2017年06月10日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(62)-嫡孫の重圧-

西暦1183年(寿永二年)5月11日の「倶利伽羅峠の戦い」、翌12日の「志保山の戦い」で平家は源氏に連敗を喫しましたが、ここから約半月の間、源氏・平氏の間に戦闘の記録は残っていません。

ただ、京にはこれらの戦の続報が入り、それらは時の右大臣・九条兼実の日記「玉葉」から窺い知れます。

「玉葉」よれば5月13日には、倶利伽羅峠の戦いの第一報が入り、兼実自身「平家の落ち目は明らか。これからは源氏の栄える世の中になる」的な忘備録をつけています。

その3日後の5月16日にはさらなる詳細な報告が入った模様で「平家軍は過半数が死に、連敗した」とあります。おそらくこれは志保山の戦いも含めたものでしょう。

倶利伽羅峠の戦いで大敗を喫した総大将・平維盛は、加賀国まで撤退し、篠原(現・石川県加賀市篠原町)に陣を構えました。その数およそ四万騎と「玉葉」に記載がありますが、倶利伽羅峠での維盛の撤退時の兵力が二千騎であることを考え、志保山の戦いで撤退した平忠度の別働隊の兵を合わせ、在地の平家の勢力を合わせても三万いたかどうか微妙なところでした。

しかしながら、この時は総大将・平維盛だけでなく、侍大将として平盛俊(平家一門の政所別当)藤原景家(かつての維盛の侍大将・伊藤忠清の兄)藤原忠綱(伊藤忠清の嫡男/景家の甥)が揃っていました。

一方、源義仲は、一時的とはいえ平家の手に落ちた越中、加賀を再び源氏の勢力下に固めると、五千騎を率いて平家が陣を張っている篠原に向けて進軍していました。

篠原の陣所では偵察部隊が義仲の来襲を維盛に伝えると

「全軍、迎撃の支度を。倶利伽羅峠のお返し、そして(志保山で死んだ)知度の弔い合戦じゃ」

と侍大将に命令を下すと、忠綱だけが「はっ」とかしこまりましたが、盛俊、景家の両名は微動だにしませんでした。

「越中(盛俊)、飛騨(景家)、いかがしたのじゃ」

維盛が訝しんで声をかけると

「恐れながら、御大将に申し上げまする。私はここは一旦、京まで引き上げるが上策かと存じまする」

と盛俊が口を開きました。

「何だと」

「我が軍は倶利伽羅峠、志保山で半数以上の勢力を失っております。これ以上の戦力の損失は避けるのが上策であると存じまする」

「黙れ、越中!もともとはその方が般若野で今井兼平に奇襲を受け、部隊を壊滅させたことから、我らの敗戦が始まっておるのじゃ。よくもそのようなことを言えたものよ」

「責任を感じているから言えるのでござりまする!」

盛俊も次第に語気が荒くなってきました。

「恐れ多くも我らが棟梁・内府様(宗盛)より預かった兵馬であるからこそ、今、ここで戦うのは自滅に等しいと申し上げているのでござりまする!」

「木曽は一万足らずじゃ。我が方は少なく見積もっても三万はおる。戦力はこちらが上でじゃ」

「戦力はこちらが上でも、士気では負けておりまする」

今度は景家が口を開きました。

「飛騨、そなたも我が命に逆らうか......」

「叔父上、中将(維盛)殿に対して言葉が過ぎましょうぞ」

甥に当たる忠綱が景家に対し、諌めようとしますが。

「臣たるもの、主が間違った方向に進むのを諌めるのもお役目じゃ。控えておれ!!」

と一喝されて、忠綱はすごすごと奥に引いてしまいました。

「飛騨、私が間違っていると申すのか」

維盛は景家の前に進み、見下しながら言いました。
景家は維盛を見上げながらも、一礼をし

「恐れながら、御大将の判断は平時の戦いであれば止めは致しませぬ。されど、我らは連戦連敗。せっかく手に入れた加賀の支配権も失い、軍の士気は下がっておりまする。そもそも倶利伽羅峠の戦いでは木曽の五万騎に対し、我らは七万騎で負けたのでございますぞ。」

と言上すると、

「あれは夜の闇を利用した攻撃と、四方を谷に囲まれたため、いたずらに兵馬を損じてしまっただけじゃ。今度は平地での戦い、負けはせぬ」

と維盛も反論しました。

「では、どうあっても戦われるのですな?」

再び盛俊が言葉を発すると。

「このままおめおめと京に帰るなど、許されることではない。直ちに迎撃体制を取れ!」

盛俊と景家は顔を見合わせて頷くと「承知致しました」と頭を下げました。

維盛からすれば、かつて富士川の戦いで大失態を演じ、火打城の戦いで汚名を返上し、越前、加賀を支配下に収めて十分の功績をあげていたところに、倶利伽羅峠、志保山で過半数の戦力を失った現実は、とても受け入れがたいものがありました。

維盛は清盛の嫡孫であり、父は平重盛で清盛の嫡男だったのですが、42歳の若さで病死しました。それゆえ、平家一門の棟梁の座は宗盛が継ぐことになり、維盛は嫡流でありながら、一門の中に脇に追いやられていました。

この時の維盛は若干25歳。平家嫡流である重盛流(小松家)の当主として、とてもつもない重圧を抱えていたのでした。

(つづく)
posted by さんたま at 18:12| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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