2017年07月17日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(65)-平家都落ち-

西暦1183年(寿永二年)7月、比叡山延暦寺は源氏に味方することを決定し、平家と手切れになりました。これを知った平家一門の棟梁・平宗盛は、京都を防衛するため、平資盛・重能宇治田原(京都府宇治市)に、平知盛・重衡近江国勢多(滋賀県大津市)に向かわせました。

また西国への動揺を抑えるため、平忠度(清盛異母弟/薩摩守)に百騎を与えて丹波国に遣わしています。

同年7月22日、京都に義仲軍が攻め入るという噂が出ました。これは同日、比叡山延暦寺の僧綱が比叡山を下山し、東塔惣持院に義仲の出城が完成したことを朝廷に報告したために出た噂でした。しかし、持てる兵力をほぼ外に出している平家の本拠・六波羅(現在の京都市東山区松原通南、山城町、大黒町、池殿町付近)は上へ下への大騒ぎとなりました。

一方で、義仲の別働隊として、伊賀国で平家継と戦っていた源行家は、大和国宇陀郡に転進し、吉野の大衆を味方につけることに成功しました。このため、宇治田原に駐屯していた資盛・重能の軍勢は京都の東と南の両方から迫り来る敵を相手にしなくてはならず、宇治から身動きができなくなっていました。

京都の北東の外縁部は日を追うごとに軍事的緊張が高まっていました。
そしてこんな時にある一報が六波羅にもたらされます。

「何?多田蔵人の動きがおかしいだと?」

宗盛に入った情報は、摂津・河内両国の代官を務める多田行綱(蔵人頭)が不穏な動きをしているというものでした。

この多田行綱とは、かつて西暦1177年(安元三年)6月に東山鹿ヶ谷(京都市左京区)で起こった平家打倒の陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」を清盛に密告した裏切り者で、その時から平家に味方していましたが、もともとは摂津源氏の出自でした。

宗盛はまさかと思いつつも、丹波に駐屯していた平忠度に連絡を取ろうとしましたが、忠度はすでに都に帰還していました。

「多田蔵人、ご謀反でござる。摂津河尻の平家の船は悉く蔵人の手にかかり、物資を収奪されました」

忠度の報告を宗盛は愕然としながら聞きました。
敵は東方だけでなく、西方からも忍びよっていたのです。さらに大和の大衆も源氏に味方するとなれば、東、西、南、周りはすべて敵でした。

また、北陸を奪われた今、西国からの物資だけが頼りだった平家にとって、その船を奪われたことは、補給路を奪われたに等しいことでした。


同月24日、宗盛は、叔父である平頼盛に対し、義仲が軍勢が都に入ることにないように山科(京都市山科区)に出陣するようにお願いしています。

そしてその後、一人自室に籠り、取るべき方策を模索しました。

現時点の平家の本体の兵力は二万騎。しかし北陸の敗戦で怪我人が多く、満足に戦えるものは一万にも満たない数でした。

数日前、六波羅に報告にきた佐渡重貞は攻め寄せる義仲の軍勢は五万騎を超えるといいました。平家の拠点でもある北陸は完全に義仲に掌握され、西国からの物資補給に頼らざるえないのに、多田行綱の謀反によってそれも収奪されています。

敵である義仲は比叡山東塔に砦を築いた以上、勢多の本陣から多くの兵をここに移すことは時間の問題です。
そうなった場合、確実に都が戦場になり、焼け野原になるのは必定でした。

(それだけは避けなくてはならない。平家一門の棟梁として、この都を戦場にすることだけは......)

24日深夜、宗盛は思案の末、六波羅の建礼門院(徳子/安徳天皇生母/宗盛妹)を訪れました。
徳子は

(このような緊張状態に総大将が何用であろう)

と訝しみましたが、宗盛の土気色の顔色を見た瞬間、これが尋常でないことを察知しました。

「情けないことではあるが、もはや事態はどうにもなりませぬ。このままでは、この都(京都)は早晩、血で血を洗う戦場となりまする。そのような様を御上(法皇)や主上(天皇)にお見せするわけには参らぬゆえ、ここは一旦、西国へお移り頂きたいと考えております」

「兄上......」

「ワシに父上ほどの度量がなかったばっかりに、源氏の者どもを都に入れさせてしもうた。北陸で七万騎もの兵力を失った今、我らにに満足に戦える兵は一万騎。賊徒(義仲)は五万騎と言う。口惜しいが、これでは戦いにならぬ.......」

宗盛はボロボロと大粒の涙を流し、それを直垂の衣で拭っていました。
そのような兄の姿を見た徳子は何も言えず

「今は、ただ、兄上の良きように取り計いましょう」

と西国への移動に一定の理解を示しました。

これより先、宗盛の行動は「西国落ち」の一本に集約されます。まず、同日中に京都の各所に陣取っていた平家の諸将全員が六波羅に呼び集められました。

この動きを察知した後白河法皇は、

(平家に何か動きがあるな......)

と考え、宗盛に

「この慌ただしさは何事ぞ。火急の事態が起きているならば、速やかにその内容を知らせよ」

と申し知れたところ、宗盛は

「取り立てて何もございませぬ。これより御所に伺います」

と詳細をはぐらかして答えたので、逆に「やはり、何かある」という法皇の疑念は確信に変わりました。

翌25日明け方、後白河法皇は源資時、平知康の2名のみを供とし、その他の女房、公卿らに一切何も告げず、忽然と院政庁である法住寺殿から姿を消したのです。

法皇は、5月の倶利伽羅峠の戦いによって平氏の源氏の軍事バランスが崩壊したこと、また官軍(平家の北陸追討軍)として送り込んだ十万騎が賊軍(義仲)に敗退し、二万騎になって帰洛したことから、平家の権勢の衰えを感じていました。

そして7月に入り、比叡山延暦寺が源氏に味方することを表明したことで、時の勢いは源氏に傾いており、これ以上の平家の肩入れは身を滅ぼしかねないと考えていました。

その状況において、平家が京都防衛のために派遣した各将を六波羅に呼び戻すということは、平家は都を捨てて、福原で再起を図るつもりではないかと法皇は考えました。

そうなった場合、「治天の君」である法皇が平家の手の内に確保されることは、平家に「官軍」のお墨付きを与えることに他ならず、源氏はとてつもないハンディを背負うことになりかねません。

また、もともと法皇は平家に対し、愛憎渦巻く複雑な思いを持っていました。
法皇の最愛の人・建春門院(滋子)は清盛の義理の妹であり、その血縁関係を持って、後白河院と平家は連携した政権運営を行っていましたが、建春門院亡き後の法皇と清盛の間は、政治の主導を巡って闘争が繰り返され、時には法皇自身が清盛によって幽閉されるという異常事態に陥ったこともありました。

しかし、時の上皇である高倉上皇の死によって後白河法皇は幽閉を解かれ、再び「治天の君」となって院政復帰しました。そして清盛亡き後は、平家を牽制するために異母妹である八条院と連携して政治を行っていました。

従って、法皇にとって平家とは、神聖にして侵すべからずの法皇の権力を、臣下にすぎない平家権勢の下に組み伏せた屈辱的な存在であり、倒すべき敵でもあったのです。

法皇は法住寺を脱出したあと、鞍馬方面に抜け、横川を経由して最終的に比叡山に入ります。
そして、法皇の行き先は院庁の人間はおろか、丹後局(法皇の寵姫)も含めて誰一人知りませんでした。
そしてこの法皇の失踪が、宗盛をさらなる「鬱」に陥れてしまいます。

「もうよい!こうなれば主上(安徳天皇)だけでも西国にお連れする!」

同月25日、やけっぱちになった宗盛は、平家本拠の屋敷である六波羅や西八条に火をかけて、幼い安徳天皇を二位尼(平時子/清盛未亡人)、建礼門院らと共に輿にに乗せて、朱雀大路(現在の京都市千本通)を南へ向かい、淀を目指しました。この時、平時忠(清盛義弟/権大納言)の指示により、三種の神器も持ち出されています。

これに驚いたのが、山科に出陣していた頼盛でした。

「これはどういうことなのだ!」

実は頼盛の元には、一門都落ちなどの話は一切届いていなかったのです。
自分の知らないところで平家本体が都から撤退して姿を見て、たまらずに嫡男・為盛を使者として宗盛の元に派遣しています。

しかし、法皇に逃げられたことで頭がいっぱいだった宗盛は、完全に頼盛のことを失念していました。
為盛の言上を聞いた宗盛は

「実は法皇様が失踪しちまってな......」

「は?」

「いや、だから、そっちに気が回ってたというかなんというか......察してくれ」

「つまり、我が父のことを忘れていた、ということでしょうか?」

「そういうわけではない。わけではないのだが、すまぬ。他にもやることが山積みでな.....」

という具合にはぐらかされたそうです。
帰ってきた為盛から報告を聞いた頼盛は、ただ一言

「わかった」

とだけ言い、軍勢を率いて都に戻りました。
しかし、自分の池殿の屋敷は宗盛がつけた火で焼け落ちており、頼れる一門もすでになく、やむなく後白河院に助けを求めたところ「八条院を頼られよ」との指示を受けています。

ここで八条院を頼るように言った法皇の真意は、頼盛がもともと八条院に近い人間関係を持っていたこと、また八条院が後白河院の院政を補佐していた関係から、八条院ならば頼盛を疎略に扱わないだろうという考えがあったからでした。

同じ頃、平資盛も平家一門とは別行動を取り、後白河院に庇護を求めていますが、こちらは拝謁を許されなかった為、後追いで一門の都落ちに合流することになっています。。

こうして、平家一門は都を後にし、西国へ落ち延びていくことになりました。

時の右大臣・九条兼実は自身の日記「玉葉」において

「昨は官軍と称し、縦えば源氏等を追討す。今は省等に違い、若しくは辺土を指し逃げ去る。盛衰の理、眼に満ち耳に満つ。悲しむ哉。」
(現代語訳:昨年は官軍と称して源氏を追討したが、今は都から遠く離れた地を指し示して逃げていく、物事が盛え、衰えるのは世の中の道理なれど、悲しみが目と耳に満ちてくる)

と平家の西国落ちを記録しています。

(つづく)
posted by さんたま at 19:45| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: