2017年06月01日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(60)-倶利伽羅峠の戦い-

西暦1183年(寿永二年)5月9日、平家北陸征討軍先発隊の平盛俊は、源義仲四天王の一人である今井兼平と越中国般若野で対峙し、夜襲を受けて敗退しました。

敗退した盛俊は、本体である維盛と合流し、敵が何者かはわからねど、反平家勢力が体勢を整えて反撃に出てきていることを報告し、報告を聞いた維盛は

「ついに出てきおったか、木曽の山猿め」

と嘯きました。

この時、すでに維盛は十万騎のうち、三万騎を平忠度(薩摩守/清盛異母弟)、平知度(三河守/清盛七男)、武蔵有国(三郎左衛門)に預けて、能登国と越中国の境あたりの志保山付近(現在の宝達山付近<石川県羽咋郡宝達清水町、富山県氷見市のあたり>)に着陣させており、維盛の本体七万騎は加賀国と越中国の境にある砺波山(倶利伽羅峠)の山中・猿の馬場に着陣していました。

一方の義仲は、平家軍が平地に下りる前に、山にいるうちに攻撃をかける作戦を立てます。

まず、自身の五万騎のうち、頼朝に鎌倉を追放された叔父の源行家に一万騎を与えて志保山方面に牽制に向かわせ、仁科盛家、高梨隆信、山田重忠らに七千騎を与え、北黒坂(倶利伽羅峠の北東麓)に陣取らせました。

さらに樋口兼光、落合兼行らにも七千騎を与え、南黒坂(倶利伽羅峠の南東麓)に陣取らせて、北と南から維盛の征討軍本体を牽制させるように配置しました。

さらに砺波山、矢立山の入り口に一万騎を伏兵として潜ませ、矢立山には今井兼平率いる六千騎を陣取らせました。

その他、諸将に手勢を小分けにて砺波山を包囲するように陣取らせると、義仲自身は砺波山の登り口でもある東側の羽丹生(現在の富山県小矢部市埴生付近)に一万余騎で着陣します。

もちろん、それをそのまま見逃す平家軍でもありません。義仲が着陣する前に出陣して攻撃を開始しました。しかし義仲は、砺波山から攻めかかってくる平家軍に関しては防戦に徹し、山中に攻めかかることはしませんでした。

「平家物語」によれば、義仲は精鋭十五騎を出し、鏑矢を平家の陣に射かけると、平家もそれに応じて十五騎を出して鏑矢を放つ、三十騎を出せば三十騎という具合でお互い牽制し合う状態だったようです。

義仲は配下の諸将に

「今はその時ではない。だが、我らの陣を崩してはならぬ」

と命じ、陣を維持するだけの防戦に徹したのです。
それは、義仲の手勢が完全に着陣する時間を稼ぐためでした。

この段階で、平家征討軍の本体はほぼぐるりと義仲の手勢に囲まれ、なおかつ志保山の別働隊との連絡も遮断されていました。

源氏はこうやって日没を待ち、日が没すると義仲は

「今宵、平家の軍勢を討つ」

と別働隊に伝令を下しました。

西暦1183年(寿永二年)5月11日未明、義仲は兵たちに

「おい、篝火を炊け、盛大にな。」

と兵に命じて、自陣に篝火を盛大に焚かせました。それはまるで「俺はここにいるぞ」と平家に伝えているようなものでした。

一方、砺波山中にいた平家軍は、それまで何もなかった夜陰の中にポツポツと篝火が炊き上がり、その篝火の量が増えるに連れ、平家軍の見張りに動揺が走りました。しかし、平家の軍勢はこの時、昼間の消極的な義仲の戦いに「源氏恐るるに足らず」という侮りや油断がありました。

手持ちの篝火をすべて燃やし尽くした義仲軍は、

「頃は良し......全軍、山中の平家軍を殲滅せよ!」

と命令を下しました。
二万近い軍勢が一気に喚声をあげて山を駆け上がったのです。

これに真っ先に気づいたのが義仲の北黒坂別働隊(仁科盛家、高梨隆信、山田重忠七千騎)でした。彼らは伏せていた源氏の白旗を一斉に掲げて攻めかかりました。次に動いたのは矢立山の今井兼平六千騎でした。

これに驚いたのが平家の征討軍です。

猿の馬場は砺波山中の岩山の上にあり、四方を崖に囲まれた天然の要害になっていました。しかし、その要害の三方にいきなり敵が現れ、さらに義仲の本陣の方角には無数の篝火が焚かれており、平家方は義仲の兵力がいかほどのものか計算することができなくなっていました。

昼間の戦意のなさとはうってかわって、押せ押せモードで北、南、東の3方から攻めかかる義仲軍。しかも夜で視界も満足に効きません。

平家軍は雪崩をうって攻めかかってきた源氏に対し、防戦一方で陣形を維持しますが、三方向から一気に攻めかかられては陣形を維持することは難しく、徐々に西の谷に押されつつありました。

この時、平家のある将が退却の道を探すため、倶利伽羅峠の西の谷を見て「この下に道があるに違いない」と一気に馬を駆けて降りて行きましたが、そこは深い谷底で後に続いた一族縁者が次々と落ちて消えていくという悪夢のような展開になっていました。

追い詰められた平家軍は、砺波山の南東の登山口に向けて脱出を図りますが、そこには樋口兼光、落合広行七千騎「待ってました!」とばかりに攻めかかります。

軍勢の数でいえば平家軍の方が圧倒的に多いのでなので、樋口・落合の軍勢も徐々に押されますが、その後ろに控えていた1万余の伏兵が一斉に雄叫びを上げながら攻めかかると、平家軍の士気は著しく落ち、散り散りに散ってもう軍勢としてのまとまりはありませんでした。

これが歴史用語の「倶利伽羅峠の戦い」です。平家軍七万騎と義仲五万騎が対峙し、平家の大敗で終わり、維盛は再び大きな失態を犯してしまったのです。

この戦いは、義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中の中に向けて放つという場面で知られますが、あれは、『源平盛衰記』のみに記載されており、実際に使われたのかどうかは現在では疑問視されています。よって当ブログでもこの説は採用しませんでした。

平家物語によれば、この戦いでの平家の損害は、藤原忠綱(平家の侍大将・伊藤忠清の嫡男)、藤原景高(伊藤忠清の甥)など、武勇高い大将が谷底に落ちて戦死しています。ただし、総大将の平維盛、通盛の二人は命からがら助かって加賀国に退却しました。その数、わずか二千騎足らずと言われています。

また、義仲はここで越前平泉寺の長吏斉明威儀師を捕らえています。
難攻不落だった越前火打城の湖の秘密を平家に伝え、火打城落城の原因を作った人間です。
義仲は、斉明を捕らえたという報告を聞くと

「そんなヤツの顔なんぞ見たくない。さっさと斬れ」

と顔も見らずに斬罪に処したそうです。

この戦いの4日後、この倶利伽羅峠の戦いの模様が京に伝わったようで、九条兼実の日記「玉葉」の西暦1183年(寿永二年)5月13日の項目に

「平家はまた木曽(義仲)に敗れ、砺波山を追われたようだ」

と記述があります。その後に

「平家は度々の軍に戦ひ負けぬ。源氏の繁昌疑ひなしとみえたり。 」
(訳文:平家は何回も戦いに負けている。源氏の繁栄は疑いないようだ)

とあり、この時点で兼実は平家を見限ったと思われます。
倶利伽羅峠の戦いは義仲の勝利に終わりましたが、平家は別働隊三万騎が志保山に陣取っていました。義仲は休む間もなくこの別働隊の対処に取り掛かるのです。

(つづく)
posted by さんたま at 21:13| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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