2017年06月05日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(61)-狂った天秤-

西暦1183年(寿永二年)5月11日、平維盛率いる平家追討軍七万騎と、その追討軍を迎え撃つべく越後から出兵した源義仲率いる五万騎は、越中と加賀の国境にある砺波山付近(以下「倶利伽羅峠」/富山県小矢部市)で激突し、義仲の闇に紛れた奇襲作戦によって、平家追討軍七万騎は倶利伽羅峠の谷底の露と消えました。

当時、維盛が率いていた追討軍は全部で十万騎で、残りの三万騎は平忠度(清盛異母弟)平知度(清盛七男)に預けて、別働隊として志保山(石川県宝達山付近)に向かわせていました。これは義仲がどういうルートで攻めかかってくるかわからず、能登と越中、加賀と越中の境に着陣せざるえなかったからです。

しかし、義仲はこの動きを察知していました。
ですので、義仲は倶利伽羅峠の戦いの前に、叔父の源行家に一万騎を与えて、別働隊として志保山に向かわせていました。

義仲は維盛率いる本隊が倶利伽羅峠に着陣しているのを察知し、志保山に着陣した平家別働隊が本体の援軍としてを動けないようにするため、行家に別働隊を率いさせたのです。

行家は義仲より

「叔父御、敵が動くまでこちらが動いてはなりません。」

ときつく言い聞かされていました。
本線の戦いに加われない行家は、相当悔しく思ったようです。

11日夜半、義仲は攻めに転じ、倶利伽羅峠で維盛を散々に打ち破ります。
倶利伽羅峠の戦況は志保山の忠度、知度にも伝えられ、彼らが倶利伽羅峠に援軍として向かおうとするところを

「待っていたぞ平家の公達。ここ先は通さん!」

とばかりに行家率いる一万騎が攻めかかりました。
しかしそれっきり、行家からの伝令も報告も義仲の元に届きませんでした。

倶利伽羅峠の戦いから一夜明けて翌12日、義仲は手勢の中から負傷者を除いた二万を率いて志保山に向かいました。行家から状況の報告がないことを不審に思い、行家の身に何かあったのでは?という不安の確認もありました。

義仲が志保山に入った時、行家の軍勢はほぼ壊滅状態で、残存兵を取りまとめて山の麓で休息していました。

「叔父御!」

義仲は行家の姿を確認すると、下馬して駆け寄りました。
行家は兜をなくし、髪を振り乱し、泥にまみれた甲冑とともにやつれ果てた姿を大木の麓に晒していました。

「木曽殿(義仲)......面目ない.......」

行家はそう言って義仲の面前で平伏するのが精一杯でした。

「周辺の警戒を怠るな。平家軍はまだ近くにいるぞ。油断するな!」
「ははっ」

義仲は行家を介抱しながら、兵に命じます。

行家は義仲の手を払いながら

「敵は我らの倍以上の兵力でござった。それでも一時は平家の軍勢を山頂にまで押し戻した。しかしそれが罠じゃった。敵は我らの襲撃を予測し、あちこちに伏兵を......」

「叔父御、もう喋られるな。あとはこの義仲にお任せあれ。叔父御はここでしばし休息を」

義仲はそう言うと、行家を大樹の根元に横にして、自分の馬に戻りました。
兵たちは隊列を乱さず、警戒の色を解かず、義仲の下知を待っていました。

「者ども良く聞け。この山の上には敵がおる。昨晩我らが破った平家の残存兵じゃ。ここにいる十郎(行家)殿が敵を牽制し、倶利伽羅峠へ進軍するのを身を呈して防いでくれた。その十郎殿の恩義に応えるためにも、この一戦、負けられんぞ!」

と兵を鼓舞すると、刀を抜き、

「目指すは山頂の平家軍!皆、声を出してかかれー!」

と全軍に進軍の下知を与え、義仲軍は喚声をあげて一目散に山頂を目指して進軍しました。

驚いたのは平家軍です。
死に物狂いで行家軍を山の麓まで後退させ、暫時休息を取っていた忠度、知度は再び倶利伽羅峠を目指すつもりでした。この二人はこの段階で総大将維盛が敗れたことをまだ知らなかったのです。

「あれは、どこの軍勢じゃ!」
「どこの軍勢でも構わん、全員起きろ!敵じゃ!」


忠度、知度は慌てて迎撃体制を整えようとします。
二万の騎兵が大声で喚声をあげながら進軍していることもあり、平家軍も雑兵に至るまですでに起き出して、防御壁を作り出していました。

ただ、行家との戦いでの疲れもまだ残っており、さらなる援軍の攻撃に士気が下がりつつある平家軍に対し、源氏は勝ち戦で士気が高く、この段階で源氏は圧倒的優勢でした。

平家別働隊の本陣は志保山の山頂付近にありました。
すでに迎撃体制は整い、向かってくる源氏の軍勢に対し、平家は高台より岩などを落として源氏の兵を防いでいました。

しかし、思った以上に平家軍の疲労は濃く、兵の動きが鈍り始め、やがて源氏の攻めを支えきれなくなります。
平家の陣の中にも源氏の兵が入り込み、忠度、知度も刀を抜いて自ら戦いました。

知度の目にその中で一人勇猛果敢に戦っている源氏の武士が留まりました。
年齢はおよそ五十歳前後かと見えますが、刀捌きが異常に早く、ほとんど一太刀で兵たちが倒れていきます。
その者はゆっくり、知度に近づいてきました。

「平家の公達。名を名乗られよ」

その武士が知度に尋ねましたが

「無礼者。自分から名乗るのが筋であろう」

と声をあげると

「これは失礼した。我は新羅三郎義光が三男、源左衛門尉(源親義)と申す」

新羅三郎義光とは、河内源氏棟梁として鎮守府将軍、陸奥守、伊予守を歴任した源頼義の三男であり、八幡太郎義家の弟に当たります。源親義はその義光の末子であり、信濃国筑摩郡岡田郷の浅間神社の荘官として同郷で勢力を築いていました。

「我は平三河守」

知度はそう名乗ると、刀を親義に向けました。

「参られよ。三河殿」

親義はニヤリと笑いながら、右手に持った刀をだらんと下げ、知度を挑発してきました。

「ええい!」

知度は刀を大上段に構えて、親義めがけて振り下ろしました。しかし、親義はそれを右手の刀で払いのけました。知度は、払いのけられた反動で体が左後ろに流れてしまいました。親義はすぐさま刀を返して剣先を知度の喉元向けて突いてきました。

知度は親義の突きの剣先を刀の柄を当てて下に落とすと、今度は親義が前のめりの体制に流れました。

(今だ)

知度はそのまま前のめりに倒れこもうとする親義の首めがけて下から上に刀を走らせました。

「うぐわあああ!」

親義の首から夥しい血液が吹き出しました。

(やったか!)

知度はそう思いましたが、ここで知度に油断が生じました。
ここが一対一の決闘ならともかく、ここは戦場であることを知度は一瞬忘れてしまったのです。

知度が親義を斬って、親義を振り返った次の瞬間、知度の腹にドスンという鈍い衝撃は走りました。
正面に目を移すと、別の武士が知度の腹に深々と刀が突き立てていました。

「な......なにもの.....」

知度は自分の体に走り始めた痛みの伝達に耐えながら、降り出すようにして声をかけると

「左衛門尉親義が嫡男・源小太郎!」

と、その武士は名乗りました。
小太郎はさらになおも深々と刀を突きたてようとしたため、知度は

「ぐわあああ!」

と仰け反りますが、小太郎の肩をがっしりと掴むとその首めがけて刀を突き立てました。

「あぐ......っ!」

小太郎の首からも噴水のように鮮血がふきあがり、やがて声がでなくなり、口をパクパクさせて、その場に倒れこんでしまいました。

それを見ていた親義は、目をまん丸に開ききり、歯ぎしりをし、自分の首からほとばしる血を左手で抑えながら

「よくも小太郎をおおおお!」

と叫び、最後の力を振り絞って知度を後ろから斬りつけます。
さすがの知度もここまででした。自分の中でなにがプチンと切れた感覚がありました。

斬りつけられた知度はガクンと膝から地面に落ち、そのままうつ伏せに倒れ、二度と起き上がることはできませんでした。そしてそれは、親義も同じでした。

清盛の七男にして、従五位上三河守・平知度は、信濃源氏の源親義、小太郎(重義)との戦いで討ち死(相討)にしました。

源平の戦い数多くあれど、清盛に連なる平家一門の討ち死には、知度が初めてでした。

また知度の死を以って、平家別働隊は忠度がまとめ上げて撤退し、この志保山の戦いも義仲の勝利となるのです。
もはや源氏と平家の軍事バランスは完全に狂い始めていました。

(つづく)
posted by さんたま at 05:38| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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