとします。
言ってはなんですが、まぁ、神の力を借りた小細工ですよね(汗)。

最初の占いでは故・高倉天皇の皇子で残された兄弟のうち、兄宮である三之宮(惟明親王)が良いという結果が出ますが、法皇ご寵愛の丹後局の夢に四之宮(尊成親王)が松枝を持って現れる姿が見えたとのことで、法皇が独断で四之宮を選んだようです(このあたりがこの人のいい加減なところなんですが)。

で、占いの結果としては、第一が四之宮、第二が三之宮、第三が北陸宮(以仁王の遺児)という結果が出たと義仲に伝えられたのですが、これを聞いた義仲は

「北陸宮様を第一に立てるのが当たり前!。なんで宮様が第三位の扱いなのか!。今回の義仲の挙兵が成功したのは全て北陸宮様のお力によるものであり、何人もそこに異見を挟む余地はないはずだ!。というか、文句言ってるのは一体誰なんだ!!」

と激昂したと言われます。

九条兼実は「玉葉」にて

「そもそも占いの結果の第一と第二を入れ替えたことが事の始まり。そんなことするから痛くもない腹を探られる。そんな状況で何度も神に伺ったところで啓示もあるまい。小心者の政治はいつも自分では決められぬ。情けないことだ」

ボロクソに法皇を批判しています。

同年8月20日、四之宮(尊成親王)は、後白河法皇の院宣を受ける形で新しい天皇として即位されました。のちに鎌倉幕府を散々に悩ますことになる「後鳥羽天皇」の誕生です。

義仲としては

「こんなバカな話があるか!年齢的に考えれば年長である北陸宮様が即位されるのが物事の道理だろう。百歩譲って、兄である三之宮様ならまだわかるが、なぜ四之宮様が即位されるのだ?。絶対に納得できん!義仲はこの恨み忘れることはないだろう」

と恨みごと満載のコメントを出していました。

「玉葉」によれば、三種の神器がない状態での天皇の即位はこれまでに例がなかったそうです。
しかし、これによって、朝廷において「天皇不在」の状況は回避され、平家追討に向けて本気で舵を切ることになります。

また、この時、安徳天皇も未だ在位の状態であり、極めて短期間ではありますが、「この世に二人の天皇が在位する初めてのケース」になったことは間違いありません。

(つづく)
posted by さんたま at 14:53| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。