2017年07月16日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(64)-比叡山延暦寺の葛藤-

西暦1183年(寿永二年)6月1日、加賀国篠原(石川県加賀市旧篠原村地区)で、平維盛(重盛嫡男/小松家当主)率いる北陸平家追討軍を大敗北に陥れた源義仲(木曽義仲)は、同月10日に越前国の支配を回復し、北陸を完全に手中に収めると、13日には近江国勢多(滋賀県大津市)にまで進出していました。

その間、義仲は平家の迎撃部隊が攻めかかってくることを想定し、慎重に軍を動かしていました。

平家も義仲の近江入りは把握していましたが、北陸戦の敗戦で帰京した二万騎は疲労で使い物にならず、ぶっちゃけ兵力と物資を著しく欠いており、組織的な迎撃体制が整っていませんでした。

6月18日、2年前に九州の反乱鎮圧に派遣され、肥後国の菊池隆直を降伏させた平貞能(清盛の第一の腹心/肥後守)が帰京しました。かの軍勢は数万という風聞がありましたが、実際の兵力はわずかに千騎にすぎず、平家一門の方々は気色を失いました。

また、東海道からも安田義定(甲斐源氏/遠江国守護)源光長(美濃源氏)が兵を率いて義仲軍に合流していました。この頃の甲斐源氏(武田信義、安田義定、一条忠頼)は頼朝とは連携しつつも独自の勢力を築いていたため、鎌倉殿(頼朝)の御家人ではありません。よって義定の義仲軍への合流は鎌倉殿の意向を受けたものではありません


平家の本格的な迎撃体制が見えてこない中、義仲はある賭けを行いました。
同年6月末、義仲は近江国勢多に本陣をおいたまま、比叡山延暦寺との交渉を開始したのです。

比叡山延暦寺は天台宗の本山でありながら、京都の北東に位置して近江に接し、宗教的のみならず実益の面からも京都の北東を守ってきた寺院でした。ゆえに、義仲はここ延暦寺を京攻めの侵入口と定め、延暦寺に対し協力を持ちかけたのです。

とはいえ、義仲が延暦寺に送った書状には

「私たちは北陸で平氏を敗った。それゆえ京に上洛をして平氏を追討したい。しかし、一つ気になることがある。あなたたち延暦寺の考えがわからない。延暦寺は平家に味方するのか、それとも源氏に味方するのか、どっちに味方するのかハッキリしてほしい。

もし悪徒平氏に味方するのであれば、我々は延暦寺の大衆(僧兵)と合戦になる。もし合戦になれば、延暦寺は一瞬で滅亡することは間違いないだろう。それは悲しいことだ。悪逆を追討するために立った我々とともに、神、仏、国、そして皇室のために我々源氏と一緒に戦ってほしい。」


という内容のものでした。
言葉は丁寧ですが、有無を言わせず「脅し(恫喝)」に等しいですよね。

当時の延暦寺では、大衆(僧兵)たちは時の流れに敏感で、源氏に味方しようとする意見は大勢を占めていました。一方、僧綱(役職についている僧)たちはどちらにもつかず、源平両氏の和平を模索していました。

また、平家にとっても、延暦寺は京都を守る最後の砦でありました。
そのため、義仲が延暦寺に連絡してきたと聞いた宗盛は、「延暦寺を平氏の氏寺に、日吉社(比叡山の地主神。天台宗と延暦寺の守護神)を氏社とする」という起請文を平家一門の公卿連名で出し、延暦寺を味方につけようと必死の工作をしていました。

義仲が延暦寺と交渉始めた事実は朝廷にも伝わっており、「玉葉」(右大臣九条兼実)の日記には、「賊軍は今日攻め込んでくる」「いや明日らしい」「鎌倉の頼朝がせめてくるらしい」「いや、木曽の義仲とその郎党たちだそうだ」と公卿の間でかなりの憶測まじりの情報が飛び交っていることが記録されています。


義仲からの書状、そして平家からの起請文に、延暦寺内は、大衆・僧綱問わず、意見が完全に真っ二つに割れていました。終夜議論を繰り返した結果、最終的に延暦寺の老僧たちが議論して下した結論は

「我が比叡山延暦寺は源氏につく」

というものでした。

実際、大衆や僧綱だけでなく、老僧の中でも意見が散々割れていました。
その中で老僧たちが最も重視したことは「延暦寺がなんのために存在するのか」でした。

言うまでもなく、それは国家鎮護であり、皇室の未来永劫の安定にあります。

そしてその皇室の外戚(親戚)であり、比叡山にも寄進を欠かしたことがないのが平家であり、その恩恵として栄耀栄華を極めいました。

そう考えた場合、延暦寺としての大義名分は間違いなく「平家」にあります。

老僧たちはこの面を重視しつつも、昨今の全国各地の反乱における官軍(平家)賊軍(源氏)の戦況を鑑みた場合、官軍の敗退多く、源氏の勢いを認めざるを得ないという現実がありました。

老僧たちはこれを「天の意思」と考えた場合、今の平家の栄華は義仲の言うように「悪行」のレベルにまで達しているのではないかと考えました。天はそれを戒めるため、新たな皇室の守護者として源氏を迎え入れようとしているのではないかと。

従って、皇室を新たに守る存在が源氏であるならば、命運尽きかけている平氏ではなく、源氏につくべきだと老僧たちは考えたのです。

しかし、これは平家にとって全くの想定外でした。

「延暦寺を氏寺、日吉社を氏社にすると」いう平家一門の起請文を反故にされたことは、宗盛だけでなく平家の権威を著しく貶めました。なおかつ、京都の北東が源氏の勢力に落ちたことを意味しました。要するにいつでも京都に攻め込める環境が整ってしまったのです。


平家一門棟梁の宗盛も、この事態は看過できませんでした。

7月13日、宗盛は、平資盛(維盛弟/右近衛権中将)と帰国したばかりの平貞能に千騎を率いさせて宇治田原(京都府宇治市)に着陣させて京都の東方の最前線としただけでなく、平頼盛(清盛異母弟/権大納言)を山科(京都市山科)に出陣させて、資盛・貞能の抑えとしました。

さらに平家一門の中で最強の武将である平知盛(清盛四男/宗盛弟/権中納言)平重衡(清盛五男/宗盛弟/左近衛権中将)三千騎を与えて、義仲の本陣の近江国勢多に向かわせました。
これが当時、平家が満足に動かせる全軍に等しいものと思われます。

同月14日、義仲の叔父で、志保山の戦いで平家に敗れた源行家(新宮十郎/義仲の叔父)の軍勢が、伊賀国(三重県)に進出し、平家を牽制しています。

しかし、伊賀は伊勢平氏の本拠とも言えるところで、平家重代の忠臣である平家継(貞能の兄)が守っており、きっちり防戦していました。

源平の争乱の舞台は確実に京都に迫っていました。

(つづく)
posted by さんたま at 12:45| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: