2017年07月01日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(63)-篠原の戦いと斎藤実盛-

西暦1183年(寿永二年)6月1日、倶利伽羅峠の戦い志保山の戦いで敗北した平家追討軍は在地の豪族の力を結集し、追っ手として追撃してくる源義仲(木曽義仲)を迎え撃つ体制をとっていました。

その中には歴戦の武士が多く参加していました。例を挙げるならば

相模国大庭御厨の領主・大庭景親の弟で「石橋山の合戦」源頼朝を苦しめた俣野景久

源義賢の部下で義賢遺児・駒王丸(後の義仲)の命を助け、信濃に逃した斎藤実盛

流人時代の源頼朝の友人で、伊豆国伊東庄領主・伊東祐親の弟、伊東祐氏

武蔵国大里郡畠山荘の領主・畠山重能(源頼朝の御家人・畠山重忠の父)

武蔵国多摩郡小山田荘の領主・小山田有重(畠山重能の弟)

などなど。
以外と源氏に縁ある武将が多いですね。

彼らはある時、酒の席で斎藤実盛「源氏の勢いは平家を超えている。我々は源氏につくべきではないか」と諸将に意見すると、諸将も「いかにも」とそれに賛同しました。

翌日、再度実盛が諸将に問うと、俣野景久

「昨日はああ言ったが、俺たちは関東ではそれぞれ名前が知れ渡っている剛の者だ。その我らが時の勢いを見て強い方につくという真似はできない。皆は知らんが、俺は平家の者として最後まで務めを果たす」

と答えたので、実盛は

「やはりそういう答えよの。いやいや、昨晩は酒の席で諸将の肚の内を試させてもらったのだ。わしはこの戦を死に場所と決めておるし、京に戻るつもりもない。大臣殿(宗盛)にもそのことは申し上げておるでな」

と大笑いして、全員一致の考えに至ったという逸話が「平家物語」に残っています。


6月1日午前八時、源義仲率いる五千騎は、篠原に駐屯している平家追討軍四万騎に向けて、喚声をあげて一気に攻めかかりました。

対する平家追討軍の先陣は畠山重能小山田有重、この二人は平家の武将の中でも歴戦の勇敢で、京都で待機していましたが、宗盛より出撃命令を受け、篠原の平家軍に加わっていました。

対する義仲側は義仲四天王の一人、今井兼平率いる三百騎。

戦いは正午過ぎまで続き、畠山・小山田両名は散り散りとなり撤退を余儀なくされましたが、今井兼平も数多くの兵を失い、軍勢を維持するのがやっとの状況でした。

総大将の平維盛の意思に反し、平家方の士気は一向に上がらず、源氏の勢いに耐え切れぬ部隊が続出していました。維盛と軍議で反対意見を出した侍大将の平盛俊、藤原景家らも一人の供も連れず、総大将の命令に反して勝手に戦線離脱をする有様で、もはや指揮命令系統が混乱しまくっていました。

前述の歴戦の勇士たちも斎藤実盛を残して皆、討ち死にしていました。
この時の実盛の姿は、赤色の錦の直垂(鎧の下に着用する衣類)に、萌黄威(黄と青の中間色)の鎧をつけ、金色の太刀を持って威風堂々とした大将の姿でした。

実盛は、平家軍の多くが退却する中、義仲軍の中に兜をつけた騎馬武者の一団が向かってくるのを見ると

(このあたりじゃな)

と考えて、たった一人反転して、その騎馬武者の一団に向かって突っ込みました。
驚いたのは騎馬武者の方でした。すぐに手綱を引いて進軍を止め、迎撃体制を取ろうとします。

「な!何を考えておられる。味方は皆退却し、たった一人で我らに向かって来られるとは.....さぞや勇名高きお方であろう。名を名乗られよ」

騎馬武者の中でリーダー格の者がそう叫ぶと、実盛も突撃を止め

「そういうお前は何者だ?」

と尋ねました。

「信濃国の住人、手塚太郎(光盛)」

リーダー格の者が名を名乗ると、実盛はニヤリと笑い

「ほう。なかなかの武者ぶりだな。気に入った。お主を見下してるわけではないが、考えるところがあって名乗らぬ。来い!手塚!」

と言いながら、両者が馬を並べようとするところに、光盛の郎等が、主人を討たせまいと割って入理、実盛に組み付きました。

「ははは!手塚、お前は主人思いの良い郎党を持っているのう。郎党、お前もこの『日本一の剛の者』と謳われたワシに討たれることを誇りとせよ」

そう言いながら、実盛は郎党の首を掴んで引き寄せ、そのまま首を刎ねてしまいました。

その間、光盛は実盛の反対側に回って草摺(鎧のスカートみたいな部位)に二太刀攻撃を加えました。

「うぐ!」

と実盛がうめき声をあげ、怯んだところに光盛が実盛に飛びかかってそのまま落馬しました。
落馬して地面に組み伏せられては、そのまま首を取られてしまいますので、両者とも地面に伏せられないように、ゴロゴロと転がって上下が入れ替わっていきます。

しかし、実盛はすでに長時間の戦いに疲れており、体力がもう限界に近いものがありました。加えて光盛は若く、実盛が押し返そうとする力を、抑え込むことは十分可能でした。何度目かの上下の入れ替わりのあと、ついに実盛は力尽き光盛に組み伏せられ、

「首を討て!」

と光盛が自分の郎党に命令し、実盛はついに討たれました。
光盛は本陣に帰りその首を義仲に差し出し、検分をお願いしました。

「何者じゃ、これは」

義仲が光盛に問うと

「それが、どうも奇妙な者で.....侍には違いないのですが、錦の直垂を着ているので大将かと思えば、率いている郎党もなし。名乗られよと申し出たのですが、決して名乗りませんでした。声はかすかに坂東(東国)訛りに聞こえました」

光盛のその言葉を聞きながら、その首をまじまじと見ると義仲は、何か思い当たることがあったようで

「手塚太郎、大義であった。すまぬが、樋口次郎(兼光)を呼んではくれぬか」

と光盛に命じました。呼ばれた樋口兼光は義仲に一礼する前に目の前にある首にギョッとなり

「こ、これは斎藤別当(実盛)殿の首ではございませんか!なんと痛ましい姿に.....」

と驚愕の声をあげました。

「やはりそうか。幼き頃、上野から信濃を超える時一緒だったのでうっすらと見覚えがあると思っておったが。そなたは斎藤別当殿と親しかったからな、確認のために呼んだ。しかし、わからんこともある。もし斎藤別当殿ならもう七十歳を超えているはずだ。しかしこの首はもみあげと顎髭が黒いぞ。本当に斎藤別当殿の首か?。」

と義仲が兼光に問うと、兼光が突然泣き出したので

「次郎?」

と義仲が訝しむと

「申し訳ございませぬ。その理由を申し上げようと思ったのですが、その時のことを思い出してしまい、ついつい涙が出てしまいました。」

兼光は涙を拭うと、義仲に向き直りました。

「斎藤別当殿はいつもこう申しておりました『六十過ぎて戦場に向かう際にはもみあげと顎髭を黒く染めて、若々しく見せようと思うのだ。若殿たちと先陣を争うのも大人げないし、おいぼれと人に侮られるのも悔しいからな』と、まさか本当に染めておられたとは......この首、洗わさせていただけますか?」

兼光が義仲に許しを得て、首を洗うと、兼光のいう通り、白髪になりました。

「いかに武士の宿命とはいえ、命の恩人を手にかけることになるとは......許してくだされ」

義仲は実盛の首に深く頭を下げる他に、この気持ちをどう表していいのかわかりませんでした。

「平家物語」には、実盛がなぜ「錦の直垂」を着ていたかのことについての記載があります。
実盛は、北国の出陣の際に平家一門棟梁・平宗盛に「暇乞い」をしており、その際、出陣先の越前は自分の故郷であるので、「故郷には錦を着て帰れ」との故事に習いたいと、宗盛に許可を求めたそうです。

何れにしても、この「篠原の戦い」で、事実上平家の北陸追討軍は完全に壊滅したことになります。

この戦いの第一報は3日後の6月4日に京に届いていることが「玉葉」(右大臣・九条兼実の日記)に記載されており、翌5日には前飛騨守有安(中原有安か?)から官軍敗退の詳細を聞いたと記載があります。

そこには

「官軍(平家追討軍)は四万余騎の勢いではあったが、甲冑を帯びるの武士は僅かに四〜五騎ばかりだった。四万騎のうち過半は討ち死にした。その残りの者は山林に逃げたが、多くは打ち取られた。平盛俊・藤原景家・藤原忠経等(平家の第一の勇士たち)も伴も連れずにそれぞれ逃げ去った。 敵軍(義仲軍)は五千騎に及ばないほどだったらしい。この戦いの最大の敗因は総大将維盛と先の3人の侍大将の方針がまとまらなかったことだ」

と書かれてあり、平家の大敗北であったことを裏付けるものでした。

「玉葉」6月6日の項には、篠原の戦いに敗れた官軍の将兵二万騎ほどが続々と入京したと記載があります。

この後、源義仲はさらに進軍を進め、6月10日には越前を平定13日には近江に入ります。
この義仲の勢いに対し、平家の本体の将兵は北陸の敗北で疲れ切っており、迎撃の体制もままなりませんでした。

時の味方は完全に源氏に傾いていました。

(つづく)
posted by さんたま at 16:52| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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